狩る紅(くれない) 第一話 無造作に片膝を持ちあげた為に女の素肌が裾から覗く。誰の視線を構う必要もなく、寄りかかる背後にその素足をつけた。俄かに怪しくなった空模様が、薄暗がりの伽藍堂を更に宵闇に近付けていた。
折り曲げた膝の上へ、鞘に収まった三十センチメートル程の短刀を立てると左右の格子窓へ眼を向けた。上半身しか現わさぬ一個の人影が肌寒さを誤魔化そうと蠢いていた。女は背後に首を預けながら気を落ち着けようと息を吸い、瞼をおろした。鯉口を切る。瞬間、稲光が周囲を光と影とで浮かびあがらせた。
彼女の正面に目隠しをされ、後ろ手に縛られた男が両膝をついている。酷い暴力に晒された身体にはなんの手当も施されておらず、着物も乱れるままに放っておかれていた。
壁際でそれと向かいあう女に欠けたものなど何もないように見えた。身なりは質素だがこざっぱりとしており、しなやかな肢体と整えられた黒髪が印象に残る。裏を返せば、特徴というものを削ぎ落とされたが故の美人であるともいえた。
彼女は己の倍は高さのある仏立像に背中を預けていた。全身の金箔を剥がされ、黒々となった像に水晶の眼だけが残されている。半眼が見つめる先は二人の他に何もない。
刹那に薄暗がりが戻った時には彼女の眼が開かれていた。立ちこめる雨雲に散らされ、霞の如くとなった陽光が堂内へも僅かに届いている。それが眼球だけを艶めかせた。鯉口が戻される。
「なあ」
身体的に罰せられた彼の声は聞き取りづらい。
「覆いをとれよ」
再び鯉口は切られ、また元に戻された。動作のそれぞれに間を設けながら繰りかえす。瞳だけは変わらず、男を見下ろしていた。
「そこにいるんだろ。不知火」
女――不知火は短刀を半ばまで引きぬくと足を床板につけ、両腕をまっすぐにおろした。自身の前に境界を引くように刃と鞘を横一文字に繋げている。
「気いつけな、返り討ちだぜ」
格子窓からしわがれ声の警護兵が顔を覗かせた。これの役目は罪人の始末を見届けることである。
「もしお言葉通りとなりましても、必ずこの者の命はありませぬ」
お節介な発言が不知火には年若の女と思っての侮りに聞こえた。それに対し、うっとりと笑って答える。
「その果てに見境なく冥府への道連れを求めることになりましても、死に際のこととてどうかご容赦を」
警護兵は引きつった愛想笑いを浮かべると、降り始めた雨を言い訳に暖をとるべく去っていった。途端に不知火の顔から笑みが失せ、恐ろしいほどに感情が削ぎ落とされる。
「最期に何か言い残すことはあるか」
「信じられねえ」
機械的に真似た台詞に対して独白が返ってくる。
「どうして俺が一族の裏切り者なんだ。褒賞金を目当てに家族を敵の罠に差しだしたなんて、もっともらしい筋道をつけやがって。家族が全滅したのは本家の作戦が拙かったからだろうが。……おい、わかってるのか。別にお前でも良かったんだ。処刑されるのは生き残りの兄でも妹でも」
この男には、と不知火が心で独り言ちる。この程度のことしかわからないのだ。瞼を閉じ、刀を鞘から抜きはらうと眼をあけた。格子窓に新たな人影はない。
「だから、私が告発した」
背中の帯に下から鞘を差すと音もなく距離を詰めた。面をあげた彼が言葉を発するよりも早く、切っ先を喉元に触れさせる。
「一族を裏切り、一家を売り、一人で生きることを望んだのはお前だと」
細やかな痛みに最早、実妹の助けは期待できないことを察し、奥歯を噛みしめて息を飲んだ。それでも漏れかけた感情が横一文字に閉じた唇の両端を不揃いに上下させる。笑いだしそうにも泣きだしそうにも見えた。刃を構わずにうなだれた首の上から不知火は宣告する。
「我が家の汚辱は兄なる者の血で濯ぐ。私が一族の中で生き残る為に」
男の血が滲み、ゆっくりと一滴ずつ垂れる。それが彼の胸元に落ちると小さな煙をあげた。衣に穴があいている。腐蝕したのだ。彼の血潮は何もかもを溶かしてしまう。それを体質として生まれ落ちたのだ。
五十三家に別れる一族は家の中で特異なもの同士をかけ合わせ、異質の人間を作りだしてきた。ただ一族が生計をたてる為に前線や銃後で他人に血と涙を流させる内、弱さを知らぬ者だけが生き残り、血を繋いできた。
「拙いなあ。その位置は」
末は伴侶となるはずだった兄がせせら笑う。目隠しをされたまま、不知火の顔をまっすぐに捉えた瞬間、男が動いた。見えぬ眼光が彼女を総毛立たせる。
その前のめりの一歩が喉元の刃を深く刺しこませながら首筋を切らせ、身体を斜に動かすことで大量の血飛沫を前方へかぶせるはずだった。しかし、彼の意図は果たされなかった。獄吏に折られた足の指は床板をしっかと踏みしめることができず、態勢を崩しただけで終わってしまった。
不知火は落ち着きはらって、切っ先がこれ以上にのめりこむことはなく、そして決して離れることもないように、刃で彼の首筋をなぞりながらその背後へ回った。覚束ない足取りに対し、美しくも容赦のない所作だった。ゆっくりと刀傷から血潮が垂れ、襟を腐蝕させて煙をあげたものの長くは続かなかった。彼が苦笑する。
「嫌になっちまうよなあ」
不知火はその言葉に婚姻を決められた時分のことを思い出した。確かに幼き日の兄も同じことを口にしたのだ。去り際、彼女に向って遠くから大声で話しかけると返事も待たずに走り去っていった。それまで会ったこともなかった兄の人の好さが表れているようで心強く感じたのを、今でも忘れていない己に気がついた。
雷鳴が轟き、一瞬だけ堂内を明るくする。獄吏に傷付けられ、血と泥のこびりついた肉体が両眼に焼きついた。あの時、微笑んで見送った背中に、今は眼前で刃を立てている。
不知火はきつく眼を閉じた。柄を握りしめた手はそのままに、もう片方の手をそろそろと持ちあげる。
「辰灯」
指先に彼が触れるや否や、その手で自らの胸元を押さえた。掌を広げながら、己の鎖骨をなぞるようにして首をほんの僅かに絞める。微塵の震えも伝えぬ短刀が修練の厳しさを物語っていた。言葉を選ぼうとして探し尽くせぬままに黙りこくる。
「どうした。俺の首を落とすんだろう? ええ? それとも、一緒に死んでくれるかい……」
不知火は眼を開いた。どちらの問いへの反応か意識する間もなく、刃の上下を反転さると勢い良く振りあげた。その時には彼女の中で答えがでている。狙いあやまたずに辰灯の目隠しのみが切られて落ちた。短刀が彼の頭上へ掲げられるままに手放され、床へ突き刺さる。
刃の触れる距離よりも近くに寄ろうとしなかった不知火が、首元の手を離すと辰灯の頭髪を掴んだ。その顔を見下ろせるように顎をあげさせる。痛みに呼吸を荒げる彼の両眼は閉じられていた。
「共に逃げようというなら考えてやろう。私を見ていえるのなら」
「お前の瞳術は恐ろしいからなあ」
顔を歪ませながらも唇で笑う。
「先ほどは覆いを取れといったのに」
更に頭を押さえつけ、身体を仰け反らせた。屈んで首筋に舌を近付けると刀傷を一舐にして血潮を拭う。
「もっと痛めつけてやろうか」
口から覗く彼女の舌に煙が見えた。
「やめておけ。やめておけ」
辰灯が笑い声をあげた。
「死んじまうから」
「殺す気なのやら、死ぬ気なのやら」
頭髪を掴んだ手に力を込め、限界を試しながら緩慢におろしていく。
「せめて溶かし尽くすと言ってみよ」
辰灯の上半身から抗う力が失せたと思うと躊躇なく手指を開いた。横臥するように倒れ、床に突き刺さった短刀が喉元に迫る。
「頼りない道連れだな?」
衝撃で瞼を開いた辰灯に刃が見えた。そこに彼の答えを待つ不知火の姿は映っていない。単に伽藍堂の暗がりの為であったが、辰灯には一種の啓示のように思われた。言葉よりも先に血反吐がでる。腐蝕した床板から煙が立ちのぼるのを見届けてから、彼は身体を反転させる。その身をよじり、不知火を直視しないようにして見あげた。
「俺が死ぬのもお前が死ぬのも、結局は遅いか早いかの違いしか生まねえさ」
床板が溶けるに従って、垂直に突き刺さっていた短刀が傾いていく。不知火は爪先で辰灯の顎をあげた。
「意気地なし」
煙に隠れて手枷も溶けていることに、彼女は気がついている。
「仕方ねえだろ」
叫びながら末期の力で起きあがると短刀を振りかざした。だが不知火の一歩の方が早い。懐に入ると下から両眼を覗き込み、そして白刃が迫る前に後ろへ飛びのいた。
辰灯は短刀を振りおろしたが、次の行動に移ることはできなかった。彼女によって首筋につけられた傷口が音を立てて広がっていくのを、片手で押さえようとして間に合わず、頭を大きく傾けてはみたものの勢いに負けて首が刎ね飛んだ。
不知火は血飛沫を着物の片袖をかざして避けた。彼女によって傷をつけられた後に視線を交わした者は、その傷口が裂け広がるのだ。それが生まれもっての不知火の瞳術だった。
(兄にも瞳術は受け継がれたはずだが)
夢幻を見せる程度のものだったと記憶している。瞳術使いとしてはイロハのイしか知らぬということだ。ようやく雨音が激しさを増したことを意識する。
伽藍堂の中に二つの血だまりと一人の女が残された。不知火は腐食する袖をちぎり取ると四肢の溶けゆく血だまりへ放った。俯いて両腕を身体に回し、強く抱きしめる。
「ふ」
笑っていた。
「ふふ……」
晴れ晴れしく瞳を輝かせ、見えもせぬ天を見上げた。
「それで良い、不知火」
兄の声に笑みも失せ、表情を凍りつかせて首の方を向いた。目鼻から上を腐蝕させた頭から言葉が発せられる。
「これでようやく一人で生きられるな。おい、俺たち家族を敵の罠に嵌めたのはお前だろう」
兄が真実を知る訳がない。これは幻だ。末期の術に侵された脳が生成している夢にすぎないのだ。だが理屈では納得しても、身体の芯は冷えたままだった。首から視線を外すと現実の雨音に意識を散らした。警護兵が戻る前に事後処理を終えて去らねばならない。
身体から腕を離し、慌てて死骸へ歩み寄りながら、まだ形を留める短刀へ手を伸ばした。血溜まり跨ごうとした瞬間に前へ倒れる。短刀までは手が届かない。肉塊につまずいたかと、気を急ぐ己に内心で舌打ちしつつ起きあがろうとする。しかし、脚が動かなかった。着物だけでなく皮膚も溶け、新たな煙が立ちのぼる。
「死に際の術は強い」
そんなはずはない。師である母の声を否定しようと、髪から抜いた簪を後方の血溜まりへ突きたてる。愚図愚図と溶けきらぬ兄の肉体に母と祖父の顔が混ざっていた。
「俺がここで死んでいるのは、共にお前の死を演じる為だ。家族を全滅させる前から決めていたことだろう? なのに何故」
手の届かぬところで兄の首が喋っている。雨音が遠くなり、目眩に襲われた。
「共に逃げようなどという気を起こしたのか」
祖父が涙を流しながら眼球を忙しなく動かしている。不知火はごみ溜めの中から母の遺骸を探し当てた祖父のことを思い出した。更なる異質な人間を求められ、幾十人と子を産まされた挙句に狂い死にした母の夫であった祖父のことを……。
「私に生きた道連れがいても良いはずなのに」
簪から手を離し、這って短刀を手に取る。そのまま血溜まりから遠ざかろうと試みた。乱れた髪が血を吸って長さを縮め、動く度に着物が千切れるが構わない。
「血を掛け合わせる道具として、母のように生きるのは嫌だ」
片手を塞ぐ短刀を邪魔に思い、改めて眼をやると刃が腐蝕していることがわかった。使い物にならなくなったそれを、腹立ち紛れに兄の首へ投げつける。
「お前の顔は血まみれで」
母の声から遠くへ逃れるべく、壁に手をついて起きあがろうとするが果たせない。
「涙の跡も見えないほどなのに」
掴むものを求めて両腕を彷徨わせる。やがて滑らかな凹凸にすがって半身を起こした。それが仏立像であることは気にも留めなかった。
「誰もお前が泣き叫ぶ声を聞いてはいない」
伽藍堂の扉が開かれた。雨音に耳朶を打たれると不知火は眼を閉じ、そのまま仏の足元に倒れ伏した。