瞳の先の天使さま 少女は男に尋ねた。あそこのベンチで待っている彼はあなたの天使さまなの? と。
すると男は一瞬言葉に詰まり、それから少女にどうしてそう思ったのか尋ねてきた。それに対して少女は、この年頃の少女にありがちな、文章があっちへこっちへと、まるで公園のリスのように軽快に跳ねさせながら話しただした。
少女は日曜のミサは退屈だから嫌いだった。神父さまのお話は難しくて分からない事が多いし、母は産まれたばかりの弟ばかりを抱っこして少女を一人で長椅子に座らせるので。
少し前までは母の柔らかい膝に抱えてもらい、時にはお話の最中に寝てしまったとしても母の胸にもたれかかれた。だけども今は一人で椅子に座らせられるし、寝ていたら怒られる。
それでも両親についてミサには行かなくてはならない。でも偶に教会であるフリーマーケットは好き。あとは教会のシスターマリアも。
彼女は優しく、まだ若いので母というよりは少女にとっては姉のような存在だった。少女がミサのお話は難しくて詰まらない、というとシスターマリアはその日のお話を少女でも分かるようかみ砕いてお話してくれた。シスターマリアのお話はよく分かったし、何より面白かったので少女は彼女が神父さまの代わりにミサでお話してくれればいいのに、と思ったし、実際にシスターマリアにそう話した。
それにシスターマリアは驚き、それからコロコロと笑ってまだ私には早いの。と言った。少女には早い、と彼女が話す意味が分からなかったが彼女がそう言うならきっとそうなのだろう、と思った。それからシスターマリアはいつか私も皆の前でお話しする日が来るかもしれないけどね、と続けた。少女は早くその日が来ればいいなと思ったがシスターマリアはその頃には少女にも神父さまのお話が分かるようになっているだろう、とも話した。
それでは意味が無いのだけれど、と少女は思った。でも少女はシスターマリアのお話が大好きだったので、結局早くその日が来ればいいなと思う事に変わりは無かった。
そして少女が聞いたシスターマリアのお話の中で、一番好きなお話を少女は男に話した。
少女は神さまはどこにでもいる、いつでも天使さまが見守ってくれている、と大人が話す事の意味が分からなかった。少女は今時の子供らしく、大変ませていたので目に見えないものは無いのと同じだ、と思っていた。もしも天使さまがいるのなら、ステンドグラスのように姿を見せてくれても良いじゃないか、と。その方が分かりやすいのだし。
そう話す少女に、シスターマリアは少しだけ口を閉ざし、それからいつもの優しい口調でこう話した。
エヴァ、私はね。天使さまを見たことがあるのよ。
少女は驚き、本当!? と声を大きくした。だがシスターマリアが少女に嘘を吐くだなんて事はあり得ないと少女は知っていたので少女は本当の事だと分かった。
えぇ、本当よ。
どこで見たの!?
興奮する少女にシスターマリアは少しだけ遠くを見る目でこう話した。
幼い娘を抱く、姉のすぐ傍に天使さまを見たの、と。
その言葉に少女はより興奮を深くして、天使さまはどんな姿だったの!? と尋ねた。シスターマリアはそれに対し小さくクスリと笑いこう続けた。
それは分からないわ、お姿を目にした訳では無いから。
少女はその言葉にキョトンと目を瞬いた。
見たけど……見てないの?
えぇ、そうよ。
……どういう事?
少女はシスターマリアが嘘をついているとは思わなかった。だが言っている意味が分からないのもまた事実だった。シスターマリアは謎かけをしているのだろうか? とも思った。首を傾げる少女に、シスターマリアは丁寧にお話をしてくれた。
幼い子供を抱く、母になった姉のあの優しい目。穏やかな空気。それはきっと主のお恵みのお陰であり、また今この瞬間天使さまが姉を守ってくれているに違いない、と思ったのだと。そしてシスターマリアは続けた。人は皆、色々な場所で主や、天使さまを見るのだと。それは美しく咲いた花壇で、見るのは花々に水をまかれる主のお姿かもしれない。あるいは今日も一日を無事に過ごせたと夕食のお祈りの時に天使さまの加護を感じるかもしれない。
色々な時、色々な場所で、私たちは主や天使さまに守られ、導かれていると感じるのよ、と。
幼い少女にはまだシスターマリアのお話は少しだけ難しかった。だけども何となく、恐らく半分くらいは分かった気がした。
モゴモゴと、嚙み切れない肉を口で転がすみたいな少女にシスターマリアは眉を下げて笑い、それからこう教えてくれた。
私はね、あなたのお母さんがあなたを見る時も、同じように天使さまがお傍にいらっしゃるのだと、そう思ったわ。
少女はその言葉にむぅ、と唇を尖らした。シスターマリアは嘘を吐かないけれど、最近の母は少女よりも弟の方ばかり気に掛けている気がしたので。
ぷっくりと頬を膨らませてしまった少女にシスターマリアは困ったように笑った。さて、どう話したものかとシスターマリアが思っていると、丁度少女の父が迎えに来てしまい少女はシスターマリアとお別れをした。
その晩、少女は眠る前、母に寝かしつけられながらそぅっと母を呼んだ。
おかあさん。
なぁに?
わたしのこと、あいしてる?
少女の拙い、それでいて真剣な問いに母はパチリと瞬き、それから直ぐに優しく微笑んでこう答えた。
えぇ、勿論。私の可愛い可愛いエヴァ。あなた達姉弟を、何よりも愛しているわ。
少女はその母の瞳を見て、シスターマリアの言っていた事は本当だったのだと理解した。母の少女を見る目は弟を見るあの優しい瞳と寸分たがわず同じだったし、何より母の言葉には真実しか感じられなかったからだ。
少女は心底安心しきって、わたしもよ、おかあさん。と続けそのまま眠りに着いた。
きっと今、母と、そして自分の傍には天使さまが居てくれて、愛し合う二人に祝福をしてくれたに違いない。そう思った。
ここまでを、何と驚くべきことに一息で話した少女に対し、男は口を挟む隙間が無かった。
なので男は少女の話を聞きながら店主に注文をしなくてはならなかった。つまり少女の話がひと段落着いたのは、少女が話し以外、つまり少女が自身のアイスクリームの注文をするタイミングが来たからという理由だった。
ストロベリーバニラ!
元気よくそう口にした少女に、男はようやっと一言だけ口を挟めた。
「それで、どうして彼が天使だと?」
少女はまた、続きを話した。
あの日、寝室で天使さまを感じた少女は生活の色んな所を観察するようになった。確かにシスターマリアが話した通り、見えなかったけれど天使さまを見た。でも、もしかしたら毎日探していたら本当に天使さまを見つけられるかもしれない。そう思ったのだ。この年頃にありがちな、荒唐無稽で突飛が無く、想像力が豊か過ぎる話ではあった。
だが少女はそうして毎日を色々な所へ目を向けるようになったお陰で、世界には優しさと愛がたくさんある事に気が付けた。それは少女に取ってとても素晴らしい事で、何よりの祝福と成長であった。
そして少女が天使さまを一番よく見かけたのは、愛おしいものを見る人の瞳の中だった。
それは母が少女に向けてくれる親子の愛情や、街中にいる恋人がその片割れに対するもの。他には公園でペットを抱える人がわんちゃんに向けていることもあったし、時には人ではなく公園の景色にそれを見たこともあった。
少女の言葉は幼く、拙かったので大人が理解するのは難しかった。だが運よく話を聞いていたのはそこらの人間の大人よりも遥かに人間という種と長く生活する者だったのであまり問題では無かった。
少女の拙い話をすっかり理解した男は、結局一番最初の質問に戻って来た。
どうして、一体何を見て彼を自分の〝天使さま〟だと思ったのか、と。
少女は、どうしてここまで話したのに男が分からないのかが理解出来なかった。ずっと少女は、同じ話をしていたので。
だって、あなたが彼を〝愛おしい〟って目で見てるから。
そう話す少女に、男は受け取ったアイスクリームを持っていない方の手で頭を掻き、難解な宿題を出された時みたいに低く唸った。
「……まいったな。そんな目で、彼の事を見ていたつもりはないのだけれど」
少女は男が全く気付いていなかったらしい事に、今日一番驚いた。だって男が彼を見る瞳は、それが友情か愛情か、それとももっと、少女が未だ知らない何かなのかは分からずとも〝愛〟があることには間違いなかったので。
少女はその事を男に伝えてやりたかったが、ちょうど少女のアイスクリームを受け取る番がやってきた。そして少女の大好きなストロベリーバニラアイスを受け取ったら、必ず真っすぐ両親の所へ戻ると約束していた。両親はアイスクリームのトラックから二十ヤードも離れていない木陰で待っていて、少女がアイスを受け取ったのを見ると戻ってくるようにとこちらに向かって手を振っている。
少女はもうすっかり男との話よりも手にしたアイスクリームと、それから木陰で待つ家族の方に意識が行ってしまい、男に伝えてやろうと思っていた言葉をかなり省略して走り去った。
さようなら! あなたの天使さまと仲良くね!
アイスを落とさないよう気を付ける事に一生懸命で、振り返りもしない少女に男は頭を掻いていた手を所在なさげに少女に向かって振りお別れをした。
「あぁ、さようなら、お嬢さん……」
それからアイスクリームを一口食べて、ぽつりと呟いた。
「………彼は元、なんだけどなぁ」
そうして訂正しそびれてしまった天使さまは、二段重ねのアイスクリーム片手にベンチで待つ悪魔の元へと戻っていった。