マスカレード! 仮面舞踏会。それは一時身分やしがらみを忘れ、享楽に耽ける場。表向きは日々の憂さ晴らしや拙い秘密の遊戯と言った所だがその実、密通や淫行が蔓延る会もそれなりにあった。
俺はそもそも舞踏会というものに興味が無く、それは仮面を被っていても同じ事だった。寧ろ相手が誰か分からない分厄介な事も多い。そしてそんな俺がこの仮面舞踏会に参加している理由は、単に兄弟のお目付け役だった。いや、半分がお目付け役、半分が兄弟に無理矢理引き摺られて来たせいだ。
俺の双子の兄弟であるジェイクはこういった華やかな場が好きで、好んで顔を出す。そして俺なんかより遥かに上手に様々な思惑に満ちた、この見掛けばかり豪華な生け簀を泳ぐ。今日も俺を連れ出すだけ連れ出して、自分はサッサと舞台の中央に躍り出てしまっている。
俺はそれをため息混じりに見送り、アイツが羽目を外し過ぎないかを会場の壁際で監視するだけだ。酒も程々に、ただ突っ立って。幾らか話しかけられはするがその全てを無視していれば後は勝手に散っていく。
今夜の舞踏会はまだ行儀が良い方で、隅で隠れて行われる取り引きにさえ気づかなければただの仮面舞踏会だろう。一つ珍しい事と言えば、チケットさえ手に入れば上流貴族に紛れ、平民も参加できる事くらいだろうか。だがそれもそこまで珍しいという訳でもない。
刺激を求める貴族達にとって、一夜の遊び相手としては礼儀のなってなさや後腐れの無さという意味で平民は扱いやすいからだ。
さて今夜もどれ程のおぼこい娘たちが餌食にされることやら、と他人事の様にグラスに口を付けた。事実俺に取って、平民の娘が貴族のお手付きになる事など他人事以外の何物でも無かった。
今も視界の端で、この生け簀を上手く泳げていない娘が一人いた。広間の中央に躍り出るでも無く、かと言って俺のように壁に寄るでもなく中間の人混みでオロオロと彷徨っている。ピンクの上等のドレスから見るに平民では無い様子だがかと言って場馴れしている雰囲気もない。差し詰め、最近流行りの仮面舞踏会という存在に惹かれてやって来た田舎貴族か、あっても下級貴族と言った所だろうか。
彼女はすっかり目元を覆う仮面を着けているが、顔をキョロキョロとさせ辺りを見渡しているせいで誰がどう見ても慣れていないのが見て取れた。そして何より周囲を気にしているせいで足元が疎かになっていた。
危なかっかしく、何故だかつい彼女に目が惹かれた。
この時俺は珍しく慈善活動をしようという気になり、グラスに残っていた酒を一息に飲み切るとウェイターにん渡し、彼女の方に近寄った。
人混みをスルスルと避け、あと二歩で彼女に並ぶといった所で俺は背後からそっと声を掛けた。
「お嬢さん、」
「えっ?」
だが背後から声をかけたのが良くなかったのだろう。彼女は驚きに小さく跳ね、こちらを振り返ろうと反転しかけた体はバランスを崩した。
「キャッ、」
「っ危ない!」
グラリと背中側に向け傾いた彼女を咄嗟に助けようと手を伸ばし、運良く彼女の背に両手が届いた。体をしならせ背を弓なりにした彼女を抱きとめる形になり、さながらダンスの途中のような格好になった。
「……大丈夫か」
「えっあっ、は、はい!」
ともかくそのままで居るわけにも行かず、彼女を抱き起こし姿勢を正す。両腕に囲っていたせいで、彼女が体を起こしても俺たちの距離は今にも踊り出せそうな程近かった。
「済まないな、急に声を掛けたせいで。驚かせた」
「いえ、あの、全然。大丈夫です、ありがとう」
ヒールを履いても小柄な彼女に上目遣いに見詰められ、はにかみながら礼を言われる。彼女の鈴を転がすみたいな声に、心臓がドキリと跳ねた。
可愛らしく纏められたクルクルの髪の毛に指を絡めてみたいと思ったし、その仮面の下にある瞳をじっくり見つめて見たいと思った。そして俺は初めて、そう初めて自ら誰かと踊ってみたい、そう思った。それから少しだけ、下世話な妄想も。
だが幾らここが欲望と思惑の坩堝だとしても、淑女に対してがっつくというのはいただけない。俺は彼女にバレ無いよう慎重になろうとし、高揚で乾いた下唇を舌でペロリと舐め取った。
もしもここに兄弟がいたならその仕草で何を考えているか丸わかりだっただろう。だがアイツは今一人楽しく中央で踊っている。見咎められる筈もなかった。
「……なぁ、もし良かったら、壁の方で少し話さないか」
「え?」
少し、と、まるで彼女に選択肢があるような言い方をしながら、そっと細腰に手を回す。多少強引にしてでも、逃がしてやる気など無かった。
「どうにも、こういった場には慣れていないようだから。良かったら少し、レクチャーしてやろうか?」
「レクチャー?」
こてん、と首を傾げる彼女に、俺は思わず“掛かった”と思った。
「そう、こういう場所を上手く歩く方法とか、楽しみ方とか、そういうの」
「…………、ホントにそれだけ?」
流石にその程度の警戒心はあるらしい。全くの無警戒よりも、彼女に対する好感度が上がった。
「誓って。……何もしないよ」
「…………、じゃあ、少しだけ」
「ではお嬢さん、こちらへどうぞ」
だがそれ以上の警戒心が無かったのか、それともこういった場に来るくらいなのだから遊びたい欲求があったのか。彼女はすんなりと俺の提案を受け入れた。
俺としては有難い限りだが、どうにも悪い虫に付かれそうで、不安を覚えずには居られなかった。アイツが選ぶ遊び相手とはまるでタイプが違うが、それでも万が一を考え目に入らないよう普段俺が居座っている壁際では無い方向に向かって足を進める。
彼女は俺に促されるまま腰を抱かれ、今度は難なく人混みを抜けて歩く。どこかソワソワとした様子が見られるが、こういったエスコートには慣れていないのだろうか。俺は彼女に親しい男の影が見えないことに期待に胸を踊らせた。
「あの……ねぇ、名前は何ていうの?」
「……こういった場で名前を聞くのはマナー違反だぞ」
「えっあ、そうか、そうだよね、ごめんなさい」
「いや、構わない」
どうやら本当にこういった場は初めてらしい。これは上手くやれば一通りルールを教えるという体で彼女と親しくなれそうだ、とほくそ笑んだ。
「呼び方なんて何でも良いが……そうだな、折角だ、君が何か付けてくれ」
「えっ、ええ!?ぼ、僕が?」
「何でも良いぞ、ほら、壁に付くまでに、早く」
「え、えっ、えっ!」
壁まであと数歩という所で敢えて彼女を急かしてみる。あわわ、と声を上げながら必死に“俺の名前”を考えてくれる彼女に愛おしさが募った。
「じゃ、じゃあ……“三日月”様」
「三日月?」
「その……、マスクに三日月のマークがあるし……」
確かに俺の仮面の右端には月と、それから羽があしらわれている。どうも彼女は仮面から取って名を着けてくれたらしかった。
「……えっと、嫌? だったかな?」
「いいや、別に。君が着けてくれるなら何でも良い」
「うわ……」
無事目的の場所に辿り着き、名残惜しいが彼女を腕の中から開放する。さり気なく広間の中央から彼女を見えないよう背に隠したので、今日の所はこれで大丈夫だろう。
「何だ? その、『うわ……』は?」
「いや、その……流石こういう場所に来る人だなぁ、って……」
「どういう意味だ?」
「口説き慣れてる、ってこと」
彼女の言葉に俺は仮面の下でヒョイと眉を上げた。口説き慣れてると言われたこともそうだが、何せこういう場だ。誰彼構わず、というのはうちの兄弟くらいだろうが誰だってそれなりに出会いを求めて来ているのに。
「心外だな、普段は誰かに声を掛けたりなんてしない」
「……そうなの?」
「あぁ。普段はこうして、壁際に突っ立ってダンスを眺めてるだけさ」
「ふぅん……? ……じゃあ、何で僕に声なんて掛けたのさ?」
チラリと見上げてくる彼女野目には、こちらを探る色が見えた。
「そっちこそ、何で俺に着いてきた?」
「そ……それは、その」
「それは?」
サッと目を逸らす彼女の、仮面に隠れた頬に朱が指した気がした。
「色々、ルールを教えてくれるって、言うし……。ほ、ほら! 何を教えてくれるの?」
可愛らしく話を逸らそうとする彼女に、思わず少しだけ意地悪したくなってしまった。
「何が聞きたい?」
「え、えぇと、そうだな……」
悩む彼女の背にある壁に片手を着き、そっと囲い込むようにしながら耳元に顔を寄せ囁く。
「“色々”教えてられるぞ?」
「うひゃああっ!?」
途端、叫び声を上げ囁かれた耳を手で覆い隠し体を小さくする彼女に笑いが堪えきれない。
「クッ、はははっ!」
「な、な、な!」
「悪い、冗談だよ。……でも、俺よりもっと強引な奴もいるから、どうか気をつけて」
「か、誂うなんて酷い!」
今度こそ真っ赤になっている彼女は林檎のようで、その頬に、唇に噛みつけたらどれだけ甘いのだろうかと思ってしまう。
「誂ってなんか無いさ。レッスンその一だよ」
「…………、ホントに?」
「ホントに。気に障ったなら、もうこういうやり方はしない」
「……約束してくれる?」
「あぁ、約束する。……許してくれるか?」
「……いいよ、分かった。許してあげる」
「そうか、良かった。ありがとうお嬢さん」
簡単に水に流す彼女に甘すぎないか? と思えども指摘することはしない。だが彼女は許すと言った側からツンと唇を尖らした。
「ねぇ、その……お嬢さん、ってやつ。他に呼び方は無いの?」
「どうして?」
「だって……ここには“お嬢さん”が沢山いるでしょう。僕には呼び方を考えさせたのに、君だけズルいじゃないか」
ふむ、確かに彼女の言い分も一理ある。だが。
「別に良いのさ。君はお嬢さんで」
「何で」
「俺は君以外の女性に声をかける気なんて無いから」
途端にポッと赤くなる彼女は、やはり堪らなく可愛い。
「……君、やっぱり口説き慣れてない?」
「いいや、今必死に頑張っている所」
「嘘っぽい」
「失礼だな。こんなに努力してるのに」
態と哀れっぽい声で訴えかければ、彼女はコロコロと笑ってみせた。
「ふふ、……でも、その理論で行けば僕もあだ名なんて考えなくて良かったのに」
「……どうして?」
もしかして、俺以外には興味がないとかそういう。
「この場所に、君以外に知り合いなんて居ないから」
彼女の答えは俺が求めていた物とは少し違ったが、この場に話せる相手は俺だけだ、というのは俺の気持ちを上向かせた。
「それは……光栄な話だな」
「ふふふ、でしょう?」
くふくふと笑う彼女はドレスと相まって花の妖精みたいだった。
「それで、一体どんなルールを教えてくれるの?」
「そうだな、ルールは沢山あるから……朝まで掛かっても足りるかどうか」
「まぁ! 口説かないって言った側から!」
「口説かない、とは言ってない」
「むぅ……、」
拗ねる彼女も可愛らしい。仮面で、表情の半分も見えていないのに、どうしてこうも惹きつけられるのだろうか。
「冗談は抜きにしても、ルールは沢山ある。今夜だけでは教えきれないな」
「それは……、どういう意味?」
意味を正直に話すなら、彼女と一夜を明かし、仮面を必要としない場所で逢いたい。だがそれは余りに性急すぎるだろう。
「意味は……そうだな。また君に逢いたいってことさ」
「……ここで?」
「ここで」
「仮面を着けて?」
「今の所は」
ジィ、と見詰められ、真意を探られる。彼女はおぼこく華やかな場に慣れていないが、人の言葉の真偽を測れぬほど馬鹿でも無さそうだ。
俺の彼女と純粋に親しくなりたいという思いと、そこにどれだけの下心を隠しているか探られている、と思った。
彼女はすっかり深呼吸できる分の時間俺を見詰め、それからフゥ、と息をついた。
「その言葉に嘘は無さそうだし、仮面を着けてなら」
「じゃあ、」
「また会えるかは分からないけど……会えたらね」
そういう彼女の言葉には会いたくない、という雰囲気は感じ取れず、寧ろまた会っても良い、というニュアンスを感じた。
「あぁ、あぁ! 勿論、きっとまた会えるさ」
「……僕がいつ来るかも分からない癖に」
「なら全部の仮面舞踏会に参加するだけさ」
「……呆れた人」
「何とでも言ってくれて構わない。お嬢さんに会えるなら安いものさ」
「もう……、」
彼女は心底呆れたという風にため息を付いたが、右手をそっと掬い上げても拒否されることは無かった。
「また必ず、君に逢いにいくよ」
「調子の良い方……。あまり、期待せずに待ってるよ」
「あぁ、期待していてくれ」
レースの手袋に包まれた彼女の指先にそっと口づけ、俺は彼女にまた必ず出会うと誓いを立てた。