お腹が空いたな。
ノースディンの家に向かう途中で、クラージィは一人呟いた。
お腹が空いた。
クラージィは眉を寄せる。
おかしい。
つい先ほど夕食は済ませてきたというのに、身体が空腹を訴えている。
クラージィは夕食の内容を思い出す。といっても、吸血鬼の食事は大抵一つ。血液だけだ。
人間の食事でも問題ない吸血鬼もいるのだが、生憎クラージィは人間の食事を栄養とすることができないタイプの吸血鬼だった。
古い血の吸血鬼にそのタイプが多いらしい。クラージィは後天性の吸血鬼だが、転化させた吸血鬼が古き血であったことが原因だろう。
だがクラージィは人間の血液を飲むのに抵抗を覚えていた。
200年の眠りから覚めてなお、一度も血を飲んだことはない。
栄養は全て牛乳で賄っていた。
(今夜はコップ3杯…いや5杯分の牛乳を飲んだはずだが)
クラージィは思考を巡らせる。
吸血鬼にとってのコップ5杯分がどの程度かは分からないが、1食にしては多い分量であることは確かだろう。
それで空腹を感じているのだから、栄養が足りていない気はしている。
だが…
***
『血を飲まない、だと?』
血を飲まずに生きていきたいと言った日の、ノースディンの顔を思い出す。
『ああ。ドラルクはほとんど牛乳のみで生活できていると聞いて、私も同じことをしたいと、』
『無理だ。あれは身体が弱いから普通の血が飲めないだけで、お前とは違う。そのドラルクですらたまには血を飲んでいるのだ。全く飲まないなど…せめて少量でも血は摂取するべきだ。』
『…すまないが、まだ血を飲むことに抵抗があるのだ。出来ることなら、血を飲まずに生きたい。』
『血の味を感じにくくすることは出来る。レモネード割りや、それこそ牛乳で割ることも、』
『ノースディン。』
クラージィは首を振ってやんわりと断った。
『私はほんの少し前まで人間だった。お前にとっては200年も前の話だろうが。死にかけていた私を吸血鬼にしてくれたことには感謝しているが、血を飲んで美味だと感じてしまうだろうことに…私はまだ恐れを抱いている。』
クラージィは己の失言に気付いた。
クラージィが200年もの間眠っていたことを、ノースディンは負い目に感じているのだ。
元悪魔祓いを転化させた事も気にしているらしい。クラージィ本人はまったく気にしていないというのに。
『…そんな様子では、独り立ちもできんぞ。』
目を背けたノースディンがぽつりと呟いた。
『お前はまだ私の支配下にある。支配を解くには私の血を飲むしかない。』
『飲まずに独立することは出来ないのか?』
『出来んな。よって、今のお前は私の操り人形も同然ということだ。元悪魔祓いとして、そんな状態は屈辱以外の何物でもないだろう?』
自嘲めいた笑みに、クラージィは沈黙を選んだ。
現状を屈辱と感じたことは一度もない。
自身が吸血鬼になった事もかつての肩書も、クラージィの中でとっくに折り合いはついている。
それでも気に病んでしまうのがノースディンという男らしい。
何を返しても、ノースディンは全て自分の責任にしてしまおうとする。
だからクラージィは何も言わないことにした。何も言わず、血を摂取しない生活を勝手に始めた。
そうすればノースディンが自責の念に駆られることもない。親の忠告に勝手に逆らって、それで身体を壊したとしても悪いのは子供の方だ。
ノースディンにとって言い訳しやすいだろう環境を整えて、クラージィは牛乳だけを摂取し続けた。
***
お腹が空いた。
クラージィは腹を押さえた。血を全く摂取しなかった代償が訪れたことを知る。
足りないと、何かが足りないと身体が警告を発している。
その何かとは、もちろん——
クラージィは大きく息を吸った。
ノースディンの家まであと少し。
(ノースディンに気付かれないようにしなければ)