無題 愛とは全身全霊の行為だ。魂の火が愛だ。ドンキホーテ・ロシナンテが白い子供への憐憫に涙を流した夜、溺れた火種、トラファルガー・ローの心臓は息を吹き返し、幽かな、確かな火が灯された。程なくして心臓、赤い悪魔の実が、ロシナンテの前に立ち現れる。道化は笑った。心の底から祝福を叫んだ。これは奇跡だ、と。ハートの果実は空想でなく、間違いなく実在する、手の届く希望で、あった。同時にそれは、決断を迫る悪魔でも、ある。だがコラソンは迷わなかった。ドンキホーテ・ロシナンテに躊躇いはなかった。惨禍に投げ入れられた子供。同じ苦しみを味わった、何としても止めねばならぬ血を分けた実兄、父の如く慕う恩人、忠を誓う、己を拾い上げてくれた海軍、人々の生活を守り抜く為の組織。決断を鈍らせる要素は幾つも存在する。それでも、かれは選んだ。すべてを裏切り、世界を敵にまわそうとも。トラファルガー・ローを救うと定める。己が持つすべて、命さえ賭しトラファルガー・ローと生きると決める。ロシナンテは既う、知ってしまったのだ。瑕の永遠、この世界の残酷も、白い子供の柔しさも、躍る、赤い心臓に手が届くことも。
「だったら、決まってるよなァ。おれのすべきことなんて決まってる。」
ロシナンテは微笑った。心の底からの充足を湛えた、燦々たる午后の陽光めいた朗らかで破顔した。躊躇いは無い。惑いは無い。兄を止める本願も、センゴク、海軍への恩義も、何も変わらない。大切の価値は変えぬ儘、己の絶対を認める。誓う、ドンキホーテ・ロシナンテは選んだ。たったひとり、トラファルガー・ローを選んだのだ。愛は全身全霊の行為である。弛まぬ信念の実践である。ロシナンテは自身とローとの関係性に、己の心臓を投げ入れたのだ。
痛みと熱とが死を囁く。大嵐に揺すぶられる小舟は併し、ひどく静かで、激しい波、音ばかりが凪いでいた。荒ぶ、身を打つ雨は泣いている。霞む視界にうつる、たったひとりの人間を見つめていた。己を抱き締める腕の熱さ、心臓の鼓動。死ぬな、と。何度も叫ぶ、あかの脣。声に応えようと、強く、意思を以て眼をひらけば、視線、重なる、血色の瞳と琥珀とが混ざりあう。
———嗚呼、と。どちらともなく息を喫んだ。流れる赤も、黄金も、涙と雨との判別はつかない。嵐の海、静寂の魔法の裡、其処にふたりだけが、居た。世界を置き去りにして、ロシナンテとローだけが存在していた。ロシナンテとローだけが世界だった。永遠が愛に満ちる。愛が永遠を満たす。相対する瞳に己の色を流し込み、心を差し出す。剥き出しの、苛烈な、侵略めいた愛がゆるされる。拈華の微笑すら要さぬ傲慢。自らの意思で鍵を失くした。全存在への信頼を実践する、それが賭けだ。お前の存在が愛になる。ひとつの心臓、ひとつの愛を共有した生き物になれる、そんな予感さえ、した。
どぷり、と。赤いハートがおちる、おとされる、投じられる音が、聞こえた。響かぬ筈の波が届き、朦朧とする意識の中、トラファルガー・ローは理解した。この男はおれに賭けたのだと、理解した。火が、燃え上がる。煌々と染まる、稚い、熟れた脣は微笑みを描く。失った太陽が再びに昇る。それは完全に取り戻されつつ、あった。心臓が高鳴る。弱弱しい、頼りない白い指を伸ばし、濡れた黒い羽織、ハート柄のシャツの向こう、心臓のうえにある硬い皮膚へ、触れる。僅かに身を震わせた、おおきな男の、温い気配が隣にある。
コラさんと生きたい、と。息をするように自然に、トラファルガー・ローはそう思った。頭に浮かんだ言葉が瞬く間に心臓へと浸透する。未来に希望を持たぬ子供である。生への執着は無く、迫る己の死の刻限に抗う意志を持たない。三年の歳月のあいだ、病が治ると夢見たことすらない。今も変わらぬその思考は、諦念と受容、冷静とを備えた聡明の子供は併し、火が、灯された子供に、なった。捻れた回路は其の儘に、動き出した心は止まらない。もしも、あんたの言う通りに病気が治ったら。おれの心臓がおれのものになったら。そのときおれは、この男に賭けるだろう。鼓動の声がそう言った。ロシナンテが自分に賭けたから、ではない。そのような返報はない。愛されたから愛する、なぞは存在しない。ただ、愛したいから愛をする。誰が何を言おうと、コラソンが望む望むまいすら置き去りにして、トラファルガー・ローは選ぶだろう。この男だけを見るだろう。もしもを願うことがどれ程愚かで、意味を持たぬことかを知りながら、それでも少年は夢を見た。けっして手に入らぬ明日を希う。心臓は貰った。だが、もっと欲しい。叶うなら、どうか。あなたと一緒の明日が欲しい。痛みのなかで流れる涙はひどく熱い。ふたつの鼓動が重なる波がふたりを運命に導く。肉を充たす熱い嵐がひどくやさしい。
およそ三年ぶりに、トラファルガー・ローは祈った。シスターに習った聖句は淀みなく脣から流れ、それが堪らなく嬉しかった。少年はちいさく微笑う。僅かでも肉を捩れば痛みが奔るが、それは傷にならないと理解する。トラファルガー・ローはひっそりと破顔した。愛とは全身全霊の行為である。それは絶え間ない信頼の実践である。太陽の女神に祈る白い町。鳴りやまぬ祈りこそかれらの愛。