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    泡沫実践

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    泡沫実践

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    ドレロ
    原作程度の暴力・虐待表現を含みます

    心臓が私を躍らせる



All Hallow's Eve


 



     ドレークは以前にも、トラファルガー・ローと遭ったことがあるように、思う。辿ればかならず痛む頭、にぶい明滅のさきに棲む記憶を手繰り寄せれば、それはシャボンディ諸島での邂逅の、翌年から続く奇異のことで、あった。その頃には既にドレークは真なる任務を遂行せんと百獣海賊団への傘下入りを果たしており、真打ちの地位も獲ていたが、トラファルガー・ローが率いるハートの海賊団、黄色い潜水艇を繰る海賊団は、四皇の傘下となるでも、何処ぞと同盟を結ぶでもなく、未だ七武海でもない、最悪の世代という、畏怖の裏側に青い子供の意味が込められた名しか持っておらず、新しい海に求められる戦略の一切を有していないようにも思われた。頂上戦争からむこう、向日葵いろの船は紙面を賑わせることなく、同期と一括りにされた海賊団が———太陽の獅子を抱く海賊船を除いて———われ先にと新世界へ繰り出すなか、潜水艇は沈黙をつづけるのみであった。
    
 さて、ディエス・ドレークとトラファルガー・ローの邂逅は楽園の向こう側で発生した。あれの青年ならざる在りかたを世界中に知らしめたロッキーポート事件よりも前に、ドレークはローを知った。知っているのだ、と。ドレークは顰めた眉と眼で、苦く、重々しく頷き、それから静かに、低く、咽喉を鳴らした。舌の根に苦いものが迫りあがり、脳はうつることのない花の香を描きだす。







     トラファルガーと云うのは奇妙な男で、肉のなかにふたつの果実を持っていた。心臓のかたちをした、実である。ひとつは赤い、血濡れの果実。もうひとつは白い、硬質な、美しい果実である。
 白の祈りの燦めき、温い愛に浸る乳白揺籃。ローには幼い時分より獲ている、或確信があった。

    「父様と母様はおれを愛してる。ラミだって、シスターだって、あいつらも、町のみんなも。」

     幼さ故の愛の万能感は、併し偶像の楽園めいた白い町では頑とした事実となる。ゆえにローは、愛を試すことも、疑いも必要とせず、育った。フレバンスが齎す、しろい愛の豊穣。柔い毛布にぬくぬくと温められ成長する、この時点ではかれは未だ、ただの子供であった。フレバンスの信仰をローは継がなかったが、かれらの愛と祈りはつづいている。命が落ちた程度で途絶える愛ではない。おれがおれである限り、フレバンスは負けないのだ、と。トラファルガー・ローは強く信じている。息をするように自然にそう思っている。かれの背に列ぶ白い行列。うぞ、うぞと蠕く芋虫、無数の群れはしろの虹を描く聖者の行進。白の意思は紡がれて行く。しろい愛はつづいて、行くのだ。天に太陽。地には愛。夏の裏側には白い世界。フレバンスは今日も存在していると、おのれの背を知らぬ男は刻んだ太陽の十字に目を、遣った。キャプテン、と。慕わしげな声が白の愛となり、現在のローをあたためている。疑う必要などない。傷つけられることも、脅かされる恐れも必要がない。しろい愛をむさぼりながら、白の心臓はどくり、どくりと蜜を蓄えつづけている。
    
 対して赤の心臓は、魔ものの心臓である。ドンキホーテ・ロシナンテとの半年間がトラファルガー・ローにあたえた、雄弁な愛の魔である。それは変成しかけた生物の心臓であり、あの日、絶対の火を互いに投げあったかれらは、かれは、生る筈で、あったのだ。ふたりだけの愛に棲む異星人。併して新人類は誕生せず、ローは世界にとり残された。わけでは、断じてなかった。
    
「おれが生きてるってことは、コラさんが生きてるってことだ。」
    
 今となってはローは、そう想っている。願っている。この世でもっとも美しい愛、始原の現象、沈黙を共有した心臓は既に世界へと放たれた。それは愛である。それは死である。それはひとりであるふたり以外のすべてにとっての破滅で、ある。心臓が微笑う。心臓は微笑う。赤い実の愛は弾けない。ロシナンテとロー、たったふたりで永遠に満ちたりた愛の魔ものは、併しそれ故に世界と、致命的に調和しない筈で、あった。だが怪物はその歪を乗りこえた。乗りこえて、しまったのだ。ロシナンテの死によって、トラファルガー・ローは未だこの世界に半身を浸している。聖心、苦難に対する勝利、永久に消えぬ炎を胸に刻み、果実はけっして微笑まない。それが微笑うのはただふたりにのみである。ふたりがひとりになり、主語が共有された新生物。世界の裏側で微笑う赤の心臓の血濡れ。その血液が香を放つ。それは誘惑物である。お前のものにはならないよ、と。嘲笑う子供の挑発である。満ちている心臓は喰らう。空腹は感じず、食欲だけを燻らせる貪婪の獣。お前の心臓を寄越せと涎垂らしている、未だ誰にも剥かれたことのない赤い果実、赤の心臓。狼の眼をした魔ものである。愛の宇宙、新世界を知る異星人が、ロシナンテの死という、表面的な喪失により世界と馴じみ生活している。ドンキホーテ・ロシナンテとトラファルガー・ローとは、完全な異星人になるまえに別たれたが、併しふたりが共有した沈黙は今も、ローのなかで息づいて、いるのだ。その奇異が、かれの定めた決意が、意図せざる誘惑物になる。誰のものにもならぬ花。白い愛の心臓を持ちながらも圧倒的な苛烈、放たれた矢の如く目的へと邁進する。船員たち、いとおしい隣人の頰撫ぜた掌は既に引金を引いた指である。至るべき情景のため一切を躊躇わぬ指である。
    
 豊穣に実ったふたつの心臓。トラファルガー・ローの言動には時折、奇妙なものがあらわれでるのだが、それは誰の眼にも捉え易い形式で発露された異界の愛の表象である。なにかが決定的に歪んだ、併し恩人への想い、世界にとり異様に望ましいかたちをとった根の咲かせる花であり、実らせた果実であったのやも知れない。兎角、ドレークに確かなことはひとつである。そのたったひとつ、ひとつだけの事実が、熱情が、熱く猛る火となりドレークの心の臓を炙るのだ。脣から洩れる熱に灼けた声は、大きな肉食獣の唸りごえに、似ている。
    
「あれは獲物だ。おれとあいつは会っている。」
    
 ふたり、きっと、間違いなく。致命的なまでに遭って、いるのだ。ドレークがこの世界に在るならば、当然、ローもその世界に在るだろう。そんなふうに自然に思わせる、なにかがドレークにとってのトラファルガー・ローにはあった。
    
「それがなにかをおれは知っている。月の花の香のする、あの血濡れの心臓がそれだ。」
    
 熱い呼気とともに吐き出された言葉は雄の確信に満ちている。何百年の樹齢を持つ大木のような、逞しい胸を膨らませ、奔る、雄大な鼓動、捕食者の鋭い目許をひからせ、ドレークは静かに脣端を歪めた。



    



 当時、かれは新世界に来たばかりだと言っていた。抱く、最初の疑問に複雑な理由などなかった。極く平凡な疑問であったからだ。新世界入りを果たしてすぐの海賊団の長が、なぜひとりでこんなところにいるのか。思い返せば呆れるほど素直な気持ちで当時のドレークは問いを投げたが、何処に居ようとおれの自由だろう、返ってきたものはあからさまな不機嫌であった。顰めた眼と、眉とに、本心から怒り、拗ねた子供のような気配がある。上脣の中央がつんと微かに高くなり、花弁のようになって不満を訴えている。それはシャボンディ諸島での遭遇の折に視た姿とも、海軍やSWORDが掴んだ情報のどれとも重ならぬ表情で、あった。動揺を覆う怪訝のいろを吐息で示せば、キャスケットの下の、俯いた青年から「いつも、ときどき、こうしてる」花霞の声が届けられる。低い、併し透明なところのある、星を胎におさめたような、くぐもった熱と、蜜の甘さとを孕んだ声のいろが波を撫でる。なにが琴線に触れたのか、トラファルガー・ローの耳殻は微かに色づいていた。帽子と髪との僅かな隙間から、淡い血液いろに赤が覗く。するとなぜか、高く、ドレークの心臓が鳴る。鳴った。心臓が、鳴った。おかしい。これは、こんなことは、おかしい。ぐらぐら泳ぐ眼の端に絶えずその色を映した儘、そうか、とだけ返したドレークの声には、欲を孕んだ捕食者特有の掠れが、あった。

     ここで引き返さなくてはならない! それは突然に災害に倖いに脳裡に響いた警鐘である。喧しい、赤いライトの明滅。警邏車が鳴らすサイレンの音。タイヤがアスファルトを蹴る激しい音。加速する車、吐き出される白い煙。いや違う、なにも違わないのだ、違う、待て、警邏車とはなんだ。待ってくれそんな、そんなもの、おれは知らない。知らない筈だ。だがいま鳴り響くこの音は間違いなく、「そうだよ。」くすくす、くすくす。息が漏れでるような微笑いごえが、不意に頰を撫であげる。鳴っているのはひどく無邪気な音。その残酷は罪を持った子供が窗の下に身を潜めるときの微笑いである。柔しい風を連れ白泥めいた陽光が射しこむ、午后の窗辺の微笑である。顔はよく見えない。かれらの身長や体格には大きな隔たりがあること。トラファルガー・ローがやはり俯いた儘の姿勢であったこと。このふたつが理由だった。雪豹柄の帽子。そのひさしを掴む、刺青のある指をドレークは凝と見詰める。ローの指の爪はよく整えられ、短かった。



    



 端的に述べると、島は驚く程に荒廃していた。そこはひとつの山のような形をしており、何を言うでもなくふたりは頂上を目指し歩いていた。ところで、ドレークはいったいなぜ、この島に自分が居るのか分からなかった。深い静けさに包まれた林のなか、ドレークの前方をトラファルガー・ローが黙々と歩いている。立ち尽くした儘その後姿を注意深く視ているうちに、あの男に会う為に此処に来たのだ、という、およそ理性的とは思えぬ意志が強くドレークの胸に湧きあがる。殆ど強迫観念に近い想いで、過ぎ行く青年を追うことをドレークは決断させられた。既に後姿は遠退いているが、幸運にも目視出来ぬ程ではない。
    
 互いの歩幅の差異と隔てる距離とを鑑み、通常通りの歩行で十分に追いつくことができると推測すると、内臓の隙間から這い出てきたような、異様な熱の塊は夜の静穏な波めきしずかに引いていった。ひとつ息を吐き、ドレークは冷静に歩き出すことに成功する。灰被りの山頂に近づくにつれ、この島でかつて営まれていた生活の痕跡が濃くなって行く。別れ道。木を貼り合わせた看板は雪に喰われ倒れている。登り続ける島の中腹から下方を見遣れば、朽ちた縄や舟、波風や陽射しに拐われた波止場が視えた。港があったらしい。当然ながら停泊する船は一隻もない。だとすればトラファルガーは、そして自分は、どうやってこの島に来たのだろうか。
    
 頂上に近くなると住居跡を目にする機会が増えた。寒冷気候と広大な針葉樹林にも関わらず、島の建物の殆どは石を組み重ねて造られていた。ドレークはそれを奇異に感じたが、風土を尋ねるべき相手は何処にも存在しなかった。島民はあきらかに絶えており、この島に生きている人間がドレークとトラファルガー・ローのみであることは明白な事実であるように思われた。島はひどい静寂に侵されている。鳥の鳴き声や虫の羽音、四つ脚の獣が落ちた枝を踏み付ける、細い、乾燥した音が聞こえるほかは何もなく、だがそれらの音すら滅多に届かず、ここは生命から遠い島なのだ、という強い印象を部外者に与えることに成功していた。遠く離れ、聞こえる筈のない波音が風に乗り耳に辿り着くことさえある。打ち寄せる激しい波。白い飛沫の尖った鋭利は、イチイの木の怪物の背をドレークに想起させる。住人を失った石造の建物にはその材質以上の冷えた荒寥が沈殿しており、轟々と鳴る茫漠の風が生命の態度を掻き消している。生もなければ死も存在しない。一切を峻拒する態度だけが、じっとりと低く、深く停滞していた。

     かつては島の中心部であったと思しき山頂の、特に生活の色濃い痕跡に塗れた場所へとふたりは辿り着く。今となっては人の気配なぞする筈もないと明確に知らしめる光景は、併し、廃墟と呼ぶことを訪問者に憚らせるなにかが滞留している。これまでの道程がそうであったように、此処にもやはり異常な、感覚的な冷めたさと拒絶とが語られていた。歩いて来た道は繁茂する植物に阻まれ、獣道や残酷の黒い森の様相を呈していたが、頂上付近では植物は薄く、崩壊した建造物が左右に立ち並ぶ光景が広がっている。居並ぶ石建築の中央には、大きく平らな石の破壊された残骸が散乱し、そこを歩き抜けながらドレークはこれがかつて舗装されていた道らしいことを悟る。砕かれた破片と化した石畳。それらは全て奇異なる力によって執拗に捲り返されており、これまで登ってきた山道以上に歩き難い道となっていた。ふたりは注意深く歩くことを余儀なくされる。さいわいにドレークは頑強な軍靴を履いていた。ふと気になって前を歩く青年の足元に目を遣ると、かれは踵の高い革靴を履き、石に触れる度にこつ、こつ、と高い音を鳴らしている。島の静けさの中に、その音ばかりが響いていた。間断なく聞こえる音は生存者の証明めいた鼓動であり、であればドレークの鼓動はローよりも速く脈を打っていることになる。心臓の音に耳を預けた儘、漠然とした思考で「あれでは歩きづらいだろう」と思った。だがトラファルガー・ローは慣れた様子で歩を進めている。あまりに迷い無く歩くので、その後ろを歩きながら思わず声を掛けた。なにか探ろうという意図はなかった。不思議なことに、ドレークの心持ちは異様に安らいでいる。
    
「いつからこの島に?」
    
 声を張りあげる必要はない。かつて道であった荒路の左右には商店や住居を思わせるものが立ち並んでいるが、それらは最早役目を奪われていたからだ。島は静かだった。島は恐ろしい静謐に満ちていた。
    
「お前が訪れるより前に。」

     トラファルガー・ローは答えた。振り返らずに言う。前方から後方へと言葉がながれて来る。
    
「この近辺でもっとも眩しく太陽の照る島だと聞いて来たが……もう何日も曇天続きだ。気にすることねェよ。」
    
 どうせ明日には発つだろう、と。他人事のようにトラファルガー・ローは己れの予定を云い、いつまでも待ち続ける訳にはいかないからな、と続けた。わけの分からぬ儘、「そうか」と声を返しながら、ドレークは脣に痒みを感じた。それはけっして不愉快でない、あまやかな痒みである。甘美なる不可解、とろみのある違和感。もぞもぞと分厚い、男性的な薄紅い脣をまごつかせるドレークに目を留めると、トラファルガー・ローはどうにも掴めぬ親切心で、顔の前に持ってきた垂直の手、その人差し指と、中指とを、左右に振った。ひらひらと、動かされる指のしめす脣が微笑う、戯れる杳とした曲線。しろく鈍い光を放射する視線に凝と捉えられれば、ドレークは理由もなく親しさを感じずにはいられなかった。沸きはじめた友好の感覚は一切の背景を持たない。にもかかわらず、流れおちる水の如くドレークはそれを受け容れた。それが当然であると、理由のない確信があったからだ。肉と魂との隙間に立ち籠める柔い温度。快い精神的な近しさに包まれたドレークの、半ば習慣的に顰められた眉根がちいさく弛められた。

    「太陽を見ると、何かあるのか?」
    
 異様に友好的なムードを保ちつづける思考が全自動の言葉を吐きだす。己れの口から出た気安い問いにドレークは我が事乍らも僅かに瞠目するが、併しかれのながれる脣は塞がれず、ただトラファルガー・ローは淡々として「お前に伝える必要があるか?」と答えた。その口ぶりも、発話された内容も、何処にも好ましい要素など生じない筈であるにもかかわらず、何処か箍の外れた精神は返答を受けた、それだけの事実に尾を振って、より深い精神的な交歓さえ覚えるのだ。おれと、この男とは、魂の根の部分が近いところにあるのだ、という、確証のない錯覚がみち、みちと胸のなかで膨らんで行く。
    
「この島に来たことに理由なんかねェよ。ただ、せっかく海に出たんだ、この世界を観たいと求める船乗りは少なくないだろう。」
    
「そうだな。それは……それはとても、自然なことだ。」
    
 またしても脣は勝手に動き、みちびかれるようにドレークはトラファルガーの言葉へ同意を示した。逸る心は既に、空埋め尽くす雲が晴れるよう求めはじめている。ドレーク屋、と。トラファルガーの脣が開かれたのと、それが訪れ来たのとは殆ど同時だった。がらん、がらん、騒々しい鐘の音、見開かれた琥珀の瞳。夏の扉の向こう、伸ばされる無数の白い腕。



    



 ひどい雨だった。フロントガラスには叩き割られた破滅の名を持つ雨粒の足跡が絶えず張り付き、おまけに足元も最悪のコンディションだった。変えたばかりのスタッドレスタイヤにぬかるんだ地面が絡みつく光景を想像し、たたたん、と左の人差指で太腿を叩き乍らドレークは思わず舌打ちを溢す。革手袋に包まれより分厚さを増した手で握るハンドルはその儘に、視線だけを助手席に流す。そこには誰も座っておらず、その事実が無性に腹立たしく感じた男はもう一度舌を打った。導火線に火を着ける際の、ヂ、ヂ、と鳴る低音に似た音が舌と口蓋との狭間から洩れたが、この驚異的な雨の前では地上から生み出される如何なる音も掻き消され、正常な波形なぞ維持できぬように思われた。
    
 はたして何に追われているのか、男は常軌を逸した速度で車を走らせている。あまりの悪天候と悪路のために他の運転者がいないことは幸運であった。激しい風雨と夜の闇のなかを一台の自動車が逃れるように駆けて行く。上空から眺めるその姿は罠と狩人とを警戒する哀れな鼠にも似ていた。もはや鼠に後退の道はなく、何が待ち受けていようと走るより他にないのだ。

     そこに鼠の意思はあるのか。とまれ男は、ディエス・ドレークはハンドルを握りつづけている。車内だというのに身体はぐっしょりと濡れており、雨とも汗とも判然とつかぬ透明が揉み上げを濡らしていた。そしてカーステレオからは音の乱れたラジオが流れており、つまり、何もかもがおかしかった。これを読んでいるあなたは自動車を知っているだろうが、ディエス・ドレークはそのようなものを知らないからだ。何もかもがおかしいが、ドレークは疑問を抱かなかった。或いは、疑問を抱いたもののそれを認識できぬ思考状態にあったのかもしれない。明晰さを欠いた儘の思考で、濡れた男は夜の内側へと一心に車を走らせる。それは到底正常な行動とはいえなかったが、併し天から降り続く雨は圧倒的な質量で世界を犯しつつあり、駆ければ生じる地に這う雨水の波、もとより逃げ場なぞ何処にも存在しないように思われた。暗い豪雨の夜。ヘッドライトが照らす道行きは殆ど意味を持たず、車内にはノイズの酷いラジオがながれ、そうして車はトンネルに這入る。



    



 ドリィ、と。轟く怒濤めいた大声が響いた。低い、静かな声が粛々とそれに応える。恐ろしい大波が窮屈に縮こまった身体に様々を命じ、少年はそれに「はい」と答えた。半ば儀礼的な返答である。かつて少年の声には哀れな犠牲者の分かりやすい動揺が表れていた。やがて動揺は恐怖に変態し、かれがまったくの気の毒な従属者へと転身した時、少年は完全なる無抵抗に身を至らせた。抵抗の意思は潰え、抵抗の概念は消滅させられる。
     父が叫んでいる。父だった男が叫んでいる。海兵だった男は海賊として名を挙げた。戦場、酒場、船の上でも、嵐の大海でも。何処に居れどもよく通る、太く、低い声が身を竦ませる。聞き馴染んだ声が、知らぬ荒々しさを纏い、慣れ親しんだ音でドレークの名前を呼んでいる。ドリィ、と呼ぶ声が、音が、響きが、これは矢張り父と地続きの個体なのだと証明している。その事実が少年を打ちのめした。返事が遅いと撲る、その拳が向けられていた対象を思う。戦果がふるわなかった。酒が尽きた。天気が悪い。虫の居所が悪い。お前の目つきが気に入らない。お前が気に入らない。なぜここに居る。なぜ居なかった。少年に罰が下る理由は無数に存在したが、誰にとってもそれは重要な事柄ではなかった。バレルズの肉体はかれの他者に対する態度と同様の傲岸と力強さとを備えており、眼差しは支配者の光を宿している。抵抗を忘れた人形。所有者に服従する日常は暴力への順化を意味した。抗いも逃走も意思を砕かれた被支配者には叶わない。

     ———いつか、もとの父さんに戻るだろう。楽観ではなく信頼によってドレークは父に着いていくことを選んだ。少しばかり心が疲れてしまったんだろう。どうしようもない現実に打ちのめされて。引き攣る頰の儘にドレークは頷く。ヒーローもときには闇に引き摺りこまれるものだ。海の戦士ソラもそうだった。だが、暗黒の淵から帰還する者からこそヒーローなのだ。仲間や世界の支えと己の強靭な意思の力を以てふたたびに光を取り戻したソラはさらに優しく、強いヒーローとして輝く。
    
「だから父さんも大丈夫だよ。きっと戻ってくれると思う。疲れてるんだ。そういう時こそ、誰かが支えなくちゃ。信じて待ってる人がいるって伝え続けることが大切なんだ。その役目は僕がやる。」
    
 母には何度もそう伝えたが、彼女は泣き崩れ首を振るばかりだった。行かないで。あなたがそれをする必要はないの。母さんと一緒に逃げよう、ドリィ。細い腕からは想像もつかぬ程強い力でドレークの両肩を掴んでいる。泣き濡れた顔が此方を見る。愛と悲しみの眼が追い縋るように涙を流しているが、ドレークは海賊船に乗ることを選んだ。それが家族の為だと信じていた。

    「いま思えば。従い続けることが愚かなのは明白だった。」

     誰かの独白が聞こえる。頁を捲る音。舞台上で演者が大きく腕を開く。誰かが息を洩らす。苦痛と悔恨の詰まった息を。それは男だった。それは女だった。それは少年だった。

    「信じていた。過去形だ、読まれる文字の通りに。」

     愛と信頼から始まった願いを現実にする手段も、策も、少年は何ひとつ持たない。ただ信じ、願い、縋るばかりの歳月が堆積してゆく。当初は逃げ出すことも考える余裕があったが、その時実現させるには父を愛し過ぎていた。かれを尊敬していた。かれを信じて、いたかった。未だほんの少し反抗の心があった時分に父を裏切ることを考えたが、実行するには己の手はあまりに血に濡れていた。最早何処にも行けぬのだと理解する。理由にする為の愛を並べるなかで歳月ばかりが去る。輝かしい記憶、面影ばかりが失われる。やがては思考が苦痛になる。放置された永続の緊張状態と予測不可の暴力の日々は少年から思考を奪い、具体性を伴った未来を描くことは困難を極める。抜け出す為の僅かの後押し、微かな契機さえもドレークには訪れない。海賊になった父をそれでも信じ抜くと決め、彼と共にあることを選んだ勇ましい愛の少年はとうに死んでいる。涛声、肉の音、下卑た笑い声。騒々しい世界に音は聞こえない。逃亡を誘い、裏切りを促し、見殺しを決断させる、決定的な残酷の鐘は響かない。少年は停止している。無音の道化師が日常を破壊し、埒外の鳥籠が殻を切り裂くまで。赤い心臓は落ちてこない。運命の夜は未だ遠い。







     たっぷりと水気を孕んだ、重い、分厚い雪が地面に積っている。歳のわりに小さな、稚い足がそれを踏みしめる度、烟る夜空に滲み入るような音が鳴った。ひとつ、又、ひとつと、足跡をのこして進む子供はひどく汚れて、いる。腕や頰、外からはみえぬ服の下の、腹や背、太腿なぞには、殴打によって生じた、熟れ腐った葡萄色の腫れがある。傷口から溢れた血液は冷えて固まり、赤黒くなって、少年の白い皮膚にこびり付いている。顔は涙に濡れ、脣からは抑制を失した泣き声が流れている。涙で涙を洗い流すように泣き、その涙を流す為に、又、べつの涙が砕かれる。
 引き攣れた嗚咽や、止まぬ涙の所為で万全に為されぬ呼吸を補う為の歪んだ息継ぎの音が、哀哭の狭間に響く。ああ、ああと、擦れた息が洩れ出るようにして白い息と共に吐き出される声は、人間でも、獣でもなく、風や、海が鳴く音に、似ていた。
    
 運命の島。誰も逃げられない夜。赤い実を食べた白い子供が世界に放たれる。どくん、どくんと、自らの鼓動が煩く響いている。
    
「これが、おれの心臓の音だ。あのひとに貰った、心臓の音だ。」
    
 よく耳を澄ませろと、涙と発熱とで潤んだ眼を睨め付けるようにし、夜に覆われた白い世界を見据える。注がれた深く重い愛情をあまさず受けとった心が、胸を衝く切ない歓喜に震えている。トラファルガー・ローは泣いた。よろこびばかりでない、涙を流して、哀しみばかりでない、涙を流した。ああ、あああと、耐え難いものを吐き出すように叫んでいる。泣き濡れた頰に凍てついた風が刺さる。打擲を受けた箇所がじぐじぐと熱を持ち、皮膚の下で低く振動する。鈍い痛みに呼応するように、身体に溜まった珀鉛が笑う。喰い込むような重苦しい関節の痛みと、身体を染める白い痣とが、けたたましくその存在を主張する。頰を滑り首を濡らす涙が、痛みと発熱によって噴き出した汗が、痣の上を伝う度に耐え難い痛みに襲われた。白い炎で炙られている、と頭の冷静がわらった。悪魔しか鎮める術を持たぬ白い火が、雪と、涙とを薪に身を烈しく燃やし続ける。

     それでも矢張り、トラファルガー・ローは泣いた。白い身体を苛む苦しみと、痛みとを感じぬわけではなかったが、耐え難い程の肉体の苦痛よりも、おおきな、柔しい炎の痛みが、あった。熱く脈打つ心臓の、最も深いところから涙を産む。痛い、痛いと心が叫ぶ。涙と痛み、疲労による睡気の為に、無意識の裡に身体が閉ざそうとする眼を、ローは強靭な意思の力を以て開き続けた。震える指先で雪豹柄の帽子を脱ぎ、遮るもののない雪夜を仰ぐ。顎を伝う涙を堪えようと、痣の浮かぶ手に握った帽子を噛み締めた。かつて共に国境を越えた帽子からは、半年のあいだにすっかり慣れ親しんだ、芳ばしいメンソールの、煙草の香が、染み付いている。ああ、ああと涙が溢れ、しゃくりあげる肩で息を吸い込めば、煙草の匂いの奥に睡る、スパイダーマイルズのごみ溜めと、共に国境を超えた死体の匂い、焼かれた肉の香や、硝煙と消毒、病院の匂い、なぞが、瞬く間にローの胸の裡にひろがった。底の無い、冷めたい哀しみが胸を摶ち、喪失を覆うようによろよろと帽子を被り直した。心ばかりがあたたかい。と、ローは思った。ざく、ざく、と白い雪を踏み、ただ只管に歩く。身体は熱いが世界は寒く、何方もが痛みを伴う点で等しかった。白い痣に襲われた皮膚が悲鳴をあげ、熱に喘ぐ呼吸は脣から洩れた途端に外気に冷やされ、掠れた咳となって逆流し咽喉を痛めつける。どくり、どくり、と、鳴る、心臓の鼓動が聴こえる。生きている、この世界は痛みが鳴り止まない。
    
「おれの生きてる音が聞こえてるってことは、コラさんが死んだってことだ。」
    
 そう思うと又、涙が出た。とめどなく流れ、身も世もなく泣いた。痛哭する己の声が耳に届き、それが自らの言葉の正しさを証明する。鉛玉に撃ち抜かれた恩人を思い、熱を失ったおおきな体に降り積る白い雪を思った。すると涙よりも炎が溢れた。今すぐ彼の許へ駆けたい、という、耐え難い衝動が全身に込み上げて、くる。痛みとも、熱とも異なる火が、囂々と燃え上がる。あのひとのところへ行って……冷めたい、白い雪を振り払う。それからぎゅっと抱きしめる。おれはそうしなくちゃならないし、胸の奥からそうしたいと求めているんだ。コラさんを独りにしたくない。大切なひとに降りかかる、冷めたくて、寂しい夜を、鉛の痛みを、おれはけっして許せない。
 併しローの、ひどく冷静な、捩くれた理性が、滾る炎を己に許すことを許さなかった。沸き上がる衝動は、舌を噛み、熟れた傷口に自らの指を挿し込み掻きまわすことで黙らせる。ハートの儘に生きるには、お前はまだまだ弱過ぎる。叱咤する己の言葉を聞く。弱いから、今は、進まなくてはならないと、強く思った。燃える白い町を独りで逃げたように、この島からも、独りで逃げなくてはならない。大切なひとの死体を置き去りに逃げるのは二度目だった。どうしようもなく涙があふれた。哀しみと、悔しさと、怒りと、歓喜とが、複雑に混じり合っていた。白い雪夜を渡る子供。その全身が涙になる。叫ぶ脣になり、愛の心臓になる。痛くて痛くて、それでも歩いた。生きているから、歩かない理由がないのだ。痛みは止まない。世界は鳴り止まない。地を震わせる砲撃の音が後方から響く。ドフラミンゴや彼のファミリーが、今も海兵達と争っている。そのどちらにも見つからぬよう、鳴り響く痛みと共に足を前へと進ませる。
    
 世界の殆どが睡りを享受する、もっとも深い夜の刻に、それは訪れた。トラファルガー・ローの、赤い、濡れた眦がふいに、蕩けるような緋に色を変え、睫毛に宿った涙がひかる、烈しく燃え上がった。雪を降らせる、分厚い、鈍色の雲の後ろから、幽かに洩れる微弱な月光をあまさず絡めとる、涙は、皮膚と月のいろとの為に、白く発光しているように、視える。熱に熟れて、赤く腫れた脣が懈怠を孕んで蠕く。口脣の動くのに伴れ、痣を持った頰も動く。丸い頰に動かされ、睫毛や、下瞼に溜め込んだ涙が流れ落ち、頰を滑り、稚い赤の脣を湿らせる。月光を捕まえた涙を受けた脣が、白い皮膚の表面に、ゆっくりと、深い弧を、刻んだ。
    
「……なァコラさん。生きることは、騒々しいな。」
    
 零れ落ちたのは、数刻前の、子供が泣き噦る声とは一転した、息を落とすような、静かな声である。喚く幼子を諭すときの、情愛を湛えた、慈しみのふかい声である。ふふ、ふふ、と、短い息を吐き出し微笑う度、小さな背が揺すられたように震えている。ローの内側でぬくぬくと温められてきた不気味な無垢、歪み、愛情、冷静、奇妙な秩序や、無邪気なぞが、所々に破れや汚れのある、白いローブに包まれた背中へまざまざと映し出されているが、それを視る者はいない。
 心臓の音が脳を叩く。沈黙の魔法が失くなっても、おれが生きる限り、鼓動も、この愛の灯も、彼の意思も、絶えることがないのだ。という、想いが、熱い歓喜となって胸に広がり、白い微笑みはいよいよ深みを増した。様々なものを引きいれ、呑みこむ、微笑いである。そういう、何もかも喰らい尽くす微笑みを、トラファルガー・ローは胎の底から産み、落とした。愛と血に濡れた瞳をぎらつかせ、凪いだ静寂の死を撫でる。白い少年の、痛哭の脣は愛の脣に変化を遂げる。ゆっくりと、蕩ける心地で、ローはわらった。爆弾を体に巻き付け、始めて出会う海賊を前に「白い町で生まれた」と言ったときに浮かべていたものと、形ばかりは同じ微笑いで、ある。極限まで口角を持ち上げたら、結ばれていた上下の脣は勝手にぱかりと離れて行ったというふうな、笑いかた。その薄く開いた口の空洞に、微笑う脣のグロッタがある。獰猛な、歯の生えた洞窟である。開けると棘が覗く脣だ。底の無い洞窟の、もっとも深いところで、重い蜜が胎動している。
    
 ざく、ざくと雪を踏みしめ進む。月だけが照らす夜を迷わず歩く。それは行進だった。独りの、ひとりではない、併し絶対的な独りによる行進である。ざく、ざく、と靴音を鳴らすに伴れ、火はいっそう深く燃え上がる。身体を駆け巡る熱いものは洞窟の奥に蓄えられた蜜であり、沸き出る、少年の裡で芽吹きはじめた苦い毒でも、あった。トラファルガー・ローが微笑う。蜜を舐める獣はしなやかに頰を歪ませる。血濡れの夜、白い花の咲く音が、静かに、高らかに、世界に鳴り響いている。






     躍る。躍る。赤い実が躍る。赤い実が躍る。赤い実は世界を躍らせる。心臓がお前を躍らせる。






    「50億もありゃ海賊なんて!」

     それは間違いなく希望だった。戻れるかもしれない。戻って来るかもしれない。もうずっと忘れていたひかりと歓び、期待が、ほんの僅かだが胸にひろがるのを感じる。あの頃よりずっと広くなったのに、あの頃より縮こまった狭苦しい、息を奪う胸の底。オペオペの実。その取引が終わったら。海賊をする必要なんてなくなると。もとの父に戻るかも知れない、と。そんな願いは耳馴染んだ殴打の音に阻まれる。嗚呼と感慨なく思う。戻らない。戻るわけが、ない。潰えた。潰えた。知っていた。縋るしかない夢は既う死んでいる。鼻腔にぬるつく鉄錆の香、抜けた歯の滑稽な空白。笑い声に包まれる空間と、怒り猛る父の顔。べしゃりと何かが剥がれ落ちる音がして、ドレークはにわかに悟る。この日々は永遠に続くだろう。







    「お前のことは知ってる。……違うな、お前の父親の海賊団を知ってた。」
    
 だからお前個人を認識したのは、赤旗の名を聞いてからだった。ローは淡々と告げる。冷めたい眼と脣、動かない表情。そこには何の感傷も、無かった。ただ、視ている。ふたつの琥珀、冷静で獰猛な狼の眼が、たったひとりを見据えている。
    「お前があの実を追ったように、おれもあの実を調べた。だから知ってる。」
    
 世界中を敵にまわすことになるんだ、と。決意のひかる、血と葡萄酒とを混ぜ合わせた炎の瞳でそう言ったあのひとを何度思っただろう。今も、思い続けている。かれの本懐を果たすまで、ローは死ぬ訳には行かなかった。たとえ何を踏み躙ってでも、貰ったこの命を、与えられた能力を、奪われる訳には行かなかった。否、そんなことを、許せる筈が、許容する筈が無かった。ふっと、息を吐くようにして薄く微笑いを浮かべる。柔らかに膨らんだ涙袋が縁取る、綻んだ瞳に眼前のドレークは映らない。

    「ハートも心臓も……あのひとが、命を懸けておれにくれたものだ。あのひとの心臓。おれは知ってる。コラさんのハートはおれのものだ。誰にも遣るもんか。誰にも奪わせやしないし、奪える訳が無ェ。あのひとの心臓はおれのだから。」

     頭の中でいったい何度繰り返した言葉だろうか。十三年間、かれのことばかりを考えていた。思考の軸は専ら愛で、行動の軸も当然に愛だった。愛してるぜ、と差し出された言葉を思う。考える。拍動を重ねる度にそれは確信を強める。無尽蔵の、けっして褪せぬ愛が、トラファルガー・ローを満たして行く。鍵を捨てた者だけが持ち得る豊かな歓喜。お前の母の心臓を持って来いと、口を歪めた氷の愛の自負。底の無い自信を塗った脣が緩慢に裂ける、開く、ローが微笑う。嘗ての白い少年の、赤く熟れた舌の奥に、蕩めく、深い、蜜の壺が、ある。先の視えぬ、暗い洞窟である。凶暴な愛と剥き出しの歯、呑みこむ脣。うねり、巻きこみ、強引に渦に引き入れる、己さえ渦中に投ずることを厭わぬ、狂った嵐の脣がひらかれている。己の脣のグレッタ、その性質をトラファルガー・ローは知っていたが、知らなかった。かれは嫣然として微笑うばかりで、尽きぬ愛を舐め取りながら、聡明な頭で愛が齎す狂瀾の計画を紡いでいる。無邪気に咲う魂の儘、熱くも冷酷に眺める、悪魔のわらいをしている。ドフラミンゴでも、海軍でもないのだ。かれが選んだのは、最後の最後に、いちばん求められたのは。コラソンのハートは永遠におれのものだと、甘く、傲慢な微笑いである。ローは己を知っている。ロシナンテが思うよりもずっと冷酷で、残忍を躊躇わぬ、強欲な人間だと知っている。
    
「おれは残酷な引き金を引ける。」
    
 お前はどうだ、と。得意げな響きすらある言葉の堂々。胸打つ心臓の愛に寄り添う為、オペオペの実を取り巻く全てを知ることは当然の戦略だった。あの夜から生き方は既う定めていた。故に生き抜かねばならなかった。奪われるなどとは微塵も思いはしなかったが、愛が心臓を動かした。海賊と海軍とが実を狙い取引を行う予定であった——無論海軍が本当にそれを遂行する腹積りであったかは預かり知らぬ範疇ではあるが——ことは赤い実を腹におさめた子供の片頬を引き上げるに相応しい背景であった。そうしてその、コラソンに出し抜かれ、かれに銃を浴びせ、最期はドフラミンゴに殺された海賊団の長が、元海兵であったことも把握している。
    
「それで? 父の遺品だと権利を主張するなら帰ってくれ。殺しにきたって腹積りにも見えねェが、要件は?」
    
「…………ない。ただ、お前に会いたかった。あれを喰った人間がどんな生き方をしているのか興味があった。それだけだ。」

    「ふうん。満足したか?」
    
「いや……わからないな。おれはお前を知らない。」

    「知りたいのか?」
    
 いつかのような軽薄な応酬の背後には気配がある。鉄錆を孕んだ、硝煙、燃える、災厄、月の花。噎せかえる死の香の花蕊が、微笑う、ぴかぴかと眼がひかる、そのいろをドレークは知らない。
    
「素晴らしい世界だな。おれたちみたいなクソの海賊でも人間として死ねるんだ。まったく、この慈悲深い世界に感謝しなくちゃいけねェ。」
    
 愛と怒りだ。抗いだ。はじめて触れるローのそれにドレークの心の臓がぶるぶると震える。お前の怒りをおれは知らない。お前の哀しみも、歓喜も。ディエス・ドレークはトラファルガー・ローを知らない。ただ、それでも、知って、いるのだ。理由などない。根拠もない。悪魔の誘惑に駆られた蒙昧の愚言。
    
「知っている。お前を、知っている。トラファルガー。」

     お前はあの島に居たのだろう。あの運命の夜に。あの鳥籠からどうやって逃げ出したのか、その手段は見当もつかない。ドレークがそうであったように、稀なる偶然により最初から外側に居たのかもしれない。それはドレークには分からない。

    「ただ、分かる、これだけは知っている。お前をみると、おれは僅かに人間を失う。」

     認識がけたたましく喚き鼓動が平静を奪い去る。十三年、十三年間だ。苛む過去を振り払い弛まぬ鍛錬に身を沈めた。経験は実績になり、鍛え上げた強さは今度こそ平穏を守護する為に用いられた。それが堪らなく嬉しかった。誇らしいと、そう思ったのだ。海兵である己をドレークは誇った。だからこそ海賊の汚名を被る生を受け容れた。海兵である限り、己は永遠に誇りを失わないと信じたからだ。正義の為に生きる、それこそが願いで、それだけが望みだった。だがその、築きあげた矜持と覚悟とは、トラファルガー・ローの前ではぐらぐらと不安定に揺れ、音を立てては崩れて、行くのだ。この男はドレークからドレークを奪ってしまう。
    
「お前のことは知らない。だが、お前の名は知っている。」
    
「そりゃどうも。しかし生憎だな……おれはおれの名前をまだ知らねェ。」

    「なら、待っていよう……いや、これもおかしいな。だが、ああ、待っている。おれたちはなにも重ならないが、重なっている。トラファルガー、お前の名を呼んでも?」



    



 永遠の名をしたトンネルを抜ける。世界にはしろい雪が、降っている。夜が、落ちている。どくり、どくりと、心臓が、鳴っている。だから、行かねばならない。行かなくては。今すぐ、行かなくてはならない。新世界の東の果て、月に照らされた雪夜の島、ドレークはそればかりを、思った。烈しい、熱いものが、胸と腹とのあいだから込みあげて来る。高く燃える想いはいよいよ抑え難いものになり、斧を握り慣れた、分厚い指先に微細な震えを与えている。いつから、と頭を巡らせば、それは島に降り立ったときからだ。そのときからずっと、太陽を離れた考えが頭から離れないで、いる。若い当惑の汗が皮膚を滑る。降り積る音が呼び込む静寂は、却って鼓動の喧しさを世界に知らしめる作用を齎してはいまいかとドレークは苦渋に歪んだ眉を顰めた。会って何をしようと云うのではない。そも、何をすべきと云うものなぞ持ち合わせてはおらぬ。それは燃え盛る炎めいた明らかな愚行で、あった。だが、これは己に必要な邂逅であると、理由を持たずドレークは半ば確信していた。行かねばならない、と。言葉が眼を開けている。心臓がそう言っている。あれに会わねばならぬと燃えているのだ。蒼の眼が煌々と叫んでいる。あれを無視出来ぬと言っている。

    「忘れるな。何の為におれがここにいるのか。」

     刻み込むような足取りで歩き出す。坂を下るようにドレークが足を進める。すると世界がかれの魂に呼応したように、やがて本当に坂道が現れた。ドレークは下る。月光の眼の下、雪夜の坂道を独りで歩く。水を多く含んだ、重い、じとりとした雪。緩く溶けては再びに凍て付き、不快な硬さと歪な輪郭とを備えた塊となって道々に鎮座している。白い雪、大地、は既に土色に染められて、いた。よく手入れされた黒革が光沢を放つ、神経質な軍靴の規則的な歩行、前進。雪を硬く踏み締め歩く、その度に破壊され一瞬間前の輪郭を失った薄汚れの雪塊が恨めしげな鳴き声をあげるが、それに眼を充てる者はいない。雪を踏みしめる鈍い音を携え進む足取りに迷いはないが、心の迷妄は未だドレークを離れぬ儘である。もどかしげな溜息を落とすと、坂道は一段と急になった。不要であるそれを振り払うべく意思を紡がねばならないが、併し振り払うべき思いがはたしてどちらなのか、それさえも迷いの渦に投げられている。

    「忘れるな。海賊の名を被ってでも遂げるべき正義だ。おれの正義で、おれが果たす正義だ。所詮、過去は過去でしかない。おれが行おうとしているのはまったくの愚行だ。」
    
 その通りだ、と肯く。この足は帰るべき船に向かうための足である。
「だが、それでも、行かなくては。」
    
 そうなのだ、と肯く。この足は、あれに会うための足である。脳の熱い部分が叫んでいる。
「行くか、行かないか。……ではないな。違う、おれは、ただ、」
    
 鳴る方へ。ただ鳴る方へ、行くのだ。進む、駆り立てられる心は焦燥を伴いながらも歩みを止めることはない。
    
「待って、止まって!」
    
 高い子供の声が背後に響く。どぷり、と。心臓の音がした。ひとつ、不規則に跳ねた鼓動。振り返るか、否か。躊躇した一瞬のあいだに時間は流れて行く。何かが転がり落ちる音。止まれ、と必死に叫ぶ、変声期前の柔い高さを持った少年の声。振り返るか、否か。再度の逡巡、過ぎ、ドレークは太く逞しい頸を後ろに向ける。同時、何かが爪先に触れる、音。

    「…………これは、」
    
 ひとつ、林檎が、転がっている。坂の上を見遣れば、二、三の林檎が未だ転がって来るようだった。転がり落ちる赤い実の後ろにひとりの子供が見える。待って、止まって、そう叫んでいた子供は、見るに耐えぬ形相で林檎を追いかけている。暗く、滑り易い不安定な道を走っている。赤い実は嘲笑うように雪の坂をごろごろと跳ね、やがて四の林檎は全てドレークの足元に集まった。拾うか否か、それは悩まなかった。無言の儘に赤を拾いあげ、焦ったような眼でこちらを見詰める少年に静止の手を示す。
    
「奪いはしない。走らなくていいんだ。……ゆっくり来い。」







     行かないという選択は最早存在していなかった。逸る心を絶対の理性が咎める。響く警鐘は己の身を守る為のものだと知っているが、聞こえぬ振りで突き進む。せめてものこと、けっして入れ込み過ぎないよう努めるべきだと、普遍的な結論と教訓とを自動的な脣が呟いた。

     進める足を停止させた先には石造りの、簡素な小屋がある。集会堂めいてドレークの眼に映る、それは三階建ての塔程度の高さを備えているが、その殆ど半分は傾斜の極端な屋根に占められている。分厚い石を組み編んで建てられた堂舎。特別に盛えてはおらず、併し貧しい訳でもない田舎の島らしい、優美ではないが見る者の眉を薄く引かせる程度には趣のある、堆積した歳月、越えて来た冬の数を感じさせる重みを宿している。木でも、煉瓦でもない、曇天にも似た、灰と黒の混じった色をしている、見るからに冷めたい石舎は、地に根差した温い清潔を有している。ドレークはそれを好ましいものとして、受け取った。ひとつ息を吐き、つとめて眼を遣った先、会堂には侮りを峻拒する顔がある。冷えた、純朴な荘厳が息づいている。左右対称を努めて組上げられた石材はどれもが豊かに切り出されており、晴れ晴れとした普請が感じられた。確かな己の足で歩み進むと、上背ある自身であっても屈まず通り抜けることができるであろう、高い、扉の前に、立った。唯一の曲線、円を象るドアノッカーで来訪を知らせる、鳴る、月光の音より強く、音を叩き我が身を告げる。

    「…………何の用だ。」

     稍あって左右に開かれた扉の奥から、作為的な苛立ちを含んだ若い男の声が投げられた。声だ。何ということのない、ただの、男の声である。だがそれは充分で、あった。揺れる音の波を感官が捉えると同時に心臓が跳ねる。全身が総毛立ち血液は戦場に身を置くよりもさらに烈しく巡り始める。ただ、声である。だがドレークを狂盲の歓喜と惑いへ連れ出すには、この声のみで十分で、あった。それだけで足り得てしまう、たったひとつの動揺に、これまで重ねてきた歳月が揺すぶられる事態への言いようも無い恐怖を感じている。何もかも、この男は知らないだろう、と。ドレークは心の内に呟く。おれが、お前に、どれ程……お前の存在がどれ程おれの心臓を掻き乱すのか、乱され、こんな所まで態々足を運んでしまう程に狂わされていることを、この男は知らないだろう! トラファルガー・ローは知らないだろう。だが、それでいい。ドレークにとりそれは望ましいことで、あった。
 心臓の狂乱を悟られぬよう息を吐き出し、今では殊更の意識を要さぬ程に染み付いた仮面で表情を固定する。赤の旗を掲げた日より、魂以外のすべてが孤軍となった男の、誇り高い心臓は今、このときばかりは奇妙な揺らぎをみせる。眼前の、奇異な心臓に共鳴、している。ひどく、個人的な事情で揺れている。それは最早どうにもならぬ。激しくなる鼓動。背に滲む湿った汗の不快な重さ。熱いが冷えた指先は手袋に隠され、表情に声色、ドレークは訓練された統制で完全な仮面を被る。夜が明けるまで、と。いつかの少年は口を開いた。我が身を投じる覚悟を定めた、低い声は月光、満ちる静寂の足元に落下する憐れ。

    「ここで過ごしても構わないだろうか。」

    「……おれはここの主人じゃねェ。屋根を借りてるだけだ。」

     厭わしいと物語る息が冷めたい石床に落ちる。正方形に切り出された石が組み合わされた、その一辺はドレークの足と同程度の大きさをしていた。トラファルガーとの間にある五つの石を見遣り、さて幾つが相応しい距離だろうかと頭を巡らせる。右の膝を蟹行めいた動きで僅かに擦らすと、継がれた石と石との微かな溝に軍靴のソールが引掛る音が、静かに、硬く、響いた。図らずもそれが合図となる。
    
「…………余計な真似はしないとお前の女王に誓えるなら。好きにしろ。」
    
 灯はドレークの背に広がる月以外に無く、帽子に隠された表情を見ることはかなわない。ローに比べ縦にも横にも幅のあるドレークの体躯は眼下の男に降る月を遮り、影を投げかけているようでもあった。ローからも、ドレークの表情を伺うことは出来ない。白光を背負うかれの姿はひどく暗く、黒いものとして、トラファルガー・ローの眼に迎えられた。太い、豊かな橙の揉み上げのあいだにある脣には微かな緊張を漲り、ドレークはようようにしてそれを開くが、傍目にはかれの姿はひどく落ち着いてみえた。
    
「生憎だが、誰かを戴いた覚えはない。」

    「それならおれをあんたの女王にしてくれりゃいい。今夜限りで結構だ。」
    
 口端の去り際に微笑を残す話しかたで言う。残照めいた脣の翳は朝露が蕩けおちるより早く姿を隠し、代わりに用意されたのは右の脣尻だけを極端に吊り上げた、如何にも作られた笑いで、あった。得意気な、嗤いである。その偉大なる嘲り嗤いの儘、踵を鳴らせる男はふたつの石を踏み越え、ドレークの胸の辺りに手の甲を差し出した。その顔は矢張り、底意地の悪い喜色に満たされている。ひどい悪戯を仕掛けてやった、と満足する稚い子供にも、自覚された悪趣味を振舞う演技者にも取れる、巧者な嗤いである。差し出されるそれを不快なものとして受け取ったドレークは、鈍く光らせる眼を充てるのみに留め、嘲りを突き返すことを、選んだ。
    
「…………退屈な男だ。宴から抜けて誰も追いかけて来ねェのも頷ける。」
    
 薄く相好を崩した、柔い微笑が鳴り、ローは自らの甲を以てドレークの手に強引に触れる。革手袋に阻まれ漠としてのみ伝わる、かれの温度はひどく温い。
    
「お前のその、刺青は……舵輪に似ている。珍しい意匠だ。」

     掴まれた手に心臓が跳ねる。捕まれた手に心臓が喚く、自然、口内に唾液があふれた。これはいけない、と。脳が再度警鐘を鳴らす。身を投じるべきではないと、今すぐにでも引き返せと。叫ぶ冷静を振り払い、ドレークは果敢なる愚者の道を征く。獲物を捉えた気になっている、この、琥珀の眼をした魔ものを、迎え入れた気でいる、そうして、ドレークのなかにある心臓の狂いをむさぼろうとしている、この魔ものを。逆におれが喰ってやろう、と。そんな想いに心臓が躍る。なにかを言いたくて、ドレークの脣が音を繋いだ。言葉と眼とが、彷徨う、ローに対する執拗ななにかが芽生えはじめて、いる。お前を捕まえたいと、獲物として、鉤爪の下に抑え付けて遣りたい慾望に心臓が鳴る。

    「ア? なんだ、下手なトークしやがって。……ふふ、あァ、だが、まあ、悪くはねェ。輪転するものではある。もしかしたら車輪と林檎の呪いかもな。心当たりはあるか? ドレーク卿。」



    



 クルーは哀しむだろう。涙を縷々と流して。顔を赤に染め忿懣して。最早世界に居ぬおのれに憎悪の眼差しを向けるやもしれぬ。胸を圧し潰す切ない哀しみに包まれ、幾許の日々は立ち上がることすら困難となる者もあるだろう。その姿を想像することは、容易い。ひとりひとりの哀痛の様さえ明瞭に浮かぶ。そうして、導き庇護すべきかれら、ともに笑いあったかれら、愛する者たちにこの苦しみを与えるのは他ならぬ自分自身なのだ、と。痛む胸を受け容れ首肯する。それは明確な裏切りで、あった。頷く。船長としての果たすべき義務を放棄した、船員たちの信頼に対する不履行である。かれらに降りかかるであろう謂れのない絶望を想う。軋む、胸の痛みが帽子に隠された表情へ暗いものを投げかる。いっぽうで、だが、それがどうした、と。それは理由にならない。と、トラファルガー・ローは考える。なぜならトラファルガー・ローという男の思考は、そのように出来あがっているからだ。
    
「あいつらがおれを愛してるのは知ってる。おれだってあいつらが好きだ。」

     だが、それがなんだと云うのだろう。解は既に在る。生き方は既う決めている。この世界の何も、かれの鋒を鈍らせることはできない。継いだ祈り、燃える希望、魂の駆動は誰にも妨げること能わぬ。頷く、一切は自明であった。トラファルガー・ローは既に、放たれているのだ。十三年前から。あの夜から。ただそれだけだ。ただそれだけで、あった。鼓動が凌駕する世界。脣を吊り上げ、嵐が愛に微笑う。歪んだ口端に棲むは災害と慈愛。留めてはおけぬ想いが溢れ、嘆きすら呑み世界を犯すだろう。誰も彼もを否応無しに引き入れる濡れた孔、蜜を帯びた歯が待っている。秩序、世界、一切の崩壊の嚆矢が灯される日を待っている。氷と炎の島へ行かねばならない。哀しみを断ち切り、偽りの笑顔を砕く為に。



    



 ラジオが流れている。こんなふうに。



    『こんばんは。今日はおふたりにしつ問があります。パパのことです。ソラがジェルマになることはあると思いますか? ぼくは今、ぼくのヒーローの手をにぎって、まっています。ヒーローのパパが帰ってくるのをまっています。でも、ぼくがつないでいる手はパパの手だけど、ヒーローの手ではないです。ヒーローは負けないし、かえってくると、思いますか? パパは海兵をやめました。』



    「お前の父親の憎悪や惨めさを引き摺る必要はない。打ちのめされた者の虚ろな表情はお前を苦しめるだろう。どうしたい? お前は進めばいい。憧れた父の……ヒーローだった頃の父も忘れないでやってくれ。彼はもう立ち上がれないとしても、彼の想いはお前が持って行くことができる。思い出が、あるだろう。」



     ラジオが流れている。少年は既う涙をながさない。



    



「何してるんだ。行こうぜ。」

     雪に沈みこんだ、黒い、踵の高い革靴から持ちあげた視線に映る雪豹柄のキャスケットの下、琥珀に眼が雪翳と溶けあい微笑んでいる。ほら、と示すかたちで手をのばした先には何もない。しろい茫漠と夜ばかりが広がっている。ドレークはなにも言わず足を動かした。心臓の月の香に充てられ、最早なにも考えられなかったが、それでもなにかを考えようと、していた。なぜ自分はこの男とともに居るのか? それは考えるに値しない。では、何処に向かっているのか。それは分からないが、運命が指ししめすだろう。なにがおれを衝きうごかしている? 答えは単純だ。トラファルガー・ローと、この魔ものが持つ赤い実。ローにとって運命であるように、ドレークにとっても運命を変える契機となった、オペオペの実。死の外科医の異名に相応しく、ローからはいつも死のにおいがしたが、かれに纏わりついた死の気配はけっしてかれのものでは、なかった。かれに関わる他者の死のにおいである。皮膚より滲む死の香気はドレークの脳を、血液を、心臓を滅茶苦茶に、する。絶対的な静寂の前にひとは跪くしかない。異界がみせる虹いろの雪に触れてはならないのと同じように。

     おい、と。放られた男の声にハッと顔をあげる慣習的な動作に惨めになる。雪を踏み締め、進む、接近する、外套に埋め込まれたローの頬や鼻先は、夜目にもあきらかな程にあからんで、いる。帽子の翳の月が無邪気にドレークを、見あげる。その動作に我が現在へと立ち返る。

     なァ、と。男がもう一度言葉を放った。眼前に立ち尽くす、おのれよりずっと長身の男へ向け、幼な子に愛を捧ぐ息の遣い、角砂糖のあまやかに蕩ける蜜の乳白。

    「知らねェが、あんたは確かに父様を愛してたんだろう。ドリィ。」
    
「…………。それは、……仮に、何も救えなかったとして、意味はあると思うか?」

    「さァな。知るかよ。何度も言ってるだろ。愛も正義も万能薬じゃねェんだ。それだけじゃ何も解決できない。当たり前だろう。」

     恬淡として言い放つと、トラファルガー・ローは徐にドレークを、視た。鳴る、鳴らす、足音を鳴らして進む。躰に添うたシルエットを描く黒のコートが歩みに併せてひらめき丸い曲線を描く。泳ぐような姿の優美、肉食獣のしなやかな動き。ドレークの眼に己を注ぎ込まんばかりの距離まで近づくと、指が、心臓に、触れた。

    「それでも、意味はあるだろう。在る、ことに意味がある。愛を持ち続けることが。正義なら貫き続けることが。それこそが重要になる。」

     この微笑いかただ、と、ドレークは静かに眼を剥いた。残忍で知られる海賊に似つかわしくない、脣を緩く拡げた、柔しい微笑いである。帽子の翳に隠された常と変わらぬ眼眸の奥に、ぞっとする程深い慈しみが棲んでいる。横顔にすっと伸ばされた睫毛は冴え冴えとして、瞬く度に燦が弾ける。無音に爆ぜるひかり、灯。それは白い町の豊かさに育まれたもので、かつての少年を愛の微笑みで包んだシスターと同じ類いの、きれいな気品が宿っている。道徳的な清潔が息づいている。低く上向いた睫毛にかかる重み、柔しい頰の窪みに潜む温いものが、祈りの翳であることをドレークは知らない。かれは教会を知らぬ男だからだ。かれは信仰を知らぬ男であるからだ。だが、それに掛かる心を持っては居るらしい。故にドレークの眼は拘泥する。これはなぜこんなふうに笑うのか? 音に出さず頸を傾げる、疑問符が踊り、名状し難いおもいものが堆積して行く。ローと、彼を取り巻くものに関する裏の無い疑問は尽きる事なく、却ってその数を増すばかりに思われた。丸い棘を持った荊に拘束されているような錯覚に陥り、絞られた肉の軋み、唸るような声が太い咽喉から洩れ出した。震える苦悶は音になり、音は声になり、声は言葉へと我が身を転じ、それはひとつの名を、呼ぶ。
「トラファルガー・ロー、」と、半ば呼び掛けるように落とされた名前は言葉であり、声であり、音であり、発せられた波は呼ばれた男の許へとその身を寄せた。胸に迫り上がる熱い塊の部分的な輪郭を吐き出したドレークの脣は戦慄き、己に戸惑う視線には驟雨めいた揺らぎと喧騒がある。何か言葉を続けるべきかと慣習に基づき動き出した思考は併しはたりと停まる。薄く開けた脣はその儘に、ドレークは分かり易く狼狽を示した。眼前に在るのはトラファルガー・ローである。得意を浮かべた薄ら笑いの絶えぬ海賊がトラファルガー・ローならば、いま現在ドレークの眼に映る青年はいったい何者であるのか。明け透けな当惑を抱えた男がふたりして互いに見詰めあっている。相手の狼狽える滑稽を見、それでいて相手の眼の内に狼狽える愚かな己を見ている。名を呼ばれ、ハッとしたように顔を上げている、トラファルガーがいる。かれの、上瞼が眉に張り付く程開かれた目に広々と身を横臥する黒は甚大な衝撃を喰らい驚いている、というような、震えである。少なくともそう読み取るのが適切であるように、ドレークには思われた。白に烟った眼が揺れる様は冬の冷めたさによく似ていると、
    
「……どうした? 様子がおかしいぞ。」
    
「うるさい。黙れ。おれに話しかけるな。」

     慮る声音に拒絶が畳み掛けられるが、向かいあった瞳は揺れている。揺らぎの意図を読み解けぬ儘、顎で脣を押しあげるようにして、ドレークは口角を下げた。それでも胸にある熱はいよいよドレークの咽喉もとまで差し掛かっていて、僅かな逡巡のあと、もう一度名前を呼ぶことを選ぶ。慎重に、明け方の星を視るような声で言うと、変わらずドレークに据えられている、震える眼がぐっと歪んで睨め付けた。眼に浮かんだ当惑と、震えを庇うような鈍いひかりを放つ睨みとは、瞬目の裡に仕舞い込まれてしまう。

     今しがた呼ばれた自分の音に、それに示した己の動揺に、ローはひどく苛立っていた。舌打ちを堪えながら思い返す、呼ばれた名前は、久しく聞いていなかった音をして、いた。むっすりと引き結ばれた脣を開け、ドレークはロウと言った。大抵のひとはロウでなく、ロオと呼ぶ。明瞭な記憶のなかで、最初にその音を認識された対象はドフラミンゴだった。ドフラミンゴがそう呼んだから、ファミリーは皆それに倣い、将来ボスの右腕になる子供のことを同じ音でロオと呼んだ。自分の名がどう呼ばれるか。というのは、当時のローにとってはひどくどうでも良い関心ごとであったので、おれはロオじゃなくてロウだ、などと口を挟むことをしなかった。心を与えられ、運命の島を抜けた後の日々を送るに伴れ、どうやら一般的な発音はドフラミンゴのものだったらしいと、知ることになる。

     だがほんとうは、今や誰もがそう呼んでいるが、ローにとって自分はロオでなく、ロウなのだ。だからと言って、そう呼んで欲しいと求める気持ちは持っていない。ロウはただ、漠とした胸の裡で、これは異う、と思うのみである。そこには善いも悪いも、さびしさなぞの感傷も、立ち入る隙間は一切用意されていない。かつての記憶だけが残っている。両親と妹、シスター、友人、病院の患者、白い町の人々。彼らがロウ、と自分を呼ぶときにみせる、最後に薄らと脣の中心を突きだす形をロウは好んでいた。膨らんだ脣が描く、乞い、差し出し、捧げるような形のちいさな翳には無防備な愛が柔しくひかっていた。殆ど失われたその輝きは北の海の一部の地域の人間に染み付いた発音らしく、偶然にもシャチやペンギンはロウと呼ぶ生まれだったが、程なくかれらは自らの敬慕を表する手段としてロウをキャプテンと呼ぶようになったので、トラファルガー・ローの名前が本来の音で呼ばれる機会はすっかり無くなっていた。そこにドレークが突然、トラファルガー・ロウと呼んだので、かれはひどく愕いたのである。
    
 頰に触れた雪が溶けるわずかの間に、冷静な部分はぐずりと腐り落ちた。ドレークはトラファルガー・ロウの腕を掴み、殆ど哀訴の眼差しを、向けた。
    
 その腕を振り払い踵返す、戻るぞ、と。振り返りもせずにトラファルガー・ローは言った。帰るべきだ。戻るべきだ。今夜ばかりは、ふたり、誰も拒まない場所へ。

    「太陽が来たぞ!」
    
 誰でもない確かな声が響き渡り、空が揺れる、駆り立てる馬車の音に夜が白みはじめる。白暁にだけ降る銀の雪。空を蹴る蹄の勇猛の音。太陽を載せた馬車が駆ける。明ける、夜が、開けて行く。太陽、あまりに鮮やかに燃えていた。赤より赤く、橙より橙に、どんな炎よりも煌々と高く、誇り高く。それは天に燃えている。陽が鮮やかに燃えている。それは夜を迎えにきたのだ、と。誰の眼にも明らかな炎である。夜がさみしくないように、追いかけて来る、朝。
    
「——————。」
    
 衝き動かされるようにかれらは呼びかけた。脣からながれた名前が指し示す者が誰であったかは知らない。言葉、剥がれた脣から落ちた名前は聞こえなかったが、かれらは示し合わせたような動きで互いに眼を重ねた。その時間、永い瞬間、しろいひかりが輝くように、X・ドレークの眼はトラファルガー・ローの眼になり、トラファルガー・ローの眼はX・ドレークの眼に、なった。そうやってふたり、相手の眼のなかで息をした。そこでのみ為される呼吸があった。降り積もる雪が喰らい尽せぬほど雄弁に、燦燦と鳴るおまえの眼を見詰めている。
    

「眼だけ、おなじだ。おれたち。」
    

 それはドレークの言葉であったし、トラファルガー・ローの言葉でも、あった。見詰めあう無言の温い内側で、温い蜜を溶かすように舌の上で揃いの言葉を持て余している。ドレークの感官に訴える、蜜に塗れた沈黙はどうして、少しばかり懐しい味が、した。それは切ない苦しみの味である。罪を持たぬ、無垢なる誇りの味である。かなしく、眩しい快楽が背を刺して震わせる。
    
 やがてドレークはローの眼をみて嗚呼と驚き、ローはドレークの眼をみて嗚呼と微笑った。相手の瞳をみて気づく。ふたりの虹彩はよく似たいろをしていた。ローの深い琥珀がゆるやかに撓み、ドレークの琥珀はきゅうと細まっている。ふふ、と微笑って、ローが徐に帽子を脱ぐ。太陽のひかりをたっぷりと受けとった瞳が金に輝き、地面いっぱいの雪が呼びこんだ光がしろい瞬きを纏わせる。

    「ほら、お前も!」
    
 わくわく、弾んだ子供の声でローがドレークを急かす。それでいて顔には常と変わらぬ冷淡を貼りつけている。訳がわからず、少しばかり胸が苦しくなる。だからドレークはほんとうに、芯から困った表情をして、けれども求められるままに眼を縁取るマスクを外した。ぱさりと乾いた音と一緒に、へにゃりと下がった眉があらわれる。

    「……これでいいか?」
    
「ああ。それでいい。」
    
 傲然とした物言いだったが、決して不快ではなかった。ローはじっとドレークをみあげている。どんな顔をすればいいのか分からず、何度か視線を彷徨わせてから、結局ドレークはローに瞳をそそぐことにした。おなじいろ。おなじ琥珀を、している。躍る心臓を従える、気高い狼が二匹。かれらは朝焼けだった。目指していたのは出逢うべき場所、あの運命の夜に目指した朝陽。運命の嚆矢、心臓の鳴る情景、涙の向こうへ行かねばならない。赤い実が跳ねる。運命が嗤う。心臓がかれらを躍らせる。それでも、従えねばならない。運命に従い、運命を飼い慣らせ。胸を張って悲劇へ進め。そうだ、われらは朝焼けなのだと、ドレークは薄らと微笑い、もう一度ロウ、と言った。懐かしい、あまい音を受けとめ綻ぶ白の心臓に、ドレークの心臓も緩く柔らぐ。嗚呼と吐いた息、ドレークの胸の底から蜜があふれだせば、ローは脣を吊りあげ生まれでたばかりの愛をむさぼる。おれはこの心臓の名を知った、と。如何やってこれを喰らおうかと思案しながら、ドレークは昂揚に口端を歪める。跳ねる、躍る、赤い実がドレークを惑わせる。心臓が私を躍らせる。揺れる心臓、狂う心臓、心臓をおれは従える。誇り高く、破滅へ進め。運命も断絶も心臓も、おれを狂わす一切を喰い尽くして遣ろう。ディエス・ドレークは獰猛な肉食獣であり、誇り高い騎士である。魔ものに呑まれるまいとする英雄を前に、鮮やかな愛の色彩の寂寞は無限にして孤絶不可侵の沈黙。異界のひろさを湛える赤い実は恍惚と、静かに、不敵に微笑っている。ドレークはローをみている。ローはドレークをみている。微かに混ざりあい、ふたり、溶けあう、新しい朝焼けが世界にうまれはじめている。




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    泡沫実践

    DONEトラファルガー・ローはパンを食わない。葡萄酒で咽喉を潤さない。かれの主人はドフラミンゴではないからだ。
    呪え祝うな あの、忌わしい、運命の夜から七年が経った。愛を注いだ。庇護下に置いた。腹心の相棒を据えていた心臓の席を与え、これは重要なものだと誰の眼にも分かるよう、色を違えた揃いの羽織も遣った。そうやって、心からだ、心の底から、己の心臓のようにたいせつに可哀がっていた弟の、手酷い裏切りに遭い、胸を裂く想いで鉛玉を撃ち込んだ夜から、七年。堕ちた身が被った獣の暴力、父を我が手で殺めた記憶が悪夢として今尚蘇るように、七年前のあの夜も又、ドフラミンゴを苛み続けて、いる。重く伸し掛かる、痛む、思い、痛みは絶えることがない。記憶が薄れることなどある筈も無い。況してあの夜は、弟を殺した、耐え難く、怒りと屈辱と心痛、喪失、に極まる一件、それだけでは済まなかったのだ。あの日、ドフラミンゴは奪われた。決定的に、致命的に。ロシナンテ、ロー、愛、信頼、心臓、右腕、未来。奪われた全てをひとつに集約するならば、それはハートだった。ハートが全ての言葉になる。空席、赤い、血より濃い、同類。ハートの席。其処に座るべき男の名前。失い、奪われ、未だ手に入らない。その境目を判別することなぞ最早出来まい。
    5341

    泡沫実践

    DONEドフラミンゴさんの話。

    原作通り、当時子供であるドフラミンゴによる父親の殺害描写など暴力描写が含まれます。ご注意ください。
    祝え呪え王の生誕ごめんな、と言って眉を下げ微笑い、ドフラミンゴの父は残して行く家族に命を差し出した。最早他にできることはないと腹を据えたようにも、銃を突き付けてきた息子に対し取るべき行動を何も考え及ばなかっただけの愚鈍にも思える姿だった。差し出された命の貨幣をドフラミンゴは受け容れ、ロシナンテは拒絶した。撃ち込んだ鉛によって与えたのは赦しである。死体となった頭を切断する糸に震えは無かった。銀盆に載せられた首は強張りの隠せぬ、併し柔らかな微笑を湛えている。ドフラミンゴは銃をヴェルゴに手渡すと、伏せられた瞼の端に滲む水を己の熱い指で拭い、最期の言葉に謝罪を選んだくちびるから流れる血の筋や、頸から滴り、溢れ出した血液が、ひたひたと、満たすように銀の大地に広がっていく様を凝と見詰めている。ドンキホーテ・ホーミングは赦された。罪は死によって赦される。犯した罪は己の血によってのみ灌がれる。哀苦に眉を歪ませ、肩で息を切らせながら、ドフラミンゴは冷静だった。頭の半分は激情に浸っていたが、残りの半分は恐ろしいほどに冷めたく、それが眼になり父を見詰めていた。
    1162

    泡沫実践

    DONEロシナンテとロー。
    無題 愛とは全身全霊の行為だ。魂の火が愛だ。ドンキホーテ・ロシナンテが白い子供への憐憫に涙を流した夜、溺れた火種、トラファルガー・ローの心臓は息を吹き返し、幽かな、確かな火が灯された。程なくして心臓、赤い悪魔の実が、ロシナンテの前に立ち現れる。道化は笑った。心の底から祝福を叫んだ。これは奇跡だ、と。ハートの果実は空想でなく、間違いなく実在する、手の届く希望で、あった。同時にそれは、決断を迫る悪魔でも、ある。だがコラソンは迷わなかった。ドンキホーテ・ロシナンテに躊躇いはなかった。惨禍に投げ入れられた子供。同じ苦しみを味わった、何としても止めねばならぬ血を分けた実兄、父の如く慕う恩人、忠を誓う、己を拾い上げてくれた海軍、人々の生活を守り抜く為の組織。決断を鈍らせる要素は幾つも存在する。それでも、かれは選んだ。すべてを裏切り、世界を敵にまわそうとも。トラファルガー・ローを救うと定める。己が持つすべて、命さえ賭しトラファルガー・ローと生きると決める。ロシナンテは既う、知ってしまったのだ。瑕の永遠、この世界の残酷も、白い子供の柔しさも、躍る、赤い心臓に手が届くことも。
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