呪え祝うな あの、忌わしい、運命の夜から七年が経った。愛を注いだ。庇護下に置いた。腹心の相棒を据えていた心臓の席を与え、これは重要なものだと誰の眼にも分かるよう、色を違えた揃いの羽織も遣った。そうやって、心からだ、心の底から、己の心臓のようにたいせつに可哀がっていた弟の、手酷い裏切りに遭い、胸を裂く想いで鉛玉を撃ち込んだ夜から、七年。堕ちた身が被った獣の暴力、父を我が手で殺めた記憶が悪夢として今尚蘇るように、七年前のあの夜も又、ドフラミンゴを苛み続けて、いる。重く伸し掛かる、痛む、思い、痛みは絶えることがない。記憶が薄れることなどある筈も無い。況してあの夜は、弟を殺した、耐え難く、怒りと屈辱と心痛、喪失、に極まる一件、それだけでは済まなかったのだ。あの日、ドフラミンゴは奪われた。決定的に、致命的に。ロシナンテ、ロー、愛、信頼、心臓、右腕、未来。奪われた全てをひとつに集約するならば、それはハートだった。ハートが全ての言葉になる。空席、赤い、血より濃い、同類。ハートの席。其処に座るべき男の名前。失い、奪われ、未だ手に入らない。その境目を判別することなぞ最早出来まい。
「おれは証明しなければならない。」
ドンキホーテ・ドフラミンゴは言った。世界に響かせる、厳しい、力のある王の声で。連理を失くした桃色のコートを揺らす夜風はよく冷え、乾いている。静かな夜だった。ドフラミンゴの治める、ドレスローザの夜はいつだって静かだった。愛と情熱の国、太陽はひかりの残滓すらのこさず闇に攫われ、首を垂らした向日葵、重みのある、陰鬱な静寂が支配している。夜な夜な働く玩具。夜間の外出を許されない国民。圧しかかる窮屈な夜を自由に渡ることの出来るドフラミンゴは、併し何処にも行かず王の椅子に座っている。ずっと待ち続けて、いる。座った儘、たったひとつ、這わせる視線の先は揺らがない。重く下がった口脣、青い翳の宿る額に、寄せられた眉根が刻む深い皺。精の漲った、雄々しく瑞々しいドフラミンゴが、この夜ばかりは憔悴した老王にも視えたが、王たる男は直ぐにその色を拭い去った。視た者は居ない。ただ、王には不要な色だった。
「証明する必要がある。」
言葉を変えもう一度、心に宣言する。焦燥を振り払い、血を肉に馴染ませる為の声である。ドレスローザへの帰還を果たして以来、王城はファミリーの帰る場所であった。何処へ行こうとも、最後に帰って来るのはこの家だ。聖地への凱旋を経たれたドフラミンゴは、血脈への想いからこの地を己の帰るべき場所と定めた。引き継いだこの城、取り戻した我が家に於いて、かれが特別に命じて造らせたのがスートの間だった。王の椅子と、最高幹部四人の椅子とを並べる為だけの空間。ドフラミンゴはこれをファミリーの権威と団欒の場に、定めた。スパイダーマイルズで家族皆が顔を合わせ、卓を運ばせ晩餐を取り、互いの血肉を分けあったように。
ふと懐かしい気配が届く。やや間があって、とん、と床に靴を下ろす音が響いた。男の纏う色にはややの哀しみと深い敬慕、それから密やかに、併し煮え立つような憤りが滲んでいる。一度眼を伏せ、開く、ドフラミンゴは口端を吊り上げ、笑った。
「フフ! よく帰った。ヴェルゴ。」
「……ああ、帰ったよ。ドフィ。積る話は幾らもあるが、まずは土産を渡そう。ここに来る途中で素晴らしいワインを手に入れたんだ。」
「お前はいま手ぶらだよ。素晴らしいワインならおれが用意しよう。」
当然の如く座す己の背後に立ち位置を定める相棒に、顔を見せろと指の動きで命じる。ついと足を進め、肩より少し控えた場で足を止めたヴェルゴは、己の王の正面や真横に立つことをけっして良しとしない。己の相棒の頑たる忠誠にドフラミンゴは微笑し、可愛いがるように糸を引く。跪いた姿勢で王の椅子に寄り掛からせ、自身を見上げる頬に触れる。眼許を撫で、指先で耳朶を辿る。頸に這わせた手のひらが鼓動を聞く。
「いつだってお前は正しい。お前が正しいさ。……ドフィ、おれは知っている。」
濃い黒眼鏡はドフラミンゴと同様にレンズ下の瞳を完全に覆い、表情は隠されている。だがドフラミンゴはヴェルゴの心を読み取ることに慣れていた。最も付き合いが長い、心を許した相手である。その顔に浮かぶ、衒いのない、素直な再会の歓びと、王と定めた男を視界におさめた高揚、自らの任務が滞り無く進んでいることへの誇らしさ、なぞといったものを受け取る。快い感情に上向いた口端の儘、ドフラミンゴは暴く瞳を向ける。沈黙と平静とを保ったヴェルゴの背が静かに強張る、分厚い脣の奥に隠された、深い怒りと、微かな哀しみのようなものも、受け取る。ドフラミンゴはゆったりと眼を伏せ、諭すように微笑った。愛でる為の、自然な笑みである。
「……ヴェルゴ。それは不要だ。」
「おれもそう思うよ。ドフィ。だが、それでも…………。いや、すまない。おれが間違っている。」
ゆっくりと息を整え、ヴェルゴが笑みをつくる。脣ばかりが上等に弧を描き、眼鏡で隠された下で燻り続ける哀の色を、ドフラミンゴは知っている。その色に染み付いた、濃い憤りや不満も、よく視えている。ヴェルゴの腹立ちは、ドフラミンゴの為の怒りである。不器用な男だと、音を出さず笑った。
「分かるよ。ドフィ。」
吐き出された柔らかな声音がスートの間に満ちる。慕わしい、穏やかな温もりを孕んだ言葉のやり取りを、ふたりは何度も重ねて来た。
「だが、それでも満たされねェ。この空虚はなんだ。」
心の裡だけで吐かれた言葉も又、ドフラミンゴとヴェルゴとが、歳月の中で積み重ねて来たものである。捧げられた思いの内実は理解している。互いに抱く信頼に虚偽は無い。ドフラミンゴにとってヴェルゴは重要な男だった。心から大切に思っている。最も信頼する他者である。向き合う、互いの思いが確かに通じ合っていることも、かれの深い敬慕も、ドフラミンゴは知っている。併し、堆積しないのだ。分かるよ、とヴェルゴは言う。その言葉に有効な質量を付与出来ない。ドフラミンゴはヴェルゴを愛しているが、ヴェルゴが自分を愛するようには愛していないと、互いにそれがわかるのだ。長い時間を共にした家族、腹心の相棒の慰めと共感。それでも埋め難い胸の空白は、強烈な飢えとなってドフラミンゴを嘖む。
「フフフフ! お前は大事な男さ、ヴェルゴ。おれにとっても、ファミリーにとってもな。お前ほどおれが信を置く奴はいねェ。分かるだろ?」
分かるよ、とヴェルゴが厚いくちびるを動かした。胸に荒ぶ茫漠の風から逃がすように口を開き、血の滴る赤い穴、ドフラミンゴは音を出せずわらう。
「今夜は乾杯をしなくちゃいけねェ。付き合ってくれるな? 」
「勿論だ。ドフィ、お前の誘いをおれが断るはずがない。」
「あァ、そうだな……。よく知ってるさ。」
祝いの席にかならず用意させる葡萄酒を、かれは今朝から準備させていた。音を奪われた凪の夜にグラスが重なる音だけが響く。並々と注がれた真紅い、血液と見紛うそれを嚥下する、男たちの視線の先には空席がある。七年続く空席がある。不在の心臓、赤い、赤いハート。
表面上は海軍に籍を置くヴェルゴは滅多にドレスローザの土を踏むことが無い。潜入の任を与えられたことは喜ばしく、魂が震える程誇らしいことだと感じているが、傍でかれを支えることが叶わぬことにもどかしさを抱くことも、あった。自分さえ隣に居たならば、偽りの心臓、憎らしい二代目による七年前の事態は防げたとさえ、自負している。それでも、と内心で舌を打った。黒いレンズで覆った眼に血が走る。今ばかりは思う。お前の隣でこの空席を見続けることに、おれは我慢ならないだろう。ヴェルゴには、この、鮮やかな赤の沈黙が嘲笑に思えてならない。ドフラミンゴとファミリーに向けられた侮りとしか思えぬ。
腹立たしい。腹立たしいことこの上ない。ロシナンテとロー。ファミリーを裏切った男と、ファミリーに帰らない子供。七年前を思い出す度苛立ちが沸々と煮える。なぜ、なぜ、なぜと。疑問と憤りは止まない。ドフラミンゴに望まれ、選ばれていながら空席を続けている。あれから一度だってファミリーに連絡すら寄越しやしない。ヴェルゴからすれば裏切りは明白だった。恐らくはファミリーの誰が見ても同様に、ローが戻る意志を持たぬことは明らかであろう。
だが、ドフラミンゴは待っている。あの子供が戻るその日まで、権威に空白の生じることを許容している。その事実がいっそう、ヴェルゴの怒りを烈しいものに、する。心臓の火が猛く燃える。ローを赦す、なぞは有り得ぬ。生かしておく道理すら無い。あれが自らをファミリーの一員では無いと思うているかも関係が無い。
あの実を口にした者はドフィの為に死ぬべきで、それが出来ぬのならば今直ぐ死ぬべきだと、ヴェルゴは芯から思っている。そうでなくとも、あの夜、ドフラミンゴ自身の脣が放ったように、即刻連れ戻し教育を施すべきなのだ。だと言うのに、かれはそれを選ばない。トラファルガー・ローを自由に遊ばせている。戻らぬローと、待ち続けるドフラミンゴ。この二対の混淆が与える効果をヴェルゴは知っていた。空席の齎す侮りが、生じているのだ。そうでないのは己とモネ、シュガー。軽侮は抱かぬが憐れみを向ける女がヴィオラである。この女たちを除いたファミリー。全員で囲んだ食卓で、彼らがパンと葡萄酒とを運ぶ脣にそれがある。宮殿使用人の恭しい態度、下ろした顎と揃えた指先にそれがある。何も知らぬ者たちが見る、最高幹部の空席の事実。それはファミリーへの侮りの隙になる。ドフラミンゴへの侮りに繋がる。これでは道化の呪いだ、と。ヴェルゴは静かに脣を噛んだ。
「ローの手配書を見たよ。やはりお前の慧眼は確かだったな。」
つとめて朗らかな声で言う。言葉は、全てが偽りではなかった。かれの才を見抜く眼は素晴らしいと、腹立たしい子供の手配報告を受け思ったことは事実である。それでも、と。ヴェルゴは思う。なぜ、お前はそうするのだ。お前はなにを待っている。あの日、ロシナンテを歓び迎えたお前は。逃れ得ぬ状況に陥るまで裏切りを認めなかったお前は。どうして待ち続ける。いったいあの子供の何処がお前に似ているんだ。帰る見込みは無いだろう。迎えを寄越すことさえお前は拒んだ。何を望んでいる。どうして待ち続ける。お前は、ドフィ、お前がローに求めるそれは、ファミリーでは、おれでは満たせないのか?
「……………………。」
どうしてあの子供なのだと、沈黙が訴えていた。有色の、濃い、重さのある不服が漲っている。沓音を偲ばせた切なさが滲んでいる。それらを正しく読み取ったドフラミンゴはくつくつと肩を揺らせる。機嫌の好い儘に葡萄酒を手ずから注ぎ、可哀い苦しみに灼かれる相棒に洋杯を差し出した。不服の顔で、併し柔らかな手で受け取られた赤。ドフラミンゴはかれが好んで行う笑いかたを腹から呼び起こし、ワイングラスをゆらゆらと傾けながら、口許に甘やかを被せ、目端を微かに蕩かせる。
「フレバンスでどう生きたのか……ローがどういう生まれだかの仔細は知らねェが、あいつはおれと同じ眼をしている。あいつはおれと同じ、悪魔を飼っている。」
だから連れ戻したりはしない。それが自然なのだ。ローは自由でなくてはならないと、ドフラミンゴは考えている。自由の儘、あの子供が、自分の隣で生きることを、ローが、ドフラミンゴの心臓におさまることを、自ら選ばなくてはらないと、ドフラミンゴは強く、想っている。ヴェルゴから外した視線をハートの椅子に送る。この空席が空虚ではないことは必ず証明されるだろう。ドフラミンゴはその日を待っている。ふたりのひとりによる、個人的な祝祭が降る日を待っている。
「フフ、おれは既うあいつを選んでいる。あとはローが選ぶだけだ。ロシィではなく、おれを。」
その日こそ、ドフラミンゴが生れ変わる日だった。訣別を果たす日になるだろう。解放され、満たされる日になるだろう。己が手に入れる、新たな心臓の脈打つ音を想像するのは愉しかった。
「……分かるよ、ドフィ。」
葡萄酒をひと口含み、震えるような息を吐く。絞り出されたヴェルゴの言葉は深い忠誠が宿っている。ドフラミンゴはかれに微笑をおくる。確かに愛している。互いに愛しあっている。だが、深いところの結び付きが、どうしてか擦れてしまっている。ふたりは別のいきものだから、決してひとつにはなれないのだ。おれが愛するようには、ドフラミンゴはおれを愛さないだろう。ヴェルゴはそれを知っている。だが、それでも構わなかった。ドンキホーテ・ドフラミンゴが王であれば、ヴェルゴはそれで良かった。己では満たせぬ心臓。己では足りぬ右腕。
トラファルガー・ローが憎い。と、そればかりを思った。ヴェルゴとドフラミンゴ、同時に落ちたふたつの笑みは、ひどく空虚で、滑稽なものとして、スートの間に、響いた。