夢のカケラはいつでも赤く濡れて𓏸𓏸恐怖症と言われるものは、正式な病名を限局性恐怖症というらしい。
誰もが知っているように、特定の場所や物事、状況に対して顕著な不安や恐怖を抱くものだ。
自分がその類であると知ったのは、実はほんの数ヶ月前だった。
僕が、研究室に泊まり込んで頭を抱えていたデスマーチのある日。
何徹したかなんて覚えてないぼんやりと眠りと現実の境目のあの時。
僕の先輩が血走った目で包丁を握りしめ僕の研究室に入ってきた。
「え…?」
たまたま眠りの世界に半分身を置いた僕には、夢の中の出来事のように思えて動くこともままならなかった。
「お前のせいで!!」
彼が憎しみの籠った目で僕を突き飛ばし掴みかかる。
僕はモヤのかかった頭でただ見ているしか出来ない。
「お前が!なんでお前が!!」
「お前さえいなければ!1番評価されてたのは俺だったのに!!」
「なんでお前に出来て俺にできない!!」
「俺の方が優秀で、努力してきたのに!」
「俺の居場所を奪いやがった!!」
「本当にその評価は正当なのか?ほかのやつのをかっぱらって、さも自分の物のように発表したんじゃないのか!!」
まるで聞くに絶えない理不尽な怒り。
ただ僕は、これが夢なんだと、そう思ったから。
「…人の論文を奪って優秀だと嘯いてるのは誰でもないアンタじゃん」
特大の地雷を踏み抜いた。
薬でもやっているのかと言わんばかりに発狂した男に押し倒され、馬乗りにされる。
ヤツは異様な叫び声をあげながら、僕の体を滅多刺しにし始めた。
ぐさ、ともザクとも聞こえない。
ただ振動と熱だけを感じる。
刺される痛みは、常飲し続けたエナドリとこのぼやけた頭ではさほど感じられず、ただ漠然と「僕はここで終わるのだ」と諦めたように目を閉じた。
「晴!!」
「晴くん!!」
ここにいないはずの悲痛な同期2人の声と、先程の男の情けない声を最後に、僕の意識はプツンと切れた。
【夢恐怖症】
身体中を滅多刺しにされて早1ヶ月。
僕は今も研究室に缶詰状態だ。
あの日、明らかに様子がおかしい彼の挙動を見かけた研究員が、包丁片手に血走った目で甲斐田の名前を出していたことに不安を覚えてVΔLZのメンバーに連絡を取ってくれたらしい。
僕は研究者だけども、決して体術の覚えがない訳では無いので、慢心してた自覚はある。
あんな男1人くらいなら余裕で対処出来たつもりだし、出来たはずだ。
それを知っている同期2人が、まぁ証人程度にはなるかと念の為見に来た時には、発狂した男の声と無抵抗に滅多刺しされている僕の姿を見たらしい。
そんな2人が過剰防衛になったのを、僕は責めることが出来ない。
血を見慣れている景すらも真顔になる状態。
聞くところによれば、僕の体は致命傷になるほどでは無いものの肺や臓器を傷つけられ、口からは血がこぼれ落ち、服から書類から部屋の全てが赤黒く染まっていたそうだ。
そのままにしておいて魔が寄ってくるといけないからと書類や設備は全て破棄。
その買い替えにかかる費用も含め、ヤツの家からキッチリせしめるとドスの効いた藤士郎の声は聞かなかったことにしたい。
何はともあれ、桜魔のトンデモ技術を使えば、1ヶ月程度で書類仕事をするまでに復帰することは出来た。
問題は、ここからである。
僕は今、【夢恐怖症】に苛まれている。
ことのはじまりは術式により快癒に向かっていた入院中のある日のこと。
今まで痛み止めや安静のために出されていた睡眠導入剤をやめることと、なった時だ。
ずっと眠くて働かない思考というのは不安が強い。
何より同期2人が来たことに気づけないことが嫌で主治医に相談したのだ。
でも何故か主治医は顔を歪ませて首を振る。
違和感を感じながらも今後のことも考えて、徐々に。という所で話が着いた。
「来週辺りから、薬の種類が変わるから今度からは2人をちゃんと出迎えれるようになるよ」
「え……?」
その日も顔を出してくれた同期2人に「交渉大変だったよー」なんて話していたら、スっと2人から表情が抜け落ちた。
「景?藤士郎?」
「そっか。そうだね…。そろそろ誤魔化すのも無理だし、潮時かもね」
「おい藤士郎」
「景くん。これは結局晴くんが知らなきゃいけないことでもあるんだよ。僕らは、見守るしかないよ」
「え、ふたりとも……?」
急に始まる剣呑なやり取りに戸惑いのまま声をかければ、辛そうながらも優しい笑顔の藤士郎に首を振られ、僕はただ無言で頷くしかできなかった。
そして、翌週。
僕はその言葉を身を持って知る。
今までの薬は夢も見ないほど深い眠りに落ちるが、副作用が強く中々覚醒しないことが多かった。次に処方された新しい薬はそんなことがなく、普通に目覚めるし、夢も見た。
見るのは決まって同じ悪夢。
なんてことの無い日常の一コマが再生されて、ドンという背中からの衝撃とともに倒れ込んだ体。
振り返り、見上げたそこには鈍色に光る包丁。
それが、容赦なく何度も何度も体に差し込まれ、意識は吸い込まれていく。
まるで人形のようになった自分を見つめる憎悪の瞳を濁りを帯びたラムネ色のガラス玉で見つめ続けていた。
夢に囚われるようになってから病室外からの来訪者全てに怯えるようになってしまった。
扉が開けは看護師も医師も……友人さえも。
あの時に男の姿がダブって息が詰まる。
その後聞こえる声に別人であることを認識し、やっと息ができるのだ。
これは夢か、現実か。
他者が訪れる度に滲む冷や汗と強ばる身体。
詰まる息に、常に晒される強い恐怖で胃の痛みが日常と化した。
夢の中で苛まれパニックになり飛び起きて、夢を見るのが怖くて眠れなくなった僕に診断されたのは【夢恐怖症】と【軽度の対人恐怖症】。
ここに訪れる人間は誰なのか。
夢を見ずにいるための方法は無いのか。
常に考えすぎるが故に消耗し摩耗していく精神と体力。
ここにいても改善は厳しいと、慣れた環境でのリラックスを優先するために自宅に戻ることとなったのが先週のことだったのだ。
しかし研究者というのは大変自分を軽視する傾向が強い。
長らく出来なかった研究に、やりかけだったあの時の内容に、とスイッチが入ってしまった結果、またエナドリと幾ばくかの徹夜が心の友と相成った。
元から引きこもりだし、家の結界が、ある。
超えてくるのは同期の2人だけだし、報告書は同期に託せばいい。
買い物も藤士郎が世話を焼いてくれるから家から出る必要性がなく、対人恐怖症に関しては落ち着きを見せていた。
だが、問題はもう一つである。
寝てしまうとあの日を夢に見る。
必ずと言っていいほどあの時の惨状を繰り返す。
僕は抵抗できず血にまみれた報告書を眺めるだけ。
最後には心臓を一突きされ、目覚める。
どれだけ良質な睡眠を取ろうと努力しようともこの夢から逃げれなくて、汗だくで飛び起きる日々。
結局僕は仕事に没頭することにより「眠らない」という、選択をした。
そうして、今までの遅れを取り戻すようにがむしゃらに働いて、気絶するように眠るか睡眠導入剤で無理やり体を休める毎日を送っていた。
それをあの2人が心配しないわけが無い。
藤士郎は神に謁見し僕に加護を願い出た。
ーーその対価は安くなかったはずだ。
景は僕が狂ったように続けた研究結果を元に新たな魔の討伐に精を出した。
ーーそうしてまたお前は傷を増やす。
2人が僕のやっていることを肯定するために手を尽くし、世話を焼いてくれる。
申し訳なさとともに、この2人のためなら死んでもいいな、なんて思ってすらいた。
本気で思っていたから、あんな行動に出れたんだと思う。
そして今日、リハビリを兼ねてVΔLZの3人で軽難易度の魔の討伐に参加する。
今回僕は総指揮官として参加した。
藤士郎は僕のメンタルケアの為に僕の隣から離れない。
景は早急にこの任務を終わらせようといつもより動きが早い。
今回の魔は僕ではない第三者からの報告により作戦が立てられた。
僕の存在もあくまで念の為程度といわれたので、いつもよりも確認を怠っていたと心から反省している。
「僕のバカ!!」
「晴くん!だめ!戻って!」
等級・急所・攻撃方法すべて報告書通りだったのに、立地と知能に関する内容に穴があったのだ。
このまま強引に祓えなくはないが、恐らく景が大怪我を負う。
瞬時に作り上げられたそのシュミレーション結果に、僕は大人しくなんかしてられなくて。
愛用の本を片手に景の元まで転移する。
「は?!晴?!」
『我が家名、甲斐田の名のもとにー…』
既に上がる息をし、焦る景を背中に庇って僕は術を展開する。
『縛』
不可視の鎖が魔を縛り動きが止まったことを確認し、手を横に薙ぎ払った。
『…ー散』
まるで砂のように崩れ、大気に溶け消える。
これで祓う事は出来た。
問題は【ここから】だ。
この魔は、死ぬ時に自分を害した者を呪うのだという。
それも、悪夢の中に。
誰がお前に景をやるか。
誰がお前に藤士郎をやるか。
誰一人として、お前にやれる人間など存在しない。
魔の呪いの影響で僕の皮膚に蔦のようなアザが広がる。
「甲斐田!!お前…っ」
「景。…ごめんなぁ」
泣きそうな景の顔に情けなく笑う。
そして僕の意識はまた崩れ落ち、闇に堕ちた。
===
作戦のあの報告書を作成したのは、晴くんを害した、あの男だった。
「はっ、優秀とかやっぱり嘘」
涙が止まらない。
晴くんなら予め結界や対処法まで用意してから作戦にあたるのに、あの男はそれをしなかった。
あまりにも杜撰で自分本位。
あの作戦が晴くんに回るよう、親族や自分のシンパを焚き付けてたらしい。
曰く
「俺がどれだけ優秀か思い知らせてやりたかった」
だそうだ。
晴くんの足元にも及ばないその計画で、晴くんに被害が出たと聞いて自分が晴くんに勝てないという絶望と晴くんを害することが出来たその悦びで、その夜ヤツは謎の死を遂げた。
首を掻きむしり壁に頭を打ち付けて。
口から泡をふかせて。
自分で首を絞めながら亡くなったらしい。
ずっと「ごめんなさい」と叫び「俺の方が…」と言いながら絶命したらしい。
病室で蔦のような呪いに覆われ静かに眠る晴くんを見つめる。
あの男の1件から髪からツヤはなくなってパサつき、目の下のクマが取れない。
元から病的なまでに白かったあの肌は、青ざめ晴くんをより一層儚く見せた。
美しく輝くあの青空の瞳は濁りを帯びて。
唇もカサつき、僕の大好きな晴くんが弱り続けている。
それに加えて今回の呪いで、いつ儚くなるのか。
桜に攫われてしまうのではないか、と恐怖が止まらない。
「おげんー?そぉーんな顔してたら晴が心配するぞ」
「…景くん」
「待たせてごめんなぁ。」
「んーん。…首尾は?」
「…ヤツの一族連座処刑。シンパも逮捕。俺はよく知らねーけど、今回関わった奴らはみぃんな、加護が外れて皇都に踏み入れることすら出来なくなったらしい」
「ふふ、なんでだろうね?不思議だな」
「まぁ、直接手は出さなくても晴を疎んでたやつらにもいい薬だろ」
剣呑に光る景くんの瞳。
きっと僕も同じなんだろう。
妖しく光る目で目の前にいない奴らを睨みつけて、細く骨ばった晴くんの手を握った。
あぁ。
夜が怖い。
このまま家に帰って、寝て起きて。
晴くんの容態が悪化しないかと怖くて仕方ない。
何回と夢に見て、僕も夢を見るのが怖くなってしまった。
目の下にはクマ。
憔悴しきった僕と、同じ顔をした景くん。
晴くんの体温を感じられる今なら安心して眠れる。
心の奥でふつふつと湧き上がる怒りと憤りを無視して僕らは晴くんに触れたまま目を閉じた。
ーその一瞬、晴くんの身体が強ばりガタガタと震えた。
「晴くん!?」
「晴!!」
晴くんの皮膚を這っていた蔦がどす黒い煙をあげて蠢いている。
「ぅ、あ……っ」
無意識ながら小さく漏れる呻き声。
慌ててナースコールを押して晴くんの顔に触れようとしたその時。
「まて。藤士郎」
「景くん?」
「……魔になりかけてやがる」
いつもは聞かない、戦場特有の声。
憎らしげに、苦しげに絞り出されたその言葉。
呆然と晴くんを見れば、目は虚ろに開かれ、空色は暗黒に色を変えていた。
黒目も、白目も、全てが暗黒。
「どこまで役立たずなんだよ、あの野郎」
「景くん!直ぐに術をかける!援護して」
「ぉーっけ。勝算は?」
「僕が失敗するとでも?」
「はっ!そりゃそうだ!」
じわりと伝う汗。
ジリッと皮膚をなぞる不快な瘴気。
景くんが桜華水刃を構えて、僕は袂から真新しい護符を取り出す。
親指を強く噛み自分の血を使っていつもより強力な護符を錬成する。
字が滲みながらも強制的に作成した護符は僕の血と命を削って神を降ろして術を展開する。
景くんからはバチバチと音がする。
揺れる髪、綺麗な長髪が光に解けて桜華水刃の色が変わる。
魔力の宿る髪を対価に威力を上げているようだ。
「「誰が連れていかせてやるものか!」」
返せ!!
僕らの慟哭と共に前が見えなくなるほどの桜が舞い散り、激しい突風と共に滅された魔が不気味な悲鳴を上げて消えた。
そして風が止んだこの病室には、命を削って満身創痍な僕らと静かに眠る呪いの消えた晴くんがいた。
今度こそ助けられた……。
このまま潰えたとして、晴くんを亡くす恐怖に苛まれて生き続けるなら、このまま終わりたい。
下がる瞼と安心感と、その満足感に満たされて僕らは夜の闇へと沈んでいった。
例え、もう目覚めることがなくても、悔いはなかった。
誰が1人を亡くすくらいなら3人で水に沈んでしまえ。
こぼれる笑みの片隅で、誰がが泣いていた。
===
あれから更に1週間。
僕らも一晩入院する羽目になり、神様方やらお偉いさん方からお叱りを受けた。
僕らは退院したけど、未だに晴くんは目覚めない。
カラカラと音を立てて扉を開ければ、柔らかい寝息の晴くんの姿。
「晴くん、来たよ」
夜空に舞い散る桜の花びらと綺麗な月に照らされた晴くんのローズグレーの髪にふと微笑む。
「景くんもすぐ来るよ。来たらまた結界張って、歌おうね」
もうここに置いたままにしているキーボードを組み立てる。
僕らが揃ったら、病院関係者も誰もここには近寄らない。
困った顔の看護師さんと医師にいつも通り柔らかく微笑んで、ここにくる。
景くんと2人で歌を歌って、軽く話して、そして晴くんに寄り添って眠る。
その日常を苦しく思わない訳では無いけど、離れるなんてできなくて、権力やら地位やら持てる全てを用いてここにいる。
これなら苦しくないし、怖い夢は見ない。
景くんを、晴くんを、僕を亡くす夢は見ないで済むのだ。
「おげん〜おまたぁ?」
「遅い!」
「ごめんてぇ」
「まぁキーボード用意できたし、早速はじめよっか」
「おっけぇー!今日何歌う?」
「んー…何がいいかなぁ」
2人で端末を見ながら歌う曲を考える。
「甲斐田は……甲斐田MIXのKINGが聞きたいな」
掠れた柔らかい声がか細く聞こえた。
バッと顔を上げれば、意思の籠った綺麗な空色が開かれていて。
窶れた顔で僕らの大好きな笑顔を浮かべた晴くんがいた。
「は、はる」
「晴くん起きて…?」
「あはは、ふたりとも狼狽えすぎだろ。」
「「だって!!」」
「おはよ、景、藤士郎」
「「おはよう」」
あぁ、夜が明けた。
今日も晴れたね。
僕らは泣きながら3人で温もりを確かめあった。