RECALL④記憶が戻るわけでもなく、何か手掛かりが出るわけでもなく、何の進展もないまま俺の居候生活は10日が経過した。
朝、起床して朝食を作り、コイトさんを起こして朝食を一緒に食べて、コイトさんを見送り、その後洗濯と掃除で午前が終わり、簡単に昼食を済ませた後、筋トレをしながら晩飯のメニューを考えて買い出しに行き、洗濯物を取り込み畳んでクローゼットに収納し終わってから、晩飯を作る。そうこうしている間にコイトさんが帰宅して晩飯を一緒に食べ、後片付けをし終わったらコイトさんの勉強に付き合い、風呂に入って就寝する。大体そんなルーティンだ。
筋トレはコイトさんが俺の体を気遣い勧めてくれた。マンションの住人専用のジムを利用させてもらっている。
コイトさんは週に数日のインターン、休日でも資格試験や大学の課外活動などで家を空けることが多く、文字通り多忙だった。それでも疲れた様子は一切見せることはなく、学校の猫が人懐っこいとか、コーヒー店の新しいドリンクメニューが美味しかった、だの逐一俺に報告してくる。
「講義中にスギモトが爆睡してから顔に落書きしてやったんだ」
夕食後、資格試験の過去問を解いた答案を採点をしている俺に恒例の『今日の出来事』が始まった。
「後から気付いたスギモトが私の頬を抓ってきたから、私も思いっきり抓り返してやった!寝ているあいつが悪いのに理不尽な仕打ちだと思わないか?なぁ、ツキシマぁ!」
なぁなぁ、と肩を揺さぶって同意を求めてきた。
小学生の喧嘩か、と喉元まで出かかった言葉を飲み込み「そうですね」と適当に相槌を打って返した。
当初からコイトさんの会話の端々に出てくる 『スギモト』が一体何者なのかわからないが大学の友人なのだろう。親しいんですねと告げると「違う」と食い気味に拒否られた。
「はい、できましたよ」
採点済の解答用紙をコイトさんに渡す。
数か所間違いがあるが十分合格圏に入っているので何の問題もない。
アプリで解答すれば自動採点ができ時間も手間も省けるはずのなのに、今まで自分でそうしてきたであろうに、わざわざ俺に委ねてくる。
鯉登さんは模範解答を見て、間違えた問題を解き直し始めた。
明日、鯉登さんは検定試験のため朝から出かける予定だから今日は早めに就寝したほうがいいだろう。俺は風呂の給湯のスイッチを押すため席を立った。
「なぁ、今度の日曜日、試験が午前中で終わるから昼から一緒に出掛けるぞ」
“お湯張りを始めます”と人工的な音声が流れたあと鯉登さんが言いだしてきた。
「…は?…突然ですね、なにをしに行くんですか…?」
「本格的に寒くなってきたし、お前に似合うアウターを見立ててやろう、と…」
「行きません」
かぶせ気味に即答。
「ないごてっ!」
何故だと突っ込まれても理由は明確だ。
「俺は居候の身ですし、外出といっても近所のスーパーに買い物行くだけなので俺には必要ありません!」
それにいつ記憶が戻るかもわからないし、いつかはここを出ていかなければならない。それにこの人の選ぶ服は高価なものばかりで、これ以上借金が膨れ上がると返済が苦しくなる、かもしれない。
「じゃあ、普段から忙しい私を労うために買い物に付き合え!これなら文句はないだろう!」
「…強制じゃないですか」
「譲歩だ!」
ため息しか出ない。押し問答をしてもコイトさんが折れないことはこの数日で学んだ。勝ち誇った顔が腹立しいが、文句が言える立場ではないのでこちらが折れるしかない。
「…わかりました。ただ、俺のものは何も買わないと約束してください」
「よしっ!そうと決まれば明日着ていく服を選ぶぞ!ツキシマぁ!」
コイトさんがぱぁっと顔を輝かせ、俺を寝室に連れ込みクローゼットから服を取り出し始めた。
「ちょっ…、明日朝から試験なんですからさっさと風呂に入って早く寝なさい!」
結局コイトさんプロデュースによるファッションショーは日を跨いでしまった。
試験終了時間に試験会場であるの大学の正門前で待ち合わせをして繁華街まで出かけた。
大学から駅も近いので俺はてっきり電車で行くつもりで想定していたが、コイトさんはすでにタクシーの手配を済ませていて俺が到着する頃にはタクシーが待機している状態だった。
「良い良いッ、良いではないか、ツキシマあぁ!私の見立てに間違いは無いな!」
昨夜も散々見ていたのに俺の格好を見て満足げに頷いている。
いつまでたっても乗車する気配が無い我々をタクシーの運転手が困惑した表情で見てたのでコイトさんを乗車するように促した。
「試験はどうでしたか?」
「ああ、何の問題もない。ツキシマがいてくれたから助かった」
「いや、別に俺は何もしてませんが…」
謙遜することはない、とコイトさんが俺の目を見て屈託なく笑う。あまりにも真っすぐに俺の目を見るからどこか居心地が悪い。適当に返事をして目を反らした。
目的地に到着し、タクシーから降りるとビルに囲まれた街の通りは冷たい風が吹いていた。
寒いと言ってコイトさんがベージュのスタンドカラーコートの襟を立てて肩をすくめた。
12月になると市街地は煌びやかなクリスマスの装飾で覆われ、お馴染みのメロディがそこかしこに流れている。
目を離すとすぐにどこか行ってしまう、街の様子と同様に浮足立ったコイトさんの腕をつかんで引き留めておくのを忘れない。
「どこでランチしようか?」
〇〇でもいいし、□□もおすすめなんだ、一人でとあれやこれやと悩んでいる。
「あ、ツキシマぁ!あそこのパーラーのクリームソーダが食べたい!」
赤い外壁が目立つ、いかにも高級そうなビルを指した。
「ランチは?あなた、さっき寒いって言ってたじゃないですか?」
「それとこれとは別!」
ーーソーダ水の上にアイスクリームがのっているんだ、珍しいだろ?
「そういえば、あなた以前もそんなこと言ってい…」
ふと、自分の発言に違和感を覚えた。
以前ってどういうことだ?
ーーお前も一緒に食べるぞ!
頭の中で響く声はハッキリとしている。聞き覚えのある声はコイトさんに似ているような気がする。
「ツキシマ?どうした急に立ち止まって」
無意識に立ち止まっていた俺にコイトさんが声をかけてきた。
あまりにも似ている。似ているなんてものではない、むしろ本人そのものだ。頭に過った会話の内容は一体なんなんだ。とても大切なことを思い出せない焦燥感に襲われる。
背筋に汗が流れ、ぞわっと悪寒が走る。
「…いえ、何でも…」
「ぅわっ!」
突如、街中に強風が吹きあがった。歩行者天国にあふれた通行人も驚いた声を上げ、ざわめいている。
「すごい風だったな!」
振り向いたコイトさんの顔を見て、心臓を直接殴られたような衝撃が走った。
風によって乱れた前髪が一房、左頬に張り付いていた。
左頬に走る一線の傷跡。
ドッ、ドッ、ドッと勢いよく心臓の脈打つ音がこめかみに響いて脳が揺さぶられる。
周りに聞こえてしまうのではないかと思い、咄嗟に胸を押さえつけた。
「ツキシマ! どうした!」
「…え?」
顔を上げると間近にコイトさんの顔があった。何の傷も無い滑らかな肌、いつものコイトさんの顔だった。
「顔色が悪い。汗もかいて…今すぐ病院に行くぞ!」
「え…?ちょ、ちょっと待ってください!」
駆けだそうとするコイトさんを必死でつなぎとめる。
「だっ、大丈夫ですから!」
頭がさえてきて周囲を見渡すと俺たちのやり取りに通行人が何事かと怪訝な視線でこちらを見ている。
これ以上の波風を立てたくない。一呼吸つき冷静を努めた。
「人の多さに酔ったのかもしれません…。もう落ち着きましたので大丈夫です。でも今日はもう帰ります。コイトさんは昼飯食ってきてください」
この場からいち早く離れたくて、立ち去ろうとしたら勢いよく腕を引っ張られた。
「そんな状態のまま一人で帰らせる訳にいかないだろ!」
私も帰る、とコイトさんはスマホを弄りだした。程なくタクシーが到着し、結局街には30分も滞在せずとんぼ返りとなってしまった。
帰路のタクシーの中でコイトさんは俺の右手の甲に手をそっと重ねた。お互い顔を見ることもなく、一言も会話もすることもなく静かだったが、コイトさんの手の温かさに懐かしさと安堵を感じた。