izkk 夢を見ていた。
闇の中で和泉さんが刺される夢だ。
ナイフで刺された和泉さんが崩れ落ちるように倒れて、地面に血の池がゆっくりと広がっていく。
自分はそれを離れたところから見ている。
駆け寄りたいのに一歩も動くことができなくて、しかも、ひとつ瞬きをするたびに、その光景は初めからスタートし、ループする。
ここが病院だと菊之助が気がついたのは、ぐるりと天井に視線を巡らせて、見慣れない蛍光灯を見つけたからだった。それに、消灯されてはいるが個室のなかはぼんやりと明るく、天井と同じく壁も白い。うっすらと薬品の匂いも漂う。光の入る方向へ目をやると、アルミの枠に囲まれた空に灰色がかった雲が流れていた。
生きて帰ってきた。息を吐き、目を閉じて、昨夜の作戦を思い返す。相手の人数が想定より多いアクシデントに苦戦を強いられたが、なんとか抑えることができた。逃げようとするトップを捕まえて、床にねじ伏せ、連絡を受けて飛んできた仲間に後を任せた。そこまでの記憶はしっかりと残っている。やり遂げた。終わったはずだ。これで長く続いた悪夢も見なくなり、あの人も新しい人生を送れる。
今は何時だろう。周囲はしんと静まり返っている。時計がないけれどこの静けさなら朝かもしれない。収納棚にでも時計がないかと首を傾けると、自分のベッドの脇につっぷしている人間が目に入った。
一瞬身構えてから、それが和泉なのだと気がついた。
光にやわらかく照らされている、彼特有のあちこちに跳ねる癖毛と、すっかり見慣れた、呼吸とともに上下するスーツの背広。間違いない。
会いたかった人がここにいる
結婚式場で、これで会うのは最後だと思っていた人がここにいる。
もしかしたら、でも、これも死後の世界に見ている夢かもしれない、と思い直した。菊之助の頭のなかに、即座に理由が積み上げられる。現役の公安が休んでいる病室、おそらく面会時間外、同居を解消したのに来てくれたこと。もう会わないつもりだったのに、ナイフを胸に突き付けられ死を前にしたら、猛烈に会いたくなってしまったこと。
夢なら夢で、我慢せずに触れたい。体を起こそうとして、ひきつるような痛みを体の内側に感じた。腕には点滴の管も繋がっている。やっぱり生きている。
「起きたか!」
上半身を起こして椅子ごと近づいてきた和泉の顔に安堵の表情が広がっていく。ほんの数週間会っていないだけだというのに、懐かしさに胸がいっぱいになりそうだった。名前を呼ぼうとして、けれどこのまま口を開いたら、なにを口走ってしまうか自分でもわからない。落ち着く時間が欲しくて慌てて手振りで飲み物を要求すると、用意してくれていたらしい吸い飲みが、すぐに差し出された。飲ませてもらっているあいだ、静かに見守っている和泉の口元が弧を描いているのが菊之助には気恥ずかしかった。「出血は多かったが傷は深くないらしい」、だの、「寒くないか」「気分は」、だのといつもは静かな和泉が、珍しく口数多く気遣ってくれるのも慣れなくて、こくこくと頷くしかなかった。
「…あの、どうして、和泉さんがここにいるんですか」
「うん、知らせをもらったんだ」
吸い飲みを置いて近くに寄せた椅子へ座り直しながら和泉が言う。そうじゃなくて、どうやってここに入ることができたのかを尋ねているのだけれど、通じていなかった。追って尋ねようとして、やめた。和泉が「それで」と表情を切り替えたためだ。秋斗を亡くす前の、ぴりりとした雰囲気が、そこにはあった。
「あいつらのところへ行ったんだろう。担当じゃないはずだ、どうして、それも単独だった」
「…守秘義務があります」
下を向いて舌打ちした和泉の、膝の上に組まれた指がぴくりと震えた気がした。胸がちくりと痛む。
和泉の言うとおり、菊之助はこのテログループの担当ではなかった。どうして一人で向かったのか咎められているけれど、状況はどうなっているのかのほうが気になっているはずだ。この件の顛末を民間人になった和泉に伝えることは許されない。けれど、自分は近いうちに処分が決まるだろうし、上司も、バディを殺された和泉の悔しさは理解している。このくらい目こぼしをされるだろうと踏んだ。
「秋斗を殺したあいつは捕まえました」
「そうか」和泉は顔を上げて、それからまっすぐに菊之助を睨んだ。「どうして今だったんだ」
「急な展開だったんです」
「どうして単独だったかも返事を聞いていない。機会を待って万全の体制で臨むこともできたんじゃないのか」
「俺だって親友の仇ですから、チャンスを逃したくありません」
菊之助も和泉と同じように、組織の動きは独自に調べ続けていた。和泉と違っていたのは得た情報を留めてそのままにしていたことだった。今回初めて行動に移した。
和泉は黙ったまま、目で続きを促した。嘘もごまかしも通用しそうにない。
「…終わらせたかったんです」
「それは」
「もう十分だって思ったんですよ。苦しむのはもうたくさん。和泉さんも、俺も」
「菊も」
「そうです。俺、和泉さんといるの辛かったんです。だから家を出ました。でも、また和泉さんがひとりであいつらのところへ向かって、大怪我して帰ってくると思ったら…誰も手当てしてくれる人がいないじゃないですか。結婚式の帰り道、それにふと気がついて。だからもう、次の機会で、死んでもいいからあいつらを、って思ってました」
「おい、なんだよ、それ」
「でもね、覚悟してたはずなのに、刺されてもうダメかなってなったとき、恋しくなっちゃって。もう一度和泉さんの顔が見たくて。戻ってきちゃいました」
気持ちを打ち明ける気なんてなかった。なのに言葉がするすると口から出てきてしまう。これまで留めに留めた思いが、堰を切って溢れ出すようだった。これで本当に最後なら、もう全ての思いを伝えてしまおうと自我の奥で決まってしまったかのように。
「菊、それって」
「ずっと好きだったんです、和泉さんのこと。俺が一番じゃなくてもいいから好きになってって言えたらよかったんですけど」
とうとう言ってしまった、とは思うけれど菊之助の胸に後悔はなかった。むしろ気持ちが少し軽くなった気さえする。
「…悪かった。気がつかなくて」
けれど和泉からは、ばつの悪そうな声と、うなだれた頭部の癖のある前髪の隙間から光のない目が、困惑したようにゆらゆらと揺れるのが見えた。
困らせたいわけでは毛頭なかった。菊之助は点滴のついた手を和泉の視界へひらひらと振る。
「やめて下さい。何も悪くないんだから。俺の勝手な片想いです」
和泉はふるふると頭を振り、菊之助の指先を取った。その指の意外なほどの冷たさに、心臓がびくりと跳ねる。
「俺は、やっとわかった。警察を辞めたのにずっと一緒にいてくれて、それがどんなに俺を支えてくれていたのか。出て行かれてようやくわかった。秋斗が死んでからずっと俺は秋斗の仇を取ることだけ考えていて、いつ死んでも構わないと思ってた」
「知ってます。和泉さんはあのときからずっと、そんな調子だった」
「でも今はそうは思わない。俺はこれからも毎日菊の顔が見たい」
和泉が菊之助の言葉に被せるように言う。その言葉の意味が理解できなかった。菊之助が口を開けないのを無視して和泉は続ける。
「順番はつけられない。菊も秋斗も大切だから。でも、菊さえよければ、これから俺と、一緒に生きて欲しい」
和泉の目と声が揺れる。自分に向けられている言葉の実感がなかった。ただ、自分をまっすぐ見つめる顔に嘘や冗談の気配の気配は見られない。
死ぬ覚悟で戦った。永遠の二番手で、好きな人は手に入らないと心の奥で諦めてきた。それが、今、自分の手を握っている。
点滴のつながる手で顔を擦った。針が血管を擦る痛み、頬を撫でる自分の手の感触は、やっぱり夢でも、死んだ後の世界でもなさそうだった。
ずっと好きだった人が、まっすぐに自分を見つめて、一緒に生きて欲しいと告げてくれた。体の底から一気に涙が込み上げてくる。
「痛むのか?」
慌てたように身を乗り出して歪んだ視界いっぱいに迫ってくる顔に視界を埋められた。菊、菊、と続けて呼ぶ声が焦燥の色を帯びていて、こんなに心配してもらえる存在になっていたことに驚きながら嬉しかった。一番じゃなくても、こうして大切に思ってもらえることが幸せだ。
抑えきれない嗚咽が漏れる。やっとのことで、痛くないと告げると、ようやく涙の理由に気づいた鈍感な和泉が、布団越しに菊之助を抱きしめた。
ずっと欲しかった体温が、いますぐ前にある。動かせない体がもどかしくなってくる頃、遠くから大きな足音と騒がしい声が聞こえてくる。
「春田さんだ」と同時に呟いて、目を見合わせて笑う。まだ早朝だというのに、知らせを聞いて面会時間なんて頭にもなく駆け出してきたんだろう。人がいいにも程がある。
自分たちのことでさんざん心配かけた隣人に、どう伝えようか。どう伝えたらいいのだろうと思いながら、勢いよく放たれるドアの音と、自分たちの名を呼ぶ大声を耳にして笑う。春はすぐそこだ。