「あなただけの特別」 ある日の午後──もう夕暮れも近づいた頃の事。
シトリニカの誘いに応じたラピスは彼女とお茶の時間を楽しんでいた。
時々こうして誘われるシトリニカと過ごす時間は好きだった。
ただ正直な事を言えば供される紅茶が香り良く質が良いものだとはわかるもののそれを美味しいと感じるかはまた別の問題で、ラピスにしてみれば親しみのある普段の飲み物の方がずっと好ましい……というのは、気づかれているような気もするが彼女だけの秘密だ。
「──それでね。以前からよく言われていたのよ。スタルークは誰よりも綺麗な髪をしているって」
今も昔も羨ましいわ。
そう口にしながらふふとシトリニカが小さく微笑んだ。
その羨ましいという言葉に対面で話を聞いていたラピスは、ティーカップを手にしたまま自然に首を縦に振っていた。
全面的に肯定だった。
以前からそう思ってはいたが、その気持ちが最近より強いものになったのは、スタルークの髪に容易に触れる事ができる身になったからだ。
風で乱れた時に背伸びして整えるのも、傍で穏やかに眠る姿を見つめながらそっと指を滑らせるのも──恋人同士になってから許されたそれらの行為が、彼の髪がいかに滑らかであるかを教えてくれる。
「あれでいて梳かすくらいの事しかしていないと言うのだから、ますます羨ましい。わたしもそうだったら良いのに」
薄っすら苦味を帯びた笑みを零した後、シトリニカは優雅な所作で紅茶を口にする。
それを見つめながらラピスは「これはあなたの分よ」とソーサーに添えられたクッキーをかじった。口に広がるバターの贅沢な風味を感じていると、注がれる彼女の視線が気になったのだろう、シトリニカが不思議そうな表情で首を傾げる。
「どうかしたの?」
そう問われどうもしないわと口にしようとして、だがこくりとクッキーの欠片を飲み込んだところでラピスは思いとどまった。
首を横に振るだけの事、誤魔化すのは容易だ。しかし、その内容まではわかっていないにせよ『どうかしたの?』と尋ねられた時点で悟られている──何か思うところがあるのだとシトリニカには気付かれていると、ラピスにはわかってしまったのだ。
わたしはきづいているのよ。そんな素振りを少しも見せないで、それでいて実際はすごく察しがいいのだからずるい。
これから口にする感情に似たものを覚えながら、ラピスは正面に向けていた視線を手元のカップの方へと落とす。
「ちょっとね。シトリニカはいいな、ってそう思ったの」
残り少ない琥珀色を見つめながらぽそりと本音を口にすると、それが聞こえた証拠にシトリニカの周りの空気が揺れた。
これは驚いた時の気配だろうか。僅かに漂った沈黙の中でそう思いながら、ラピスは言葉の続きを紡ぐ。
「ないものねだりなのはわかっているけど、小さい頃のスタルーク様の事をたくさん知っているあなたが少し羨ましい」
少し、だと僅かに嘘をついた。本音を言えば『少し』ではなく『だいぶ』なのだとラピスは思う。
シトリニカから幼い頃のスタルークの話を聞くのはとても嬉しくて楽しくて、だがその一方でどうやっても自分の目でその時代の彼を見る事はできない。その事がなんとなく寂しかった。
好きな人に好きだと言ってもらえる。それだけでも贅沢な事だとわかっているのに、抱いてしまうその気持ちを消す事ができないのだ。
内心を告白した後に訪れた再びの沈黙は少し長かった。
こんなどうにもならない子供っぽい嫉妬を口にしてシトリニカは呆れているかもしれない。
思ったよりも長く感じる無言の時間に耐えきれなくなりそうになり、ラピスが顔を上げようかどうしようかと迷い始めた。
その時の事だ。
くすくすという笑い声がラピスの耳をそっと擽った。
自分ではないのだから誰の笑みかなど考えるまでもないと、彼女は視線を上げて対面を映す。
シトリニカは口元に指を添えて目を細めていた。
何がそんなにおかしいのだろう、やはり子供っぽいと思われているのだろうか──そう考えるラピスの視線の先で不意に笑い声が途切れて、彼女の視界には微笑みだけが残る。
「何を羨む必要があるの? ラピスだって知っているじゃない。あなただけのスタルークを」
あたしだけの、スタルーク様?
さらりとした口調で告げられた思いもよらぬ言葉にラピスは目を見開いたまま固まった。
その意味を上手く理解する事ができず、戸惑いは増えるばかり。そんな彼女の様子にシトリニカの瞳は更に細められ、その微笑みがまたくすりと音をたてた。
「確かにわたしは幼馴染だから昔のスタルークをよく知っているわ。でも、ラピスにだから見せるスタルークもたくさんいると思う。彼が恋人にだけ見せる顔、それはあなたしか知らないし、わたしも家族のディアマンドだって知らないスタルークよ」
一度たりとも言い淀む事なく告げられたシトリニカの言葉に、ラピスの胸の奥と頬が同時に熱を帯びていく。
恋人だけに見せる顔──その言葉に反応して頭の中には幾つものスタルークの姿が浮かんだ。
柔らかな笑顔、照れた表情、真剣なまなざし。そして、ラピスの名を呼ぶ少し熱っぽい声までもが再生され、それらは全て彼女の耳朶までも染め上げる熱さへと変わる。
明らかに様子が変わったラピスを映したシトリニカの赤い瞳が「間違ってはいないでしょう?」と言葉もなく言っているのがわかった。
そして、この短い間で思い出した甘い記憶たちを思えば、ラピスには頷く以外の答えを差し出す事もできない。
ラピスの反応を見たシトリニカひと口紅茶を含むと満足気に微笑った。
きっと今のシトリニカの目にはいつか言われたのと同じカーペットのような赤い顔の自分が映っているのだろうとラピスは思う。
「……ありがとう、シトリニカ」
親友の言葉がなかったなら、その言葉で気づきを得なかったなら、自分は今もまだただ羨ましがるばかりだった。
そう思えば自然と感謝の思いは零れ、しばし忘れていた笑顔が戻ったのをラピスは自覚した。
お礼なんていいのよ。その代わり、あなたしか知らないあの子の事をたまに聞かせてちょうだいね。
ふふっと笑みを伴い些か揶揄うような響きを持ったシトリニカの声に、またラピスの顔が真っ赤に染まる。
スタルーク様のあの表情もあの仕草も、あの声だって──大事な友達のお願いでも教えられないわ。
再び恋人の様子を思い出しながら内心でそう呟いたラピスは鮮やかな色に肌を染め上げたままシトリニカから視線をはずした。
記憶が連れてきた幸福感で緩みそうになる口元を隠しながら薄紅色の髪を揺らしラピスがそっぽを向く。
それはだめよ、と紡いだ唇は感情を誤魔化しきれずに少し震えていた。
見えていないのに肩をすくめるシトリニカの姿が思い浮かぶ。あら残念だわ、と返したシトリニカの声は言葉とは裏腹に明るい色で縁取られていて、それは弾むような響きをもってラピスの耳へと届いたのだった。