「ふたり、となりあって」「座ってください、ラピス」
にこりと微笑む恋人にそう言われたラピスは躊躇いながらソファへと腰を下ろした。
スタルークの部屋でその体が沈む感覚は経験済であったが自分がよく知る椅子の硬さとは異なっており、彼女の胸には戸惑いが生まれる。
だが、その大きさはこの部屋にやってくるまでに比べたらずっと小さなものだった。
王城で行われている舞踏会にスタルークの婚約者として出ていたラピスが彼に手を引かれたのは少し前の事だ。
ダンスや歓談、食事にと各々が楽しむ中で「少し抜けましょう」と囁かれ、首を傾げたままこっそりとその場を離れたのだが、近くの部屋に連れられたいまだにその理由がラピスにはわからなかった。
促されるままに座ったはいいが落ち着かない彼女の隣にスタルークが腰を下ろす。
二人の間にあるたった数センチ。今では珍しくもない距離だというのに、すぐ目の前でにこと柔らかく微笑まれればラピスの胸はどきんと高鳴った。
今日のスタルークは服も髪もいつもとは少し違う様子で、普段の姿が素敵なのは変わらないが正装に近い格好の恋人も魅力的だとうう思いは彼女の心臓を更にうるさくした。
舞踏会が始まる前にお会いした時からずっとこう──ラピスがそう思っていると、瞳に映ったスタルークの微笑みが僅かに翳りを帯びる。
「足は大丈夫ですか?」
予想外の言葉にラピスは固まった。
思い当たる事がなければただ何がですかと首を傾げていただろう。しかし、そうできなかったのは、随分前からじんとした痛みを感じている爪先と踵のせいだ。
どうしてスタルークが場を抜け出してこの部屋で自分を座らせたのか。ただひとつの問いで、もうその理由を尋ねる必要もなくなっていた。
スタルーク様に気を遣わせてしまった。
ラピスは心に生まれたその申し訳なさで恋人を直視できなくなり、そっと目を逸らす。
大好きな人の隣に並ぶ──今日のような日はもっと余裕な態度でいたいのに。
新たな生まれた不甲斐ないという気持ちと落胆が彼女を襲った。
沈んだ瞳が向ける視線が下がっていく。
──だが、それは優しく重ねられた手のぬくもりによって引き戻された。
人目のない場所で幾度も繋いだ手。絡めた指先。それらがくれる熱はいつだってその時々でラピスの心を柔らかくする。
無意識に熱を帯びた頬と共にラピスは視線を上げた。
赤い瞳は描いたとおりに自分へと注がれていて、見つめ合うと同時に新たな微笑みを増やす。
「痛みは、少しだけ。でも、いつからお気づきに……」
「踊った時にいつもと動きが違うな、と思って……」
「ダンスにまだ慣れていなくて、緊張しているだけかもしれないのに」
「今日の為に一緒に練習しましたから違いはわかりますし──そうじゃなくても、ラピスの事だから……気づけます」
いつもの君と逆ですね。
ふふと笑い、自分と同じように仄かに赤くなったスタルークにラピスの心臓はまた大きく跳ねる。
上手く隠し通せなかった情けない自分を戒めたい。その気持ちはまだ確かにあるのに、勝手だと思いながらも愛しい人の言葉に喜びは溢れてしまう。
本当はスタルーク様だって慣れない時間に大変な思いをされている筈なのに。広間に入る前に密かに繋いだ手が少し震えていた──そのくらい緊張もしている筈なのに。心配をかけたくないと思いながら上手くできなかったあたしの事を気遣ってくださるだなんて。
一気に駆け巡ったラピスの思考の終わり、まるでその気持ちを読み取ったかのようなタイミングで重ねられたスタルークの手のひらが彼女の手を優しく握る。
「シトリニカが暫くの間なんとかしてくれるそうですから、このまま少し休んでいきましょう。情けない事に、僕もあの人の多さにあてられて……倒れそうです」
はははと短く声をあげ、今度は自重気味に笑う。
そこには恋人への気遣いと社交場が苦手だという本音と、きっとその両方を宿しているのだろう。
先程のスタルークの言葉のとおりに今度はラピスの方も愛しい人の本心を悟り、触れた優しさにゆっくりと頷いた。
慣れない爪先の細い靴による足の痛みは消えてなくなったりしないのに、座っているからというだけではなく辛い気持ちが和らいでいくのが彼女にはわかった。
ありがとうございます、とようやく浮かべる事のできた微笑みと共に告げれば、大きく首が左右に振られラピスの目の前で窓の外と同じ色の髪が揺れる。
触れた優しさに愛おしさをこめて見つめれば、首を振るのをやめたスタルークの瞳がラピスのそれと重なった。
もう逸らされない二人のまなざしと共に、スタルークが少しの恥じらい混じりで唇を開く。
「今日みたいな苦手な日はこの先もまたありますけど……無理せず慣れていきましょう、ラピス。君と僕が一緒なら、大丈夫、きっとできる──そう、思いますから」
この先もまた。
一緒なら、大丈夫。
以前と同じ関係だったならこんな風に、約束するように、あたしに言ってくださっただろうか。
スタルークがくれた言葉の欠片ひとつひとつで熱くなる胸に泣きそうな気持ちになりながら、ラピスは「はい」と大きく頷いた。
長い廊下の先の大きな広間では、今も騒めきと華やかな音楽に満たされている。
だが、今はもう少しだけ二人静かの中で。
肩の力を抜いて普段のように微笑むスタルークを見つめたラピスは、靴からそっと足を解放して無邪気に柔い笑みを返した。
End.