正射必中!:司レオ「……朱桜先輩! お疲れ様です!」
一礼して敷居を跨いだ弓道場で、真っ赤な髪色の人影を見つけた瞬間、反射的に弾んだ声が出た。
私立夢ノ咲学院の中でも独特の雰囲気を持つ弓道場は、校舎の端に位置しているせいか、その場に相応しい静けさが支配している。思いのほか反響してしまった声を咎めることもなく、その人物は鷹揚に振り返った。スローモーションのように癖のない髪が揺れる。
ぴしりと背筋を伸ばし、いつも保たれている綺麗な姿勢は弓道着姿がこの上なく似合う。そうして、夢ノ咲学院弓道部の部長たる朱桜司先輩は、悠然と微笑んでこちらに視線を向けた。
「はい、精が出ますね」
部で指定している活動日ながら、朱桜先輩以外の人影は見えない。校内ライブが近いから、きっとレッスンを優先している人が多いのだろう。元よりアイドル活動以外にはそれほど力を入れていない校風だし、弓道部も例外でなくそういった雰囲気を持つ部活だ。
自分も今日は、直前まで基礎のダンスレッスンが入っていて、弓道場に立ち寄るかどうか、正直かなり悩んだ。せめて少しだけでも、となんとか顔を出したところでこうして先輩に会えたのだから、自分の判断を称賛したいところだ。
いそいそと弓と矢の準備をしてから、更衣室で弓道着に着替え終えると、先輩はすでに的に向き合っていた。自分の作法もそこそこに、その姿を盗み見てしまう。
肩書だけを見れば、朱桜先輩は雲の上の人だ。
ESのビッグ3と名高いKnightsの『王さま』で、そのうえ新興芸能事務所NEW DIMENSIONの代表アイドルとして事務所同士の話し合いの場にも赴くことがあると聞く。さらに、実家は歴史ある名家で、その当主としてESの事業に直接絡むこともあるらしい。そして、言うまでもなく、夢ノ咲学院の現役高校生であり、生徒会役員を務めながら、学科試験の成績は常々学年トップ。その傍らで弓道部部長として部活動に励んでいることを思うと、今日日、少女漫画のヒーローだとしてもさすがに盛り過ぎな設定だと思ってしまうくらいには超人じみている。
弓道部に入部届を出しに来た際は、そんな人が平然と部活動に励んでいる姿に驚いたものだった。
しかし、朱桜先輩はそうした凄まじい経歴の持ち主でありながら、俺みたいな――業界の新人であり、学院に入学したばかりの部活の後輩にも、丁寧な態度で接してくれた。柔和でありながらも威厳あるその立ち居振る舞いからは、騎士をモチーフとしたユニットの『王さま』という立場にあることを常々実感する。
俺は、そんな朱桜先輩に、端的に言って憧れているのだった。
♪
「今日は随分と疲れているようですね?」
「す、すみません……もう少し大丈夫かと思ったのですが……」
多少無理を押して来たこともあって、普段よりも的に中たらず、結果はぼろぼろだった。
それでも、先輩に気にかけてもらえたことを少しだけ嬉しくも感じてしまう。
「まだまだ学校生活に慣れなくて……今日は特にダンスレッスンだったので消耗が激しかったのかも……朱桜先輩は、今日はレッスンとかなかったんですか?」
「私はUnit memberが卒業してしまっているので、校外の活動がMainですから。今日は校内の他のUnitほど忙しくはないのですよ」
そんな風に言うけれど、朱桜先輩の「それほど忙しくない」は、きっと俺だったら「いっぱいいっぱいで目が回りそう」みたいな状態になってしまうんだろうな。
どんな時でも背筋を伸ばして「やるべきことをやる」ということは、言葉にしてしまえばこんなに単純なのに、尋常じゃない努力と体力が必要になることを、俺は最近になってやっと実感できるようになってきていた。
「先輩は……いつも姿勢が綺麗ですよね。俺は疲れてると露骨にぐだぐだになってしまって……」
「あまり集中できない状態で取り組むと危険ですから、今日はほどほどにしておいて下さいね」
しっかりと釘を刺されて「はい……」と神妙に項垂れてしまう。
「姿勢については、体力の問題などもあるのでしょうが、常々意識することが大切だと言えます。一番は射形を客観的に見て確認することでしょうが……」
ふむ、とそこで、朱桜先輩は顎に手を当てて考え込むように小さく頷く。
基本的には、この部活動において「指導」が行われることは稀だ。そもそも専門の指導者がいる訳ではないし、大会への出場を目的としている訳でもない。定められた弓道場の解放日に、活動可能な者が自主的に集まり、自由に弓を引くことが主な活動内容だった。だから、所属しているのは、ある程度の弓道経験者がほとんどだ。
自分も中学生の頃に、近所の弓道場に習い事として通っていたことがあった。腕前としてはほどほどで、昔も今も意気込んで「上達したい!」という感じではないけれど、こんな風に時々、朱桜先輩に指導してもらえることはかなり役得だと思う。
「……そうですね。それならば、私が撮影してあげましょう。そうすれば、実際に自分の姿勢を確認できるでしょう?」
「えっ、そんな、だだ、大丈夫ですよ、手間を掛けさせて申し訳ないですし」
思わぬ申し出に恐縮して、反射的に断ってしまう。それに、先輩がカメラを構えてる前で弓を引くのって、少し緊張しちゃうかもしれない。
「手間、というほどではありませんが……ではこうしましょう。あなたの撮影の後に、私の分の撮影をしてもらっても良いですか?」
言い淀む様を気にかけてくれたのか、先輩はそんなことを提案してくれた。
「そ、それは別に構いませんが……」
思うところがない訳ではなかったけれど、折角なので、先輩の言葉に甘えさせてもらうことにした。それに、朱桜先輩の弓を射ている姿を撮らせてもらえることは、少しラッキーかもしれない、という気持ちも勿論あった。
「……お、送りました、『ホールハンズ』で」
「こちらからも送りました。……ああ、届いたようですね」
そうして、俺の射形を撮影してもらい、続けて、先輩の分を撮影した後に動画を共有し合った。それぞれのスマートフォンで撮影すれば、わざわざ共有する必要はないのではないかと思ったけれど、きっと他者に易々と自分の端末を預けてはならない、ということなのだろう。勉強になる。
改めて動画として見ると、より強く実感することだけれど、朱桜先輩の凛とした佇まいは弓道の所作がよく似合う。SNSで公開したりしたら、Knightsのお姫さま達も嬉しいのではないだろうか。
「どこかで公開するんですか?」
「いえ、そんな大層なものでは。でも、折角なのでレオさんに見てもらってご指導いただこうかと」
「……月永先輩、ですか」
月永レオ先輩。自分と在学期間こそ重ならないものの、学院の――そして、部活のOBとして、この弓道場へたびたび顔を出している人だ。
Knightsの先代の『王さま』であり、朱桜先輩にその王冠を継承した人。そして、Knightsの楽曲の大部分を制作する天才作曲家でもある。
月永先輩とは一度、この弓道場で鉢合わせしたことがあった。
間が悪いことに、朱桜先輩がいないタイミングで、弓道場の床に作曲を始めたものだから、初対面にも関わらず、必死で止める羽目になった。
半泣きで「朱桜先輩に怒られてしまいます……!」としがみつきながら、想像していたより小さな体躯から繰り出されるパワフルな動きに翻弄される。果たして実際に相対した月永レオその人はと言うと、ころころと変わる気性で、ネコのように戯れついて来ておきながら、うっかり尾を踏むと爪で屠ってくる、トラのような迫力を持つ人だった。
おずおずと名乗った際には「よろしくな〜!」と笑いかけてくれたはずなのに、作曲を止めようとすると「邪魔! 誰だおまえっ」と威嚇するように唸られる。その様は若干トラウマだった。自他共に認める才能を持った人から、取るに足らない存在のように扱われるのは正直堪える。まだ何者でもない自分にとっては、特に。
「ふむ、こんなところでしょうか」
そんな風に俺が月永先輩について思いを馳せている傍ら、朱桜先輩は先ほど送付した動画を検分して、簡単な編集を施しているようだった。
「ピントとかっ、合ってなかったりしました……?」
「ああいえ、よく撮れていたと思います」
ただ、私の所作の方が少し、とはにかむように笑う。
「折角なので、とびきりよくできたところだけを見てほしくて」
「そう、なんですね……?」
先輩は、月永先輩にアドバイスを求めるために動画を見せるつもりだと言っていたけれど、それならば、一先ずはありのままの状態を見てもらった方が良いのではないだろうか。指摘しても良いものなのか、少しばかり悩んでしまう。
「……あわよくば、他でもないあの人に、『成長したな』と認めてほしいのです」
先輩はそんな風に切実に、どこか熱っぽく語った。それは少しだけ、見てはいけないものを見てしまったような――後ろめたい気持ちになってしまうくらいには、情熱的な表情だった。
こんなに何でもできるのに、朱桜先輩はきっと、月永先輩にこそ認められたいんだなぁと思うと、柄にもなくしみじみする。
「そういえば、朱桜先輩って騎射もできるんですよね? プロフィールに書いてあるのを見たんですけど、馬に乗ってだなんて、本当に凄いです……!」
可能ならいつか見てみたい。「アイドルの知られざる一面特集」みたいな企画で実現しないだろうか。
「確かにできますが、まあ、経験の有無という話ではありますからね。多くの人にはそもそも、馬に乗って弓を引くという機会がありませんから。あなたも、やってみたら案外すぐにできるかもしれませんよ?」
「ええ……⁇ いやあ、俺、平地でも的に中たらないことの方が多いので……乗馬もやったことがないですし」
「では、試しに私が『お馬さん』になってあげますから、乗って弓を引いてみますか?」
「えっ」
普通の会話としては何やら看過できない単語が聞こえたような気がして、思わず動きを止めてしまう。
「Imageが湧きませんか? こう、四つん這いに……」
「わーーー⁈ 大丈夫です、イメージはできたのでやめてくださいそんなこと⁈」
よいしょ、と先輩が正座を崩した時点で自分のキャパシティが振り切れてしまって、この時ばかりは強めに静止を入れてしまった。
「おや、そうですか……」
なぜか残念そうな先輩の言葉に、思わず妄想してしまう。幼い頃に父親にやってもらうような遊びを、憧れている部活の先輩と行う、というちぐはぐな光景。四つん這いの先輩の背に乗るなんて、恐れ多くて背徳的で、考えただけでそわそわと落ち着かない気持ちになってしまう。
それでも、ふとその絵面を俯瞰するように思い浮かべてみたところで、気まずさの中から奇妙な可笑しさが込み上げてきた。そうか、本気でそんなことをする訳がない。
「……ふふ、朱桜先輩がそんな冗談、珍しいですね?」
「そうですか? そうですよね、普通冗談ですよね、ふふっ」
朱桜先輩は心底楽しそうに笑った。弾むようなその笑い声はなんだか珍しく感じて、印象的だった。
♪
「すみませんでした、部の買い出しに同行できなくて……」
「気にしないで下さい。Lessonだったのでしょう? 一番に優先すべきですよ」
活動日の弓道場で、俺は開口一番に朱桜先輩に頭を下げた。断りの連絡を入れる時も含め、幾度目かになる謝罪を、先輩は今回も柔らかく受け止めてくれる。
先輩がこういうことにどうこう言う人ではないことは理解しているのだけれど、「折角誘ってもらったのに」という残念な気持ちもあって、つい、項垂れた姿を晒してしまうのだ。先輩と一緒に学外に出るなんて、そうそう無い機会だったのに。
「Unitを結成したのでしょう? これであなたも一国一城の主ですね」
「はい。同学年だけのメンバーで、まだ駆け出しにもほどがありますけど……リーダーとして頑張りたいです」
「事務所の事情などもありますし、直接どうこうはできませんが、何かあったら相談に乗りますよ」
Leaderの先輩として、と朱桜先輩は落ち着いた声色で微笑む。
ユニットメンバーに変更がない状態でのリーダー交代というのは、夢ノ咲学院においてはメンバーの卒業――文字通り、学校行事としての卒業――にあたって、たびたび起こり得ることだ。それでも、ユニット内で最年少という立場で、しかも、活躍の規模がかなり大きなユニットのリーダーを引き受けて、これまで務め上げているという大業の過酷さは、とてもじゃないけれど今の自分には想像がつかない。
「……月永先輩と、リーダーの心得、みたいな話ってされたりしたんですか?」
「レオさんと、ですか?」
きょとりとした表情で、朱桜先輩は問い返す。
「いえ、その、『先代』がいるってどんな感じなのかと思って……」
不躾な質問だったかもしれない、と一瞬省みてしまったけれど、先輩は真摯な態度で取り合ってくれる。
「そうですね。心得、と言えるほどではありませんが、共有できる視座があるので、それを念頭において話をしたりすることは度々ありました。あの人は私に対して、若干心配性になる時があるのですが、それ以外であれば、割合同じ方向を向けているように感じます」
先輩はそこで一度言葉を切って、少しのあいだ押し黙った。
その様子から、色々な思い出が脳裏に過っているだろうことが想像できて、こんな風に何気なく聞いてしまったことを少しだけ申し訳なく思う。もっと、何かのインタビュー記事とか、後世に残る媒体で振るべき話題だったかもしれない。
「……まあ、私にも失敗や迷走はありましたから、隣であの人が見守っていてくれたことは得難い幸福でした」
そうして、遠くを見るようにして締めくくると、先輩は頬を緩めた。その様子からは、月永先輩への親愛や尊敬の念がひしひしと伝わってくる。
「お二人って全然タイプがちがう感じするので、少し意外です……」
そんな俺の言葉に、朱桜先輩は「ああ、先日顔を合わせたんでしたね」と頷きながら、滲み出てしまった複雑な感情を察してか、気遣うように苦笑した。
「うちのレオさんがすみませんでしたね。集中していると周囲に対しておざなりになってしまうだけで、当人としても悪気はないのですよ」
先輩は「まったくもう」と肩をすくめて嘆息する。
「今度また、顔を出すと言っていたので、近々来るかもしれませんね」
何気ない物言いに背筋を伸ばしつつも、このままでは良くない、という気持ちも首をもたげた。
そうだ、今後も業界で付き合いがあるだろう先輩に対して、変な苦手意識を持つのは良くないことだ。それに、尊敬している先輩の大事な先輩なのだから、できる限りきちんと接したいと思う。
「月永先輩との接し方のコツ、みたいなものとかありますか……?」
おずおずと手を挙げて質問してみれば、先輩は生真面目に考え込む姿勢を取った。
「コツ、ですか……ふむ。一心不乱に作曲をしている時の対処、ということですよね。私もよく食ってかかっていましたが、今思えば適切な接し方ではなかったと言えます」
「食ってかかっていたんですね……」
あの状態の月永先輩に。朱桜先輩、心が強過ぎるのでは。
「畢竟、そういう場合は話しかけずに放っておくのが一番ですね。壁や床にまで譜面を書き出しそうになった時にだけ横から紙を差し入れるのが適当な対処であると言えます。最近は少々補充を怠っていましたが、弓道場にもそのための紙の保管場所があるので教えておきますね」
「はああ、さすがですね……」
もしも今度、月永先輩と一対一で対面してしまった時は、どうにか参考にしてみよう。とはいえ、朱桜先輩がいてくれるに越したことはないけれど。
前回の経験から察するに、朱桜先輩は、月永先輩が来ていると、そちらに掛かり切りになってしまうようだった。そのことにどうしても、若干の疎外感は覚えてしまうけれど、それはそれとして、直接的な摩擦が少なくなることはやっぱり助かるし、それに納得もできる。自分だって、もし卒業後に朱桜先輩が部活に顔を出してくれたなら、後輩を放ったらかしにしてしまう自信がある。
「そういえば、この間の動画は月永先輩に見てもらえたんですか?」
「ええ、見てはもらえたのですが……」
何気なく話題を振ってみれば、なんだか複雑な渋面を返されてしまった。
「『霊感』を得たとかで、例のごとく作曲を始めてしまって。Adviceなどはいただけなかったのです」
残念そうに、そして、少しだけ拗ねたように朱桜先輩は答えた。
「あの月永先輩にインスピレーションを与えるなんて、そもそもすごいと思いますけど……」
「いいえ、あの人は箸が転んでも『霊感』を得ます」
きっぱりと断言するところを見るに、実際にそういう側面もあるのだろう。そうは言っても、自分にはとても想像がつかない。あの月永先輩のインスピレーションが湧くほどに、興味を惹かれるような存在になる、ということが。
「『Love songが降りてきた』、と言ってました」
「ら、ラブソング……!」
「ええ、Cupidを連想したんでしょうね?」
弓道をする朱桜先輩から着想を得た、月永先輩作曲のラブソングだなんて!
毅然とした態度で真っ直ぐにハートを射抜く、光り輝く誠実な天使。そんな具体的なイメージが、一瞬にして脳内を駆け抜けた。純粋なファン心理として、聴いてみたい気持ちが胸中で暴れ出しそうになる。
「き、聴いてみたいです! それって今度のKnightsの新曲なんですか⁈」
「い、いえ……実は、Unitの楽曲にはなりそうになくて」
思わず興奮して食いついてしまい、朱桜先輩を驚かせてしまった。
「お姉さ……Producerともその話をしてから、私も気になったので、レオさんに聞いてみたのです。『あの曲はどうなったのか』と」
その時のことを回想しているのか、先輩は眉間に力を入れて、苦々しく顔を顰める。朱桜先輩は、月永先輩のことになると表情が豊かになるみたいだ。
「でも、何だか煮え切らない態度で。普段はもっとこう、新曲ができるや否や『聴いて聴いて』と持って来て下さるのですが……」
「そんな感じなんですか、普段……」
先輩から話を聞いていると、時折どうにも、メディアで見聞きしている月永先輩の像との乖離を感じないでもない。
「何度か同じ調子で聞いてみたのですが、 『あの曲はちょっと』などと目を逸らされてばかりなんです」
「そうなんですね……」
それはなんと言うか、世界の損失かも……。何か、聴かせられない理由があるのだろうか。どうにもならない未練から思考を巡らせてしまう。
「でも……近しい人から着想を得たラブソングってなんというか……」
思わず飛び出てしまった言葉に、先輩は視線だけで静かに先を促す。意識がこちらに向く感覚が分かって、頭に熱が集まってくる。
「ええっと、その、そういうのって何だか、恋する気持ちそのものみたいじゃないですか? 世間一般……というかドラマの展開とかだと? 自分の気持ちを曲に込めて贈る……みたいなお話ってよくある気がしますし、だから照れくさいのかも、なんて……」
はたと我に返った。今、自分は、なんと。
「すすすすみませんっ、草葉の陰とかで行うべき妄言だったかもしれませんっ」
「落ち着いてください、その物言いでは死んでしまっていますよ」
恐縮して慌てふためく自分を宥めながら、朱桜先輩は苦笑する。
「……まあ、実際のところはともかくとして、あの人はおかしなところで照れが入る人ではありますから。そもそも、楽曲がLove songであること自体が照れくさいだけなのかもしれません」
突飛なことを言ってしまったのに、先輩はあくまで普段通り冷静だった。フォローを入れてくれつつも、自身の見解を淡々と述べている。余裕のある態度だ。
「……でも、そうですね。もしも本当に、なにか特別な気持ちから聴かせていただけないと言うのなら……」
そこで、不意に声のトーンが少しだけ下がったように感じた。気になって視線を上げると、朱桜先輩は、考え込むようにして口元に当てていた指を外す。
「是が非でも聴きたくなってしまいました♪」
そうして先輩は、至極穏やかににこりと微笑んだ。
それは不思議と、矢を引き絞り静止した状態――「離れ」の直前を彷彿とさせる、静かで迫力のある笑みだった。
♪
「わははははっ」
静寂に弾けるような笑い声に、弓道場の扉に手をかけようとした体勢のまま、思わず身体の動きを止めてしまう。特徴的な笑い声から察するに、どうやら今日は月永先輩が来ているらしい。
声の距離感からすると、さすがに中に入るにあたっては、挨拶をしなければ不自然な位置取りだろう。今こそ朱桜先輩の教えを実行する時……! と意気込みことができず、どうしても逡巡してしまうのは、やはり先日の苦い記憶ゆえだ。また冷たくあしらわれたり無視されりしたら――朱桜先輩が言うように悪気はないのだろうけれど、心が折れてしまう。
「レオさん! 紙の補充です! 床は駄目です‼︎」
そこで初めて、子どもを叱るような大声が響いた。どうやら朱桜先輩も既に来ているらしい。無条件にほっと息をつく。
「わははっ信用ないな〜!」
そんな風に応じている様子から、ごく近い距離で会話をしていることが察せられた。
こんな所で聞き耳を立てて右往左往しているよりは、早く中に入って挨拶をして然るべきだろう。でも、どこか活き活きとした朱桜先輩の声色から、邪魔をしたくなくて躊躇ってしまう。
(少しだけ様子を見て、入れそうなタイミングで入ろうかな……)
♪♪♪
「ちょっとレオさん! 今日こそはちゃんと見ていただけると約束したはずですよ! 動画の件は結局うやむやにされてしまいましたし!」
「も〜っしつこいな! こないだのはちゃんと謝っただろ!」
作曲が一段落したレオの首根っこを捕らえながら、拗ねるような、詰るような口調になってしまうことを許してほしい、と誰にともなく司は思う。
いつだって司は、自身の現状について、レオからの言葉を欲してやまない。それは、彼から認められたいという気持ちの一環であり、また、自身から片時も目を離さずにいてほしいと願う気持ちの発露でもある。しかしかつて、アイドルとして、「王さま」としての自身について問うた時、レオにはやんわりと「ひとからの見え方なんて気にするな」と嗜められてしまった。
当時は少しだけ残念に思ったものだけれど、きっとレオから具体的に返答を貰っていたら、その言葉に多少なりとも寄りかかってしまったことだろう。レオの対応は、冷静で適切で、何より司のことを信頼していてくれるものだった。
しかし、だからこそきっと、「弓道についてはせめて」と思ってしまうのだ。
「ごめんで済むなら弁護士はいらないんです!」
「おれ訴訟されるの⁇」
レオは司の勢いに呆れながらも、OBが頻繁に顔を出すのは良くないんじゃないの、などと尤もらしい言い分を口にする。けれども、そんな遠慮をしているところは見たことがないので、彼なりの屁理屈だろう。部長権限で良しとしてもらいます、と力技のような回答を返すと、不意に吊り眉の角度がへにょりと下がった。
「おまえのその増え続ける肩書、ちょっと普通に心配なんだけど」
「別に、肩書を欲して増やしているわけではありません。必要な権限に肩書が付随しているだけですから、大丈夫ですよ」
言葉の真偽を確かめるように、レオはじっとこちらを見つめてくる。
「あなたも、久しぶりに弓を引いていきますか?」
「うーーん……今ちょっと徹夜明けだから、集中切らすと危ないし、やめとく」
少しだけ気怠そうにして、レオは司の提案を辞した。先程までハイテンションで作曲をしていたため、司はそんな様子に気付かなかった。
「徹夜したんですか?」
「おまえと約束してたし、守りたかったの! 寝たら絶対寝過ごすな〜って思って」
司としては普通に質問したつもりだったけれど、咎めるような気配を感じ取ったのか、レオは少しだけ慌てた様子で弁明する。
「待ち合わせの時間には遅刻されていましたが……」
「そこは……まあごめんっ! 許して? 途中で迷子になっちゃってさ〜」
聞けば、どうやら朝方まで作曲をした後、そのままずっと起きていたらしい。
レオが自身の創作活動を第一にする人であることは分かり切っているし、そうした側面が心配になる時も確かにあるけれど、司の胸をかすめたのは、レオが自分との約束を守ろうとしてくれたことに対するほのかな喜びだった。
「別にはるばるお越しいただかなくても、感想がわりにあのLove songを聴かせていただければ、私はそれでも良かったんですけど」
「しつこい奴だな〜! あれはダメ、どうしてもっ!」
ここのところ何度かしている話を蒸し返せば、弾かれたようにレオは反応する。
「そんな風に言われると余計に気になってしまうのですが! ……駄作だったのですか?」
「いや、傑作だ! あっ」
「それなら……私以外の誰かになら、聴かせられるのですか?」
「いや……ちょっと人に聴かせるとかは、ほら……」
幾度目かのそんなやり取りは、やはり堂々巡りだ。それでも、レオから「傑作」という言葉を引き出せたことは、司にとって思いがけない収穫だった。これでやっと、一計を案じる覚悟ができた、とも言える。
「……では、こうしましょう。今から、あなたのその『新曲』に釣り合うような打ち明け話をします。もしあなたが、その打ち明け話と件の『新曲』が釣り合うものであると判断できたなら、私に曲を聴かせてください。如何ですか?」
「打ち明け話……?」
警戒の色を隠さずにレオは復唱する。
「ええ。『目には目を、歯には歯を』ということです」
「ごり押しするにしてももうちょっとなんか、言い様があるだろ……」
呆れたような口調の指摘を無視して、司はレオの向かいに座り込んで、目線の高さを合わせた。
不本意ながらも提案を拒否するほどではないのだろう、若干じとりとした視線を向けながらも、レオはその様子を眺めている。
「二年前からたびたび、あなたは私のことを、この弓道場で見守っていてくれましたね」
「……そうだ。あの頃は下手っぴだったくせに」
あんなんじゃなかっただろ、と恨みごとのように呟く様は、拗ねている子どものようだ。
「見せてもらった映像のやつも、なんか……後輩の前だからなのか知らないけど、おれの知ってるおまえじゃないみたいで、なんか……」
視線を伏せて、レオは言葉を濁す。そんな様子に、溜息と笑みの中間のような吐息が一つ落ちた。
「あなたは、昔の私のことを『下手っぴ』と言いますが、実は言うほどではなかったんですよ? ……あなた程の腕前では無かったことは確かですが」
その言葉に、レオから若干懐疑的な視線を向けられる。しかし、一先ずのところ異論は飲み込むことにしてくれたらしい。
「白状しますけど、私は空回っていました。あなたの前では、特に。あなたに……他ならぬあなたに格好良いところを見せたい。その気持ちが強く出過ぎてしまって、もどかしいくらいに身体が思うように動かなかったのです」
当時の切実さに同調するように、司の声には熱がこもる。そうして、そろりと顔を上げたレオと視線が交錯した。
「それって、えーーっと、……言い訳か?」
「違います。Approachです」
自身が考案した箇所の歌詞をなぞる様にして、司はゆっくりと向かいに座るレオの方へと身を乗り出した。果たしてレオは、面白がっているのか、先行きを見守っているのか、司の瞳を迎え撃つように静かに見つめ返す。
「私、あなたに見ていてほしいんです。できればとびきり格好良いところを。あなたにだけは、特段。そして、私がずっとずっとそういう気持ちで居たことを、どうか知ってほしい。これが私の打ち明け話です。……この意味、分かりますか?」
レオは答えない。それでも、大きな瞳を見張り、ぱちりぱちりと幾度か瞬かせる。
「ねえ、レオさん。世間一般からみると、誰かを想ってLove songを作るというのは、恋慕の表れのように映るそうです。……まあ、あなたは天才だから、世間一般の感性とはまた異なるのかもしれませんが」
そっと指先を触れ合わせる。予感があったのだろうか、反射らしい反射もなく、また、咎められることもなかった。
「……なんで、そんな回りくどい言い方するんだ?」
ぽつりとレオは平坦に問う。
「逃げ道を用意しておこうかと」
「それっておれのための? それとも、おまえのため?」
「そうですね、逃げないで聞いていただけるなら、私も逃げずに問いたいものです」
司は一度言葉を切って、すうと息を吸った。
「あのlove songはどうなったのですか? 是非ここで、あなたの口で歌って聴かせていただけませんか?」
触れ合わせていた指先を一度離してから、そのままそっと手のひらを重ねる。どうか振り払わないでほしい、という願いが通じたように、レオはその所作を甘受したようだった。
「おまえって、本当に可愛くなくなった!」
「おや、聞き捨てなりませんね」
睨むように返された鋭い視線には迫力があるけれど、紅潮している頬と耳のおかげで形無しだ。
おまえは、とレオが静かに口火を切る。
「……たぶん時々、空転する時もあるんだろう。だけど、ここぞという時に絶対に的を外さないやつだ」
ごく近い距離を更に詰めて行くなかで、レオはまるで観念するように囁いた。
「ずっと、おまえのそういうところが――」
♪♪♪
あの日、厳粛なる弓道場で、物腰柔らかな先輩が、想い人を口説く声色を知ってしまった。
意図していなかったとはいえ盗み聞いてしまった内容は、先輩方のためにも早急に忘れ去るべきなのだろう。理性ではそう思っているのに、あの熱い声音と言葉がどうしようもなく頭の中で反響してしまって、先日から朱桜先輩の顔をまともに見ることができない。
そんなこんなで暫くの間、盛大に的を外すことが増えたものだから、先輩には大いに心配された。
♪♪♪
「弓道部の後輩の子がSlump気味で……ああその、Idol活動ではなく、弓道の方ですね。どうにかしてあげたいんですが、最近どうにもぎくしゃくしてしまって……」
「ふぅん。……あ、もしかしておれがちょっと前に行ったとき見かけたやつ?」
「そうですよ。あなたと鉢合わせしたのは、確かその子だけだったと思います。……あなたに一度で顔を覚えられるなんて、少し嫉妬してしまいますね?」
「いや、なんか視線が気になったから……? そいつ、そんなよく来てるの?」
「ええ。部活に熱心な子は多くはないのですが、彼は割合よく顔を出していますね」
「……よく話す?」
「まあ、そうですね。部の学年代表なので、部活の連絡事項含め、話す機会は多いです」
「うーーーん……そうだよな、弓引いてるとこ、かなりサマになってきてるし……」
「なんですか? ちゃんと話聞いてますか?」
「そういうとこ見てる奴はギャンギャンしてるスオ〜のこととかはあんまり知らないだろうし……」
「もしかして喧嘩を売っていますか⁇」
「……よし‼︎ 今度また行ってもいい? おれが直々に教えてやろう!」
【終】
モブくんの受難は続く