スニーカーとピンヒール「何か知らない人みたい」
そう言った、彼の妹の言葉を彩子は飲み込めずにいた。
彼こと、宮城リョータとは高校3年の冬から付き合ってもう3年が経っていた。その前のバスケ部員とマネージャーの期間も含めれば、知り合って7年近くが経った。そんな7年の間に、空港でカメラに手を振る彼の映像をテレビで見るなんて予想もしなかった。
国内開催の強化試合にメンバーとして招集されたリョータは、同じくアメリカを拠点としている沢北、流川と共に帰国した。既に日本のエースとして活躍している沢北、流川と違い初めて選抜メンバーに招集されたリョータは発表直後は「どうしよう、アヤちゃん」と泣きながら電話をかけてきたというのに、空港での取材には慣れた様子で対応していた。沢北と冗談に笑ったり、相変わらず愛想のない流川に「笑えよ」と先輩らしく振る舞っている。そんな様子がニュース番組のスポーツコーナーで流れたのだ。
本当は、心臓バクバクなくせに。リョータの妹、アンナと共にテレビを見ていた彩子は直接言えない嫌味を心の中で唱えた。
「じゃ、彩子ちゃん、これリョーちゃんに渡しておいてね。私とお母さんから」
「わかった。渡しておくね」
「じゃ、また明後日。会場でね!」
アンナも試合は見に行くが、試合の日は会える時間が無いので家族からリョータへの初選抜祝いのプレゼントは彩子へ託された。
試合の翌日、半日だけオフが取れたリョータからデートに誘われた彩子は自分の予定も確認せずに「いいわよ」と返した。自分も久しぶりに恋人に会えるのに浮かれていたのだろう。後から予定を確認して、空いていたことにほっとしたのだった。
彩子が宮城家を訪れた2日後、東京の体育館で試合が開催された。海外で活躍する選手も増えたので、バスケは少し前では考えられないくらい注目されていた。その中心が、自分の後輩と恋人だなんて彩子は不思議な気持ちだった。
「見て!彩子ちゃん!!大きいリョーちゃんだ!!」
会場で合流したアンナは大きなポスターに写った兄を見てはしゃいでいた。
「晴子ちゃんも流川の前で撮ったら?」
「もぅ!そんな、彩子さんったら!」
同じく合流した晴子は恥ずかしいのか、頬を赤くしていた。途中からバスケ部のマネージャーとなった晴子は流川と話す機会は増えたものの、その関係は進展しなかった。同級生の異性としては一番仲の良かった子、今はファンとして応援している。
「じゃ、私も映るから、アンナちゃん、撮ってよ」
「はーい。行くよー、あー、2人もっと寄って!」
恥ずかしがる晴子の腕を掴み、彩子は流川のポスターの前で写真を撮った。
「晴子ちゃん、私と彩子ちゃんもリョーちゃんの前で撮りたい!撮って!!」
晴子と彩子の写真を撮ったアンナが今度は、リョータのポスターを指した。
「え〜、いいわよ〜」
「ほら、彩子さん、行きましょう」
「撮るなら早くしろよ」
はしゃぐ3人に痺れを切らした三井が声を上げた。三井は宮城から女子の護衛を任されていたのだ。
「三井先輩も映ります?」
「は?いいよ、俺は。早くしろよ」
口は荒くとも、ちゃんと待ってくれているあたり面倒見のいい人だと思った。
彩子は撮影した写真を確認しながら、自分の恋人なのに遠い存在に思えてうまく笑えなかったことを悔いた。流川の写真の前では笑えているのに、リョータの写真の前では表情が固かった。
4人は招待されていた関係者席へ向かう途中、すれ違うファンに「三井選手だ」と何度か気付かれた。代表には選ばれなかったものの、三井も選手として活躍している。流川だけでなく、リョータも選抜された今回は流石に悔しかったようで「俺もあの期間が無ければ」と嘆いていた。女子3人を引き連れた三井が席へ着くと、前に座っていた坊主頭が振り返った。
「遅かったな、色男」
「はぁ?うるせーな、こいつらはそんなんじゃねーよ。宮城の妹と彼女、こっちは赤木の妹だよ」
「こんにちは。席変わりますか?前が俺たちじゃ見づらいでしょ」
「大丈夫です!見えます!!」
3人の中で一番体の小さいアンナが元気よく断りながら、体を左右に動かして見える位置を確認した。彩子はどこかで見た顔だな、と声をかけてきた相手の顔をじっと見た。
「赤木の妹?」
赤木の妹という言葉に興味を持った隣の体格の良い男も振り返り、男は首を傾げた。
「いねーだろ。誰も似てねぇ。適当なこと言うなよ、三井」
「うるーせーな、コイツだよ」
三井が怒鳴ると、晴子は小さく手を上げた。
「嘘だろ?」
「あ、兄がお世話になってます!」
少し緊張した様子の晴子を見て、彩子はバスケ関係者のうち誰だったかと必死に思い出していた。
「赤木は?」
「後から来る予定です。席は別ですけど」
彩子が思い出せないでいると、その様子を察した三井に「山王の河田と松本、お前もっと国内の選手も興味持てよな」と小突かれた。山王というキーワードで彩子の記憶が蘇る。おそらく2人と、その横に座るのも山王の関係者だろう。今回、沢北と対戦当時キャプテンだった深津も選抜入りしている。国内でも評価の高い河田は昨シーズン中に怪我をしたため今回は代表を辞退していたと聞く。同じポジション同士、赤木とのライバル関係を継続している。松本も選手として活躍しており、三井とは同じ大学だったので2人は交流があると聞いた。その2人さえ、見てすぐに気付けないほど彩子は学業とバイトが忙しく、国内選手に疎くなっていたのだ。
「あれ?宮城の彼女ってことは、アメリカで沢北に飯作った女か?」
河田の興味は彩子にうつったようで、松本も彩子に視線を移した。
「あぁ、そんな事もあったな。すみませんね、ウチの後輩がワガママで」
2人の話しはかつて、アメリカの宮城の家へ行った際「俺もアヤちゃんの手料理食べたい!女子の手料理!日本食!」と沢北が泣いていた。そんな沢北も宮城は「アヤちゃって呼ぶな、帰れ!」と追い返そうとしていた。彩子は日本のエースの意外な姿に驚きつつも「2人分も3人分も変わらないからいいわよ」と言った。沢北はガッツポーズをして、その後ろを宮城は蹴っていた。2人が交流のあることは彩子も聞かされていたが、まさか家に来ているとは思わず驚いた。リョータはいつも彩子の料理をどこが美味しいのか細かく教えてくれたが、沢北のいる時は恥ずかしかったのか「美味しい」よりも「それ食ったら帰れよ!」と言い続けた、なんてことがあったのだ。
「そんなこともありましたね」
少し照れて唇を尖られせた彩子に、河田と松本が笑った。
「アイツも寂しがり屋だからな、宮城が仲良くしてくれて良かったよ」
「あとはアメリカにいるの流川だろ?流川は連絡先も教えてくれないって話しだし」
「まぁ、流川だしな」
皆で話していると、会場に歓声が響いた。試合前のウォームアップの為、選手たちが会場内へ姿を現したのだ。
「リョーちゃーん!!」
関係者席の為、静かにしていた方がいいだろうと思っていた彩子と違い、アンナは大きな声でリョータを呼んだ。聞き慣れた声のする方を向くリョータは、手を大きく振るアンナが少し恥ずかしかったようで眉間にシワを寄せた。それから、アンナの隣の彩子に小さく右手を振った。すると、宮城の反応に気付いた沢北が近付き2人で何か話している。おそらく、雰囲気的に「誰か来てるの?」といったところだろう。恐らくリョータは「教えない」と返事したのだろう、冷めた目で沢北を見ると、沢北が悔しがっているようにも見えた。彩子は沢北の招待客とリョータの招待客は席が近いので、すぐバレるだろう。と、思った。
実際、すぐにバレて沢北は河田たちに一礼をしたあと、ふにゃりと緩んだ表情で彩子に手を振った。彩子も戸惑いながら小さく手を振り返すと、リョータがすかさず沢北を彩子が見えない位置へ移動させた。今度は、流川にみんなが来ていることを知らせたようで、2人で並んで手を振ったので、彩子たちも振り返した。晴子は真っ赤な顔をして喜んでいた。場内のモニターにも、リョータと流川が2人並んで手を振る姿が映し出され、黄色い歓声が上がった。
格上相手の試合だったので、勝敗は残念な結果だったが、これまで大敗だった相手に一度はリードした。日本選手全体のレベルが上がったと場内は興奮に包まれていた。
得点源として活躍したエースの沢北、流川はもちろんその2人をうまく使ったリョータも高く評価された。「アメリカでは沢北選手と一緒に練習したこともあるそうですし、流川選手とは高校の先輩後輩ですからね。宮城選手は小柄ですが、フィジカルは強いですし、なんたってスピードがありますね」「彼のような小柄な選手の活躍はこれからバスケをする子たちの希望になるじゃないですかね?今回、初選抜でしたがこれからも注目ですね」場内モニターに映る解説者たちのコメントを聞きながら彩子は「何か知らない人みたい」というアンナの言葉を思い出していた。
試合後、関係者たちは楽屋で会う予定はあったが、活躍により取材を受けるリョータは忙しく簡単な挨拶をする程度だった。ずっと取材のカメラも回っていたので、リョータは彩子の前でいつも見せる甘えた表情を見せることは無かった。
『アヤちゃん、どうだった?』
頬を緩ませ、笑顔で尋ねるリョータを想像していた彩子は自分を置いてリョータだけ大人になったような気がした。
彩子はその夜、一緒に見に行った三井たちと、後から合流した赤木と木暮と軽く夕飯を済ませ帰宅した。未成年のアンナは三井が送るよう宮城から頼まれており、赤木兄弟は二人共実家へ帰ると言うので、彩子は木暮が送ってくれる事になった。
「木暮先輩、ここまででいいです。私、一人で帰れますし」
「いや、そういうわけにはいかないよ。俺が宮城に怒られちゃうし」
彩子の使う駅の手前に木暮の使う駅があるため、木暮は遠回りで帰ることになるのだ。
「三井先輩ならともかく、木暮先輩には怒りませんよ、アイツは」
「そうかもな。じゃ、俺がもう少し今日の試合の感想を話したいから、もう少し付き合ってくれよ」
木暮も後輩の活躍は嬉しいのだ。自身はすでに競技から離れてはいるが、ファンとして仲間たちの活躍を楽しんでいる。
「そう言われたら、断れないじゃないですか」
「ありがとう」
高校時代と変わらず、優しく、賢い人だと思った。
「しかし、宮城もアメリカ行くとは思わなかったし。それ以上に、彩子と付き合うと思わなかったよ」
「ちょっと、先輩、それは今日の感想じゃないですよね?」
「ごめん、でもさ、宮城は昔『試合に勝ってアヤちゃんを喜ばせたい』って言ったんだ」
懐かしい話だと思った。彩子だって確かにチームが勝てば嬉しかった。
「でも、俺は最初に聞いた時、そんな理由で?って思ったんだ」
木暮は遠くを見ながら笑っていた。
「俺は元々、体力づくりのためにバスケ始めて、赤木に出会って、赤木の全国制覇って夢を隣で見させてもらってたけどさ。赤木の全国制覇と、宮城の好きな人を喜ばせたい、って思いの差が面白くてね。でも、2人がいたから湘北は全国に行けたんだ」
彩子は湘北が初めて全国への切符を掴んだ2年の夏を思い出した。あの夏は本当に暑かった。
「宮城は今でも、試合に勝って彩子が喜ぶのを見たいだろうし、自分が好きなことをして、自分の好きな人を喜ばせられるって凄いことなんだよ。大人になるとわかるけど、夫婦だってカップルだって、同じものが好きってわけじゃなだろ?」
「それは、そうですね」
「だから、俺はバスケ部で知り合った2人が付き合ったって聞いた時は嬉しかったよ」
彩子は木暮の話しを聞きながら、今日の試合は結果的には負けはしたが、もっとリョータの活躍を喜んだ方が良かったのではないか?どうして喜べなかったのだろうか?と思い始めた。
もっと喜んでくれる女性は他にもいるんじゃないだろうか?
もし、自分よりもバスケに詳しい女性がリョータの近くにいたら?
そういえば、今日してた赤いピアス、初めて見たな。
その日の夜、彩子の元にリョータからメッセージが届いた。
『お疲れ様。今日は来てくれてありがとう。連絡遅れてごめんね、取材とはいろいろあって。今、ホテル戻ったところ。電話したかったけど、アヤちゃんもう寝てるかなーと思ってメールしたけど、返事はしなくていいからね!試合負けちゃったけど、出れて良かったよ。せっかく招待したのに、試合に出れなかったらどうしようと思ってドキドキだったよ。明日、会えるの楽しみにしてる。おやすみ!』
彩子はまだ起きていたので、メールを返すこともできたが、そうすることができなかった。
いつの間に、気遣いのできる男になったんだ。高校では授業サボってばっかだったくせに、売られた喧嘩は買って何回も問題起こしたくせに、何で一人で勝手にいい男になってるんだよ。彩子は悔しくて、声を抑えながらベッドに置かれたクッションを殴った。それから、深いため息をついて、立ち上がるとクローゼットを開けた。
明日はリョータとデートだ。
待ち合わせは昼過ぎ、夜の便でアメリカへ帰るリョータに合わせてターミナル駅だった。
この日、彩子はリョータとの待ち合わせに初めて遅刻した。遅刻といっても、集合時間には間に合ったのだが、リョータより後に着いたのは初めてだったので、これは彩子にとって遅刻なのだ。
「お待たせ」
「アヤちゃん!全然」
彩子はリョータの右手で揺れるコーヒーの残りが半分くらいであることに気付き、途中で買ったのではなく駅に着いてから買ったなら、結構待たせていたのだろう。と、思った。
「早く着いたの?」
「んー、前の用事とかもあってちょっとね。その靴、初めて見た。かっこいいね」
「うん。今日下ろしたの」
彩子は笑って、フラミンゴみたいに片足を上げた。赤いパンプスは8センチと高いヒールで母からの誕生日プレゼントだった。「いい女ならヒールを履きこなしなさい」と。ヒールでの片足立ちはバランスを保つのが難しく、彩子はすぐに足を下ろした。
子供のころから、おしゃれは好きだ。華やかなアクセサリーやスタイルを良く見せる服、中でもカッコいい高いヒールに憧れた。高いヒールで颯爽と歩く母は格好良かった。
「歩きにくくない?大丈夫?」
「うん、あ、多分」
彩子は何となく、自分はまだ高いヒールを履き慣れていないことをリョータに悟られたくなった。「そっか」と宮城は小さくつぶやくと駅ビルの地図を出して指さした。
「今日、ここのカフェ予約してあるから。あんまり歩かないと思う」
「お店予約ありがとね」
「逆にごめんね、俺が決めちゃったから。行きたいとことかあった?」
「今は特に無いし、大丈夫よ」
どこに行くかより、誰と行くかの方が彩子にとっては重要だが相手が調子に乗りそうなので言うのは止めた。
「昨日の今日だから、個室とか落ち着いてる店が良くて。アヤちゃんにちゃんと言いたいあるし」
「え?」
そういえば、今日のリョータはキャップにサングラスをしており、気付かれないよう変装しているのかもしれない。普段からファッションにこだわりのあるリョータなので、ただ気分だっただけかもしれないが。
「あ、何でも無い!久しぶりだから、2人でゆっくりしたいな〜、とか思ってさ」
「そう。じゃ、行きましょう」
そう言って歩き出すリョータの靴は見覚えのあるスニーカーだった。見覚えも何も彩子も同じものを持っている。前にお揃いで買ったものだからだ。
2人のデートはアクティブなことが多かったので、動きやすいスニーカーで出掛けることが多かった。付き合って1年の記念日にリョータが何か贈り物をしたいと言ったが彩子は「高いアクセサリーはいらない」と言った。それから、それでも何か贈りたいリョータも引かなかったので、お揃いのスニーカーを買うことにした。初めての年は恥ずかしくて色違いにした。その次からは、リョータのアメリカ行きも決まっていたので、恥ずかしさより、お互いを感じられる何かを増やしたくて全く同じデザインのスニーカーを買った。今日、リョータが履いているのは前回の記念日に買ったスニーカーだった。
「俺もおしゃれな店とか詳しくないから、行ったことないけど、カフェ好きな友達に教えてもらったんだ。女子同士で行くのも人気だって」
「へぇ」
初めて履く高いヒールは歩きにくく、足の指先がジンっと痛み始めた。彩子は足が気になって、リョータの話しに集中できず目線を下にしたまま軽い相槌を返した。
お店までは、エスカレーターを使ったのであまり歩かずに済んだし、お店に着くと、リョータは予約していることを伝えスムーズに席に通された。ホールの席はテーブルだったが、個室はよりリラックスできるよう掘りごたつ式になっており、2人は靴を脱いで個室へ入った。パンプスの彩子はすんなり脱げたが、スニーカーのリョータは靴紐を解くのに少し手間取っていた。
彩子が先に席に着くと、リョータは正面に座り、キャップとサングラスを外した。ヒールを履いている時は、彩子の方が少し高かった目線も座るといつも通りになった。
「がっつり食べる?お昼食べた?」
リョータはメニューを彩子が見やすいように広げた。本人も行ったことは無いと言っていたので、メニューは知らないはずだと思い、彩子はメニューを取って横に広げ直した。これなら、2人とも見やすさは同じだ。
「朝が遅かったから軽くでいいかな。リョータは?」
「午前中さ、面倒くさい打ち合わせだったから甘いの食べたい」
「そういうのも仕事のうちよ」
「わかってるけど……頭使うの苦手なんだよ」
「それも知ってる。デザートにパフェあるわよ。これ、苺いっぱい乗ってる。好きでしょ、苺」
彩子はテストの度に大騒ぎしていたころのリョータを思い出した。あの頃はまだ、付き合っていなかったし、好意的に思われていることはわかっていたが、告白されたわけでもないし、仲の良い部活仲間として接していた。何かと手がかかるので、同級生というより後輩や弟のように思っていた。それが今では世界を舞台に活躍するバスケ選手になったのだ。
「うん。苺も好き」
メニューを持つ彩子の手にリョータの手が重なる。
「失礼致します」
タイミングが良いのか悪いのか、お冷とおしぼりを持った店員がやってきた為、リョータは手を引いた。店員はマニュアル通りのセリフだろう、注文が決まったらベルで呼ぶようお願いをして去って行った。リョータは少し気まずそうに頬を掻いた。
「私、決まったから。リョータは?」
「あ、ごめん。すぐ決める、えーっと……」
彩子はメニューをリョータに向け、自分は届けられたお冷を飲んだ。何だかリョータに対して、これまで「ほっとけない」とか「私がいないとアイツはダメ」だなんて思っていたのに、それは自分の勘違いだったのかもしれない。バスケを続けられて、しかも、海外留学や代表として招集されて。もう、自分が知っているリョータではないように思えた。自分がいなくても、むしろ自分がいないほうがもっと自由にバスケできるんじゃないか?
モヤモヤとした感情に思考が支配されると、さっきまで無理して歩いた足も痛みだした。軽く体を傾け、手を伸ばしてふくらはぎを擦った。その間に、リョータはメニューが決まったようでベルに手を掛けてから「いい?」と尋ねてきたので、彩子も頷いた。呼び出しからすぐに店員が現れ注文した。店員が戻るとリョータは一度彩子を見てから、気合を入れるかのようにお冷を大きく飲み込んだ。
「大学行くとき、ヒール、結構履いてるの?」
「いや、スニーカーの方が多いわよ」
「そっか。今日さ、靴、同じだったりしないかな〜、と思ってたけど違ったね」
「お揃いにしたかったなら言えばいいのに」
「いや、アヤちゃんが着たい服とか先に決まってるかなー、と思って」
何着ても似合うし、可愛いけど。と、デレっと目尻を下げながら付け足した。彩子は「そりゃどーも」と返した。
「俺はヒール履いたこと無いからわかんないけど、やっぱ足疲れる?」
リョータは、今日会ったときからずっと彩子の体調を気にかけてくれている。
「そりゃスニーカーよりはね。それに、ヒールでも履き慣れてるやつとか、ヒールの高さでも変わるんだけど、今日履いてたのは、今日下ろしたからね。流石にちょっとね」
「そっか、帰りは一緒に居られないし、気を付けてね」
「うん」
2人の間に珍しく沈黙が流れた。いつもなら試合の感想や日常の出来事、直接話せる時間の少ない2人は会話が尽きないのだ。彩子はチクチクとした嫌味を言ってしまいそうで言葉が選べなかったが、リョータまで黙っていることが気になった。
「リョータ、疲れてる?」
「ん?や、俺出番少なかったし。試合のあとの取材の方が疲れたかも」
リョータの乾いた笑いが終わるとまた沈黙が訪れた。お冷の氷がカランと溶ける音と、他の席から漏れる笑い声。2人以外から発せられる音だけが流れた。その沈黙を破ったのは彩子だった。
「あ、あのね、アンナちゃんとお母さんからプレゼント預かってたの」
「プレゼント?」
彩子はバッグの中からスポーツブランドのロゴの書かれた袋を出した。
「初選抜祝だって。練習用のTシャツ」
「おぉ〜!」
家族とは距離が離れてからの方がちゃんと喋れる、と言っていたリョータは照れながら笑った。
「アンナちゃん、関係者席で一番喜んでたわよ」
「アイツはちょっとハシャギ過ぎだったろ。コートからもめっちゃ目立ってた。前デッカかったのに」
山王出身で今の選手として活躍する屈強な男たちの後ろでもアンナは人一倍目立っていた。
「アンナちゃん帰りに河田さんに気に入られてね、連絡先教えろって言われてたわよ」
「えぇ!?」
リョータは彩子や晴子ばかり周りの男性から声をかけられるのでは?と心配して三井にボディガードを頼んだが、まさか妹が声を掛けられるとは思ってもいなかった。まだ子供だと思っていたから。
「結局、三井先輩経由でやり取りする事になったけど。アンナちゃん元気だから応援にきてほしいんだって」
「そういう事か……」
大きな大会でも満席になることの方が珍しいバスケでは、地方チーム同士の試合は空席の方が多い場合だってある。いわゆる動員という事だ。「宮城妹、お前は元気だから今度ウチのチームの応援に来いや」とアンナに言った河田を思い出して彩子は笑った。アンナは「ペアでチケットくれたら考えてあげよう」と強気に返事をしたのだった。後に三井が「お前、ペアって誰と行くつもりなんだよ。相手いんのか?宮城に言わねーから俺には教えろよ」と何度も言われていた。後から彩子と晴子でアンナにこっそり聞いてみると「決まった相手はいないけど、1人で行くのは寂しいじゃん。面白いから三井さんにもリョーちゃんにも内緒ね」と笑っていた。笑った顔が、リョータとそっくりだと彩子は思った。
「でも、まさか日本代表に選ばれるなんて凄いね、リョータ」
実際、同世代の沢北や後輩の流川はずっと前から代表として活躍している。リョータにとって身近な存在の活躍は刺激になっていた。
「ありがと。でも、今回のはお試しみたいなモンだろうから、これからかな。もっと大きい大会とかで呼ばれるようにならないと」
恋人の活躍を彩子も喜んでくれるだろうと、リョータが顔を上げると、予想外に彩子の表情は暗かった。
「アヤちゃん?」
彩子は俯き、大きなため息をついた。
「何かさ、無理に私に合わせなくていいから」
「え?何の話……」
「これからもっと活躍して、注目されるんだもん、バスケで忙しいのに遠距離恋愛なんて大変じゃない」
彩子だって別れたい訳じゃない、でも、今の自分では不釣合いなのでは?と不安なのだ。いっその事、バスケに集中したいから、もっといい人ができたから、自分からは離れられないのに相手に任せようなんてズルいのはわかってる。でも、今は背伸びしたって、高いヒールを履いたってリョータに届かないと感じてしまう。気まずい雰囲気の中、届けられたサラダは店員が手前に置いてすぐに戻っていった。『あそこの個室、シュラバだよ』なんて噂されるかもしれない。
リョータは無言でサラダを2人分に取り分けた。
「別に俺だって、遠距離恋愛がしたいわけじゃないし。たまたまそうなっちゃっただけだし。めちゃくちゃ心配だよ」
2つのうち、盛り付けがキレイな方を彩子に渡した。
「でも、やれるとこまではやってみたいし。俺が途中で泣きながら帰ってきたらアヤちゃんはどうする?」
「引っ叩いて、アメリカに送り返すわね」
いただきます、と小さく手を合わせてサラダを食べ始めた彩子は視線をサラダに向けたまま即答した。リョータが目を丸くして驚いてから、口元を緩めた。
「良かった〜。それでこそ、俺のホレたアヤチャンだな〜」
リョータは顔に手を当てながら、後ろの壁に寄りかかった。
「アヤちゃん、キレイにだし、今日だって今まで履いてこなかったヒール履いてるし……どんどん大人っぽくなってくから、俺、置いてかれるんじゃないかと思ってヒヤヒヤしてたんだぁ」
「それを言うなら、私だって!!」
カチャン、と音を立てて彩子は箸を荒く置いた。
「日本代表だよ?彼氏が!テレビに映ったり、取材されたりさ、そんなの普通ないじゃん!」
「アヤちゃん?」
「住む世界、違うなって思っちゃう、じゃん……」
彩子は今日一番大きなため息をついてから、ごめん、と呟いた。正面に座っていたリョータは立ち上がり、彩子の隣に移動してきた。2人用の席なので、横幅は狭い。
「ちょっと詰めて」
「狭っ」
片側に2人で詰めて座った。リョータは頬杖をつきながら、うーん、と唸った。
「取材とかファンサービス断るのもカッコ悪いしなぁ」
「それはカッコ悪い」
「だよね。はい、コレ」
するとリョータはポッケから小さな包を出して、彩子に握らせた。
「何コレ?」
中には赤い宝石の付いたピアスが1つだけ入っていた。
「昨日、してたピアスの片方ね。アヤちゃんが持ってて。使ってもいいし」
彩子がアクセサリーはいらないと言ったことを気にしてか、リョータは持ってて、と言った。
「赤、これルビー?」
「やっぱ赤が気合い入るし」
そう言うと右手を拡げて、掌をちらりと見た。掌を見る事は、何を意味するのは彩子は知っているのでリョータの言葉を待った。
「アヤちゃんは高いアクセサリーはいらないって言ったけど、俺は高いアクセサリーを送りたいよ」
「高いって、いくらぐらいの考えてるのよ」
「給料3ヶ月分の指輪は高い?すぐは無理だけど、送らせて。そのうち。ダメ?」
だんだんと言葉がゆっくりに、声も小さくなるのがリョータらしい。涼しい店内なのに、真っ赤な顔して額には汗も滲んでいる。彩子が返事をしようとしていると、「失礼しまーす」と声が響いた。入口を防ぐようにリョータがいるので、店員が声をかけたのだ。届けられたメニューをリョータが「俺が貰いますと」受け取ると店員は「仲良しですね」と笑った。恥ずかしくなった彩子はリョータに「戻って!」と追い払った。リョータが正面の席に戻ると、上目遣いで彩子の返事を待っていた。
「ダメ?」
「私はまだ何も言ってないけど?」
彩子は持っていたピアスを照明が当たるよう、目の高さまで上げて角度を変えながらピアスを眺めた。
「指輪、宝石入れるならルビーにして。私も赤は好きだから。湘北の色で思い入れあるし」
彩子がじっとリョータを見つめる。リョータはまだ真っ赤なままだ。
「入れる、とびきりキレイなのいっぱいいれる!」
「いっぱいはおかしいでしょ」
「あっ、そうだよね」
リョータは照れながら笑った。その表情は高校の体育館で初めて話しかけられた時と同じだった。
あの時から、大分時もたって2人の関係は部活仲間から恋人に変わった。リョータだって少し背が伸びたし、彩子は化粧が得意になった。変わっていくことも当然あるのだ。でも、彩子を見つめるリョータの目を見て彩子は思った。
「アンタって、ホント私のこと、好きね」
リョータは彩子を追いかけようが、先に走ろうが、結局は隣に落ち着くのだ。
「うん。大好き」