スポットライトは眩しすぎて「アンナ、大きくなったらソーちゃんと結婚する〜」
幼いころの夏の日、風呂上がりソータに髪を拭いてもらうアンナは「ありがとう」とお礼とセットでプロポーズした。2人の横にいたリョータが目を大きく開き驚いていた。
「きょ、兄弟は結婚できねーぞ」
「え?そうなの?」
2人の前に周りこんだリョータがアンナに注意し、リョータの焦る姿にソータは声を上げて笑った。幼いアンナには結婚とは「好きな人とずっと一緒にいる約束」だと思っているのだ。
「そうだな。それもあるし」
ソータが長い腕を伸ばして、アンナとリョータをまとめて抱きしめた。同世代の中でも背の高いソータはリョータとアンナからすれば、かなり身長差もあり、手足の長さだって違うのだ。まるで、大人と子供のようだった。
「俺とアンナが結婚したら、リョータが寂しがるからな」
「寂しくねーし」
「そっか〜、じゃソーちゃんと結婚するのやめるね」
「逆に俺が寂しいから、リョータと結婚するのもダメー」
リョータの「しねーし!」とアンナの「わかった!」が重なる。
「ねぇ、ソーちゃん」
「ん?」
「じゃ、アンナはどんな人と結婚したらいいの?」
ソータは「うーん」と唇を尖らせて悩む。
「俺とリョータよりカッコよくて、俺とリョータとも仲良くできるヤツかな?」
テレビのスポーツコーナーでバスケの特集が組まれていた。中にはアンナの兄、リョータも紹介されていた。
『宮城選手は今シーズンから国内チームに移籍するので、海外で学んだ経験を是非ほかの選手にも伝えてほしいですね』
「あーあ、結婚相手のハードル高すぎだよ、お兄様」
2人よりカッコいいってどんな男だよ、アンナはテレビの中の相手を睨みつけた。
上の兄は子供の頃に亡くなり、どんなカッコいい大人になったかわからない。
下の兄はバスケで海外留学し、海外チームでもプレー。最近、大好きな彼女の妊娠がわかり国内チームへの移籍を決めた。日本バスケ界でも注目の存在だ。
「よう、まだ産まれないんか?」
「予定日は再来月だよ、三井さん」
「ふーん」
「ってゆーか、先月の試合でも言ったよね?」
「いいだろ別に。俺も心配してんの!あーあー、お前もオバサンかぁ」
「オバサンって言わせません〜。アンナちゃんって呼ばせます〜」
試合観戦に来たアンナは地元チームで活躍する三井に呼び止められた。2人が話す姿にファンが「彼女?」「妹じゃない?」「違うよ、宮城選手の妹」「あ〜、似てる〜」「つか、湘北仲良しだよね」「宮城選手の結婚相手も湘北のマネージャーなんでしょ」とざわついた。慣れっこのアンナはその話を聞き流した。
リョータが2年の時の湘北バスケ部でスタメンだったメンバーは大人になった今でもバスケを続けているので、日本バスケ界でも注目の存在だった。
「三井!行くぞ」
「おぉ!じゃーな、アンナ。また来いよ」
チームメイトに呼ばれた三井はアンナの頭をぐしゃぐしゃと撫でると去って行った。
「うん。じゃーね」
何かを思い出した三井が足を止め、振り返った。
「あ、安田にもヨロシクな」
「うん」
アンナは今日、ヤスと試合を見に来ていた。
神奈川に来て馴染めなかったリョータは、ヤスと仲良くなったことにより中学でバスケ部に入った。その後、同じ高校へ進み、高校でも2人ともバスケ部に入った。ヤスは控えではあったが、3年時は副主将として主将のリョータと共に曲者揃いのチームをまとめた。アンナにとっても、兄がバスケを続けられたのはヤスのお陰だと思っている。ヤスは宮城家にとって恩人のような存在だった。
リョータが家を出てからは、アンナとヤスが会う機会も減ったが2人は同僚として再会した。リョータを通して、アンナが希望してる仕事にヤスが就いていることは知っていたので、直接連絡を取る機会も増えた。アンナが働き初めてからは、同じ仕事となれば、休日も同じ。休みの日は2人でバスケ観戦することも増えた。
「ヤスー!三井さん、行っちゃったよ?」
「あ、ごめん。ちょっと電話長引いちゃって」
仕事関係の電話を受けていたヤスがアンナの元に戻ると、すでに三井たちは去った後だった。
「何かあった?」
「あ、うん。でも、呼び出されたわけじゃないし。週明けで大丈夫」
「週明けで大丈夫な件、電話してるくなっつーの」
「まぁ、当番はいるからね。今日、当番が同じ部署の人だから。こういう時って連絡入りやすいじゃん」
「確かに」
2人は他愛のない会話をしながら、会場を後にした。
昼休み、売店にパンを買いにきたアンナは昨年まで同じ部署だった同僚に話しかけられた。
「ねぇ、宮城ちゃんって安田さんと付き合ってるの?昨日、バスケの試合観に行った福祉課の人たちが2人を見たって」
同僚は周りに聞かれないよう、トーンを落としたがアンナはいつも通りのトーンで返した。
「えっ?あぁ、安田さん、兄の友達で学生時代はチームメイトだったんですよ」
同僚もこれは何も無いと判断したのか、いつも通りのトーンに戻した。
「えー、あのプロのお兄さんの?えー、安田さんもそんな凄い人だったんだ!」
「まぁ、安田さんは控えでしたけど」
アンナはニヤリと悪い顔で笑った。
「そっか。でも、凄いよ。全国大会とかも行ったって事でしょ?」
「私も当時の試合は直接見てなくて、兄から聞いただけですけど控えって言ったって試合にも出たし、高3の時は兄が部長で安田さんが副部長だったんですよ」
「えー、そうだったんだ。そういうのさ、私だったら自慢しちゃうな〜。安田さん、謙虚だよね。」
「普通は自慢しますよね。私も自慢してますし!ウチのお兄ちゃん凄いんですよ!って」
「確かに。宮城ちゃん、家族の写真をデスクに飾ってるもんね。お兄さん、うちの町のスターだし」
「はい」
市役所で働く、アンナの同僚にとって宮城リョータは地元のスターとして有名なのだ。
アンナが公務員を目指したのは、バスケで海外まで行った兄の存在がもちろん大きい。
自分は第2のふるさと、神奈川に残りながら働きたいと思った。おまけに兄と違い、飽きっぽい性格で1つの事が長続きしない。公務員なら部署異動は定期的にある為、ずっと同じ仕事内容をしなくてもいいという事を知った。
教えてくれたのは、先に公務員として働いていたヤスだった。アンナと違ってヤスは地元の、特に子供たちのスポーツや健康を支援したいと、公務員を目指した。残念ながら、これまで関わる部署に配属された事は無いが。しかし、学生時代にバスケで全国大会へ行ったということは知られており、力仕事の際は、別部署の仕事にも駆り出されている姿をアンナもよく見かけた。
アンナが2年目の春、2人は部署は違うが同じフロアとなり良く顔を合わせるようになった。そうして、実はヤスがモテているということを知った。
身長こそ平均を下回るが、優しく誠実な人柄で、それなりにノリも良く冗談にも乗ってくるヤスは「結婚相手として理想」と人気なのだ。
アンナは「今更気が付いたのか。ヤスはずっと優しいし。リョーちゃんや花道くんたちといたらノリも良くなるつーの!」と鼻息を荒くした。最初はただ、知り合いが褒められていることが嬉しかったが、だんだんモヤモヤとした気持ちも増えていくようになった。
まぁ、すっごい好きってワケじゃないけど、付き合えないことは無いかな?
ヤスはヤスで私のことは妹みたいに思ってるだろしな〜
でも、リョーちゃんの試合はこれからもヤスと行きたいしな〜
そんな事をぼんやり思いながらアンナは携帯から義姉となった彩子にメッセージを送った。
『体調どう?明日、帰ってくるんでしょ?』
『ありがとう。体調は大丈夫だけど、それよりリョータがウルサイのがストレス。胎教に悪い』
『何かゴメンね。必要なものあったら届けるから連絡してね!』
『ありがとう!頼もしい妹で助かるわ』
彩子から送られるハートマークは後で兄に自慢してやろうと思ったアンナは、携帯に向かって片方の眉毛だけ上げて小さく笑った。
間もなく、第一子を出産予定の彩子が出産準備の為、実家へ戻るのだ。離れたくないとゴネたらしいが、試合のスケジュールで不在にする事も多いので納得したらしい。
妹のアンナから見てもわかりやすいほど、リョータは彩子に夢中だった。普通、思春期の男の子なら好きな子が誰かなんて家族に知られたくないんじゃないか?と、アンナは思っていたがリョータは家に彩子の写真を飾っていたし、家に電話が掛かってきた時は他の人なら居留守を使うくせに、彩子からの電話は必ず出ていた。
リョータが高2の夏、全国大会の試合を見に行った母が「彩子ちゃんもリョーちゃんのこと好きかも?」「特別に応援してくれてたのよ」なんて笑っていた。数年後、リョータがアメリカ留学に出発する際、搭乗口ぎりぎりまで付き添ったのは家族でも親友のヤスでもなく、彩子だった。
その後、国をまたぐ超遠距離恋愛でも愛を育み、昨年2人は入籍した。お祝いパーティーでは湘北メンバーを始めリョータのバスケ仲間が集まったので、アンナは首が疲れたのを覚えている。最初は「変なのに絡まれないよう側にいろよ」と男前な事を言った三井はすぐにお酒に潰れて役に立たなくなった。結局その時も、知らない人に話かけられてはヤスが「今のチームの関係者だよ」とかフォローをしてくれた。パーティーではブーケトスも行われたが、ブーケを取ったのは投げられた物は取りたくなる習性と常人離れした運動神経を持つ桜木だった。本人も「しまった!つい!!」と頭を抱え、彩子の友達に睨まれたが、アンナは後でこっそり晴子にプレゼントしてるところを見てしまった。まだ他の人には内緒にしている。
彩子が実家に戻り、数日たった頃だった。
「宮城さん、おはよう」
「ヤス……田さん、おはようございます」
出勤時にヤスに会ったアンナは職場のルールに合わせて名字でヤスを呼んだ。普段はアンナちゃん、と呼ぶヤスも宮城さんと呼んできたからだ。
「週末の飲み会、参加?」
「その予定、です」
ヤスは「そっか」と微笑むと、少し体を寄せて小さな声で言った。
「職場の飲み会でアンナちゃんと一緒になるなんて、変な感じ」
アンナも「確かに」と笑った。
「帰り遅くなったら、送るから言ってね」
「うん。ありがとう」
その週末、フロア合同で行われた飲み会に参加したアンナは普段真面目な上司の酒癖の悪さに驚いた。恐らく、事前に知っていたであろう先輩たちはうまく逃げて、逃げ方のわからないアンナとアンナの後輩にあたる新人女子の2人で捕まった。
アンナは「知ってるなら教えてよ」と苛立ったが、自分が逃げれば後輩1人が絡まれる事態になるので、逃げるわけにもいかず、上司のつまらない昔話を聞かされていたのだった。座敷での正座に脚は痺れ、自慢話も底をつき、2周目に入った時だった。
「あ、すみません」
ゴトっと音がして、アンナと上司の間にグラスが落ちた。驚いたアンナが見上げると、そこにいたのはヤスだった。幸い、中身は少なく、グラスも割れなかったが、こぼした飲み物を拭くために上司とアンナの間にヤスは自然に入り込んだ。
「申し訳ありません、あ、ごめん、宮城さんもハネちゃったね」
「え?」
アンナは特に濡れたとは思っていないが、これはヤスがくれたチャンスだと思った。
「染みになると大変だから、トイレで拭いてきた方がいいよ。後ろで見辛いから、一緒に行ってあげて」
ヤスはアンナの後輩に向かって「お願いね」と軽く頭を下げた。
「ごめん、お願いしていい?すみませんが、ちょっと失礼します」
後輩はまだ状況を飲み込めていないようだが、アンナが声をかけ、2人で立ち上がった。その間、ヤスは上司に「濡れてないですか?」「すみません」と足止めしてくれたのだった。
「宮城さん、後ろ、濡れてないですよ?」
「あ、やっぱり?あれ、安田さんがウチらを逃がす演技だよ」
女子トイレに逃げ込んだ2人は、並んでため息をついた。
「酔うとめんどくさくなる人いるって知ってたけど、上司だと逃げにくいね。私も勉強になったわ」
これまでの飲み会に参加したことはあっても、同世代の友人ばかりで、酔ってもどれも笑い話になるものばかりだった。
「私も飲み会自体、慣れてないので」
「次はさ、酔っても面倒くさくない人の近くで参加しようね!」
「はい」
不安そうな後輩の肩をアンナが叩くと、後輩は強く頷いた。
2人が宴会場へ戻ると、上司は別の部署の上司と飲んでいたので2人は女子の先輩の近くへと向かった。
「も〜、あの人が酒癖悪いの知ってたら教えて下さいよ〜」
「あ〜、ゴメン、ゴメン。これも社会勉強じゃん?ま、ヤバそうだったら助けようか?ってみんなで言ってたら安田くんが助けに入ったし。それに、あの人は喋りは面倒だけど、お触りはしないから」
アンナより10歳以上の先輩はケラケラと笑うが、まだ飲み会に慣れてないアンナと後輩にとってはこの先輩の態度すらショックであったが、最後の一言には少し安心した。すると先輩は、2人を手招きし「ホントに注意が必要なのは、アレとかアレだから」と視線で教えてくれた。
1人はイケメンと人気の30代で、最近子供が産まれたと部署からお祝いを送ったはずだ。もう1人は40代の独身だが、見た目は20代でも通じるくらい若々しく、美人で若い彼女がいると噂だ。
「男って信用できないですね……」
アンナがその2人を睨めない代わりに先輩を睨むと、先輩は「宮城ちゃんは面白いね〜」と笑った。
「それにしても、安田くん、度胸あんね。あれ、ワザとでしょ?」
「はい、多分」
「普通できないよ?だって、上司相手だよ?」
「安田さん、兄の友達なので。昔からの知り合いなんです」
先輩は目の前の揚げ物をつまみながら、目を丸くした。
「へぇー、大切にされてんだね」
その日は二次会は無く解散となったので、アンナは1人で帰った。ヤスは心配してメールをくれたが、まだ人の多い時間だし、この状態で2人で帰ったら何を噂されるやら、と心配になったアンナは丁重にお断りし、帰宅したら連絡することを約束した。
帰宅したアンナがヤスに連絡すると、ヤスからの返事にアンナの頭にはハテナが浮かんだ。
『お疲れ。無事に帰れて良かったよ。こっちも無事に送れたから、俺はこれから帰宅だよ』
『送れたって?』
アンナが尋ねると、ヤスがアンナの後輩を送っていたことを知らされた。
「男も女も信用できね〜!!」
アンナは枕に向かって叫んだ。
彩子の元を訪れたアンナはノンカフェインの紅茶を飲みながら、彩子とのおしゃべりを楽しんでいた。仕事や共通の知人の話をしていくと、当然ヤスの話にもなった。
「ヤスって年下好きですかね?」
「さぁ?前の彼女はタメだったよね?何で?」
「実はヤス、職場でモテてるんですよ。彼氏っていうより、結婚相手にいいよね?みたいなガチめのヤツで」
「それは友達としては誇らしいわね」
彩子は大きくなったお腹を撫でながら笑った。
「いや、今、私の後輩も狙ってるんじゃないかと思ってですね……」
「ヤッちゃん、今はフリーだしいいんじゃない?その子が、本気なら、だけど」
アンナはこれまでに感じたことのない思いを感じていた。嫉妬、といえば簡単だが、自分がヤスを好きとも認めていない。図々しいではないか。
「本気かもわからないし、いい子はいい子だけど、ヤスとは違う、ような?」
首を傾げるアンナに彩子は口を大きく開けて笑った。彩子と結婚してから、リョータも口を大きく開けて笑うようになった、とアンナは思った。
「あるよね、何か、そういうさ、うまく説明できないけど合わなそうだな、って思うやつ」
「彩子ちゃんもあったの?」
「うーん、私の場合は相手が、っていうよりタイミングの問題だったけど」
アンナはその相手が恐らく、いや確実にリョータだと思うとそれ以上はその話を振れなかった。
久しぶりに後輩とお昼が一緒になったアンナは、思い切ってヤスのことを聞いてみた。
「あぁ、はい。確かに、あの日は1人で帰るの嫌だったしお礼も言いたかったので、安田さんに送ってもらいましたけど」
アンナの予想では、ヤスを狙っていると思っていた後輩は照れたりせずに淡々と答えた。この様子では、アンナの予想は外れで、この後輩はヤスに特別な感情は持っていないと思った。
「先輩たちが言う『彼氏っていより結婚相手にしたい』っていうのはわかる気がしましたけど、私はまだそこまで考えてないですし。彼氏もいますし」
「あっ!?彼氏、いたの?」
「はい。ここの人じゃないし、私、プライベートな事でいじられるのイヤで。あんまり言わないようにしてるんです……」
自己主張はせず、静かな後輩だ。騒がしいタイプもいる職場で、どんなタイプにいじられるかわからないし、若手はターゲットにされやすい。リスクが高いのだ。アンナはいじられる事に慣れているので気にならないが、後輩なりの対応に感心した。
「え?じゃ、何で私には教えてくれたの?」
「えー、宮城さんなら言っても変にいじってこないかな〜って」
アンナは後輩が自分に対して他の人よりも心を開いているようで、嬉しかった。
「そう?ありがと」
「送ってもらった時に安田さんが『宮城さんは初めて会った時からあのまんまだったよ』って」
あのまんま、ってどんなだよ?
「いや、そのまんまだよ。正義感が強くて、家族や友達に優しくて」
「あー、そう」
「あのまんま」とは何かアンナが問うとその答えに彩子の楽しそうな笑い声が響いた。彩子が出産予定前の最後の試合観戦の為、3人はヤスの車で体育館へと向かっていた。今日は、リョータの所属するチームと三井の所属するチームの試合で、3人にとっては外せない試合だった。
会場に着くと、一度彩子だけ下ろし、ヤスとアンナは駐車場を探す事にした。リョータから関係者用の駐車場を停めるようすすめられたが、仕事柄特別扱いを受けることは避けたいので遠慮した。
彩子が会場に入ろうとすると「アヤちゃん!」と聞き覚えのある声が響いた。試合までまだ時間があるとはいえ、選手の登場にロビーはざわついた。
「体調は?大丈夫?」
「大丈夫だから、試合見に来るんでしょうが…そっちこそ試合前に大丈夫なの?」
「まぁ、多分、信長がどうにかしてくれるよ」
リョータは笑いながら、彩子の腰を支え、反対の手で荷物を預かった。
「席まで送る?時間までスタッフルーム借りる?」
「アンタが心配するから、ヤスとアンナちゃんと来てるんだし」
彩子はため息をつきながら、腰に回されたリョータの手の甲を抓ったので、リョータは「痛っ」と声を上げた。
「ホントに私は大丈夫だから、早く戻りなさいよ」
「じゃ、せめてそこのベンチまで」
名残惜しそうなリョータが引かないので、彩子は自販機横のベンチまでで手を打つことにした。
ヤスとアンナが関係者席に座ることはできないので、彩子も2人と同じ一般席に座るとウォームアップ中からリョータが彩子ばかり見るので周りの観客からも「今日、奥さん来てるんだ」「宮城選手の奥さん」「めっちゃ見てる」と話題の的となった。リョータはインタビューでも度々妻の話をするので、ファンには有名だった。彩子の隣にいるアンナも「妹もいる」「妹、似てる」とついでのように噂された。同じチームに所属する、清田も彩子を見つけるとブンブンと大きく手を振るし、対戦相手の三井も宮城に近づくと2人で何やら話し、三井が彩子を指差すので三井の所属チームのファンが座るエリアでも「誰が来てるの?」とざわつき始めた。
彩子は少し顔を赤くし「恥ずかしっ」と眉毛を下げた。それでも、試合が始まると彩子は誰よりもキラキラした目でリョータを追っていた事を隣にいたアンナは誰よりも、それこそ彩子本人よりもよくわかったのだった。
「はぁー、いい試合だった」
「いや、良くねぇだろ、負けたんだぞ?」
「勝利の女神が来てるんだ、負けるワケないっでしょ」
試合後、少しだけ時間の取れたリョータと三井が3人の元にやってきた。結果はリョータのチームの勝利だった。
「リョーちゃん、キレッキレだったね」
兄の活躍にはしゃぐアンナにリョータは少し照れながら「まぁな」と返した。反対に負けた三井は不満そうだった。
「彩子が勝利の女神だっていうなら、明日はうちのチーム応援しろよ。地元だろ?」
「はぁ!?ふざけんなよ」
三井の発言にリョータは怒りながら、三井の尻を蹴った。彩子はその様子を見ながら「確かに、地元のチームにも頑張ってもらいたいですね〜」と笑うので、リョータは目に涙を溜めた。
今生の別れのように寂しがるリョータと離れ、彩子とアンナはヤスの車に乗り込んだ。
「はぁ、騒がし。ごめん、2人とも」
「あはは、いいよ。いつものリョータを見れて安心したよ」
「アイツ、子供産まれたらどうなっちゃうんだろ?試合集中できるんかな?」
ヤスは彩子の話をずっと嬉しそうに聞いていた。アンナは家ではクールぶっていた、兄が奥さんや子供にデレデレする姿を想像してニヤけていた。すると、ヤスが「ごめん、渋滞だ。時間かかりそう」と呟いた。原因はわからないが、車は信号が青でもほとんど進まなかった。時間にしては1分もなかったと思うが、3人にしては珍しく無言の時間が少しあってから、彩子がポツリと呟いた。
「ヤッちゃんは?最近どう?」
「どう、って?」
「そうね、仕事とか恋愛とか、何でも。一緒にいるとさ、私とリョータの話ばっかりでヤッちゃんの話聞くの少ないな、と思って」
「そうだね。2人の話の方が、俺の話より面白いからね」
ヤスは少し何かを考えていたような間を取ってからこたえた。地方公務員とプロスポーツ選手じゃドラマチックなエピソードはプロスポーツ選手の方が多い。
「最近はそうだね。楽しみといえば、観戦くらいだし。仕事もまぁ、今はこれといって難しいことも無いし。普通だよ」
アンナは最近のヤスの職場での様子を思い出した。自分の業務以外に後輩のサポートをしたり、力仕事があれば部署を超えて駆り出される。それが、ヤスにとっては普通なのか。
「でも、私からするとその普通がカッコイイのよ。普通の基準は人によって違うけど、普通を続けるって大変よ」
アンナは心の中で「いやいや、ヤスは普通以上の働きっぷりですよ」と思ったが、自分が入るより2人の会話を聞きたいと思ったので窓の外を眺めながら黙っていた。反対車線は車が流れているが、自分達の方はさっぱり流れが悪いままだ。
もしかしたら、みんな麻痺してるのかもしれない。特に兄と兄の周りの人達は。だって、アンナは1つのスポーツを続けたことが無いし、全国大会に行ったことも無い。海外留学も、日本チームの代表に選ばれることだって普通じゃないのだ。しかし、リョータはそうなのだ。リョータにとってバスケが全てで、彩子もヤスもずっと近くで支えてきた仲間なのだ。もう、リョータ以上のことを成し遂げないと『凄い』とか『カッコいい』とか思えないんじゃないか?
ソーちゃん、ソーちゃんの思うカッコいいって何だったの?
リョーちゃんがこんなことになるなんて思ってた?
アンナが目をつぶり、もう曖昧だった兄の顔を思い出していると、彩子がゆっくりと話し始めた。
「ウチはさ、結局リョータがいつかは引退するじゃない?そうしたら、その時、どうしたらいいのかな?って思うの。私も結局、ほとんど働かないまま結婚したから、社会人経験ほとんどないし。リョータだって今更、サラリーマンとか無理じゃん?リョータだよ?バスケ関連の仕事で何か声がかかればいいけど。どうなんだろうね。先の事は考えず、プレーに集中してほしいけど、子供、産まれたらさ、先のことも考えていかなきゃいけないし。あ、ゴメン、結局私が話しちゃったじゃない」
時折相槌を交えながら聞いていたヤスが「いいよ、別に。楽しいし」と笑った。
「あー、子供産まれてある程度たってるなら、リョータが主夫して私が働きに行くとか……は無いか、流石に」
「引退後のリョータが、バスケ関連で仕事就けなかったら彩子が働いた方が稼げそうだけど、リョータが嫌がるんじゃない?」
「あぁ、うん。私も思った。まぁ、その時ベストな選択をするわ。私達ならきっと大丈夫よ」
助手席のアンナが振り返ると、彩子はお腹を優しく撫でていた。きっとあの子も私達の中にもう含まれているのだ。
予定より30分遅れての帰宅となったが、彩子を下ろしてからヤスは宮城家へ向かった。この先は混んでいないので、時間にして10分程度だ。
「アンナちゃんは、最近どう?」
「どう、って、だいたい毎日会ってるからわかるでしょ?」
「あぁ、うん。まぁ、そうなんだけどね」
彩子と話す時と比べて、ヤスは少し歯切れが悪い。
「今日は疲れてるのかな、と思って。大丈夫だった?」
「あぁ、ちょっと考えごとしてただけ」
「そっか」
これが兄や三井なら「悩みがあるなら話してみろ」と言ってくるだろうが、ヤスは言わない。アンナが話したければ聞くし、話したくないなら聞かない。
「お兄ちゃんがね、リョーちゃんじゃない方のね。格好良かったな、って。どんな大人になったのかな、って」
リョータもアンナも時には面倒で『2人兄妹』と言ってしまうこともあるが、ヤスは事情も知っている。
「リョータもよく言ってたよ。『ソーちゃんは憧れだった』って」
「きっと、リョーちゃんと彩子ちゃんの子供も喜んだよ」
ヤスは人を乗せる時、音楽やラジオを流さないのでウインカーの音だけが響いた。
「そうだね。結婚式も俺以上に泣いただろうね」
「スピーチでボロボロだったもんね」
2人の結婚式でスピーチを任されたヤスは、前半こそ落ち着いていたものの後半泣き始めると涙が止まらず、最後は桜木が代読したが漢字が読めずに飛ばすのでよく意味がわからなかった。でも、いいスピーチだった。神奈川に来て、ヤスがリョータを見つけてくれて本当に良かったと思った。
「俺、ずっと思ってたんだけど。人は誰でも自分の人生の主人公だっていうけど、俺はそこまで求めてないんだ。俺の主人公はずっとリョータだな、って。だから、自分のことより泣けたんだよね」
運転中のヤスはじっと前を見ながら続けた。
「でも、最初会ったリョータってさ。その帰って来ないっていうお兄さんが主役で、リョータはその代わりを演じようとしてたんだろうね。でも、高校でスタメンになった辺りかな?ちゃんと自分が主人公の物語を始めたって感じがしてさ。嬉しかったんだ。俺はそれをずっと特等席で見てるんだ。凄いでしょ?」
信号待ちで車が止まったタイミングで、ヤスはアンナの方を向いて笑った。
大きなステージにリョータが立っていてスポットライトが当たる。その客席、最前列の真ん中に座り熱心に拍手を送るヤス。全体に挨拶するリョータはヤスに気付くと二カッと笑う。アンナはそんなイメージが浮かぶ。それから、そのイメージに自分を追加した。舞台の袖からリョータを見守る自分と後ろから自分の肩に手を置き、支えてくれるソータを。
「私も主人公は別にいいかな……リョーちゃんの人生、ドラマティックすぎて。眩しい。疲れちゃう。もっと普通のさ、私は蛍光灯の下で生活したいよ」
「そうだね、俺も生活するなら蛍光灯がいいな。さ、着いたよ」
すると、アンナのイメージの中のソータがアンナの背中を押す。「行け、今だ」と。
「あ、あのさ、ヤスは」
「ん?」
アンナはヤスの顔をじっと見つめた。
「好きな人とか、いる?」
「え!?いきなり、何!?」
唐突なアンナの質問に暗い車内でもわかるくらい顔を赤くした。
「いや、だってさ、ヤスさ、休みの日は私を試合見に行ってさ、しかも調子ならリョーちゃん達の子供産まれたら手伝い行くでしょ?そしたら、デートするヒマ無くない?」
一息なのかアンナが一気に話す間、ヤスは「ああ」や「うん」と弱々しく返事をしていた。
「だから、私と付き合うって、どうかな?」
ヤスはアンナの言葉を聞くと、聞いたこと無いくらい大きなため息をついて、ハンドルを握る手に顔を埋めた。
「ごめん」
好きと自覚した途端に告白するのもどうか、アンナも急に冷静になり「冗談だよ、忘れて」と笑おうとした時だった。
「俺からちゃんと言わせて」
後日、リョータと彩子と産まれたばかりの子供にアンナとヤスは手を繋いで会いに行った。リョータは「ヤスはカッケーからな、俺の親友だし」と嬉しそうに笑った。
ソーちゃん、これなら安心でしょ?