現代AU「≠」扶揺の初めての話 №1 寒くなったり暑くなったり、春らしく温かい日々になれば良いのにと思わずはいられない三月のある日。扶揺はぼんやりとカフェオレを作っていた。
春休みである。
時間に余裕のある朝は色々と油断しがちだ。
「扶揺」
「え、何」
「何、じゃない、牛乳が溢れている」
兄、慕情に言われて視線を手元に戻すと大きめのマグカップから滔々とコーヒーを押しのけて牛乳がこぼれていた。
急いで牛乳パックを横に置いて、扶揺はキッチンペーパーで濡れた床とワークトップを拭いた。
後始末が終わってから、焼いたトーストを乗せた皿とかろうじてコーヒーの色が残っている牛乳入りのマグカップをダイニングテープルに運んで座った。
テーブルの上にはすでにペーコンエッグとサラダが置いてある。
先に朝食を食べていた慕情が差し出したバターケースを受け取って蓋を開け、多めのバターをトーストに塗るとそのまま齧り付いた。
「食べるのはバターナイフを置いてから。行儀が悪い」
言われて、自分がバターナイフを握ったままだったことに気付いて扶揺は慌てた。
「ごめんなさい」
バターナイフを皿の上に置いて、今度こそパンを食んだ。
もぐもぐと口を動かしつつも、さっきから慕情の視線を感じて扶揺はとても居心地が悪い。
「南風と何かあったのか?」
「えっ」
「昨日帰ってきてから様子がおかしい」
「何もない」
「………」
「本当に何もなかったよ。ただ、これからの事色々考えてて」
「進路の事か?」
慕情に問われ、扶揺は首を縦に振った。
「南風が同じ大学に行きたいって言い出して」
「それで?」
「私の志望校に合わせるっていうんだ。あいつが決めることだからそれは好きにすればいいとは思うけど」
「なんだ、急に自分の将来が不安になったのか」
「不安……なのかな? よく分からないけど……。でも、漠然とこのまま進んでしまっていいのかなとは思ったりはしてる」
「そうか」
「うん」
それ以上何も言わずに朝食を食べて、皿を洗い、慕情に「部屋で勉強する」とだけ告げて、扶揺は自室に戻った。
部屋に入ってまっすぐベッドへ向かい仰向けに寝転んだ。
天井を見ながら、さっきの慕情との会話を思い出しため息をつく。
嘘は言っていない、嘘ではないけれど隠したことはあった。
南風と何かあったわけでもないのも、南風が同じ大学に行きたいと言ったことも、このまま先に進むことへの不安も本当だけれど、先へ進む事に迷いがある事は進路の事以外にもう一つあった。
昨日、南風と遊びに出かけた後いつも通り扶揺の家の近所の公園で話していた。
三十分程話して、さすがに遅くなると帰る事になったその際に南風が言ったのだ。
『今度の土曜日うちに泊まりに来ないか』
南風の家に泊まりで遊びに行くのは初めてではなかった。だから、そこで終わっていれば特に何でも無かったのに、南風は続けてこう言ったのだ。
『その日、父さんと母さんは旅行で居ないから』
南風の両親は旅行が趣味らしく、南風が高校生になってから頻繁に旅行に出かけるようになった。一人が嫌なら兄の家に行けと言うと、南風が迷惑そうに言っていたのを扶揺はちゃんと覚えている。
南風の家に泊まりに行ったのは二回。二回ともちゃんと両親は在宅だった。
だから、わざわざ両親が居ない事を告げて泊まりに来ないかと言うことは、まぁ、そういう誘いなんだろうと察しはついた。
――南風と私が……――
南風と出会ってから八ヶ月。うち、付き合いだしてからだと半年。
初めてキスをしたのは確か付き合いだしてから一ヶ月過ぎた頃だった。
同じ高校ではないから、メッセージでのやり取りや通話が基本で直接会う回数は半年と言ってもさしてないと思う。
そんな付き合いで半年。
そういったことをするのに早いのか、妥当なのか、遅いのかは扶揺には分からないけれど、どれだったとしても扶揺が南風との関係を進めるかどうかを決める理由にはならないのは間違い無かった。
泊まりに行くかどうかの返事はまだしていない。
別に南風とそういういことがしたくないとかではなく、自分がどちら側なのかという疑問からとっさに返事が出来なかった。
どちら側、つまり、抱く側か抱かれる側か。
南風を好きになるまで、自分が同性と付き合うとは思って居なかった扶揺は、最初はただ好きだという気持ちだけで何も考えていなかった。けれど、初めてキスをした日、男女の恋人達で行われる行為が男同士の自分たちにもあるのだと気付いた。
今にして思えばなぜキスをするまで思い至らなかったのかといっそ恥ずかしいぐらいだ。
そして、男同士の性行為について自分が何も知らない事に焦りを感じた。それでも、男女間での知識はあったので、同性ならどうするのかを調べるという考えに辿り着くのは早かった。
真面目な扶揺は急いで調べた。それはもうしっかりと。
そしてただならぬ衝撃を受けた。
南風と自分がこんなことをするのかと。
南風を抱く事も、南風に抱かれる事もその時の扶揺には考えもつかなかった。南風は好きだがセックスしたいとは思えなかったからだ。
散々悩んだあげく出した結論は、このことについては『考えない』だった。
必ずしもしなければならないことではないし、自分同様南風もしたいとは思わないかもしれないと思ったからだ。
……まぁ、そんなことは無かったが。
最初のうちは考えないで済んでいたけれど、触れるだけのキスがそれだけで済まなくなって、深い口づけをしながら身体を弄られるようになれば、さすがにその先を否定することはできなかった。
どう考えたって、南風はしたいと思ってる。
「うーー……」
思わず呻いて両手で顔を覆った。
正直に言ってしまえば、扶揺はもう、南風とならしてもいいと思っていた。
身体の触れあう気持ちよさの一端を知ってしまっている今、年頃の男として性的な欲求を否定しきれない自分を扶揺は認めてしまっている。
だから、南風の誘いを断らなかった。
けれど、自分がどちら側がいいのか決めきれていなくて誘いを受けることも選べなかった。
ただ、南風が自分を抱くつもりなのは間違い無いだろうなと扶揺は思う。
ここまで南風のリードで進んできてからの誘いなのだからそう考えるのが妥当だろう。
――だいたい、あの南風が私に抱かれたいなんて思うわけが……。はっ、誘い受け!?――
知らなくて良いことまで調べていたらしい扶揺は一人勝手に混乱していた。
そうじゃなくて。
ぶっちゃけてしまうと扶揺は南風に抱かれるのも有りではないかとも思っている。でも、はっきりそう言われた訳でもないし、さらに自分だって男だという矜持もあって素直に受け入れられない。
「もう考えたく無い」
らしくない弱音を吐いてから、扶揺はスマホを手に取って南風へ返事のメッセージを送った。