――ついてない。ついてないのか……?――
バイト先で先輩がミスってそのフォローに深夜すぎまでかかり終電を逃して一時間半歩いて帰った。眠い目を擦りながら重い身体を引きずるように大学に行ってみれば休講で、それならば確か慕情が今日は図書館で調べ物をすると言っていたなと思い出し、合流しようとLINEをしたら急にバイトになって大学には行ってないと返ってきた。
風信は学内の庭のベンチに腰掛けて頭を抱えてため息をついた。
まだ昼前だった。
今日は午後からの講義はない。
時間はあるが、何もかもがうまく行かなくて疲れてしまってやる気が出なかった。
せめて慕情の顔を見られればまだ……。
と、考えかけて、昨日からの一連の話をすればきっと小馬鹿にされるのだろうなと思うと会いたい気持ちも萎んだ。
「あー……」
手で目を覆って天を仰ぐ。
数秒そのままで。
それから盛大に息をついてから立ち上がり歩き出した。
おにぎりの入ったレジ袋をリビングの机の上に置いて、風信はソファーにどっかりと座った。
いつもより深めに沈んだ座面が押し返してくる。
朝食を食べている時間も無かったからと帰り道おにぎりを買ったものの食べる気にはなれなかった。
やっぱり慕情に会いたいなと思いはするのだが、あいつの憎まれ口に付き合える気力はまだないなともう一度連絡するのも躊躇われた。
どうにも気持ちがどっちつかずだ。
どっちつかずなのは気持ちだけではないのだけれど。
風信はため息をついてソファーで横になった。
会ってもなーとか考えているくせに、どうにも慕情の事ばかり思い出してしまう。
そういえばお互い忙しくて最後に会ったのは二週間前だったか。
高校を卒業を機に付き合い始めてから一年になる。
つきあってる、恋人だと言ってはいるが呼び方が変わっただけで高校時代の犬猿の仲だった頃とさして変わらない気がする。
いや、少しは喧嘩する頻度は減った気もしないでもない。
あと、あやまったり妥協点をさぐったりして気まずくなった状況をそのままにしなくはなった。
それぐらいか。
――恋人らしいことしてないな……――
風信は両肘で頭を挟んで横を向いた。
目の前にはソファーの背もたれが見える。
付き合いだして一年だ。一年。
一年も経つのに身体の関係どころかキスも数回しかない。しかも触れるだけ。
舌を入れようとして思いっきり殴られてしまったからだ。
一応これからの事を話し合いはした。
風信は慕情が好きだからキスもしたいし抱きたいと言ったが、慕情がどうしても嫌だと引かなかった。
理由は曖昧でそのくせ拒絶だけは強いから苛立ちもしたが、そこまで嫌がられていてもなお強引に事を進める気にはなれない程に、風信にとって慕情は大事すぎた。
例え口喧嘩ばかりでも慕情と一緒に居られれば、まぁ我慢できないこともない。時間を置けば慕情の気持ちも変わるかもしれないしと引いてしまった。
風信はそれを今更後悔している。
あの時もっと食い下がればもう少し何かあったのではないかと。
肉欲だけが全てではないのはよく分かってるが、それを諦めてしまうには風信はまだ若い。
そこまでつらつら考えて、風信はふと
――慕情は本当に私が好きなのか?――
と思い至ってしまった。
そもそも慕情に好きだと言われたことがないのでは……? と風信は渋い顔になる。
高校では毎日のように顔を合わせていたけれど、会えば喧嘩するような仲では当然連絡先はしらない。このまま卒業してしまえば例え同じ大学に通っていても会うことはそう無いだろうと決心して慕情に告白した。色恋が絡むような雰囲気なんて今まで全くなかったから、風信の気持ちを知った慕情の驚いた顔や取り乱した様子は見物だった。
そして、慕情の返事は「恋人になってやってもいい」だった。
随分素っ気ない返事だったが、顔を真っ赤にして少し嬉しそうに口の端をあげているのを見れば、慕情が自分の事を好いていると確信できた。
つもりだったが、そうであって欲しいという願望からの誤認だったのか?
そういえば、一人暮らしを始めたすぐに部屋の鍵を渡そうとして「恋仲みたいで気持ち悪い」っと拒絶されたことを思い出した。
その時は照れ隠しかと思ったのだけど、言葉の意味そのものだったのか?
だったら『恋人になる』というのはどういう気持ちで言ったのだろう。
慕情に振り回される自分をみて面白がっているのだろうか。いや、性格は多少歪んでいるがそんな人で無しではない。
慕情に対してそんなことを思ってしまった自分が嫌になりながら、それでも慕情の気持ちを疑ってしまう。
「どつぼだな……」
思わずそんな言葉を口にして重々しい息を吐いた。
ピンポン――
突然来客を知らせる音が響く。
一瞬顔を上げたが、誰かと会う気分ではないので居留守を決め込むと、もう一度鳴った。
さらに無視を続けていると
『風信、居るんだろう』
と、会いたいような会いたくないようなと思っていた恋人の不機嫌な声がして風信は飛び起きた。
急いで玄関の扉を開けると仏頂面をした慕情が立っている。
何を期待していたのか自分でもよく分からないが、慕情の表情にひどく落胆した気になった。
勝手知ったるで遠慮もなく上がり込んでくる慕情の背を見送ってからリビングに戻る。
「何の用だ」
「はっ? 会いたいと言ったのはお前だろう」
不機嫌な様子の風信に慕情は眉根を寄せた。
「バイトじゃなかったのか」
「…………お前には関係無い」
「…………」
『関係無い』の言葉が妙に引っかかって腹が立った。
「今日はお前と言い争いたくない」
風信はそういうと、慕情に背を向けて再びソファーに寝転んだ。
「何を拗ねているんだお前は」
顔に落ちてきた影と、声の近さから慕情がすぐ側に立っているのが分かる。
「おい」
黙り込んでいたらあからさまに苛立った慕情の声に、このままでは面倒くさいなと風信は今日あったことをぼそぼそと話した。
さすがにお前の気持ちを疑っているとは言えなかったが。
「くだらないな」
鼻で笑われて、やっぱりなと風信は思った。
言い返してこない風信に慕情は怪訝な顔になる。どうやらこれは本人にとっては深刻らしいと。
「風信、お前……」
言いかけて、慕情はソファーの側にある机の上のレジ袋に気がついて中身を見た。
「お前、もしかして朝からなにも食べてないのか?」
「だったらどうだって言うんだ」
昼はとっくに過ぎている。
「寝不足に空腹。そんなんだからどうでも良いことで落ち込むんだ。ちゃんと食べろ」
「食べたく無い」
子供が拗ねたような言いように聞こえて、慕情は思わず笑ってしまいそうになる。
でっかい図体で背を向けて窮屈そうにソファーに寝転んで。拒絶してるつもりなのかも知れないけれど、慕情には構ってくれと言ってるようにしか見えなかった。
「まったくお前は」
慕情の声は随分優しげで風信は思わず自分の耳を疑った。それと同時に風信の頬に柔らかな何かが触れてすぐに離れた。
急いで身体を起こし振り返る。
「慕情、今……」
風信が全てを言う前に、慕情の唇が風信のそれに重なる。
「手間の掛かるやつだな」
目を丸くしている風信に微笑んでから慕情は立ち上がった。
あからさまに『お前に言われたくない』と顔にだしてる風信を見下ろして。
「仕方ないから私が何か作ってやる。ちゃんと食べろ」
いつもの突き放すような口調で言って、慕情はキッチンへ向かった。
慕情の背を見ながら風信は思わず手の甲を口にやる。
自分でも分かるぐらいににやけている。
ムードも色気もなにもないけれど、初めて慕情からしてくれたキスだった。
欲はないけれど愛情が感じられるキスだった。
それがひどく嬉しい。
風信は立ち上がって慕情の側へ行くと、背後から慕情の腹に手を回した。
「馬鹿、危ない。怪我したらどうする」
包丁を手にした慕情が怒りながら腕の中で硬直してる。
「お前はそんなへまはしないだろう」
「それは……って何笑ってるんだ」
包丁をまな板の上に置いて、腕の中で振り返ろうとしている慕情の頬にキスすると思いっきり腹に肘を入れられた。
「さっきまでのお前はどうした。なんだその浮かれぶりは」
手加減はしなかったのに、上機嫌な様子のままの風信に慕情は眉根を寄せた。
いっそ気味が悪くて、風信の腕から逃れようともがいたがびくともしない。
「何を作ってくれるんだ?」
「……人の話を聞け」
いつも通りの不機嫌声を聞きながら、慕情の気持ちを疑った自分が随分馬鹿に思えた。
同時に慕情の言うとおり、くだらない事に気鬱になっていたことも馬鹿馬鹿しくなった。
不満がないわけでもないが、今の状況でも幸せではある。
慕情は意地っ張りだし、時間が必要なこともあるんだろう。
そのうち色々なんとかなる。風信はそんな気がして妙な納得をしてしまった。
しかし、二人の関係が進むにはここからさらに一年かかるのだった。