手を繋ぐ 男の手を握るなぞ初めてではない。
現に昨日、緒方と腕相撲をしたし、数日前には足を滑らせた網口の手首をつかんだ。何ということはない。
だというのに何故これ程迄に落ち着かないのか。俺はまだ手を握ってすらいないというのに。
そうだ、まだ握ってはいない。握っていなくてこれだ。
俺の手の下には沖野の手があった。
事の始まりは十五分ほど前に遡る。
俺は沖野の部屋で長椅子の隣へ掛けて、他に何をするでもなく映像アーカイブを共に眺めていた。
これ自体は沖野と交際関係に至る前に余暇の過ごし方として幾度も繰り返してきたことだ。新天地となったこの惑星での生活が落ち着くうちに、俺達十五人は何とはなしに気の合う者同士で寄り集まることが増え、俺と沖野は定番の組み合わせだった。
最初の頃こそ同郷の者と過ごすことが多かったが、なにせ慶太郎には奈津乃さんがいる。そして異性である玉緒さんと夜分に顔を合わせるなど、いくら幼馴染とて大人になった今、簡単にやって良いことではない。となると俺の親しい相手といえば沖野になり、奴の部屋や俺の部屋を行き来することが当たり前になっていた。
その行動に他意が無かったと言えば嘘になるが、過ちはひとつもなかった。沖野の方も普段は何かと不埒なちょっかいをかけてくる割に、夜、二人きりとなるとまともだった。……それなりにまともだった。
映像アーカイブを見ようと言い出したのは沖野の方だ。とはいえ俺も沖野も娯楽映像には些か関心が持てず、気が付けば歴史や技術資料といった半ば勉学のような題材ばかりを選ぶようになっていた。特に二十世紀末、つまりは俺の時代の少し後にあたる難事業を題材に当事者の回顧録を交えて迫った続き物は俺たちの境遇に通ずるところがあり、非常に興味深く「次」の約束にもなった。これはちょっとやそっとでは見終わることのない量で、交際関係になった後も俺と沖野はまだ「続き」を見ていた。
だから今日も座卓の向かいに投影されているのはその類で、今回の題材は天体望遠鏡の開発だ。二十二世紀の人類から託された技術と比べれば何段階も劣る黎明期のものであるが、こういった歩みがなければ俺たちがこの星に立っていることは有り得なかった。
だというのに俺は、俺の手は自分の意志もなく沖野の手の上に重なっている。
気が緩んだのだ。いつもは腕組みをして真面目に鑑賞するようにしている。しかし今日はどうも俺の興味を引かない。工学方面に強い沖野は関心があるようだが、俺はその手のことはさっぱり分からん。手近な機器なら兎も角、宇宙を観測するなどという大それたことは手に余る。
凝り固まった姿勢を崩すべく、腕を解いて長椅子の座面へ着いたつもりだった。
そこに沖野の手があった。
だからこれは事故だ。事故なのだが、すんでのところで体重を掛けずに止めた手を動かせずにいた。
一体どうすればよいのだ。触れた時にすぐ離していれば、そこに人間の手があるなぞ思いもよらなかった、驚いたとでも言い訳が立つ。だが、間を逸してただ重ねてしまったこれを今更どうにかするなど沖野を拒んだように思われまいか。
俺は一度、いや、五年もの間、沖野に煮え切らぬ態度を取っていた。あまり口には出さないが、悲しませたことも一度や二度ではなかろう。そのようなことを繰り返すつもりはない。俺はここで退くわけにはいかぬ。
しかし、しかし退かないとなればこれはどうすべきだ。
映像では難題を前にした時の心地を当時の技術者が振り返って述べている、俺は全神経が掌にあるような錯覚を感じる。
沖野の手は、当たり前だが女子とは違う。俺とて偶然や必然があって彼女らの手に触れたことがある。柔らかく嫋やかなものだった。断じてやましい気持ちは無い。女子供とひとまとめにされるように、俺からすれば小さく非力で繊細なものであるという意味だ。
それと比べれば沖野の手は間違いなく男の手だ。奴が『桐子さん』だった時は白魚のように美しい指をしっかりと目に焼き付けていたはずだが、俺は一体何を見ていたのか。
重ねた下の手は肉の厚みが薄く、その分、骨や関節の在処が明らかだ。血管が脈打っている気がする。錯覚だろう、こんなところで脈は取れまい。なれば俺の心のせいか。心の臓がうるさい。
元より興味の失せていた映像は最早何か音が鳴って絵が動いていることしか分からない。視線だけが義務のように釘付けになっている。
沖野の手が僅かに動いた。
何かするのかと身構えたが何もしない。ならば喋るのかと思えば黙ったままだ。
沖野の手は俺の手がそこにあるのを十分に知って、身動きをしないでいる。
これは腹を決めるしかない。
なにせ俺たちは――まだ何も進展はしていないが、交際をしているのである。恋人と手が触れ合った後にやることはひとつだ。
握る。手を握る。
だが、どの程度の力加減でやればいいのか皆目見当がつかない。それ以前に、どのような形でそうすればよいのだ。
沖野の掌は座面にしっかりと着いている。握るにはそこへ指を潜り込ませねばならぬ。どこに。指の間か。そんな破廉恥な。しかし握手のようにするにしても重なった手を動かし、沖野の手を返さねばならぬ。この離れ難い手を動かすのか。
考え抜いた末に、重なった形のまま輪郭に沿うように軽く指をかけた。手を握ったとは到底言えまい。
しかしこれは先程迄とは違い、互いに明らかに手を重ねたと示すものであろう。
指の先の温度は異なるにもかかわらず、重なり続けた掌と甲は殆ど同じものになっている。室内の気温とは明らかに違う。ここには確かに人間が二人あり、俺の吐く息も、沖野の存在が放つ熱も仔細に感じられる気すらする。
たかが手を重ねただけである。
「集中出来ないよ」
「……すまん」
沖野が手を落ち着きなく動かすのでこれで終いだと思った。
だがどうだ、関節の合間で軽く握り込んだかと思うとくるりと手首を返し、掌同士がようやく触れ合う。座面に触れていた沖野の掌は、しかしよく血が通って熱かった。そして指を絡めてどちらからともなく同じ力加減で握り合う。
俺は交際相手の手を初めて握った。
映像の内容はすっかり入ってこなかったが、終わるまで手は離れなかった。
2023.03.05