灰色と黄昏 廃工場の無骨な外階段を静かな足音を立て、セーラー服姿の少女が上る。否、女装した男子、沖野司である。スカートの折り目を乱すことなく、堂々と進む姿には一切の躊躇がない。ここは彼が半年以上の間、拠点として扱ってきた場所である。
階段を半ばまで上り、誘蛾灯の薄青い光に引き寄せられた虫が目につく頃、いつまで経っても後ろから聞こえてこない足音が気になって振り返った。
「どうしたんだい、比治山くん」
スカートの中身でも気になるのかいと揶揄おうとしたのだが、彼は何か真剣な顔つきで階段の下で周囲を見回して立ち止まっていたので飲み込んでおいた。
比治山は階段を背に再び辺りをよく確認し、特に暗がりにある廃車の中を睨むように見てからようやく口を開いた。
「今更だがここは少し……不用心過ぎないか」
「ああ、そのことか」
振り返った拍子に肩口に乗ったお下げ髪を人差し指で背へ弾く。
二人の間で工業用の換気扇が役目も無く回っていた。どうやら作りつける時に不備があったようで、誘蛾灯と連動して動き出してしまうことを沖野は知っていた。直すのも手間なのでそのままにしてある。その電力自体は近場からケーブルを引いてこっそり拝借しているものだ。
それが平然と行える通り、この時代の廃墟の管理はかなり杜撰である。
監視カメラもなければ電気柵もない。敷地と外を隔てるのは穴だらけのフェンスとそれを申し訳程度に補おうとする簡易なロープだけで、その気さえあれば侵入は容易だ。おまけに敷島の大規模な開発の影響か、この辺りは古い工業地帯ながら周辺の工場も大半が移転・閉鎖しており、人通り自体が滅多にない。
沖野が「未来技術」を扱うための隠れ家として都合が良かった。
「しばらくは僕も明かりが漏れないように注意していたけど、ここは道路からも離れているし、多少自由にしても見つかるようなことはないよ」
「そうではない、人の気配が無さ過ぎるのが問題だ」
「何が言いたいんだ?」
「これでは野犬などが簡単に入り込めるではないか」
「なるほど……。考えたこともなかったな」
人間が生活していれば当然、飲食物のパッケージなどのゴミが出る。こまめに捨ててはいるが、それに釣られて来ないとも限らない。
「それに一番恐ろしいのは人間だ。特に貴様のその成りで出入りしているとなると……」
沖野は視線を下げて自分の服装を改めて見た。古い水兵服を模した特徴的な襟に藤色のスカーフ。腰から下は襟と同色の折り目正しいスカート一枚だけの女子生徒の制服。地毛と同色のウィッグを被った自分に問題なく似合っているらしい。つまりはどこからどう見ても女子に見えているということだ。比治山を仲間に引き入れてからこの格好で廃工場を出入りすることが増えた。
「君は戦前生まれのわりに防犯意識が高いんだな」
彼が軍に居たからだろうか。
沖野も比治山も半年余りの間にここでの暮らしに馴染んだとはいえ、生活上の細かなことでギャップを感じる機会は多い。社会に対しては勿論、お互いに対してもだ。
比治山のいたセクター5で沖野が観察した範囲では一般家庭では家に鍵を掛けることすら習慣化されていなかった。精々が夜に眠る時だけだ。一方、セクター1では自動施錠と生体ID認証による開錠だ。ゆえに沖野は鍵を掛けるという行いを忘れがちであるが……それでもガラスの割れ放題の一階を無視して、鍵の掛かる扉が無事な二階倉庫を拠点にしたし、戸締りは確認しているつもりだ。
とはいえ所詮は脆弱なシリンダー錠である。風雨に晒されたそれは建付けも悪く、錆が浮きかけたまま誘蛾灯の光で鈍く灰色に輝いている。
比治山の言葉には一理あった。皆まで言わなかったが、彼はつまり不逞の輩に目をつけられれば格好の餌食だと言いたいらしい。
この時代の日本は高度経済成長期を経て世界的に見ても先進的な暮らしが営まれていたと記録されているが、沖野にとってはまだ未発達の社会だ。人々の移動は何ら電子的に追跡されることはなく、犯罪の監視体制も杜撰で、当たり前に暮らす一般市民が犯罪者である可能性を払拭出来ない。
ただし、今は沖野自身が不法侵入などの罪を問われておかしくない行為をしているのだが。
「一応、最低限の対策はあるけど」
露骨にセクター1の技術でセキュリティを組むわけにはいかない。いくつかはこの時代のモックアップの類で偽装していても、表向きは管理を放棄されている廃墟である。見るからに物々しくして、興味本位の侵入者に警報音を鳴らされてアジトが知られるなど最悪だ。そのため、ここに侵入を阻み追い返す種類の設備は無いと言っていい。あくまでも侵入された痕跡を追うためのものだ。
「せめて女生徒の服で出入りするのはやめないか。何かあっても知らんぞ」
「おや、心配してくれているのかい?」
いつものように照れの入った軽口が飛んでくるかと思いきや、比治山は顔を背けて不機嫌に押し黙ってしまった。これは「本気」だったかと沖野は考え直す。
彼から見ても随分と不用心な振る舞いだったらしい。沖野もこの時代の新聞を見て、いかに野蛮な事件が多かったかを知っている。割れ窓理論という言葉もあるし、似合ってしまった女装で要らぬ厄を引いても困る。
「じゃあこうしようか」
沖野は先程まで上りかけていた階段を引き返して比治山の前に立った。胸先まで接近されたことで後ずさる比治山に、踵を浮かせて下から顔を覗き込む。足元で湿り気を帯びた土が踏み躙られて音を立てた。誘蛾灯の他は月明りしかない暗がりで光源に面した比治山の表情だけがよく見える。
「噂を立てるんだ」
換気扇の駆動音と光に灼かれた虫の爆ぜる音の合間で、沖野は誘惑するように声を潜めた。
「若い男女が夜な夜な逢引に使っている。女の方はひ弱な女生徒だが、男の方は随分と体格がいい不良だ。おまけに嫉妬深い。覗き見したらどうなることか」
体格の差で比治山の影に沖野はすっぽりと隠れてしまう。例えば今この時に比治山のいる方から人がやってきたとして、沖野の頭が見えるかどうか。そして彼の腕っぷしは間違いない。
「……そしたら誰も近付かないさ。どう?」
そろそろ疲れて来た爪先に力を込めて僅かばかり距離が近付くと、比治山は喉奥から唸り声を漏らした。
「破廉恥なのは、ならん」
「はれんち」
すとんと踵が地面に着く。比治山の顔は僅かな光源の中でもそれと分かるほど赤い。
沖野は胸に手を当てるような心地で考えた。破廉恥。普段耳にすることはなかなか無いが、意味は知っている。恥知らずな行い、文脈と比治山の感覚からして、年頃の男女が人目につかない場所で会うことを言っていると推測する。
「それでいくと旧校舎で密会に励んでいるのも破廉恥なのか?」
「なっ、馬鹿を言うな! 貴様は男だろう!」
「見た目には女生徒だけど」
少し距離を取り、その場でくるりと回ってみせる。変装の甲斐あって女性らしい仕草も板についただろうか。遠心力のままにスカートが翻るのが暗がりでも目を惹き、なるほど女性達はこれを良いと感じてこんな無防備な服を好んで着用するのかと得心した。
一方、比治山は掌で顔を覆っている。
「よ、夜だの明け方だのというのがいかん」
沖野はそこでようやく合点がいった。つまり彼は、若い男女が夜な夜な廃工場に赴き、朝帰りをしていると、そういう話だと理解しているのだ。
「あながち嘘というわけでもないな……」
思わず口元に手をやって考え込む。逢引きではなく純然たる寝泊まりで、しかも男同士のことであるが、事実だ。とんだ不良もいたものである。
「俺はもう知らん!」
「おい、待ってくれ比治山くん!」
比治山は沖野を押しのけて騒々しい音で階段を上っていった。あっという間にドアの前へ辿り着いた彼に慌てて追いかける。彼は沖野が上りきるまで仁王立ちで周囲を見回し、追いついたところを狭い踊り場でわざわざ入れ替わってまで先に入れた。
室内は朝ここを出た時と変わりない。
夜逃げ同然に残された資材。何らかの大型機材が置かれていた痕跡と、がらんどうの空間。人感センサーを取り付けた作業灯がひとりでに点き、それらを照らす。
だが、どこか知らない場所のようだ。気味が悪い廃墟である、と思った。
「…………」
沖野は比治山に内心を悟られないように歩を進めた。少し中へ入れば作業や食事をするために他の部屋から移動させた家具の類があり、奥にはパーテーションで仕切った小スペースがある。そこには比治山と二人がかりで宿直室から運び出した粗末なベッドを据えてある。
彼が来るまで沖野はわざわざ宿直室に移動するのが面倒だったため、殆ど毎日の間、手近な長椅子で横になっていた。それを見かねた――或いは沖野を監視するつもりだった比治山の発案でここへ移動させ、今では立派な寝床となっている。と言ってもベッドは一台しかないため、先に眠る比治山に譲り、沖野が眠る時に起こして交代だと言われていても実際にそうした試しはなかった。あまり長々と睡眠を摂るつもりはなかったし、体格もあって休息なら長椅子で十分に事足りた。一方で彼がそこで眠るなら狭すぎて横になっても落ち着かないことだろう。
「不用心、か……」
一人で寝泊りしていた頃には気にも留めなかった。
毎日の生活はこうだ。
廃工場の長椅子で目を覚まし、情報収集のために学校に行って関係者の動向を探る。或いは彼らの目が逸れているうちに他のセクターに転移して必要な物資を確保する。
帰り道には少し足を伸ばして花楓川の土手へ寄ることもあった。自分を追いかけ、路上暮らしを続ける比治山の様子を偵察するためである。彼はよく土手の中程に寝転んで何をするでもなく水面と、向こう岸のマンションが林立する町並みを眺めていた。……たまにそのまま眠りに落ちているようだったが。
夕方の光が落ちる世界は眩い橙に燃え、沖野に世界の終末を思い出させると同時に生命の輝きを感じさせた。そこに比治山の姿があったからかもしれない。彼の事を図太く、強かで、度量のある男だと沖野は考えていた。時間の迷子にもかかわらず堂々と呑気に草の上に寝転んでいる様子など、まさにそれを表している。
可笑しく感じつつも監視対象である比治山に見つからない内に根城である廃工場へ足を向ける。日は次第に暮れ、町の人通りもまばらになり、静まり返った工場地帯の乏しい街灯の下に光を求めた虫が集う。
まだ周囲を警戒しつつ、フェンスの隙間から廃工場の敷地内へ入り込み、収穫を整理。その後はコンソールを開き、時間の許す限りインナーロシターやダイモスの解析、もしくは追加コードの作成に費やして、集中力が切れれば少し眠る。カーテンのない窓から朝の光が差せば浅い眠りは自然と醒める。
終末へ向けた日常だ。
それが今ではどうだろう。
相変わらずカーテンは無いが、すっかり日が落ち、持ち込んだ最低限の光源が廃工場の二階を照らす。灯りの届きにくい壁の方へ目を凝らせば、棚に替えの衣類や軽食に買い置いた飲料が何となしに分けて置いてあるのが分かる。
パーテーションの向こうとこの一角だけは、人間二人が隠れ住んでいるだけの生活感があった。
沖野に他人と同じ部屋で暮らした経験はない。セクター5では多くの人が個室を持たないことが普通だったようだが、堂路桐子には個室が与えられていた。それは性別を偽り、誰も信用出来ない中、非常に都合がよかった。そして一人で隠れ潜んでいた間の廃工場は誰に気兼ねすることもなかった。
常に他者が居ることには慣れていないはずなのに、比治山を引き入れても案外気にならなかったのが不思議だ。むしろ彼の頼もしさに安心感まで覚えて、ここ最近は出入りの注意すら疎かになっていた始末だ。
そして彼は沖野の身辺の心配までしてみせる。
「防犯対策については考えておくよ。もう暗いから、すぐに出来る事はないし……」
ふいに出た欠伸を噛み殺す。まだ高校生が眠るような時間ではないが、日々の睡眠負債を考慮すると妥当とも言えた。
「……今日は先に休ませてもらおうかな」
「ああ、そうしろ。貴様はいつも眠らなさすぎる」
棚から寝間着代わりの替えのシャツを取って遠慮なくベッドの方へ向かう。パーテーションは服を着替えるのにも丁度良かった。男同士何を憚るものでもないというのに、セーラー服を脱ぎ着するとなると比治山はうろたえる。
そういえばパーテーションで仕切ったエリアは単純に入口や作業場からの目隠しのつもりだったが、方角から言って日差しも遮っている。道理で比治山が朝までぐっすりと眠るわけである。
「出かけるなら好きにしてくれ」
言いながらウィッグを外して女子制服のタイを解く。そのままでも着脱できる仕立てだが、皺を伸ばしておく方が見目がいい。次いで上衣に手をかけたところで比治山の声がした。
「ここにいる」
「え? なんだって?」
仕切りのせいで声が聞き取りづらく、意味の理解に至らなかった。比治山が改めて声を張る。
「何かと物騒だから、貴様が起きるまで番をしていると言っているのだ」
先ほどの会話から考えれば予想できた反応だった。
今まで何度ここで無防備な夜を過ごしただろう。比治山自身、そうだったではないか。しかし昨日まで何もなかったから今日も何もないとは限らない。気が付いてしまえば頭の片隅に懸念は残る。
そういえば彼は沖野に関してどこか心配性の気があり、そういった懸念を取り落とさないところがあった。聡く、頼りになる男だ。さしずめ「桐子さんの番犬」か。衝立の向こうでセーラー服を脱いだ沖野はもう桐子ではないというのに。
「好きにしててくれ」
同じ言葉を告げても決して外出はしまい。だから付け加える。
「夜食なら棚に用意してあるよ」
当然ながら彼の好物の焼きそばパンである。
沖野は着替えを終えて薄い上掛けとベッドの間へ潜り込んだ。長椅子と違って手足を伸ばして窮屈ではないマットレスに横になると眠気はすぐに訪れた。睡眠不足だけで沖野はこうならない。全く気が、緩んでいるのだ。
睡眠時間にして推定六時間ほど、夜半に目が覚めた頃には頭がすっきりと冴えていて疲れが取れたことを感じた。よほど深く眠ったのだろう。
灯りを消して暗闇に包まれた廃工場の中は静かで、しかし確かに人の気配がある。そっとパーテーションの外側に目を凝らすと椅子に座って腕組みしたまま比治山が眠っていた。何も不寝番をするとは言っていないし、第一、こんな男が堂々と眠っているのでは不審者も引き返すに違いない。
そっと近づいて声をかける。
「比治山くん、ベッド空いたよ」
返事はない。安眠を音にしたような寝息が聞こえる。
「不用心だなぁ」
途端、比治山の肩がびくりと跳ねて沖野は驚いたが、すぐに眠りに落ちたようだった。
ここでコンソールの明かりを灯して起こしてしまうのも忍びない。ベッドから上掛けを取ってきて掛けてやってから小部屋の方で作業をすることにした。
窓の向こうは薄明るく、満ちようとする月があった。
2023.03.18