視線コーヒーブレイク何が無くとも暮らしていけるが、いつまでも何も無しとはいかれない。
ここから人類の暮らしを再建していかねばならぬとあらば尚更だ。
かつて図書館で目にした「戦後の日本」の復興風景よりはずっと穏やかに、しかし少ない人手で自然を切り開いていく新天地の開拓生活は比治山にとって忙しくも働き甲斐のある日々だった。
ただひとつの懸念を除いては。
「網口、次の探索のことで少しいいか」
「郷登くん、この間の解析結果だけど……」
まただ。共用の食堂ラウンジで珍しく互いの姿を見かけたというのに、各々用事がある相手に声を掛けてしまう。
最後に沖野の揶揄いを聞いたのはいつだっただろうか。ひとつ屋根の共同体で暮らしながら活動場所も生活時間も異なるため、一時は共犯のように活動したはずの彼とは殆ど言葉を交わす暇もなくすれ違うばかりだ。
互いの横を通り抜ける瞬間、目が合った。
沖野が俺を呼んでいる。
比治山とて機微の全く分からぬ男ではない。この星の若い恋人たちが二人の間でしか分からない視線で話しているのを察することぐらいは出来る。
沖野は今、比治山に会いたかった、もっと話したくて仕方がないという目をした。
いいや、そんなはずはない。
確信を持って浮かんだ考えを急いで打ち消す。一体何故そんなことを思ってしまったのか。沖野とは今のところどうという仲ではない。確かに比治山にとってある種、心に決めた相手ではあるが恋人などではない。
受け持っている仕事が違うのだから、差し当って雑談以外に話す用件などないし、第一、沖野は今しがた別の相手に声を掛けていたではないか。
比治山とて網口に用がある。
用立てたい資材の相談に、日程の調整。網口と話しながらも、視線はつい沖野の方をちらちらと伺ってしまう。
また目が合った。沖野の表情が僅かに変わるも気まずそうに目を逸らす。
郷登と話す横顔はいつもの沖野司だ。比治山に向けたような面影はどこにもない。
「比治山?」
呼びかけておいて何だよ、と網口が文句を言う。もっともであり、比治山は彼と会話せねばならない。
頭では分かっている。どうにか言葉を脳に入れるように努めるのだが、どうにもずっと沖野が気になって仕方ない。
さっきの目のせいだ。何だというのだ。
用があるなら堂々と話し掛けてくればいい。揶揄うならば今すぐそこから何か言ってくればいい。沖野はそういう奴だ。
そうでなかったのは手紙を渡されたあの時の――。
……郷登との話が終わるまで待つか。確かに忙しくはあるが、そこまで時間が無いわけではない。
しかし沖野の方はどうだろうか。待った挙句に素気無く去って行かれたら。揶揄われたら何と返せばいい。
勝手に百面相してあまりに話を聞いていない比治山の様子に呆れたのは網口である。
とはいえ理由は分からないでもない。比治山は自分よりもよほど真面目な人間である。
彼の沖野への好意のほどは見ていれば分かるし、他者から語られる断片的な事情を継ぎ合わせた結果、概ねのいきさつは知っているつもりだ。
男同士、まぁそういうこともあるだろう。沖野の女装姿は確かに可愛かったし、沖野だって比治山のことが好きだ。後は二人のきっかけ次第で、つまるところ密かに応援しているのだ。
網口は上背でも体格でも勝る比治山の肩へぐいと腕を回し、無理矢理屈ませて声を潜めた。
「何? 沖野と喧嘩でもした?」
「そ、そんなことはない!」
比治山の声は小声でもよく通る。
あらぬ誤解をされないうちに網口を引き剥がして沖野の様子を見ると、こちらを向いてくすりと笑っている。郷登までもいつも通りの涼しい顔で比治山たちを見ているのでわざわざ会話を止めたのだろう。
おかしな勘違いはされていないようだと安堵する。
安堵したところで再び邪念を払う。さっきから沖野を気にしてばかりだ。
「どうせ聞いてなかっただろ? 後でメッセージ送っとく」
頑張れよ、と肩を叩いて網口は行ってしまった。
郷登も似たような言葉と共にラウンジを出てしまう。
後には比治山と沖野が二人きりで残された。
いくらか離れた場所から沖野が比治山をじっと見ている。その目にすれ違った時のような困った色はない。いつもの沖野で、やや、嬉しそうにも見える。
「比治山くん、少し時間いいかい」
「あ、ああ……」
今日の沖野は意外なほどに素直だ。何度も目が合っていた上に気もそぞろだったことを揶揄われてもおかしくないと思ったのだが、そういった素振りもない。
「じゃあコーヒーを飲もう。いや、コーヒーもどきかな」
近頃この惑星で親しまれているのは合成コーヒーと自生していた豆を挽いたブレンドだ。色味は普通のコーヒーよりもやや白く、香りが強い。豆自体は比治山が探索中に発見したもので、沖野は特に愛飲していると聞く。用意も手慣れたものだ。故に比治山は手持無沙汰である。
「ここも随分便利になったな」
「そうだね、皆が頑張ったから」
当初、世界津のために用意されていたのは共同生活の箱である拠点施設だけだった。
文化的な食糧も無く、衣類すら限られたところから十五人の仲間で優先順位を付けて生産設備を増やしていった。
おかげで今は小型給湯器でいつでも湯を沸かし、嗜好飲料を楽しめる程度には落ち着いた。少なくとも比治山のいたセクター5よりは豊かになったと言える。
やることはまだまだ多いが、その分だけ実りある日々だ。
「おまたせ」
湯気の立ち昇るカップを二つ持って、沖野はテーブルの対面に置いた。座ろう、と比治山を見る。
この目だ。
郷登や他の仲間と話す時とは違う、少しだけ何かを期待して真直ぐに向けられる視線。
「最近どうだい」
座るために俯き逸らされた軌跡にすら残滓が見えるようで、つい目で追ってしまう。揺れる髪の間にある頬はコーヒーの香りのためか今日一番和らいでいるようにも思えた。
「用があるのではないのか」
「……用? いや、別にないよ。ただの休憩さ」
沖野に続き、比治山も椅子に掛ける。
なんだ、簡単なことではないか。
やはり沖野は比治山と話がしたかったのだ。
それもどんな話というもない、取り留めのない話を。
沖野との関係に名前を付けることはまだ出来ない。比治山自身がそれを迷っているから、どうにもこれだと決めきれずにいる。
けれども確実なことがあるとすれば、彼らは防衛戦の前夜から渦中に至るまで「相棒」であった。掛け替えのないことは確かだ。
そんな相手と共同生活を送っているのに話もしないのでは落ち着かないのも無理はない。
ましてこの生活、初対面も同然の相手や、名状しがたい因果のようなものを抱えている相手もある。それなりに打ち解けつつあるが、年頃の男女が共同生活をするなど緊張があって当たり前だ。
加えて沖野はどこか他人と距離を置く部分がある。
なれば唯一親しみを持つ比治山と話したいというのはごく自然なことだ。
だから沖野はあんな目を向けたのだ。
沖野は何を面白がるだろうか。探索の報告書にも上げないような他愛ない話。関ヶ原が柄にもなくぬかるみに足を滑らせて足の筋を痛めた話。緒方が自慢の髪を鳥に突かれて持っていかれそうになった話。自分が、沖野の好みそうな甘酸っぱい果実を見つけた場所の話。
温かいコーヒーが心を溶かす。
「面白いなぁ、比治山くんは」
遠くを見てばかりの瞳が比治山を映し、眩しそうに細められる。物事を分析する怜悧な眼差しと対極にある柔らかな色だ。ゆるやかに弧を描いた口元はコーヒーを飲むために繰り返し薄く開き、汚れを拭うために僅かに音も無く動かされた。
その顔をずっと見ていたい。
しかし話は尽きないままカップの底はすぐに見え、互いの仕事を思い出した。
「またな」
「うん、また」
食器を片付けてそれぞれのやるべきことへと戻る。
自分たちのために、たまにはこうして話さねばならない。そうだ、寝る前ならいつも少し時間がある。そうすれば沖野はもうあんな目で比治山を呼ぶことはないだろう。
最後に合った視線は初めよりずっと穏やかで、比治山を安心させた。
2023.06.07