「Thank You」 3 Resigned Calm Dawn(白王子Ver.)ごぼっ、ごほ……っ!
急激に意識が浮上する。喉を圧する水を吐いたぼくは、夜空を背にしたクラウチを下から仰ぐ形となっていた。
そのまま、数回咳き込む。頬にクラウチの髪から滴る海水が当たる。短く呼吸を紡ぐクラウチがぼくをきつく抱きしめた。
「王子…っ!良かった……っ!」
身体を離し、ぼくの額を撫で上げ、両手で頬を包み、そのまま肩を抱く。
「どこか異変はないか?」
「う…っん、だい、じょうぶ。大丈夫だよ」
ほう、と呼気を落として再びぼくを抱きしめた。今度は、包み込むように柔らかく。
「そうか……。心臓が潰れるかと思ったぞ」
両手をクラウチの背に回し、二度、撫で下ろす。
「……ごめん。ちょっと酔いが回ったみたいで…はしゃいじゃった」
一瞬、厳しい顔になったが、流石に叩くことはなく視線でぼくを戒める。
「これからは、酒を控えてもらうからな」
「王子、了解。……クラウチが人工呼吸で助けてくれたんだね。ありがとう」
「丁度、車校で習ったからな。AEDを取りに行く間もなかったから必死だったぞ。……ほっとしたら、どっと疲れが出てきたな。宿で風呂に入りたい…」
「ふふっ、そうだね。海水でべたべただし。露天風呂でさっぱりしよう」
「そうだな。あと、浴衣とサンダルを駄目にしたから宿の方に謝るのが先だぞ」
「うん」
帯でどうにか留まっていた浴衣を見苦しくない程度に整える。身体に張り付いて気持ち悪い。
先に立ち上がったクラウチがぼくの手を掴んで引き上げる。少しよろめいたぼくの腰を支えるように抱き寄せた。ぼくもクラウチの腰に手を回し、首元に寄りかかるように歩き出す。宿のサンダルはとうに無く、裸足だから石の感触がダイレクトにきた。
風はなくとも、深夜の時間帯だ。ましてや濡れ鼠のぼくらは、互いの体温を分け合いつつ宿へと向かった。
遊歩道に戻ると、クラウチのカメラが投げ飛ばされたように転がっていた。それを拾い上げたクラウチは、データの無事を確認するとほっとしたように微笑んだ。本体の一部に傷がついても、それを気にしないのがクラウチらしい。とても大事にしているのに。
ぼくは、それ以上に大切に思われているんだね。
ありがとう、クラウチ。
君の必死さが、とても……嬉しい。
そんなことは当然言えない。代わりにぼくは密やかに息を吐く。
指でそっと唇をなぞる。海水で乾いたそこは、どんな理由であれ、最初にクラウチと触れ合った場所だ。みずかみんぐより、先に。
このことを、生涯胸に刻んでいこう。
きみがぼくにしてくれたことを、全部。
ひとつ残らず、取っておくよ。
クラウチ、……クラウチ。
夜勤のフロント係に丁寧に詫びた後、ぼくらは部屋の風呂に入った。
塩水でパサついた髪や身体を念入りに洗い終える頃には、月は遠く天空へと上っていた。やはりここからはムーンロードは見えなかった。
海の中では、あんなに近く感じていたのに。
もう、手にすることはできない。
クラウチと……同じだ。
共に湯船に浸かる。八角形の隣り合う辺にそれぞれ背を預け、リラックスする。クラウチがぽつりと独り言ちた。
「長い、一日だったな……」
ぼくより一回り厚みのある体躯。洗いざらしの前髪が無造作に額に掛かり、湯船脇の照明で柔らかく影を落とす。ぞっとするほどの色香を放ちつつ、本人がまるで無防備に屈託なく笑う。
「お前が無事で、何よりだ」
くしゃり、とぼくの頭を撫でる。まっすぐに向けられた眼差し。そっとその手を両手で包み、頬を懐かせる。
「ごめん……。ごめんね、クラウチ」
「もう、謝らないでいい。ただ、二度はないぞ」
柘榴色の双眸に強い光が灯る。
ぼくだけに向けられたそれを、裏切ってはいけない。もう、二度と。
意識が回復した時の、あんな絶望の淵に立ったような表情をさせたくない。クラウチには。
自分が原因なのは十二分に感じていたが、実際目の当たりにして初めて理解したこともある。
「うん、分かった」
クラウチの手の甲を恭しくぼくの額に当て、それからそこに口づけた。
軽く瞠目したが、ぼくの誠意が届いたのだろう。再度、ぼくの頭を撫でてくれた。
「クラウチ、布団くっつけていい?」
三十センチほど離れた布団に横たわるクラウチに声をかける。
「ん?どうした…?」
「なんだか、今になって怖くなってきた。……手を、繋いでほしいんだ」
「分かった。ゆっくり眠れるといいな」
「ありがとう、クラウチ」
「どういたしまして。ほら、どうぞ」
ずりずりと寄せた布団の上に、クラウチの右手が伸ばされる。照明を消して布団に入り込んだぼくは、その温もりを押し戴く。
「おやすみ、王子」
「おやすみ……クラウチ」
暫くすると、健やかな寝息が聞こえてきた。余程疲れたのだろう、偶に鼾のような濁音が混ざる。
カーテンの隙間から僅かに届く月光。その明かりを頼りにクラウチの顔を覗う。
整えられた布団からこちらに伸ばされた右腕。
規則正しく上下する胸元。
整髪料のついていない、額を覆うさらさらした前髪。
薄っすらと開かれた、……唇。
自分の布団から出たぼくは、そこに自分の顔を寄せた。一時間前と立場を代えた状態。ぼくの影の中にクラウチが……いる。
クラウチの吐息がぼくの頬にかかる。
……ああ、温かい。クラウチの命の温度。
鼻先も、唇も……ほんの少しだけ、先にある。
この温もりに触れられる、倖せ。
……ぼくは、なんて愚かだったのだろう。
この倖せを、自ら手放すなんて。
クラウチがいて、ぼくがいる。
その間にどれほどの、どんな人がいたって、それは不変だ。たとえ、みずかみんぐだって。
更に下方に移動する。もう、触れそうだ。
触れたい。
触れたいよ、……クラウチ。きみに。
万感の想いを載せた、この唇を。
きみに、届けたい。
受け止めて、欲しい。
「………………」
クラウチの唇が、僅かに震えた。
それは、音を成さなかったが、ぼくを縫い留めるには充分だった。
……もう、いいだろう。もう……充分だ。
そう、自分に言い聞かせて、ぼくはゆっくりとクラウチから離れた。
自分の布団に戻り、伸ばされたままのクラウチの右腕に縋る。起こさないよう、そっと。
ぼくの頬に添えたクラウチの指先が、濡れる。……夜明けまでには、乾くだろう。
もう、寝なければ。クラウチが心配する。
何度も思ったけど、できない。
やがてぼくはそれを諦めて、クラウチを見つめることに専念した。
こんなふうに独り占めできることは、二度と……ないだろう。
整った顔立ちがこちらを向いている。
前髪が下ろされているので、幼い頃のクラウチを容易く想起できた。
しっかりとした鼻梁は、今よりは細かったのだろう。幼子にありがちな、口を開いて寝るタイプだったのだろうか。
きっと、穏やかで、…でも、少しだけ、頑固な性格はそのままだったのだろう。
表情が硬く見えがちだけど、懐の深さが涙となって滲み出るだろうから、多くの人に好かれたに違いない。
出逢った頃、こんな気持ちになるなんて知っていたら、ぼくはどうしていただろう。
この想いに耐えられず、彼と共にあることを拒否しただろうか。
……いや、それはない。そして、クラウチも同じだと思う。
ぼくの想いを知って、同じ想いを返せずに苦しむことはあっても。
ぼくらそのものを否定することはないだろう。
だって、クラウチだから。
そんな、クラウチだから。
クラウチ、……クラウチ。
…………大好きだよ、クラウチ。
窓の外が白むころ、ぼくは意識と想いを手放した。