おっさん's ラブ もしかしてウチの職場、おっさんずラブができるのでは? という発想にトメが至ったのは、客のひとりも来ないまま事務所のテーブルで宿題を終わらせ、暇を持て余していた昼下がりのことだった。
桜が似合う春のうららかさも薄れていくと、徐々に空の色が濃くなり、雲の影のコントラストが強くなった。風は冷たいのでブレザーでちょうどいいが、日当たりがいい場所で授業を受けていると暑くなってくる、そんな季節の変わり目だ。
中学の頃もこうした暇な時間というのはあったものの、共有してくれる誰かがいて、退屈することはなかった。だがここではトメが話し掛けても、トメの望むようなやり取りは出来ない。所長の霊幻新隆も所員の芹沢克也もパソコンに釘付けになっているし、事務所内を浮遊している悪霊のエクボは鼻をほじっている始末だ。世間では持て囃されがちな女子高生というブランドも、ここでは業務用に大量購入されたボールペン以下だった。まあその方がありがたいといえばありがたいのだが。
話を戻そう。
おっさんずラブとは、いつも遊ぶ友人のひとりがゴリ押ししていたドラマのタイトルである。今ならこの配信サイトで見れるから、と複数挙げられた中で、それぞれの配信サイトにみんな登録していたのだ。そこまで言うのならば、ということで、トメも親が加入している配信サイトで一話を見てみた。一話目からテンポも良く、展開も程よく先が読めたり読めなかったりで面白かった。何より全員が共通の話題で盛り上がれるということもあって、おっさんずラブはここ最近一番熱い話題になっていた。
熱いと言っても、それはあくまでトメたちのグループ内での話だ。数年前のドラマだし、この事務所で見ているのは自分だけだろうというのはさすがに理解しているから、分かち合おうとも思っていない。
テストが終わったら劇場版をみんなで一緒に見ようという話をしていたのを思い出して、そこから発想が飛んだのだ。
暇とは恐ろしいもので、トメの思考を中断するものは何もなかった。うっすらと埃の匂いの染み付いた雑居ビルの中にいる暇そうな成人男性たちは、よもや自分たちが過去のラブコメドラマの登場人物に投影する遊びをされていると微塵も思っていない。
まず、主人公は誰だろうとトメは考えた。ドラマではまったくモテない(自称)三十三歳のおっさんだから、芹沢さんかな、と検討をつける。主演俳優に比べて芹沢のほうが年下なのにおっさんに相応しいと思えた。なお、ドラマの中で主人公はおっさん上司とイケメンドSな後輩からのアプローチを受け、怒涛のモテ期に突入していくのだが、霊とか相談所にいる人たちを雑に配役していくと、おっさん上司は霊幻になり、イケメンドSな後輩は影山ということになる。
しかしそこで問題が発生した。明らかに配役がミスマッチなのである。
見た目だけで言えばイケメンドSな後輩がギリギリ霊幻に該当するし、イケメンでもドSでも上司でもない影山はそもそもおっさんではない。第一、後輩の立場になるのは芹沢だ。どうでもいいことではあるが、あのドラマは主人公がおっさんだからおっさんずラブなのか。所有格のアポストロフィーエスなのか複数形のエスなのかいまいちはっきりしない。その辺りは今度勧めてくれた友人に聞こうと心に決めた。
再び話を戻そう。
この職場でおっさんに該当するのは霊幻と芹沢だけである。ということで、消去法でおっさん上司を霊幻に当てはめることにした。ドラマのおっさん上司は四十代で既婚者なのだが、女子高生からしたら二十代後半もおっさんに片足突っ込んでいるし、イケメンドS後輩も兼任させれば問題ない。それに彼は芹沢よりも年下ではあるが、上司だ。しかも雇用主だ。説得力的にはこっちの方が強い気がする。
なお、この発想でいくと霊幻にただただ片想いされる芹沢ができるだけなのだが、トメは気づいていなかった。
さて。配役が決まったところで、今度は二人の距離感を観察する。そもそもこの二人にラブが発生するのか不明だった。
おっさん上司もとい霊幻は、芹沢には割と積極的に声を掛けていた。
「芹沢」
「はい」
「お茶」
「はい」
気遣いというよりも自分の手足として使うためだというのは、トメの目から見ても明らかだった。だが、時折芹沢を見つめる眼差しはどことなく熱を帯びている。それは秘めたる思いが隠しきれずに溢れ出した結果に違いない。気がする。多分。そういうことにしておく。
芹沢は、主役のおっさんらしく霊幻に対しては尊敬の念を抱きつつも、若干の塩対応を隠しきれていなかった。霊幻が呼べば面倒臭そうな表情を隠そうともしないし、しかし上司命令なので従順に従っている。立場としては押しかけ手伝いのトメよりも上なのだが、トメに命じるでもなく急須と湯呑みに湯を注ぎ、茶葉を用意して手際よくお茶を淹れていた。湯呑みをトレイに載せて運んでいく背中は少し丸まっていた。もう少し自信を持てば、格好良く見えるんじゃないかなあとトメは思わずにはいられない。霊幻ぐらいに自信満々な態度も鼻につくが、足して割ったらちょうど良い気がする。
芹沢が湯呑みをデスクに置くと、「ありがとう」という霊幻の声が聞こえた。湯呑みを受け取る手が、芹沢の指に触れて、あっと思う。ドラマで見たやつだ。
「いえ、ほかに何か必要なことがあったら呼んでください」
「おう」
トメのテンションが上がったのも束の間、二人は事もなげに触れた指を離して、芹沢がトレイを給湯の棚に戻しに行く。霊幻もお茶を啜り、あちち、と声を漏らしていた。
ドラマにあったラブなコメとは大いに違う場面に、トメのテンションも下がり、平常時のものに戻った。
カチ、カチ、とマウスをクリックする音と、外の車が走る音が遠くから聞こえている。日が徐々に傾き始め、開いていたブラインドからは西日が差し込むようになると部屋が薄暗くなった。
はあ、と響いたのは霊幻のため息の音だ。伸びをした彼が立ち上がって窓へと向かう。
「芹沢、電気つけてくれ。あとは終業時まで自習してていいぞ」
「はい、ありがとうございます」
芹沢が立ち上がり、ドアの近くにある電気のスイッチを入れに行く。エクボはいつの間にかいなくなっていた。
特に何も変わらない、平凡な事務所での一日が終わろうとしている。トメもいい加減動きのない二人を観察しているのに飽きて来た。世の中にあんなラブコメ、起こるわけがないし、芹沢と霊幻の間でなんて、万に一つも起こりはしない。
「うわっ」
霊幻の声に、二人の顔が窓に向いた。
「はちっ、はちっ!」
換気のために開けられた窓からうっすらと冷えた風と共に、黒い塊が飛んでいるのが見えた。
「えっ、霊幻さん外に出して!」
思わぬハプニングにトメも部屋の端に逃げてしゃがみ込んだ。迷い込んだ蜂も突然のことに困惑したように、部屋を四方に飛び回っていた。霊幻は窓際から四つん這いになって芹沢に必死の形相を向けていた。
「無理! 芹沢、追い出せ!」
「あっ、はい!」
ドアの前で棒立ちになっていた芹沢が指を持ち上げると、蜂の動きが突然ぴたりと止まった。蜂が威嚇するときに空中で留まるホバリングではなく、蜘蛛の巣に捕まったときのようにもがいていた。そのまま不自然な動きをして、窓の外へと運ばれていく蜂は、不意に自分の制御を取り戻したかのように慌てて逃げていく。芹沢は窓へと近づいて閉じると、ようやく静けさが戻った。
「せ、芹沢ぁー! よくやった!!」
感極まったように霊幻が立ち上がって芹沢に抱きついた。
「離してくだい、霊幻さん!」
その行動に驚いたように芹沢の声が上ずる。肩に控えめに載せられた手は、言葉とは裏腹に引き剥がそうとする力は篭っていないようだった。
あ、ドラマで見た。とトメは思ったが、先ほどのようなテンションの上がり方はなかった。蜂が出ていった安堵のほうが大きいし、今となってはどうでも良かった。配役を決めたり観察したり、ドラマによく似た状況に興奮するといった異常なテンションはすべて暇によるものだ。暇じゃなくなった今ではもう頭の中から消え失せていたし、そろそろ帰る頃合いだとも思った。
「それじゃ、私帰りますね」
「おう、トメちゃん気をつけてな」
「お疲れ様、気をつけてね」
芹沢から離れても傍に立つ霊幻と、霊幻の肩に置いた手をいつの間にか腰に下ろしている芹沢に見送られてトメは事務所を出た。
帰り道を歩きながら、ふと思う。脳感部の部員たち、あんな距離近かったっけ。ハグとか手渡しとか、記憶にある限りでは見たことがなかった。でも肉体改造部はみんな固まって行動していたしな。まあどうでもいいや。成人男性たちの距離の取り方など知る由もないトメは、立ち去った後にブラインドの下された霊とか相談所での出来事についても、もう想像力を羽ばたかせることはなかった。