お兄ちゃんって呼ばれたい 午後十時、仕事が終わり夜学に通い、シャワーを浴びて一息つくのは大体それくらいの時間だ。最初の数ヶ月は疲れ果てて記憶が飛んでいたこともしばしばだったが、だんだんと慣れてくると夜中まで夜更かししたり、夜学の後に学友と飲みに行けるようにもなっていた。
霊幻と飲みに行ったのも、忘年会に新年会、松の内も明けて新しい年が日常として馴染み始めたタイミングだった。
遅い新年会という名目でチェーンの居酒屋に入った。半個室になったテーブル席で、タッチパネル式の注文システムで適当なつまみと酒を頼む。霊幻さんはビールですか。レモンサワーかな。じゃあ俺はビールで。
「お前手慣れてきたな」
注文の送信ボタンを押すタイミングで水が運ばれてきて、口を付けると霊幻がぽつりと言う。
「そうですか? でも学校の人たちと飲みに行くってなると俺が一番年上だからやらなきゃかなってなるんですよね」
「ふーん、俺とは飲みに行ってくれねぇのに」
いじけたように唇を尖らせる霊幻に、手元の水に視線を落とした。アルコールが入っていないはずなのに。
芹沢が霊幻と飲みに行かない理由は、単純に霊幻が酒に弱過ぎるからだ。芹沢も酒には弱いほうだが霊幻よりはマシだった。飲み会は嫌いじゃない。誰かが飲んで陽気になっている姿を見るのは好きだし、人が飲んでいる間は好きなだけ食べていても気に留めないから気楽に過ごせる。
だが、霊幻と一緒だとそうはいかない。忘れもしない居酒屋に初めて連れて行かれた日、酒や談笑を楽しむ間もなく、彼はビールの表面を舐めただけで酔い潰れた。たくさん頼まれたつまみは殆どが芹沢の胃に入り、いつまで経っても起きない霊幻を待つ間にラストオーダーの時間になってしまった。人が大勢いる前で超能力を使うわけには行かないから、店を出るときには自力で担いで帰ったという苦い思い出がある。
その一件以降はそれとなく一緒に飲むのを避けていた。今日は数ヶ月ぶりの飲み会で、数えて三回目になる。
「まあまあ、ほらお酒来ましたよ」
話を逸らしたいタイミングで店員がやってきた。ビールとレモンサワーの他に、枝豆と冷奴に冷やしトマトと唐揚げを置いていく。
乾杯してから口に運ぶと、肩から力が抜けた。これから時間掛けてゆっくりと減らしていくつもりの一口と同じ量を霊幻が呑むと、早くも頬がじわりと赤くなるのが見えた。
「お前はよくやってるよ、芹沢ぁ」
「ありがとうございます」
「だけど角の掃除は丸く掃くのは駄目だ、埃はこびり付いたら取るのが大変なんだよ」
「はい、気を付けます」
芹沢は頷きながら、枝豆のさやを押して、塩の効いた緑の粒を口に入れる。
最初の注文の段階で、こっそりノンアルコールのレモンサワーを頼んだ筈なのに霊幻はすっかり酔っていた。頬の赤みに呂律の回らない口調と絡み酒のような言動を不思議そうに眺める。事務所のアルコール消毒液に対してそうした反応は見せないので、人が増えて賑わいの増した居酒屋の雰囲気に呑まれているのかもしれない。
なんだっけ、と記憶の引き出しを探りながら、唐揚げを箸で摘む。一口食べて、あれだ、と思い出した。プラセボ効果というやつだ。
「俺はね、実はさ、姉貴がいるんだけど」
「……はい」
この話は初めてだなと思って、口に入った唐揚げを慌てて飲み込んで相槌を打つ。
座った眼差しが芹沢を凝視して、落ち着かなくなる。目を離さずにグラスに口をつける霊幻から視線が逸らされた。
「本当は兄貴が欲しかったんだよ、ずっと、ずーっと昔の話だけどな」
「ああ、シゲオくんみたいなお兄ちゃんですか?」
「モブは、うーん……いいや、もっと頼れる感じのさ」
あれよりも頼れるとは、と出かけたツッコミを飲み下す。きっと霊幻の中では、影山茂夫は子どもであり、保護対象なのだろう。
「はあ、まあでも、兄弟がいるっていいですよね。俺は一人っ子だからそういうの分からなくて」
「そーなの? 欲しいと思ったりしたこととかねぇの」
「そうだなぁ、弟がいたらいいなって思ったこともちらっとあったけど……」
それこそ、霊幻が言うよりもずっとずっと昔の話だった。
自分の力を気味悪がられて集団から疎外されるようになって、小学校を卒業する前から周りとの関わりを一切絶っていたのだ。もし兄弟がいたら、自分の存在がきっと迷惑を掛けていただろうというのは想像できる。一人でいなければならないとずっと思っていたし、それに疑問を抱くこともなかった。
「じゃあさ、お前が俺のにーちゃんになれよ、芹沢」
「はい?」
論理の飛躍に、思わず手の中のビールを零しかけた。反射的に超能力を使ってグラスを縦に戻す。
背中をくんにゃリと曲げて見上げてくる霊幻の上目遣いは、どこからどう見ても酔っ払いのそれだった。
「お前は弟欲しくて、俺が兄貴が欲しかったんならウィンウィンってやつだろ」
「そうなのかなぁ」
そうなのかなぁ。酔っ払い(仮)の戯言だが、影山兄弟に対するほんのりとした憧れがあったのも事実だ。腕を組んで悩んでいると、服の袖を引っ張られた。再び霊幻と視線が合う。
「おにーちゃん」
「れ、霊幻さん」
明らかに悪ふざけなのだが、なぜだかグッと来てしまった。上がった心拍数を悟られる前に腕を引くと、力は強くなかったので霊幻の指がするりと解けた。
「こら、そうじゃなくてお兄ちゃんならどう呼ぶんだ?」
それも気にした様子もなく、霊幻がぼやく。
「あ、あ、あら、あらたかさ」
「あーらーたーかー」
駄目出しに瞑目して眉間を指で揉む。相手は上司だ。この距離感はちょっとおかしい。いや、かなりおかしい。
「新隆……」
さん、を唇の動きだけで添えると、それで満足したのか霊幻が目を細めて笑った。満足してくれたことにほっと息を吐く。
「お兄ちゃん、あーん」
頭を半分寝かせたまま、口を開けて何かをねだる姿に芹沢は肩を揺らした。
「え!? まだやるんですか」
「寄越せよその唐揚げ」
間髪入れずに飛んだ指示に芹沢は箸で摘んだ。しかし寝たままの姿に不安が過る。逡巡して、空いた左手を霊幻の頭に添えて、横から縦に顔を起こさせた。
「……新隆、行儀が悪いよ」
参考にしたのは母親の言葉だった。口を開けたまま驚いた顔をする霊幻に、すかさず芹沢は唐揚げを口の隙間に差し込んだ。
「んぐ」
「もう勘弁してください……」
羞恥に耐えきれず、泣き言が溢れる。居た堪れなさに少しずつ飲み進めるはずだったビールを飲み干す。苦い味が喉を通り、頭がくらくらした。頬を膨らませて咀嚼する霊幻が、少しばつが悪そうに視線を逸らすのが揺れ始めた視界に映る。
「……ごめん、兄ちゃん」
ぐらぐらと揺れる頭で芹沢は考える。かわいいと思っても、弟だったらしょうがないのかな。かわいいなあ、と思った後の記憶はあやふやだ。
翌日、霊幻に昨日のことを聞いても顔を僅かに赤くするだけで、彼の口からその日のことを一切語られることはなかった。食い下がったら怒られたので、素直に引き下がる。でも、また彼のお兄ちゃんを聞きたいと言う思いは消えないから、芹沢は霊幻の次の飲みの誘いをずっと待ち続けている。