信号 その日は朝から雨が降り続いていた。
暗い部屋で目が覚めて、霊幻は布団の中で携帯を開き、天気予報を確認する。一日雨マークの予報が出ていて思わずため息が漏れる。
こういう日は客足も落ちるが、雨を理由に休業するわけにもいかない。憂鬱な気持ちをどうにか奮い立たせてベッドから身を起こす。
起きてから支度する間も、テレビから流れるニュース予報では低気圧で前線が停滞するとかで、週いっぱい天気が安定しないという内容がさらに気持ちを憂鬱にさせた。ただ、天気が悪い日が続けば日が経つにつれて身体の不調を訴える客が増えるので、悪いことばかりでもない。
家を出ようとして、霊幻は一番大きな黒い傘を取り出した。相談所に置き忘れられて、年単位で引き取り手が現れなかったもので、雨がしっかり降る日には重宝しているものだ。外に出た途端に雨の匂いがまとわりつき、白い息が零れる。防寒はコートだけじゃ足りなかったかもしれないと少し後悔して、マフラーを取りに玄関扉の内側に戻った。
霊幻の自宅から事務所までは徒歩十五分程度である。バスで行けなくもないが、バスの待ち時間と降りた場所から歩く時間を合わせれば五分程度の誤差にしかならないので、基本的に歩くようにしている。
駅に向かうまでの道のりは雨で人通りも閑散としていた。普段なら通勤するビジネスマンや学生と共に歩くことが多いが、天気が悪いというだけで見える景色はまるで違う。筋を挟んだ大通りからは、車が通る度に水を切る音が響く。普段はあまり気にならないが、やけに大きく聞こえた。
大通りに出ると、等間隔に存在する横断歩道が駅まで直線に続いていた。ビジネス街は基本的な設計が成人男性を基準にしている。そのため大通りに垂直に伸びた細い通りにかかる横断歩道はもちろん、大通りを横切る横断歩道の信号も点滅が早く、青信号の間は鳴り響いているカッコーの音が横断途中で消えて、慌てる年寄りを助けた経験も何度かあった。
成人男性の霊幻は、歩幅を大きくして早足で向かえば渡り切れる。でも雨の日まで闊達に歩くことはできず、歩いているうちにひと区画先で赤く点灯した信号を大人しく待つことにした。細い通りにかかる横断歩道でも、意外と社用車だったりバイクが通るので、大体の通りにはカーブミラーがついている。事故が一度でも起きたことがあるしるしなので、信号無視をする気には慣れなかった。
不意に、ポケットの中で携帯が震えた。手に取って確認すると、目の端に人の足が見えた。白い靴下に黒っぽいローファーで学生だと一目で分かる。男子ならズボンも見えるから、女子だと思った。携帯を確認するために傘で前方の上半分以上が隠れた視界からは、ふくらはぎの下だけしか見えない。そのため、どんな装いをしているのかは分からなかった。ただ、真っ白い靴下に踵に皺のないローファーを見るだけでも、素行は真面目だと分かる程度だ。
携帯が着信したのはダイレクトメールだった。削除してから傘を少し持ち上げて、前を見ても学生と思しき姿は見えなかった。
信号は青になっていたが、向こう側の歩道にも人は見つからず、大通りの斜向かいは黒っぽいスーツの男性が足早に歩いているのが見えるだけだ。細い通りの左右を見渡しても、雨で灰色にけぶる細い路地が延びているだけで、人影すら見えなかった。
気のせいにしては鮮やかすぎる記憶に首をひねりながら、霊幻は青信号を渡る。次の信号も、ひと区画を渡り切る前に青色が点滅していた。
響いていたカッコーの音も消えて、車道の信号が青に変わる。一時停止していた車が一斉に動き出して、通り過ぎる音が騒々しく響く。
霊とか相談所は目と鼻の先だった。あと一本横断歩道を渡ればビルの中に入って雨と寒さを凌ぐことができる。
少し気が緩んで下を向くと、大きな水溜まりを見つけて霊幻は後ずさった。細い通りを車が勢いよく走れば、スラックスが駄目になると警戒しての行動だった。その動きに大きな傘が傾いて、再び視界の半分以上を覆われた。傘を持ち上げる前に、また足が見える。
しかし先ほどとは全く違う足だと感じた。ほとんど直感だった。靴はおろか靴下も履いていない青白い足は、歩道と車道の境目に立っている。
見てはいけないものを見てしまった心地に、ぞくりと肌が粟立つ。傘を持ち上げると何かを見てしまいそうで、霊幻は足だけを注視していた。そのうち、立ち止まっていた足が不意に前に進みだした。後ろから垣間見える爪には泥が詰まっていて、足の裏もひどく汚れている。
つられて霊幻が足を踏み出した。途端に、後ろから勢いよく身体を引っ張られた。
「霊幻さん!」
よく知った声に振り返る。傘を軽く持ち上げると、ビニル傘を差した芹沢の驚く顔が見えた。
「まだ赤信号ですよ」
え、と思って顔を前に戻すと、赤い信号が青く変わるところだった。引き止められてから数秒後に、信号を無視したバイクがスピードを落とさずに通り過ぎていく。
「危ないなあ……」
芹沢のぼやく声と共に、聞き慣れたカッコーの音が辺りに響き始めた。傘を打つ雨音は以前鳴り止まず、遠くの景色はぼんやりと霞んでいる。霊幻は信号の向こう側、誰もいない歩道をじっと見つめた。