少しずつ橙に紺が混じり出した空に、ぽつりぽつりと祭提灯が灯っていく。昔ながらの祭囃子と、喧騒がよりこの場の熱気を煽っているようで、つ、と首筋に汗が流れたのがわかった。
「あれっ」
こんなところで会うとは思っていなかった人物にヒースクリフは目を瞬かせる。
放課後や休日によく行く料理屋の常連だ。
ヒースクリフが見かけるときは、いつも高級車に乗って来ていて、仕立ての良いスーツできっちり決めている彼が、今日はとてもカジュアルだ。頭にはタオルを巻いて、Tシャツの腕を肩まで捲り上げているスタイルは、普段のスーツ姿と違って、しっかりと筋肉のついた腕が晒されている。いつもとは違うかっこよさ、というのか。印象はまるで違うがこちらも彼にとてもよく似合っていた。
「あ?……なんだ、ネロんとこでよく見る坊ちゃんじゃねぇか。今日はいつも一緒のちいせえのはいねぇのか」
思わず声を上げてしまったが、ヒースクリフが彼に認識されているのには驚いてしまった。ヒースクリフにとっては、「格好いい大人の男」だったから、印象が強くてよく覚えていたが、そんな彼にただの学生である自分が覚えられているなんて思ってもみなかったのだ。
「よくネロから話を聞いてるぜ。あー、ヒースクリフ、でちいせえのがシノ、だろ」
俺はブラッドリーだ、とにかりと笑うと、いて、と口の端の怪我に触れた。
「それ……ってもしかして、ネロ、が?」
「はは、あいつは意外と怒るとおっかねえぞ」
言葉のわりにからりと笑う。幼くも見える笑い方は今日の格好にとてもよく似合っていて、イメージよりも気さくだった。
自分とは全然違う世界にいるのだと思っていた人が急に身近なところに降りてきた。そんな感じ。
「……うん、今日はひとり」
「へぇ?珍しいな。ひとりでわざわざこんなとこ来るようには見えねぇが」
ブラッドリーたちのように、喧嘩できたらよかったのかもしれない。でもヒースクリフとシノの喧嘩はそんなふうにはならない。いつだって平行線で、わかってもらえない言葉たちがのどの奥に詰まるだけだ。
きゅ、と肩からかけたスクールバックの紐を握りしめる。……せっかく、一緒に来ようと言っていた、のに。
「やってみるか?」
「え?」
一回分奢ってやるからよ、と屋台から射的用の銃をとってヒースクリフに渡してくる。コトン、とコルク栓が置かれた小皿もそばに置かれた。
「俺、やったことないよ」
「どれでもいいから狙って引き金引いてみな」
「狙って、って」
的になっている景品を眺めていると黒い豆柴のぬいぐるみに目が止まる。かわいい、と思う気持ちと、つい重ねてしまった幼馴染の顔に少しばかり腹立たしくなってしまったのとでそれを的にして、引き金を引く。
少し逸れたそれはぬいぐるみを揺らすこともしなくて、それが思ったよりも悔しい。
「筋はいい。しっかり銃身を固定してやってみろ」
次は足先に当たる。ぐらりと揺れたような気がするけれど、倒れるまではいかない。
「さぁて、最後の一発だ」
しっかりと狙いを定めて。……少しばかり、言い合ったときのわだかまりのようなものが過ぎったから、それを追い払うように引き金を引く。今度はしっかりと的を捉えて、こてん、と豆柴が転がった。
やった、とブラッドリーを振り返ればよくやったと言わんばかりに、にやりと褒めるように笑われて髪をくしゃくしゃに乱された。
転がった豆柴を無造作に掴み上げて、初めてには上出来じゃねぇかとヒースクリフに渡してくれる。
豆柴のくりんとした丸い瞳がまるでこちらを窺うように見上げてくるのに、ヒースクリフの頬はつい緩んでしまった。……やっぱり、ひとりは嫌だなと、そう思った。
「おい、オヤジこれふたつもらうぞ」
隣の屋台に声をかけたブラッドリーが、小銭を置いて氷水の中に手を突っ込んだ。そこからラムネ瓶を二本取り上げて、そのまま二本ともヒースクリフに渡してくる。
首を傾げたヒースクリフにん、と顎先で示された先を見ればそこには汗だくで肩で息をしているシノがいた。
無言で突き出された手にはリンゴ飴が二本。幼い頃、初めてふたりで祭りに来た時も同じことがあったのを思い出して、ささくれ立っていた胸のうちが宥められていく。
ぽん、と背中を押すように叩かれて、ラムネの礼を言って走り出した。
駆け寄って、シノの掌からリンゴ飴を一本引き抜いて、代わりに火照っている頬にラムネ瓶を寄せた。
「……冷たくて、気持ちいい」
「もらったんだ。どこかで飲もう」
「なんだ、そいつ」
「さっき射的で取ったんだ。おまえに似てるだろ」
「は?似てないだろ」
「似てるよ」
見かけた時の辛気臭い表情とは打って変わって、ぎゃあぎゃあと笑いながら、早速言い合いめいたことをしながら遠ざかっていく背中を見送りながら、ブラッドリーは汗を拭う。かすかな郷愁が胸を過って、しばらくふたりの背を眺めていた。
――あんな風に、隣で笑い合うだけで満足できていればよかったのかもしれないけれど。
「ブラッド?」
「あ?」
差し入れ、とよく冷えたペットボトルの茶にパックに入った焼き鳥と焼きそばを持ったネロがぼうっとしていたブラッドリーを窺うように見てきた。
二日ぶりのネロはブラッドリーの唇の傷に目を留めて、それから気まずそうに顔を逸らす。
「てめえの作ったやつじゃねぇのかよ」
「なんでだよ。祭りでしか食えねぇんだからたまにはいいじゃねぇか」
……家にはあるよ、とブラッドリーの座っていた簡易椅子の少し後ろの縁石に腰掛ける。それが、ネロの素直でない謝罪であることもわかっている。ブラッドリーに口で言い負かされがちなネロの方が、実は案外手が出るのが早い。
まだようやく日が暮れそうなばかりで、これからが祭り本番だというのに、早く帰りたくてしょうがない。こんな暑い日にはビールにネロの作ったフライドチキンがよく合う。
ああ、いや、たまには。
「オヤジ、もう二本もらうぞ」
さっきと同じように小銭を渡して、ラムネを二本引き上げる。栓をとって、こん、と飲み口にはまっているビー玉を落とせばシュワシュワと中身が溢れて、指先を濡らした。
ん、とネロに差し出して、それからもう一度自分のものを同じようにする。久々に飲んだ味は見た目よりもベタつく甘さをしていて、こんなに甘ったるいもんだったかと記憶を探る。
まだ、ともに居る心地よさだけで走り回っていた頃のこと。
「さっきおまえんとこよくきてるやつら来てたぞ」
「あぁ、さっき会ったよ。ヒースとシノだろ」
だからこれ?とラムネ瓶を掲げる。
「たまには悪くねぇだろ」
「……まぁ、こっちも祭り、ならではだよなぁ」
すっかり酒に馴染んだ舌には、甘すぎる。今の自分たちには似合いもしない。
――けれど少しだけ、あの頃の気持ちを思い出す。
一度去られて、それでもやはりと足掻いて、求めた、必死で青臭い自分のことを。
何も言わなくてもわかり合って、同じ気持ちで、隣にいることが当たり前だと思っていたけれど、そんなものは幻想でしかなくて、道が分たれるのはあまりにもあっさりと訪れてしまうこと。
隣にいる、その、互いを縛り付けることにも似た渇望のためには言葉に、形にしなければならなくて、あのときのブラッドリーはおそらく今までで一番みっともない姿を晒した。
それに、怒りと、許容と、それからよくわからない何かを浮かべて頷いたネロのことを。
「ーーネロ」
引き寄せて、唇を合わせる。
「馬鹿野郎、外だぞ!」
「いいじゃねぇか、どうせ誰も見ちゃいない」
「そういう問題じゃねえ!」
照れたのを誤魔化すように手荒く焼き鳥を突き出してくるネロを笑いながら、仕方ねぇとばかりに大人しく受け取る。そうでなければしまいには口に無理やり詰め込まれかねない。
大ぶりな祭りの焼き鳥串にかぶりつく。
まばらになったひとらの喧騒の終わりにか、それとも思い出した昔にか、無性に抱き潰してしまいたい、という衝動を遠くに上がりだした花火を見上げて誤魔化していた。