義家族パロ👁️🗨️⏰ “文字は読める?”
男が横から差し出してきた紙にはそう書かれていた。頷きを返すとその下に新しく文が付け足される。
“君の名前を教えて”
革張りの手帳に、ひとめで質のいいことが知れる黒手袋と臙脂色のコート。なにより時計を模した義体の頭。彼の纏う何もかもが、この裏路地の寂れた空間で異質な存在感を放っていた。
「……ヴェルギリウス」
時計の短針が三秒分だけ動く。これが子供の名を呼ぶ時の決まった音だと、彼自身が知るのはもう少し後のこと。
“君さえ良ければ、私と一緒に来ると良い”
子供と並んで壁際に座っていた男が手帳を閉じて立ち上がる。コートの裾が視界の端から消えると、子供の目の前にはいつもの風景だけが残った。
辛うじて屋内と定義できる壁が残るだけの小屋とも呼べない空間。砂埃の積もる床に、打ち捨てられた鼠色の毛布に空瓶や空缶。それ以外には何もない。
同じ境遇の人間たちと肩を寄せ合いその日死なないことだけを考えて過ごす日々。保護者と言える存在もいたが、どこかで命を落としたのか数週間は顔を見ていない。いずれもこの場所ではありふれたことで、悲劇と呼べるほどのことでもなかった。
少なくとも子供はあの奇妙な紳士が差し伸べて来た手──救いの手か地獄へ導く手かは分からないが──を取っても、今以上に酷い境遇には陥らないだろうと考えた。むしろ手を取るべきだいう確信があった。
「名前」
子供が出てくると分かっていて、外で待っていた様子の男に短く問いかける。男は胸元から取り出したペンを握って目の前で屈むと、次いで手帳ではなく子供の手を取った。
“Durante“
子供は薄汚れた手のひらに黒いインクで記された文字を黙って見つめた。それはまるで所有を示す刻印のようだった。
「デュ……ラン、テ」
名前を呼ぶ。時計からポーンと鐘を打つような音が聞こえて、子供の手を握ったままの指に力が籠る。
「どうかされましたか」
時計の音を聞きつけたのか路地の曲がり角からひとりの女が顔を出した。こちらも男と同じく裏路地には馴染まない身なりをしている。
男は子供の手を引いて、女の方へと歩き出した。
「本当にいいのですね」
女の冷え冷えとした声に応えて時計の針音が鳴る。どうにも会話しているとしか思えないのだが、いくら注意深く耳を澄ませても子供に男の声が聞こえることはなかった。
「ファウストも貴方の気まぐれには慣れたつもりでしたが……えぇ、それは手配済みです……分かりました、そこまで言うならどうぞお好きに」
こちらを一瞥した女の目からは何の感情も読み取れない。快く思っていないことだけは確かだったので、子供は黙って男のコートの裾だけを見ていた。
1
”私のことはダンテと呼んで“
子供は最後に男と交わした会話──手帳に書かれた文字を思い起こす。
ダンテに連れられて乗った車は人生の大半を惨めな思いで埋め尽くした裏路地を易々と離れ、拍子抜けするほど簡単に巣との境界線をも超えた。初めて目にする巣の中の景色に目を白黒させているうちに辿り着いた先は、中心部から離れた場所に位置する屋敷だった。
迎え出た使用人はこちらを見て眉を顰め、玄関に足を踏み入れるや否や浴室へと連行された。全力の抵抗をものともしない女たちに体の隅々まで綺麗に洗い上げられる自分を、戸口で肩を震わせながら眺めていたのが最後に見たダンテの姿だ。
何をせずとも衣食住が提供される環境も、人の動きを感じられない屋敷の静けさも子供にとっては経験のないことで、まだ夢を見ているような気分。
部屋を出るなという言いつけを守ってまんじりともせず過ごしていると、様子を見に来たファウストという女が見兼ねてか何冊かの本を手渡してきた。
挿絵のひとつも無い本は知らない単語で埋め尽くされていたが、意地になって眺めているといつの間にか眠気が忍び寄ってきて、ようやっとベッドに身を預けることができた。
医師が健康状態に問題がないと診断を下すと、今度は理髪師、仕立て屋などが入れ替わり立ち替わり部屋を訪れて子供の身なりを整えていく。他人に触れられるのは依然として慣れなかったが、監視役としていつもファウストが横に控えていたので子供は大人しく従っていた。
数日経つと屋敷の中を自由に動き回る許可が出たので、特に目的もなく数えきれないほどの扉を開け閉めしてみた。ついぞ開いた扉の向こうに赤い時計を見ることはなかったけれど、随分と気は紛れた。
一週間も経つとあの男は自分を拾ったことなど忘れているのかもしれないなという思いが頭をもたげ始める。元より気に入らなければ逃げ出す気であったし、無関心である分には一向に構わないのだが。
<──!>
食堂に入ってくるなり、こちらに気がついて小気味の良い音を立てた時計にその疑念は更に深まる。
ダンテはそそくさと近づいてくると、朝食のビスケットが乗る皿の横にノートを広げた。
“君の髪は銀灰色だったんだね。朝日を反射している様が目を見張るほどに綺麗だ”
何を書いているのか半分以上は分からなかったが、最初の日に女中が何度石鹸を擦り付けても一向に泡立たない頭髪に戦慄していたことを思い出す。
齧りかけのビスケットを片手に、黙ったまま走り続けるペン先を目で追う。
“今日まで放っていたことは許してくれるね。君への贈り物を用意していたら、会いに行く時間が作れなくて”
存在を忘れていたわけではないらしい。その後に男が書き連ねた単語には意味を知らない物も多く含まれていたが、それらが自分のために用意されたらしいことだけは伝わってきた。
「なんで」
害意がないことは既に知っていた。だがこうして丁重に扱われる覚えはない。犬猫と同じ感覚で拾ったのだと思ったが、まさか本当に息子として扱うつもりなのだろうか。
ダンテは子供の問いかけにぴたりと手を止めた。それから子供の顔を覗き込んだので、文字盤に映り込んだ自分の顔と対面することになる。
“君がいると私には良いことがある。だから大切にするんだ”
良いことというのはわからないけれど、大切にするという響きは悪くない。そう思ったのと同時に、文字盤に映る顔のきゅっと寄っていた眉が解けた。
針がクククッと弾んだ音を立てて、どうやらそれが彼の笑い声らしいと知る。
“先生も手配したから、色々なことを学んでね。ファウストが渡した本も読めるくらいに”
「……それは」
一度部屋の隅に追いやった本を思い出してまた顔を顰めてしまう。題名さえ読めなかったのだから、読み終わるまでにどれだけ時間がかかるか分からない。
“気が進まなければ途中で止めていいよ。でも私は君と、こういう方法でしか話ができないから。君が沢山勉強をしてくれたら、私たちの会話はもっと楽しくなるでしょう?”
こうして会話することは多分、嫌いではなかったので。少しはこの男の言うことに付き合ってやっても良いかという気分になった。
“沢山食べて、沢山学んで、早く大きくなってね”
“Vergilius”
机に頬杖をついた時計が綴る自分の名前を見て、この人のような字を書けるようになれたらいいなと思った。
2
“少し見ないうちに背が伸びたね“
ダンテは屋敷を留守にすることが多かった。帰ってくる時は決まって沢山の土産物を携えており、子供にあれやこれやと押し付けるのが恒例となっている。
今も居間の机には子供の好みそうな菓子だったり技術が使われた玩具が並んでいるけれど、子供が自分から手を伸ばすことはない。
「靴が少し窮屈になった……かも、しれません」
服装や言葉遣いは勿論のこと、礼儀作法、果ては歩き方までを男の手配した教師たちから叩き直されている最中の子供は、以前よりもやや神妙な面持ちで男に話しかけている。
苦戦しながらもゆっくりと環境に馴染んでいっている子供の様子に満足したのか、ダンテはひとつ涼やかな音を鳴らす。
"明日は仕立て屋を呼ぼうか。ついでに次の季節の服も揃えてしまおう"
子供がこの屋敷にきて半年ほどが経っていた。男は何を買い与えるにも一つ返事で、金銭に困る様子は微塵も見せない。
彼が何を生業としているのかを子供はまだに知らないし、ファウストに聞いてはみたが教えてもらえなかった。時折屋敷を訪ねてくる者はダンテのことを管理人とか先生とか呼んでいるので、何かを教える立場らしいと想像するくらいだ。
きっと碌でもないことで稼いでいるのだろうけれど、それにしては彼自身から微塵の血生臭さも感じられないのが不思議ではあった。
"勉強の方は順調かな"
子供は黒い手袋が指し示した椅子に腰掛けて、手に持っていた数冊のノートを差し出す。ダンテはそれを受け取ると、赤いスピンを手繰って開いた頁の上に並ぶ拙い文字を真剣に見入っている……ように見える。
暫く無言でノートを読み進めると、胸ポケットから取り出した真白い長方形のカードに短い文言を書きつけていく。
“掛け算が出来るようになった”、“字がほんの少し見やすくなった”、“新しい単語を覚えた”、“初めて詩を書いた。出来はまずまず……”そんなカードが値札みたいにプレゼントへ一枚ずつ添えられていく。
“子供には頑張った対価にご褒美を上げると良いって、教育本に書いてあったから”
とはいつか男が書いた言葉だが、単に彼が物を与えたいがための口実に見える。どうやらダンテは子供の扱いに慣れていないという事実の方が、子供にとっては余程意味のあることだった。
子供は“スペルミスが前回より少ない”という値札が添えられた赤い石のブローチを手に取って眺める。灯りに透かすと血のように鮮やかな色を見せた。
“君の瞳も時折、そんな色をしているんだよ”
カードに書き足された言葉に子供は首を傾げる。身だしなみに口を出されるようになってから鏡を見る頻度は増えたが、こうも爛々とした赤には覚えがない。
「そうですか?」
“うん。君にもいつか分かる”
「……そうですか」
奇妙な養い親との、こうした奇妙な会話は嫌いではなかった。隠し事が多すぎるけれど、然るべき時には全てを教えてくれると──何の根拠もない確信を、子供は強く抱いていたから。
ダンテの私室は屋根裏部屋としか言いようのない場所にあって、とある天文台から引き取った巨大な望遠鏡が設置されている。元は書斎と屋根裏に別れた空間だったが、望遠鏡を置くために書斎の天井をぶち抜いてドーム型に改造した経緯があるらしい。
その日は夕食後に彼の部屋を訪ねて星を眺める約束をしていたので、いつも通り静まり返った屋敷の廊下をひとりで歩いていた。
彼の部屋へと続く扉は廊下の端に掛けられた絵画の裏に隠されている。隠し通路向こうの赤い時計なんて、なんだか子供向けの童話みたいだと子供は思う。
決まった手順で壁に嵌った絵画をくるりと回すと狭い階段が目の前に現れる。登り切った先の扉が薄く開いていて、中からほんの少し光が漏れていた。
ノックもせずに部屋に入ってはいけないと知っていたけれど、そっと忍び込んで彼を驚かせられたらなんて悪戯心で黙って忍び込む。
この隠し扉は元々、屋根裏部屋に通じる扉だった。今は壁一面に二階層で誂えられた本棚の、上段に付随する通路へと出る作りになっている。
階下を一望できるその場所では、いつもなら真下にあるデスクに向かうダンテの頭上の炎を見下ろせるはずだった。
今は時計の文字盤と視線が合っている。そしての時計を隠すように見知らぬ男が覆い被さっていた。茶色く薄汚れたコート、乱れた髪、デスクに放られた折りたたみのナイフ。見知らぬ男の両手が、黒いシャツの上から彼の首を締め付けている。
<──ッ>
手摺から身を乗り出した子供に気がついた時計が、何かを伝えようと針を動かす。助けを求めたのか、逃げろと警告したのか子供には分からない。その時には既に手摺を飛び越えていたので気にかける余裕もなかった。
2メートル余りの高さを落下してデスクの上に降り立った子供に頭が追いつかず、呆けた表情でこちらを見やった男の顔の真ん中に渾身の蹴りを見舞う。靴先から伝わってきた感覚に、今日新しく買ってもらったのになと子供は少しだけ悲しい気分になった。
仰け反った男の首に素早く両足を絡ませて、視界を奪いつつ気道を圧迫する。子供を振り落とそうともがく動きに抗ってきつく頭を締め上げれば、饐えた臭いが鼻をつく。裏路地で嫌というほど慣れ親しんだ臭い。
今の自分にこのまま男の意識を落とせるほどの脚力はない。躊躇する時間も加減する猶予も手を鈍らせる罪悪感もなかった。子供の意識の中にあったのは、男に飛び掛かる直前にデスクの上から掴み取ったナイフのことだけ。
<──!>
ヴェルギリウス、と。確かに針がそう鳴るのを聞いた。
制止の声だったのかもしれないし、ただ反射的に出た叫び声だったのかもしれない。けれどダンテが一歩だって動けない間に子供は全て終わらせてしまった。
自分の両足の間、襟から覗く男の頸にナイフを突き立てる。果物ナイフほどのちゃちな代物だったから直ぐ骨に阻まれてしまったけれど、少し引いてもう一度力を込めれば今度は柄まで通った。
溢れ出した生暖かい血が手に伝うのには構わず、引き抜いたナイフを次は右耳の下に深く差し込む。子供はもう一度同じことを繰り返そうとしたけれど、その前に体から力の抜けた男共々床に投げ出されてしまった。
「ぐ、」
背中を強かに打ち付けてぎゅうと目を瞑る。子供はその時にやっと、この部屋に入ってから自分が一度も瞼を閉じていなかったことに気がついた。当然両の目はカラカラに乾いていたから、堰を切ったように涙が溢れ出す。それは子供の腹の上でとくとくと血を流し続ける男の首と同じくらいに止まる気配を見せなかった。
子供が仰向けになったまま瞬きを繰り返していると、横から視界に入ってくる赤い影があった。
彼は子供の上にのしかかっている死体を退かして、上体を起こすのを手伝ってやる。
服が汚れるのも構わずに肩を抱くよう子供に寄り添ったダンテが、床に広がる血を指先で救う。
“初めて?”
少しのインクで記された短い問い掛けは、けれど意味を汲み取るには充分だった。
「殺すのは──」
言い終わらないうちに体を引き寄せられる。
身の裡に取り込まんとばかりに強く抱きしめてくる両の腕に子供は思わず小さく呻いたが、押し当てられた男の胸から彼の心臓の鼓動が聞こえたような気がして抵抗する気は起きない。
いましがた胎から取り上げられた赤子のように涙を流し続けながら、子供は黙ってその音を聞いていた。