宜なるかな恋人の日 ガタン、ゴトン。
メフィストフェレスでの移動の最中。揺れるバスの中、ガタゴト跳ねる身体を窓へ凭れる事でそれとなく抑えながら、ダンテは街中で見た光景を思い出す。ぼんやりと昼の出来事を頭の中に浮かべてから、自分の横にある本日の戦利品をジッと見つめていた。
街中を囚人達と歩いている時。ふとキョロキョロ顔を動かして、そこかしこに並んでいるショーケースへと視線を向ける。
何気無しに見たものの、色々な物が売っているのだと感心しつつ、恐らくは商品であろう品々をゆったり眺めていく。ダンテは歩きながらも様々な品を視界に映していたが、突然ぴたりとその動きを止めてしまった。後ろに続いていた囚人が「どうしたんだ?」やら「何かあったのー?」やら、騒がしくしているのをダンテは何も言わずにスルーして、くるりと振り返り背後に居たウーティスに何が売っているのかを尋ねている。
《あの、小さくて綺麗な箱に入ってるのは何かな?》
「綺麗な箱…? ああ、あれはチョコレートですよ管理人様」
《チョコレート……。チョコ…》
「今のチョコってあんな箱に入ってんのな、洒落てんねえ。俺ぁ板チョコしか食った事ないよ」
「おっさんは一生食う機会ないやつだな」
「お前の口にチョコレート色したコレをねじ込んでやっても良いんだぞヒースクリフ」
「ごめん」
軽口を叩き合う囚人達の会話を横目に、ダンテはウーティスから聞いた単語を反芻する。
あれが、チョコレート。世間一般がチョコと呼ぶソレは、てっきり茶色一色の塊のような物しかないんだろう、と思っていたダンテはとんでもない衝撃を受けた。だって何だかキラキラしている。勿論、想像していた通りココアのように濃い茶色で、四角い物や丸っこい形をした色々なチョコもあるけれど。
何よりもダンテの目を奪ったのは、とても鮮やかで映える色をした一見食べ物には見えないようなチョコレート達だった。
正直な話。自身の手で持って、全範囲色んな角度から眺めた後に、どんな味がするのか口に含んでみたい──けれど。生憎自分には、醍醐味である味を楽しむ為の器官が存在しない。だから、例え購入しても無駄になるだけだ。解っている。解っているとも。
けれどもその考えとは裏腹に、ダンテの足はそのショーケースの前まで動いてしまう。そのまま、カラン、とベルの音を鳴らし店の中へとお邪魔して。
何も言わずに店内へと入って行った管理人の、突発的すぎる行動に立ち尽くす囚人達。そんな仲間達の元へとすぐに戻ってきたダンテの手には、シックなデザインが何とも素敵な、控えめなサイズの紙袋がぶら下がっていた。
紙袋を忘れないよう隣に置いて、与えられた席へと座る。
出発したメフィストの中、先程の衝撃な出会いを思い出していたダンテは、窓の側でルンルンとご機嫌に鼻歌を奏でて、横の紙袋をするりと撫でた。さらさらとした触り心地がとても良くて、二度三度と指先で往復していると何やら視線を感じて、横に顔を向けた先には成程、と納得する瞳の持ち主赤い視線が居た。
ヴェルギリウスが静かに此方を見ていたので、何があったのかと疑問に思うも折角だからと立ち上がり、PDAを手にしてそろりそろりと慎重に、彼の席へと近寄っていく。話題は何にしようかしら、ぱちぱち液晶を叩いて彼に見せる。最初に名前を呼ぶ事は忘れずに、だ。
《ね、ヴェルギリウス》
「何ですか」
《チョコレート食べた事ある?》
「……値段を問わないのであれば、まぁ。チョコレートが何か?」
《いや、ショーケース越しに見たチョコがすっごくキラキラして見えてさ。とっても綺麗で、美味しそうで…良いなあって思って買っちゃった》
「ふ、貴方は食べられないのに?」
《そう! 私食べられないのに!》
意外と穏やかに笑うヴェルギリウスに、ダンテもケラケラ笑いながら応答する。
食べられないのに、と言った表情に馬鹿にするような感情は一切感じられなかったのもあって、ダンテは少し嬉しくなった。この男の、こういった所は素直に好ましいと思ってしまうのは、果たして良い事なのか悪いのか。
この調子であるならば多少の会話は許されるだろう、とヴェルギリウスの横へ腰掛ける。わいわいガヤガヤと騒がしいバスの中が、この二人が話し込んでいるのに気づいて静まり返るまで。ダンテは街中で見た色んな物について話したり、質問したりを繰り返しながら、二人なりの会話をじっくりと楽しんでいた。
⬛︎
つい衝動のままに買ってしまった、と紙袋を顔の前に掲げながらジリン、と唸る。
だって見惚れてしまったんだもの。心の中で誰に聞かせるのでもない言い訳を述べながら、それでもどうしようと言う考えだけが頭にずらりと並んでいた。
ヴェルギリウスに言われた通り、己が食べる事は出来ないのだから。別に彼の言葉にショックを受けているとか、そんなのではない。純然たる事実なのに、それでも購入した私が悪いと自己嫌悪のような感情に襲われて、頭を抱えているだけだった。
軽く摘んで持ち上げては、くるくる角度を変えて散々楽しんだ鑑賞が終わってしまったコレはもう、捨ててしまうか賞味期限が切れる前に誰かに食べて貰うしかないだろう。ドンキホーテとか好きそうだなぁ。
飛び跳ねて喜んでくれそうな囚人の姿をイメージして、ダンテは紙袋ごとチョコレートを抱えて部屋を出る。数歩歩いて扉に背を向けたままふう、と軽く息を吐く。うん、割と高めの確率で喜んでくれる筈だ。よし! としっかり意気込む。それからドンキホーテの部屋を思い浮かべ、ノックする為に扉へ向き直ろうとしているダンテの背後に、ぬっと大きな影が寄り添った。
「ダンテ? 扉の前で何をしている?」
《オッビョルピャーーーーーーーーッッッ?!!!?!》
扉の前で何故だか俯いている管理人へ、あくまでも親切心で声をかけたヴェルギリウスの耳に、これまでの人生ではおおよそ聞いた事がないであろう音が届いた。例えるのなら、こう、ギャリリリリィィッッ!! と言う大型車のブレーキ音のような。いや多少の差異はあったとして、それは時計から鳴っても良い音なのだろうか、本当に。
ヴェルギリウスは心配しているのか、憐んでいるのか傍目からでは解らない眼差しで、飛び上がったダンテを見下ろした。そろ、と恐る恐る振り向いて、ホッと胸を撫で下ろす姿に彼は首を捻る。どうやら、よからぬ事を企てていた訳ではないようだが。
さりげなくとんでもない音が出た時計の状態を確認しながら、一体何をしていたのかと縮こまっている男へ問いかけた。
《ヴェルギリウスか…びっくりしたぁ……》
「…PDAを持ってきていないんですか? 本当に何をしていたんだ、こんな所で」
《ええっと……手のひらを借りるね?》
ジェスチャーで何とか手のひらを借りる事を伝えると、仕方がなさそうに分厚い手が差し出される。自分より遥かに大きな手のひらに《おお…》と感動して、数回マッサージするようにもちもちと揉んでから、ダンテはスルスルと手袋に覆われた指先で此処に居た理由を綴った。
《買ってしまったチョコをどうしようかと悩んでいて。ドンキホーテにでもあげようかなって考えてたんだ》
「…成程?」
《ほら。一人にあげるのって平等ではないから、こっそりやらないとさ》
話終わったダンテは、最後に手に残る傷跡をするりと撫でて指先を離す。そしてカチコチ音を鳴らして、手に持っている紙袋を時計の前に掲げた。
そろ、と様子を伺うように袋の横から顔を出してくるダンテが、説教を恐れている子どものようで知れずヴェルギリウスの口元が綻んだ。別に怒っちゃいない、と綻びついでにヴェルギリウスは静かに口を開く。廊下に誰が居たとしても、其奴には聞かれぬように。
「……コーヒーか紅茶は淹れられますか?」
《うん? うん。淹れられるよ、一応》
「では香りで判断して良いので、貴方の好みの方を淹れて下さい。俺がこれを頂くので」
《え。……ヴェルギリウスが食べてくれるの?》
「嫌なら別の奴に渡して下さっても構いませんが? 多少なりとも、乱闘紛いが起きると思いますがね」
《淹れる淹れる! こ、コーヒー淹れてくるね、待ってて!!》
紙袋をヴェルギリウスにギュウギュウ押し付けてバビュン、と勢い良く扉へ潜ってしまったダンテの動きに、ヴェルギリウスの口元は綻ぶだけでは済まなくなった。
クツクツと喉を鳴らしながら、押し付けられた袋から小さな箱を取り出して、早々と目的の物を取り出していく。見た目は確かに変わっているものの、昇る甘い匂いは確かにチョコレートの匂いだった。小さい球体を一つ摘んで、口へ放り込み噛み砕く。甘い。
モゴモゴと口を動かしている内に、コーヒーサーバーを握ったダンテがまた勢いよく扉を開ける。既に開いている箱を目撃してしまったのか《ーー!!?》とジリンジリン音を鳴らし始めた。やかましい、とチョコを摘み終わった指で針を弾く。
「煩い」
《だって、食べてる所も見たかったのに! ずるい!》
「一つだけだ、まだ残ってるでしょう。ほら、人が来る前に俺の部屋にとっとと入れ」
《わあいお邪魔します。……ねえ何か甘い匂いするんだけど》
「貴方の針で指を拭いた」
《大事な備品になんて事するんだこの特色》
許せん、とゴツい肩をどついてみたら、己の手が死にそうになってしまった。
それでも許せなかったダンテは怒りのまま、布巾みたいに利用されてた針を押し付けるように、ヴェルギリウスのジャケットに頭突きをかます。アイアンクローを喰らおうと首以外はノーダメなので気にしない、と言うのがダンテなりのコツだった。
案の定、キレたヴェルギリウスに時計をギチギチに締め上げられたダンテは、ギブの代わりにヴェルギリウスの鎖骨を狙ってドツドツと時計をぶつけまくった。そんなダンテの、か弱いなりの抵抗が可笑しかったのか怒りを収めたらしい案内人は、また軽く笑いながら自分の部屋へと入って行く。
今日のヴェルギリウスは何か表情が豊かというか、気分の上下が激しいな。《何なの? 生理?》と部屋に入ったダンテが大きな背中に文字を綴ると、振り返りざまに結構な勢いで時計をぶん殴られる。せめて肩をどつけよ。
いくら何でも流石に調子に乗りすぎた、と後悔しながら、ダンテは揺れる頭で流れるように土下座をした。
⬛︎
《どう? 美味しい?》
「甘いです。あとチョコの外側が少し硬めに出来てる」
《食レポ下手だねヴェルギリウス》
「黙れ」
《ハイ……》
湯気の立つマグカップを傍らに置き、用意されたチョコレートを摘んだヴェルギリウスは、先程とは打って変わってゆっくりと口にする。「甘い」「苦め」「…いちご?」と簡単な味の報告しかしない男の様子にダンテは呆れながら、自分も手袋を外して丸いチョコを一つ持ち上げた。
ダンテが購入したチョコレートは、天体をモチーフにしているらしかった。
慎重に持ち上げた球体は、鮮やかな紅色に黒が混ざり合っている。食べられない身ながらとても美味しそうで、そして綺麗だな、とぼやぼやな感想を抱いた。因みに、ヴェルギリウスが口を動かしながらいちご? と言ったチョコは恐らく木苺が使われている物だろう。私は木苺がどんな物かは知らんけれど。
目の前の表情を見るに、歯を立てた木苺ちゃんは甘すぎず丁度良かったのだろう、とダンテも時計の中でにっこりした。どうせなら美味しく食べてもらいたい。
手元の紅色を気の済むまで眺めてから、ダンテはヴェルギリウスの名を呼んだ。リン、と軽い音が鳴る。甘さに覆われてしまった舌をコーヒーで何とかはぎ取っていたヴェルギリウスが、音の方へと視線を向けた。
目の前の時計頭はコツコツと指先でテーブルを叩いて、手に持っているチョコを小刻みに少し揺らしている。意図を汲み取ったのか、彼は一度息を吐いてから、かぱりとその薄い唇を開いていった。
《ハイどーぞ》
「ん。……ん? ホワイトチョコレート」
《へー、真っ赤なのにねえ》
まだ箱には半分位残っている。次はどれにしようかな、とダンテが指を動かして選ぼうとしていると、ぬっと大きな手がその手首を掴んだ。《うん?》と頭を傾け正面を見れば、何を考えているか解らない瞳とかち合った。
肉のついていない、痩せた手首を掴んでいた手はそのままスルスルと上に登り、そのままきゅう、と細い指が握り込まれる。まるで恋人同士がするような繋ぎ方に、ダンテの身体が驚きでぴょん、と跳ね上がった。
《ど、どしたのヴェルギリウス》
「……いえ、残りは明日に回します。流石に甘ったるくなってきた」
《ああそっか、コーヒーがあるとはいえチョコばっかり食べてたもんね。解ったよ》
「明日の終業後」
《…………うん?》
「また部屋に来て下さい。貴方の趣味なのだから、コーヒー位は持参して頂けると助かります」
《あの…また食べる所見てても良いの?》
「俺が好んで一人、こんな物を食うと?」
《……へへ、ありがとうヴェルギリウス。美味しいコーヒー淹れられるように頑張るね》
握り込まれている手とは逆の指でコリコリと時計の縁を掻き、照れたように俯きながらもヴェルギリウスに了承を伝える。そうした途端に、盤面を見つめている赤がとろりと溶けたみたいに細くなって。ソレを直視したダンテの身体はカチコチに固まってしまった。
《やっぱり今日のヴェルギリウスは何か変だ!!》
ボオン、と大きく響いた音に細まった瞳を大きく開いたヴェルギリウスは、変に焦っているダンテの様子に息が漏れるように笑いながら、未だに自身の手で捕まえているダンテの手――チョコレートを摘んでいた白い指を、己の唇だけで柔く挟む込む。あくまで唇で挟むだけ。みっともなく舐るような真似を、ヴェルギリウスはしなかった。
とは言え、ヴェルギリウスにとってはたったそれだけの仕草だったとしても、ダンテにとってはそうではなく。彼はカチコチに固まっていた身体をわなわなと震わせて、それからぺちょりとテーブルに突っ伏した。
時計に隠れた首筋は随分赤くなっていて、ダンテをそんなザマにした張本人であるヴェルギリウスは、今度こそ薄い唇を大きく開いて笑うのだった。
⬛︎
その日以降。趣味と実益、それと散々自分を揶揄ったヴェルギリウスへの仕返しの為にダンテはちまちまとチョコレート買い漁る日々を続けていた。
街で物資を補給する時などに良さそうな店舗にふらっと寄っては、ダンテ曰く“キラキラして美味しそうに見えた”チョコを購入する。そしてそれを、甘い物なんて大して好んではいないだろうヴェルギリウスに渡し、自分は彼の為のコーヒーを淹れて。そうして不定期に訪れるブレイクタイムの様子を、ダンテはじっくりと嗜むのだ。
本日も飽きもせずにダンテが用意したチョコレートは、何やら色んな絵画が描かれている物だった。ダンテはどんな絵が描かれているかなど微塵も解らないが、恐らくイサンやファウストのような物知りな人間が見たなら、多少の感嘆は聞けるのではなかろうか。
当のヴェルギリウスは、趣なんぞ知らん、と言うように口に含んだ瞬間に素敵な絵画へ歯を立てているが。マァ味には関係ないしね、とダンテは時計の中だけで苦笑する。
そんなヴェルギリウスに少しだけ呆れつつも、彼がチョコレートを口へと放り込んで、噛み砕き、ドロドロに溶けてしまったソレをごくりと飲み下していく様を。繰り返される一連の動きを、針の一つすら動かさず見逃さないよう黙ってじい、と見つめていた。
「……何です? 気味の悪い」
《え? いやあ、食べてる所を邪魔するのは悪いかなって》
「貴方がこの場で語らないのなら、こんな小さな物なんて直ぐに食べ終える」
《…ふふ、長引いても良いの?》
「ええ。貴方相手なら幾らでも」
《………ずるい!!!!!》
ポコポコと憤慨したような動きをするダンテを、ヴェルギリウスは頬杖をついて眺めている。時計頭の癖に喜怒哀楽が激しいにも程があるな、なんて思いつつ頬杖も体勢もそのままに、視線だけを部屋に置いてある小さな卓上カレンダーへと向けた。
もう一月の終わりも近く、長々と続いた肌寒さも段々と遠のいて、少しは過ごしやすくなるだろう。メフィストの運転がしやすいとカロンも喜ぶ筈だが、はて二月は何時、何処へ向かうことになっていたか。
瞳を動かして、迫りくる一日一日のスケジュールをヴェルギリウスは頭に浮かべる。冷たい色を宿した瞳はカレンダーをジロリと睨め付けて、ピタリとある日付の箇所で止まる事となった。ぱ、と思わず顔を上げて――突然の行動に驚いたダンテがこてん、と時計を右へ倒し、傾けた。
《ど、どうしたの? 何かあった?》
「……いや、何でもない。コーヒーはまだ残ってますか?」
《あるある。でも、カフェインだけ取るのもあまり良くないよね…ミルクでも入れる?》
「ハッ、カフェオレやカフェラテなんて物が貴方に淹れられるんですか?」
《オウオウオウなんて事言うんだ馬鹿にするなよ私を! 黙って座ったまま、しっかりじっくり見届けるんだな!》
ヴェルギリウスのマグカップをぶんどって、ふんす、と息を吐いたダンテはたったか早い足取りで、全部屋に付いているであろう簡易キッチンへと向かって行った。
別に煽ったつもりはないが、誤魔化せたのならそれでも良いか、とヴェルギリウスは椅子の背もたれに身体を預けてから、もう一度カレンダーへと目を向ける。
再び目にとまった日付は、二月の十四日。
今の今まで大した興味はなかったが、世の中では確か――バレンタインデー、といった催しではなかったか。
「さて、どうしたものかな」
考えながら、甘ったるい口をどうにかしようとコースターの近くへ手を伸ばして、するりとその手は空を切る。そう言えば、カップはぶんどられ人質に取られたままだった。
中身がまだ入ったままのカップを持って行ったのかアイツは、と呆れつつ立ち上がり、のしのしと時計が向かった先へと赴く。
どうやら未だにカフェオレやらラテやらを淹れられていないらしく、此方に背を向けて何やらワタワタしながら手を動かしているのを見ると、つい悪戯心が湧いてしまう。いや、これは加虐心だろうか。「んん…」マどちらでもいいか、とヴェルギリウスはゆっくりと背後から、それはもう意地悪く聞こえるような声色を作り上げて、彼の名前を呼んだ。
「ダンテ」
《ぃひい!?》
「はは、まだ淹れ終わらな──何で俺の部屋のキッチンを泡だらけにしてるんだ……」
《ご、ごめえん…折角ならラテのが美味しいと思ったんだよぉ……》
碌に中身が入っていないカップを手にしたまま、しょもしょもと沈む姿につい可笑しくなって、ヴェルギリウスは顔に笑みを浮かべてしまう。微笑と薄笑いの中間のような表情に、バカにされていると思ったのかダンテは、《ィン…》ゴオン、と鳴きながらせかせかと漏れ出た泡を拭き取っていた。
《次は絶対美味しく淹れるから…》
「次もコーヒーで良い」
《ーーーーー!!!》
だからそれは時計の音で良いのか。
そんな騒音もとい、ダンテの嘆きが狭いキッチン内に鳴り響いていた。
⬛︎
「おや、ダンテ。今日もチョコレートを見に行くのですか?」
《やあファウスト。そのつもりだよ、ファウストも行く?》
「……そうですね。偶には甘い物も悪くないでしょう」
《じゃあ早速出発しようよ、もう欲しい物は決まってるんだ》
じゃん! とダンテが見せる端末には、既に色々なチョコレートが並んでいる。これも素敵ですね、とファウストが話しながらもどんな物があるのかを確認していると、目の前の時計が《そう言えば…》と声を発した。目だけで続きを促すと、どうやら最近疑問に思っていた事がある、との事で。
管理人の疑問を解消するのもファウストの務めです、と彼女は一度頷いてから、そう言えばの続きを聞き出した。
《最近どんな場所でも沢山のチョコレートを見かけるんだけど、どうして? 私的には嬉しいけれども》
「ああ、その事ですか。答えは簡単です、ダンテ。大体今の時期はバレンタインデーに向けて大々的にチョコレートを売り出しているんですよ。恋人達の日、意中の相手にチョコやお菓子、花を贈って想いを告げる──と言う、マァ一種のマーケティングですね」
《成程、だからこんなに沢山あるんだね》
「恐らく区によっては、薔薇だったりメッセージカードだったり、と贈る物が変わると思いますが…チョコレートは意外とどの場所でも見るかもしれませんね。贈る菓子にも意味があるのだとか」
《ホア…ファウスト詳しいね…。それで? その、バレンタイン? てのはいつなの?》
「今日です、ダンテ」
《ん?????》
「ですから、今日。この日、二月十四日がバレンタインデーとなります」
《きょうが》
「はい」
《こいびとたちのひ》
「そうです。今日も彼に贈る為に行くのでしょう? ふふ。熱烈ですね」
いや、私とヴェルギリウスはそんなんじゃないんだけど。どうして私が街へ出る事を知っていたヴェルギリウスは何も言ってくれなかったのだろうか。もしかして今日の事を知らないんじゃないか?
色んな考えがダンテの頭の中を、まるで盤面にある針のようにくるくる軽やかに回っていく。それから更にジッタバッタと、時計の中身をかき混ぜるようにとっ散らかる思考を何とか力づくで一纏めにしてから、ダンテはポツリとファウストに、《…とりあえず買い物行こうか》と告げるのだった。
買ってしまった。
やっぱり買ってから後悔してしまう、と最初に購入してしまった頃のような想いを抱きながら、ダンテはまたもや扉の前で紙袋と一緒に頭を抱えていた。
今日に限って飛び切りの品を買ってしまったが、それでもこの日だけはヴェルギリウスに渡しては駄目だろう、と。ジリンジリン、呻きと共に時計の音が少しだけ廊下に響いていった。
恋人達の日、バレンタインデー。そんな日に彼にコレを渡してしまっては──きっと迷惑になる。
彼とはそんな関係では無いけれど、そんな関係になるの好意はちょびっとだけ持っていた。嘘。本当は沢山、売って尚余る位には抱えている自覚があった。最初は少しだけだった好意も、ヴェルギリウスが時折見せる優しさだとか気やすさに膨れ上がってしまって。でも別に、それは私の話であってヴェルギリウスはその限りでは無いのだと、勝手に一人、虚しくなっている。
特別な日だからとナイーブになっているのだろうか。何でこの日に渡す物があえてのチョコなんだよ。私はいつも通り、ヴェルギリウスとの時間を楽しめればよかっただけなのに。
《なーにが恋人の日だよ。私にとっちゃ最悪の日だ》
「…また扉の前でジリジリと。何をしているんですか」
《ーーーーーー??!??!》
背後からかけられた低い声に、ダンテの肩が跳ね上がる。
今回はそこまで酷い音ではなかったな。ヴェルギリウスはジッと時計頭を見下ろして、それから抱えられている袋もしっかりとその目で確認した。
抱えているのは何時もより華美な装飾の紙袋。普段と違うのはそれだけだが、彼の雰囲気が違うのは何故なのか。ジロジロと赤い瞳を動かして、ダンテを見つめながらヴェルギリウスは口を開いた。
「いつものでしょう? 何故部屋に入らない」
《ヤ、今日はちょっと……》
「何で」
《だって、バレンタインてやつだろ今日…。そんな日に渡されたって、貴方が嫌でしょ》
「……バレンタインなのは知っているが、俺が嫌だと言う理由が解らない」
《えっ》
「ずっとチョコレートをくれていたでしょう? てっきり今日の為の予行練習だと思っていたんですが」
《え、よこ、えっ?》
「おい。うんざりする程俺に渡しておいて、今日だけは他の奴にくれてやると…?」
先ほどかけられたものよりもさらに低くなったその声にダンテは首をブンブンと横へ振る。
その動きに安心したのか、ふぅ、とほんの少しだけ息を吐き出してから、ヴェルギリウスは腰の後ろ辺りにやっていた傷だらけの手を差し出した。
その手には、彼が持つには可愛らしすぎる程の小さなちいさな花束が乗っている。束というにはささやかで、けれども確かにブーケの形になっているソレを、ダンテは信じられないような気持ちでポカンと見つめていた。
「…頂いてばかりだったので。チョコレートは俺が食うのだから、せめて花束位は、と」
《これは、えっと…つまり、そういう事?》
「ええ、“そういう事”ですダンテ。貰うだけってのは格好がつかないので、これからは貰った分の……ー…花を、貴方に」
花束を受け取って、ヴェルギリウスの顔を見上げる。何だかやっぱり見慣れない彼の柔らかい表情を正面から見てしまうと、どうしても落ち着かなくなる、とダンテは再び花束を眺める事に注力した。顔を近づければ、ふわりと良い香りが漂ってくる。
《花も綺麗で素敵だね》
「……貴方がいる限り、俺のバレンタインはずっと続くんだろうから。どうせなら貴方がチョコとやらに飽きるまで、甘ったるいソレを贈る日をバレンタインにすれば良い」
《はは、ずっと恋人の日?》
「貴方が望むなら。……まずはいつも通りに、俺の口にソレを放り込んでください。コーヒーも用意してね」
ダンテの腰に腕を回して、ヴェルギリウスは部屋へ招き入れる。
抵抗なんて今更する必要はないが、今日は少し違う気がするぞ。ダンテは慌てながらも、どうにかヴェルギリウスの腕にしがみついた。
《ちょ、ちょっとヴェルギリウス?》
「心配せずとも、“いつも通り”ですよ。……それともキスでも必要でしたか?」
《まだ! キスはまだちょっと早いかな!!!》
腕に綴られた可愛らしい返答に、案内人は赤い瞳を大層細めて、喉奥で低く笑いながらきちんと管理人を部屋の中へと案内する。駄目、嫌ではなくまだ、とは。何ともマアおぼこい事だ、と呵々と笑う。どれだけ大きく笑おうと、自分とダンテしか聞いていないのだから、何の問題も無い。
嗚呼素晴らしき、恋人の日。
彼の聖人に礼を告げねばなるまい、と未だ寒さが遠のかない日に、自身の部屋に訪れたとても暖かな安寧秩序の中で。ダンテの手で直接口に放り込まれたチョコレートを、ヴェルギリウスはパキ、と軽やかな音を立てて噛み砕いた。
宜なるかな恋人の日
(……これはチョコレートなのか?)
(《鉱石みたいで素敵じゃない? 美味しい?》)
(美味い。共有できないのが残念ですね)
(《…キスで?》)
(キスで)
(《ヒィン……》)