我儘 例えばあなたに恋人がいるとして。
その人が自分の我儘をどこまで許してくれるか試してみたい、なんて邪な考えは浮かばないと言い切れるだろうか。
「手伝っていただけますか、ダンテ」
そういった後ろ暗い欲を抱いたことのない人だけが今の私に物申す権利があると思う。
もちろん試された側の人間は、突きつけられた要望の如何によっては拒否したうえで相手を叱責する権利もあるだろう。というか今回に限ってはそうなっていない理由が分からなかった。
<あ……な、何を……?>
こちらに背を向けた男に私の言葉は聞こえていないと分かっていても動揺でつい針を動かしてしまう。
「ファスナーをあげて、ホックも留めてください」
言われた通りに中途半端な位置で止まった銀色のつまみを掴んで引き上げようとしたけれど上手くいかない。ファスナーの作りではなく、服のサイズがぴったり過ぎて肩甲骨周りの布地にほぼ余裕がないことが原因だった。
四苦八苦しながらどうにか一番上まで締めたあと、ホックを留めるのにもまた手こずる。金具を摘む人差し指が目標を違えて彼のうなじに当たる度に謝罪を溢せば、四回目でついに忍び笑いが返ってきた。
「手袋を外せば少しはマシになるのでは?」
肩越しにこちらを振り向いた彼の目は沈んだ赤色に見えて、彼が怒っておらず至って平常心だということを再確認する。
<そう、だね。そうする>
私はというと気恥ずかしさと恐怖から冷や汗が止まらず、室内は適温だというのに寒気がしてきた。
手袋を脱いだ素手で挑んだ結果、二回目でようやっとホックを留められた。出来たと声を掛けると傷跡の残る無骨な指が確かめるように首筋を撫ぜる。
彼が振り返ると足首までを覆う黒い布が柔らかく膨らんだ。動きを止めても曲線的なシルエットは損なわれず、贅沢に使われた布が綺麗な凹凸を描き出している。ふんだんにレースのあしらわれたエプロンがその上に被せられていて、色としては黒よりも白の占める面積の方が多い。胸元の襟には赤いリボンタイ。頭にはフリルの付いたヘッドドレス。いわゆる──
「さて。これで満足ですか、ダンテ?」
メイド服だ。いつもは灰色のスーツでバインダーを片手にバスの最前席を陣取っているヴェルギリウスが、メイド服を着て私の部屋で仁王立ちしている。
<うぁ……>
ただでさえ体格の良い彼がこの装いをしていると存在感が増す。威圧感も増している気がするけど、表情は穏やかだから私が勝手に感じ取っているだけなのだろう。
<なんか、色々と衝撃で上手く言葉が出てこない。まずは着てくれてありがとう……?>
こうなった原因は私にある。
詳細の経緯は省くが様々な手違いにより囚人の制服を頼んだはずの私の手元に一着のメイド服が届いた。駄目元で、本当に駄目元でどうせ捨てるか返却するのだからその前に着てみてくれないかと頼んだ私に、ヴェルギリウスは何を思ったのか是と返したのだ。
「困惑しているようですが、よもや貴方が言い出したということを忘れたわけではありませんね」
こちらに一歩踏み出すヴェルギリウスの瞳が一段濃くなった気がして、慌ててポケットから引っ張り出したメモに言葉を連ねる。そのページを引きちぎって胸元に押し付ければ彼はメモではなくわざわざ私の腕を取って内容に目を通す。
「ご満足いただけたようで」
わずかに口角を上げた表情からは嬉しさではなく何か含みを持った意地の悪さが漏れ出ている。剣呑な雰囲気と頭を飾る可愛らしいフリルの不均衡に、何故か自分の体温が上がるのが分かった。
「では引き換えに、私が貴方に要求を出すことも許されますね」
手首を掴まれたままじりじりと距離を詰められているこの状況では断るという選択肢は無いに等しい。
もっとも、こんなことをされずとも彼の頼み事なら極力叶えたいと思っているけれど。ヴェルギリウスも同じような考えでこの服を着てくれたのか、はたまた私に無理難題を押し付けるための方便だったのかはわからない。
「私以外の視線に晒されるのが許せないくらいに素敵……でしたか。同じような姿を望んでも?」
メモに書いた内容をそのまま返されてどこかくすぐったい気持ちに駆られる。
<もちろん、貴方のお好きなように>
スカートの裾が私の足に触れる距離まで近づいてくる。
これってなんだか、惚れた弱みを互いに晒しあっただけかもしれないなと思いながら──私はこの状況を楽しむことにした。