渇望に触れるすべ(まおいと) さて、どうすべきか。開け放って間もない試着室のカーテンの端を、きゅっと握り締め、それから振り返って鏡の中の私を凝視する。
ゴールドのボタンがあしらわれた五分袖のジャケットと、すとんと落ちたシルエットのテーパードパンツ。紺色のセットアップは、夏のオフィスカジュアルにも、ちょっとしたドレスアップの装いにも応用できそうで魅力的な選択肢の一つだ。Vネックが理想よりも若干開いているのが気になるけれど、手持ちのインナーと併せてカバーできるレベルでもある。
(悪くはない。むしろいつもなら、色々迷いながらも購入していたと思う)
再び振り返り、試着室の中からちらりと店内を見やる。開放的な雰囲気を纏ったセレクトショップは若干入り組んだ作りで、ディスプレイエリアとは若干距離がある。オフの日に合わせて連れてきてくれた真央さんの姿は見当たらないので、おそらく自分用の服を見て回っている最中なのだろう。
(できれば真央さんの意見も欲しい。けれど)
再び鏡の中の私を見つめて、思案する。
わざわざ試着室を出て、呼びつけられるほどの度胸は持ち合わせていない。
服に関する自分のセンスは人並みと信じてはいるけれど、一人での買い物は無難なチョイスしかできない自覚もある。かといって透吾くんに意見を求めようとすれば、色々な意味で収拾がつかなくなる展開も目に見えていて。
だからこそ、ここの存在を教えてくれた真央さんに声をかけたのだ。
友達代行の一環で訪れたショップのセンスが良かったと絶賛していたから、直接お店を見てみたいのだ、と。
あわよくば、プライベート用に目ぼしい服があれば。
着心地を確認している風を装っているけれど、突っ立っていても埒は明かない。下手をすると店員さんにも気を遣わせてしまうことになるだろう。
(……もう、これに決めよう)
結論付けた私は再び振り返り、カーテンの端に手をかける。
「ああ、悪くないね。そういうのも」
死角からひょっこりと真央さんが顔を出したのは、その瞬間だった。
「真央さん」
間一髪、だった。びっくりした。ものすごく。
動揺を抑え込むように真顔になった私に気づいているのか否か、真央さんは柔らかな眼差しでつぶさにコーディネートを確認している。俄かに早まる心拍数。いや、我ながら驚きの度合いが大げさすぎはしないか。
「……で。衣都としては、好みに合いそう?」
こちらの葛藤をよそに、真央さんは軽い調子で声をかけてくれた。
「そうですね……今日は、プライベート寄りのものをと考えていたので」
「そっか。じゃあ、こういうのはどうかな」
真央さんが差し出したのは、女性もののワンピースだった。
「……これは」
「いつもとは違う雰囲気の私服が欲しくて僕を呼んだ。違う?」
だから、似合いそうな服を探してみたのだ、と。
察しが良いとは薄々感じていたけれど、まさかそんなところまで見抜かれていたとは思ってもみなかった。
てっきり、真央さんはご自身の服を見ているものとばかり思っていたのに。この様子だと真央さんは、はじめから私の私服選びに協力する心づもりで連れてきてくれたに違いない。そう考えると気恥ずかしくて、穴があったら奥底まで潜り込んでいただろう。
「ええと……おっしゃる、とおりで」
こうして驚きが畳みかけるように連続していく中、真央さんはさらに、とどめとばかりに問いかけたのだ。
「少しだけど、肌見せには抵抗ある?」
* * *
「うん。やっぱり似合う」
試着を経て即決した後の展開は目まぐるしかった。
店員さんを呼んでワンピースを着たままタグを切ってもらい、お会計を済ませてから私の手提げのバッグを回収し。着用していた元の服を収めたショップバッグを店員さんから受け取り。お見送りの店員さんに背を向けた真央さんはスマートに、私の腰を抱いて颯爽と店を後にした。
(腰が……スースーする……)
そわそわとして落ち着かないのは、何も私が手持ち無沙汰になってしまったからだけではない。
選んでくださった深いカーキ色のワンピースは、背後に控えめながら切れ目が入っている。背中の下部からウエストにかけた肌見せは想像よりも上品な印象で、鏡で確認した時は思わず目を見開いてしまった。大人としての気品を纏い、背筋が伸びるような感覚はこれまでに抱いたことのないものだった。
そして、先ほどからエスコートを続ける真央さんは。私の素肌に直接触れない絶妙な位置へと腕を回し、導いている。
「ま、真央さん」
「お腹空かない? 前に話していたパスタの店、近くだから寄っていこう」
「あ……はい。そうですね」
ありがとうござます。と告げた言葉に真央さんは目を細め、再び私の歩調に合わせて歩み始めた。
客観的に見ればデート以外の何物でもない所業。一連の言動にはまだ、真央さんなりの意図が隠れているように思えてならなかったけれど。
重なった身体越しでは真意を確かめるすべがないので、深入りはせず身を任せることにした。
それもまた、歯がゆくもどこか収まりの良い、不思議な心地だった。