名のない夢に掲げる灯(そよいと) 野郎ならば適当に転がしておけば良かったが、今回ばかりはそうもいかなかった。
「……っ弥代」
天辺を超えて夜も深まる時分。無防備に鍵の開いた一〇三号室。ドアに挟まった、見覚えのあるパンプス。その隙間から見え隠れしたのは、つい先ほどまで一緒にいた弥代だった。
上り框に倒れ込んでいたそいつへ「入って良いか」との声かけすら惜しんだのは、万一の事態を想定した瞬発力の賜物だろう。
恒例の寮飲みに顔を出していた弥代は、いつもと様子が違っていた。思慮深く視線を配る目がどこか虚ろで、心ここにあらずな様相。考えてみれば、弥代にも代行で来てもらった直近の案件はかなりハードで、心身ともに疲弊していてもおかしくはない。
気丈に振る舞う弥代の気を紛らわそうと開かれた飲みの場だったが、当の本人は一時間もしないうちに自室へ戻っていった。
「おい、大丈夫か」
うつ伏せの細い身体を抱き起こし、横向きに寝かせる。頸動脈に触れ、脈が正常なことを確かめる。すう、と小さな呼吸音が耳に届いたところで、ひとまずほっと胸を撫で下ろした。
部屋に戻ってすぐ、糸が切れたように眠り込んだのだろう。不用心に施錠すらも忘れてしまうほど、すぐに。
「だ、れ……」
「俺か? 新開だ、わかるか」
弥代からの返事はない。ただ浅く、不安定な呼吸が続くばかりで。細い指先が床の上を探るように震えている。
弥代は悪夢に囚われているのかもしれない。だがこんな時でも弥代の表情の変化は微々たるもので、一見すればうなされているようにも、ただ寝苦しいだけと言われても納得しそうになる。
「……だ、れ……わ、たし」
漏れ出るうわごとが、胸の奥に見えない棘を残す。ただの寝言と受け流すには、あまりにも切実で、生々しい響きだった。
新開は無言で彼女の顔を見下ろす。酔いに火照った頬、乱れた前髪、掠れた唇。普段の毅然とした面影は薄く、弱さが滲んでいる。
「……わたし……わたしは……誰……?」
再び掠れた声が夜の静寂に滲み、背筋を冷たいものが伝った。
虚空に投げかけられた問いを、一同僚の酒の失敗談として流してしまえたら楽だったのに。
「弥代」
そっと名前を呼ぶと、弥代は小さく眉をひそめる。
新開はその肩を支え、冷えた指先を握った。自らの体温を移すように覆っても、まだ足りない。この瞬間誰よりも近くにいるのに、見えない隔たりがあるようにも、閉じ込められているようにも思えてならなかった。
「お前は、弥代。弥代衣都」
その名は、彼女が積み上げてきたものの象徴だ。仕事、責任、日々の努力――そのすべてを否定するような言葉を、誰が、どのような状況で口にしなければならなかったのか。
口の中で転がすように、もう一度呟く。やしろ、いと。
終わりの見えない夢の中、暗闇の底へ、僅かな灯りを差し出すように。
「お前は、お前だろ」