当事者の影はじきに重なる(そよいと)(学パロ) あの日から、時間はいつも通りに流れている――はずだったのに。
でも、新開くんの一言は、確実にわたしの未来を変えようとしていたんだ。
* * *
その後の教室内。
窓際の席で教科書を広げながら、視線を向けていた。追いかけてしまうのは新開くんの背中。あからさまに変化している自分の気持ち、あまりにも現金すぎる……。
思わずため息をつく私をよそに、廊下側の自席に座る新開くんは、大きな身体を前のめりにしながら前の席の男子に笑いかけ、隣の女子に軽口を叩く。人気者らしい自然体で、誰にでも平等に距離を縮める。いつもの新開くんそのものだ……そんなことは前から知っている。
けれど、あの放課後の言葉を聞いたあとの私にとっては。
――俺が好きなのは弥代だから。
耳に残る低い声。掴まれた手首の感触。その一言は、私をすっかりおかしくしてしまった。
休み時間のたびに実感させられる。例えば、廊下に出たときに聞こえてくる女子たちの談笑。
「やっぱ新開くんってかっこいいよね~! キックボクシング部でキレッキレな動きだし」
「しかもめっちゃ頭も良いのに、勉強教えてくれるし」
「何それ、めっちゃ優しい!」
何気ない会話なのに、妙に胸の奥がざわつく。
やっぱり新開くんは人気者だ。
改めて思い知らされて、その評判を見聞きするたびに過ぎるのは――
(あの日の告白、実は夢とか幻とかだった……?)
* * *
いったん冷静になろう。
そう決めてすぐ、気持ちを紛らわせようとして寄った図書室の一角。本棚の前で目当ての本を探していると、不意に落ち着いた声がわたしを呼び止めた。
「弥代」
ドコドコと跳ねる心臓を抑え込みながら振り向く。胸騒ぎの元凶である新開くんは教科書を片手に、こちらの顔を覗き込んでいた。
「この間、プリント……ありがとな。助かった」
「あ、うん」
確か部活の遠征中に、不在だった間の宿題のプリントを預かり、渡していたのだ。たったそれだけの会話なのに、心臓が忙しなく跳ねる。新開くんはいつも通り自然体の笑顔を見せてくれるのに。何だか私だけ、勝手にぎこちなくなっている。
返す言葉を探している間に、新開くんはふっと笑った。
「なんか、今日元気ない?」
「……そう、かな」
「ああ。ま、無理に聞くつもりはねーよ」
軽く手を振って通り過ぎる背中を、私はしばらく見送ってしまった。
人気のない図書室は怖いくらいに静まり返っていて、空調の風が私の全身を微かに撫でていく。
その後の帰り、校門の前で同じクラスの女子とすれ違った。明るいストレートブラウンの髪が相変わらずきれいな、カースト上位に位置する女の子。
気づかないふりをして家路を急いだけれど、彼女からは少なからずこちらへの視線を感じる。
当然だ。彼女は代わりに新開くんに手紙を渡してほしいと、私に頼んでいたのだから。でも新開くんが来たから、結果的に、彼女の想いを託される役から降りた。
あの後、彼女が新開くんに告白したといううわさも聞こえてこない。彼女からしてみれば不完全燃焼のままだろう。
でももしも、あの時新開くんが来なかったら? 私はどうしていただろう。
(……ううん。そんなの、もう考えても仕方ない)
ふと降りてきた疑問を振り払おうとしても、胸の奥の重さは消えそうにもなかった。
* * *
短い授業を終えた後の土曜日午後。
体育館横のベンチに座って、私は自分でも理由がわからないままノートを広げていた。
中からはサンドバッグを打つ乾いた音や、ミットに蹴りが入る重い衝撃音が響く。ここにいるとキックボクシング部の練習音が聞こえてくる、と気づいたのは偶然のはずだった。
新開くんのことをもっと知ろう。そう決めたはずなのに、何だか落ち着かなくて。
「……いた」
やっぱり帰ろうかな、と立ち上がろうとした矢先。声の方を見ると、新開くんが練習着姿でそこに立っていた。額にはうっすらと滲む汗が光り、三分の一ほど中身が減ったペットボトルを片手に笑いかけている。
「勉強? 休日まで真面目だな」
「……たまたまだよ」
「ふーん」
彼は隣に腰を下ろし、キャップをひねって一口、水を含んだ。
「この間の、あれ……考えてくれたか?」
心臓が跳ねた。こんなタイミングで――直球すぎる問いかけに、息が詰まりそうだ。
「……考えて、は……いたけど」
「けど?」
「新開くんは……本当に、私なんかでいいの?」
真顔で少しの間、固まった新開くんに気がつき、しまった、と思った。推敲もせず、頭に浮かんだ不安をそのまま口にしてしまったのだから。
そうか、私は怖かったんだ。彼の言葉を信じて、期待して。後から「やっぱり違った」と、なかったことにされるのが。
「……弥代は俺のこと、見た目ゴツくて怖えやつだって思っているだろうけど」
「いや、ちが……」
「じゃあ好きだって言ってんのに、なんで逃げんだよ」
息をついてからこちらを見る目は、ひたすらに真っすぐだ。
「急かしておいてなんだけど、返事考えてるって話ならいくらでも待てる」
やさしいのに、芯の強さが同居する声。逸らした視線の先で、肩が軽く触れる。
(また心臓が止まりそう……)
思いのほか近い距離。
「でも少なくとも俺は、弥代のこと、他の誰にも取られたくねーんだ」
あまりにも直球なその言葉に、胸の奥が熱くなる。息の仕方を忘れたみたいで、視線は足元から上げられない。
彼には責めるような意図なんてない。ただ一貫して、私に純粋な気持ちをぶつけてくるだけだ。
「そのくらい特別な女だって。俺は想ってるからさ」
その声音は、焦らせるでもなく、諦めさせるでもない。
新開くんの声色は、不甲斐ない私の心にどこまでもやさしく耳に残っている。
* * *
(だから覚悟を決めようって思ったけれど……やっぱり教室内で話しかけるハードルはまだまだ高いんだよなあ……!)
週末いっぱいまでうんうん唸りながら考えた。
土曜の夜、窓の外に灯る街灯の明かりまで、新開くんの声と重なって聞こえた。日曜になっても胸の鼓動は落ち着かず、何度も鏡を覗いては「どんな顔で会えばいいのか」ばかり考えてしまう。
そして迎えた月曜日。ひとまず新開くんに返事をしようと決めていたのに、こんな時に限って新開くんはなかなか一人にならない。ことごとくタイミングを逃し続けた放課後、しょんぼりしながら玄関へ向かえば、見慣れた大きな背中。
「し、新開くん……!」
「弥代?」
振り返った新開くんは練習着のまま靴を履き終えたところだった。
「あの、部活は?」
「今日は外のジムで練習」
「えと、そうなんだ」
情けない。今の私があまりにも不審者すぎて。
「駅まで一緒に行かね?」
それでも私の様子を察したのか、新開くんは口実を作るように、気安く提案してくれた。
「……うん」
ありがたく肯定し、並んで歩き出す。沈む夕陽は背を向けた校舎を赤く染め、長い影が伸びていた。
最寄り駅手前の横断歩道で、信号が赤に変わる。
「この間の返事、なんだけど」
立ち止まってから、呼吸を整えて。私は新開くんの顔を見て、そっと切り出した。
新開くんにとっては唐突だったのか、一瞬だけ目を泳がせてから、すぐにこちらを見つめ返した。
「……おう」
気恥ずかしいけれど、伝えなきゃ。頭の中はそれだけでいっぱいだった。
「……わたしも、多分……新開くんのこと、好きなんだと思う」
何とか言い切って、すぐに顔を俯ける。僅か五秒があまりにも永遠に感じられて、直視するのにも勇気がいる。
本当に、世の中のお付き合いしている人たちも、そうじゃない人もみんな、すごいな。人を好きになって、こんな風に、自分の想いを伝えるなんて。
新開くんは、無言だった。何かすぐに、言葉が返ってくるものとばかり思っていたけれど。焦れる気持ちと気恥ずかしさがないまぜになったまま、再びそっと、新開くんを見上げる。沈みかけた夕陽が彼の横顔を照らす。何だか神々しいものを見ているみたいだ、と思った刹那――。
口元がふっとゆるみ、新開くんは屈託ない笑顔を広げてみせた。
「……そっか」
新開くんの声色が、さっきと全く違って聞こえる。今は明らかに、抑えきれない喜びの色が乗っていて。
このまま青信号に変わらなければいい、なんて。考えている自分が信じられなかった。
並び立つ新開くんと私の影のすき間が細くなって、私は緩みそうな表情を堪えながら下を向く。
新たな青春の一ページ目を刻むように。私は新開くんとの距離をもう一歩縮めようと、歩みを進めた。