パブロフがもたらす情熱(そよいと) 百日間。期間にして、三ヶ月と数日。
何事もそのくらいの継続があれば、良くも悪くも変化は起きる。
挫折しやすさに定評のある筋トレは累計百日間続ければ習慣化されるし、翻訳関連の資格を取る時も確か三ヶ月ちょっと――長く見積もっても半年かからないくらいで取得できた。まあTOEICやら英検やらの知識が土台にある前提だから、正確には年単位の労力だろうがそれはそれとして。百日はマイルストーンを置く時期としても適切な区切りともなり得るだろう。子どもだって百日あれば身長が伸びて顔つきが変わるし、なんだったら赤ん坊は生後百日後にお食い初めが行われて固形物を口にし始めるほど著しい成長をみせる。
いずれにせよ、決して短くはない。
だが完全に心を預けるには、少し物足りなさも感じる期間。
* * *
「夏真っ盛り、ですよね」
カウンター席に腰かけグラスを傾ける弥代の手元では、鮮やかなオレンジ色のモクテルが照明に反射してきらりと輝きを放つ。
「梅雨が明けてもこんな調子じゃ、たった一度のランニングにだって気を遣う」
バックで流れるジャズナンバーは近年のヒットソングをアレンジした曲目で、穏やかながら気取りすぎてもいない。隠れ家的な立地も手伝ってか、落ち着いて静かに酒を味わいにきた常連らしき人々が大半で、居心地の良さが売りのバー。
いつきても渋谷の喧騒をひと時忘れられるような、静かな空間だ。強行部の集まりで利用する場とは違う「とっておき」の場所に弥代を誘ったのは、単なる俺のエゴでもある。どこの部署でも引く手あまたの弥代だったので、まあ駄目元ではあったが。バーには慣れていないが「俺が勧める『とっておき』なら行かない以外の選択肢はない」などと可愛いことを言ってくれたために実現した会合。言い方を変えればデートとも呼べなくはない状況で、多少なりとも浮かれている自覚はある。
事の発端は芦佳さん並みに唐突だった。
チャッタスの自動BOTから、弥代の入社百日を知らせる通知があったこと。最近は設定をすれば、やれ誰かの誕生日だの、やれなにかの記念日だの、ちょっとした小ネタを自動通知してくれるらしい。だがまさか、百日記念なんてマニアックな内容があるなど思いもよらず完全に不意をつかれてしまったのは俺だけではなかったのだろう。無機質かつ事務的な文言に反して全体チャットは一斉に、異様なまでの盛り上がりをみせた。
仲間たちは弥代の入社百日目にかこつけて、仕事後になんだかんだと誘いをかけたりちょっかいを出したりするのは目に見えている。が、俺にだって、憎からず思っている仲間を労いたい気持ちがないわけではない。だから敢えて百日目を外した週末、互いに仕事の入っていない日を見計らって声をかけたのだ。
三ヶ月と数日。春から夏へと季節が変わるくらいの期間。弥代と共に乗り越えた依頼や、それらに付随したやりとり・仕込みの延長からすっかり定番となった護身術講習など、日々あまりにも密度の濃いやりとりばかりが繰り広げられていた。
きっと弥代は知らない。たかだか百日間で強行部にもたらされた変化は、本人が自覚している以上に大きなものだと。
「新開さんなら心配ないと思いますが、ランニング時の熱中症はきっと怖いですよね」
こちらの胸中など知る由もない弥代は相変わらず、俺に仲間としての好意的な視線を向けている。
「その言葉そっくりそのまま返すからな」
「あー……耳が痛いです」
いついかなる時も、気にかけるのは自分ではない他の誰かのことばかりだ。決まり悪そうに苦笑させるつもりなどなかったが、釘を刺さずにはいられない。なにしろ俺の前で、熱中症一歩手前になるなどいい度胸している。あの時は問答無用で弥代を持ち上げるなどと宣ったが、自らを軽んじる悪癖にはこの百日もの間、嫌というほど遭遇してきたのだから。
弥代は誤魔化すようにまた一口、モクテルを含んだ。舌で転がしながらこくりと嚥下するその様は、場慣れしていないとの申告した割には絵になる仕草だと思った。喉元を見つめながら改めて、実感する。こいつはこうして、自身の本音を無意識に呑み込み続ける女なのだと。
「それにしても、不思議です」
独り言ちるように落とした台詞は、並んでスツールに腰かけている俺の耳にもかろうじて届いている。
「少し前までは、こんな日々を過ごすことすら想像していなかったのに」
「百日すぎて今、後悔してるか?」
頬杖をつきながら投げかけた言葉は、場にそぐわない子どもじみた響きを帯びている。店内代行……特に強行部や特務部など、わかりやすく危険に身を晒すような仕事にも関わらせている現状だ。文句のひとつやふたつ、口にしたところで罰など当たるはずもない。
「そんなことはありません」
案の定、間髪入れずに否定する。不満があろうとイエスと言わせない、小狡い訊き方をした自覚はあった。だが弥代のわかりきった返答に、どこかで安堵している自分もいるのだから始末に負えない。
「今となっては、持ち上げられることにも慣れたと言いますか」
「持ち上げざるを得ない状況が非常事態だとわかって言ってんのかそれって」
「返す言葉もありませんが、でも」
「おい言葉返そうとしてんな」
だが、ある意味で不穏な軽口の応酬が日常となっている現状では。弥代も強行部の雰囲気に染まってきているなと感じる瞬間はある。
「身体がふわっと浮いた瞬間に、いつも思うんですよね」
「なんだ」
「ああ、もう大丈夫なんだって。後はもうぜったいに、なんとかなるんだって」
……大丈夫ってなんだよ。色気もへったくれもないはずなのに。
俺だけアルコールを摂取している状況が、ここにきて裏目に出そうだった。なんだこいつ。めちゃくちゃ可愛いこと言ってんな。
視線を逸らして、俺の手元のグラスに目をやる。弥代のモクテルと同じオレンジ色で、照明の影に隠れたテキーラサンライズ。
手を伸ばしたくなったがぐっとこらえて、垂れ流しそうになる本音を、深呼吸ひとつで収める。
「完全にパブロフの犬じゃねえか? それ」
軌道修正を終えてから視線を戻し、ただの仲間っぽい言葉を返す。随分と荒々しい条件反射を覚えやがって、と笑い飛ばしてみせながら。
「涎は垂らさず呑み込んでおきます」
「そういう問題じゃねえ」
意図せずにこちらを惑わす弥代が、腹の奥底でなにを呑み込んでいようとも。今更だし、構わない。少なくとも俺たちは百日以上、こいつが抱えるある種の危うさと付き合い続けてきた。その弥代が、俺から安堵を与えられているというのなら。無条件に信じたくなるのが性ってもんだ。
「……まあ、ほんと密度の濃い関わり方してるしな、俺たち」
BGMはいつの間にか、「For All We Know」のジャズアレンジに切り替わっていた。一生をかけて相手のことを知り尽くしていきたいと願う、恋人同士を祝す歌だ。
もしかしたら、信頼関係の構築には時間や日にちなど関係ないのかもしれないが。それはそれとして、ひとつ確信している事ならあった。
弥代とは百日を超えたこの先も、きっと長い付き合いが続く。弥代のために費やす時間は惜しむことなどないだろう。
俺たちの関係性は変わるかもしれないし、変わらないかもしれないが。
万が一にもつながりが絶えることなどないように——俺なりの方法で弥代を支え続けるだけだ。