軽やかに纏わる言霊(弥代衣都・過去捏造) 女は視線で睨めつけるように傘の骨をなぞり、露先から空を仰いだ。今日という日が訪れなければどれほど良かっただったろうか、と恨みがましさを込めて願ったのに。想いとは裏腹に順調に日を重ね、当たり前のような面をして今日という日を迎えてしまった。
無機質な黒色の日傘と、切り分けられた青空。都会のように電線で空を区切ることも、抜けたように広がる空を遮るものもない。しかし前方には、隙間なく埋め尽くされた入道雲が存在感を主張している。
女の両手は塞がっていた。
片方の手には日傘。そしてもう片方の手には、小さな手の温もり。
歳相応にお転婆な少女は女の腰にも満たない背丈で、時折女の手を強く引きながら田舎特有のあぜ道を元気に駆けようとする。手を離せば、一本道をためらいなく全力疾走するであろう、活発な少女。しかし女は最後の瞬間まで、この手を離すつもりはない。手を離せば最後、何もしらない無垢な少女はあっという間に目的地へとたどり着いてしまうに違いない。
女は努めてゆっくりと、舗装されていない道を踏みしめる。
見渡す限り広がる田畑は、季節が変われば黄金色に輝き、数々の実りに頭を垂らしながら収穫時期を迎えるのだろう。二度と訪れやしない未来の景色に、女は想いを馳せる。瞼の裏に焼き付けていく。青空と艶やかな緑、そして、向こう側のくすみを帯び始めた雲の色のコントラスト。
歩みを終えたら最後、二度と戻ることは、ない。
合間にそびえ立つ立派な幹の隙間から、蝉の鳴き声が聴こえる。
そっと揺られた風鈴のような優しさと、激しく叩きつけた振鈴のような苛烈さ。双方が入り混じった蝉時雨の声に紛れて、女はひとつ、嗚咽を漏らす。やがて自らを律するように眉間に皺を寄せて、目の奥に力を込めて、表に出かかった哀しみを押し込める。
刹那、目の前の世界が白く爆ぜて、明滅した。
少女の手を握り直しながら前方を見据える。一筋の、破りつけるように鋭い光。唸るような雷鳴は一拍遅れて女の耳に届いた。再び見下ろすと少女は、変わらずに走り出したそうにうずうずとした様子で一本道を闊歩している。
後に訪れるであろう天候変化の予兆。
女は思った。それは、少女が直面する環境の変化を表しているようだと。
不意に、柔らかな力加減で片手を引かれる。女は険しい表情を出来得る限りフラットに戻して、手を離さぬまま少女の目線に屈みこんだ。
『どうしたの』
『ママ』
少女は曇りのない、清かな緑がかった瞳を向ける。このまま新緑の若葉に紛れても違和感がない、緑色の大きな瞳を向けていう。
『きょう、ばいばいで。また、ママにあえるの、いつ?』
『……』
少女の真っすぐな視線から逃れようと、女は目を伏せた。本当は逃れたくなんかない、と思いながら、しかし、逃れずにはいられなかった。
女は目に焼き付ける。世の厳しさも、人の情念の裏に隠された残酷さもしらない、少女の満面の笑みを。
『ねえ、いつ?』
『…………』
何か、ことばをかけなければ。
『いーつー?』
『………………』
かりそめの、ことばでも、いいから。
『ねえ、ママー?』
何か――ことば、を、
『……………………』
哀しみが、あふれないように。目の奥に。ちからを、こめて。
『ママ……まま』
女に、睨みつける意図などなかったのだ。
▼ ▼ ▼
火がついたように号泣した少女をあやし、決定的な言葉を避けながら宥めすかして。
再び歩き出した女の両手は相変わらず塞がっている。片方の手には日傘。そしてもう片方の手では。
(――安らかに、眠っている)
泣き疲れた少女は、女の背でとろとろと目を瞑り、規則正しい呼吸を繰り返す。少女の身体を後ろ手に支えながら、女は再び、のろのろと歩みを進めていく。
『……きいて』
白い光が再び爆ぜて、やがて遠雷が響き渡る。
『あなたはこれから、一人で生きていくの』
言い聞かせる声色は震えていたが、しかし女には、ある種の確信があった。愛らしい少女にはきっと、絶えず救いの手が差し伸べられるに違いない。
『誰かに寄りかかる日があってもいい』
その誰かが、女自身であればなお良かったが。少なくとも向こう数十年以上――あるいはこの先一度たりとも、敵わない願いだとも気がついている。
『でもね』
心にもない言葉を吐いている自覚もある。
『最後には、また一人きり』
優しくて喧しい、蝉時雨の声に紛れて。それでも女は、言い聞かせる。
『だから、去っていく人を振り返っては、駄目。そばにいる間だけ、利用するのよ』
今日という日が訪れなければどれほど良かっただったろうか、と恨みがましさを込めて願ったのに。
『だから、さようなら。衣都ちゃん』
当たり前のように、別離は訪れる。
* * *
あなたは、一人きりでも――生きてゆくの。
「――弥代」
とある代行業を統べる男の重々しい声色に、微かな雷の音が重なる。弥代衣都はうすぼんやりとした意識のままに顔を上げ、刹那、急速に意識が覚醒した。
「すみません。ぼうっとしていました」
辺りを見渡す。本部オフィスの応接ソファから、隣の席から、男たちはそれぞれに弥代衣都へ視線を向けていた。
「大事ないのか」
「ええ、と」
「雷の音が聴こえた頃から、少し動きが止まっていたようなので」
「……ああ、はい。私は大丈夫です」
とんだご迷惑を、と折り目正しく頭を下げた弥代に、隣の席の城瀬が柔和な笑みを浮かべた。応接ソファの皇坂は鷹揚に頷き、再び自身の手元の書類に視線を落とす。作業の手を止めるほど様子がおかしかったのだろうか。弥代は考えたが、これ以上の質問を重ねては再びいらぬ気遣いをさせてしまうだろうと黙り込むことにした。
「それにしても、不思議な天気ですよね」
城瀬は窓の外に目をやる。夕暮れ迫る渋谷の街には眩しい日差しと、同時に灰色の影が混在していた。この一帯は現在青い空が見えるが、さらさらと雨が窓を叩いている上に雷鳴も轟いている。
都心でもこのような、不思議な空模様になるものなのだな。見渡す限りの田畑や、自然しかない、田舎で見かけるような――そこまで考えかけて、弥代はふと首をひねった。
はて。自身は東京生まれの東京育ちで、都心以外の景色を見る機会など極めて稀なはずなのに。
これではまるで、自身が都心以外の景色を日常的に眺めていたかのような物言いだな、と。
『一人で生きていくの』
遠雷と共に、覚えのない女性の声が再び脳裏をよぎる。
弥代の身には時折、こうした現象が起きる。しかし誰にも打ち明けたことがない。話したところで何が解決するわけでもない。きっと所在なさげに気のない相槌を返されるか、あるいは面白おかしく揶揄われてその日の雑談のネタとして昇華されるかの二択に終わる。
だから弥代は、その度に見知らぬ女の言葉を振り払う。纏わりつく言葉は振り払うたび、風に吹かれる如く軽やかに消え去る。だが忘れた頃に、思い出したかのように女の言葉が舞い戻ってくるのだ。
弥代の身に起こる不可思議な現象との遭遇は、思えば現職に就いてから初めてだったかもしれない。久方ぶりの今も、それまでと同様に律儀に振り払って、やがて消えていく。
地味にうっとおしいことこの上ないが、無視しきれずにもいる言葉。数回は脳内で反芻されるその台詞は、弥代の喉元を細く貫かれたような、ささやかな痛みが伴う。
新たな居場所を得てもなお、脳裏にちらつく言葉。
それは、代わりという役目を忘れないようにするために、軽やかに縛り付けられた教えなのかもしれない。だが深く考えることもばからしい気がした。今回もしっかり手放せば、問題ないだろう。
少しうっとおしいけれど、特段不自由はしていない。
弥代衣都は女の顔も声も。実在するのかすらも。
何ひとつとしてしらないのだから。