Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    85_yako_p

    カプ入り乱れの雑多です。
    昔の話は解釈違いも記念にあげてます。
    作品全部に捏造があると思ってください。

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji ❤ 🌟 🎀 🍎
    POIPOI 421

    85_yako_p

    ☆quiet follow

    四季とタケルと漣が旅行する話です。
    かなり前の既刊です。SF(少し不思議)です。

    ##既刊
    ##伊瀬谷四季
    ##大河タケル
    ##牙崎漣
    ##カプなし

    牙崎くんは冬眠する

     失敗した。重くなる体を引き摺りながら思う。想定外だった。まだ、猶予はあったはずなのに。
     まるで逃げだすみたいだ。屈辱にも近い感情が冷え切った胃の底を焦がしていく。だが、これが逃走だとしても足を止めるわけにはいかない。逃げ込める場所の心当たりは苛立つほどに少なくて、そのなかの一つである寮へと体を引き摺っていく。
     アイドルになるまでは、どこか誰にも見つからない冷たいところに身を隠せばよかったのに。大勢に見られるのは困る。だけど、今は誰にも見つからないところには行けない。
     ようやく寮に辿り着けば灯りはとうに落ちていて、誰もいないラウンジはひんやりとしていた。時間が時間だ。当然だ。体温が奪われていく感覚は少しだけマシになったが、このままではきっと眠ってしまう。
     自分の部屋がここまで遠いなんて。信じられないほど時間をかけて、ようやく重たいドアに手が届く。やっとの思いで扉を開けば、がらんとした、冷たい空気が出迎えた。
     暖房をつけねえと。やるべきことはわかっているのに、体がうまく動かない。額への衝撃で、自分が受け身も取れずに倒れ込んだことに気がついた。無様だ、なんて思う間もなく、どんどん体が硬くなっていく。見知ったそれに飲み込まれる喉が震えた。
    「……下僕に……言……ねえ……と……」
     もう指先すら動かない。端末に伸ばしかけた手が、ゴトリと床に落ちた。



    「あれ? タケルっち一人っすか?」
     レッスンが終わったころ、ぴょこりと姿を見せたのはアイツではなく四季さんだった。その事実は俺を少しだけ落胆させたが、それを振り切るように、苛立ちを奮い立たせるように口を開く。
    「円城寺さんはロケで……アイツはサボりだ。……最近はマシになったと思ったんだけどな」
     最近は、だなんて。アイツがサボったのなんて、最初の頃、ほんの数回だ。それでも今日アイツがこなかったことは、特別なことなんかじゃないって呟いてみせる。
     自分自身を騙すみたいな言葉。だって、口にはできなかったけれど、本当は少しだけ心配だったから。サボったんじゃなくて、来ることができない理由があったとしたら。もしもそれが、よくない理由だったとしたら。考えたくなかったから、こんなのはいつものことだとでもいうように受け入れるしかなかったんだ。
     俺の、この虚勢に似た気持ちは見抜かれたのだろうか。四季さんはそっか、って笑ったあと、ためらいがちに呟いた。
    「……漣っち、なんかトラブったりしてないっすかね。心配っす。」
     四季さんは俺ができないことを簡単にやってみせる。心配だ、って素直に口にできる。四季さんと、自分の不安に言い聞かせるように、大丈夫、だなんて口にした。まるで、それが四季さんのためみたいに。
     俺と同じようにアイツを心配している人間がいる。それをとても『いいこと』のように感じる。アイツにとって、それがどういうことなのかはわからないけれど、そう思う。
    「……俺、このあと少し探して見るから。見つけたら、四季さんに連絡する」
     それは、二人っきりの予定が一人きりになってしまった時からずっと考えていたことだった。クールダウンがてら軽くランニングをしつつ、アイツが行きそうなところをくるっと一周するつもりでいた。事務所、公園、裏路地、男道らーめん、商店街のたいやき屋。
     すぐに見つける。そう告げてレッスン室を出ようと促す。数歩歩いた先、向けた背に四季さんが駆け寄ってくる。俺と目があった四季さんは、世紀の大発見をしてみせた子供のように笑ってみせた。
    「オレも一緒に探すっすよ!」


     考えていた予定はとても柔らかいものに変わった。異常気象とやらで真冬のようにひんやりとしてしまった十一月の町並みを、俺と四季さんは歩く。落ち葉をさくさくと踏みながら、慌てて出したマフラーにくるまった言葉を交わす。
     きっと、手分けしたほうが早い。それでも俺と四季さんは並んで歩く。事務所、公園、裏路地、男道ラーメン、商店街のたいやき屋。
     一人だったらきっと、たいやきを買ったりしなかった。あったかいあんこを味わいながら、歩く。心当たりは全部見てしまった。四季さんは、見つからない、って言わなかった。すれ違っちゃったんすね、って。心の底から残念そうに口にした。
     もう一回、はじめから。どちらともなく言い出して、また歩き出す。俺は諦めが悪い。きっと、四季さんも諦めが悪い。まだ夜じゃない。もう一回。
     もう一回の最初の一歩、公園に向けた足を四季さんの声が止める。まだ、探してない場所がある。まだ、寮に行っていない、と。
    「寮? アイツ、寮に部屋があるのか?」
    「遊び行ったことあるっすよ! 部屋ってゆーか、完全に物置だったんすけど」
     もしかしたら大掃除してるのかも。確かに。って。話してたら本当にそんな気がしてきた。急に寒くなったから、きっとマフラーなんかを探してるんだ。
     寮のラウンジにはちらほらと人が居た。各々好き勝手に過ごしている空間を他愛ない会話で通り過ぎて、目的の部屋に向かう。廊下は進むほどに人の気配が薄くなって、ひんやりとしていた。
    「あれ? ドア、開いてるっすね……」
     インターホンを無視してドアを叩こうとした四季さんの声。一番奥の突き当り、端っこの部屋の扉は拳一つぶんくらい開いていた。
    「……おい! いるのか?」
     声を張る。反応はない。
     身構え、四季さんをかばうように前に出る。こんなの、アイツが閉め忘れただけだ。そう思うけれど、もしもの可能性がある以上、四季さんを危険に晒すわけにはいかない。
     そっと押した扉がゆっくりと開いていく。薄暗い室内はがらんとしていて、四季さんの言っていた『物置』という言葉を思い出す。ここは部屋というよりは、正しく『物置』だった。
     奥に、誰かいるのだろうか。アイツの姿があるのだろうか。歩を進めようとした瞬間、足元にそれは見えた。
    「漣っち⁉」
     俺が声をあげるまえに、四季さんが俺の背中から飛び出した。そうして、まっすぐに床に突っ伏したアイツに駆け寄って、その肩を大げさに揺する。
     アイツが、床に倒れていた。
     呆然とする意識を引き戻したのは、悲鳴のような四季さんの声だった。四季さんが必死にアイツの名前を呼んでいる。それなのに、アイツは目を覚まさない。
     アイツは寝起きが悪いから。起きないのはいつものことだから。そう思うのに、どくどくと脳をめぐる血液の音がそれを掻き消していく。四季さんに心配をかけるな。とっとと目を覚ませ。思い切り抓ってやろうと指先で触れた頬は、氷みたいに冷たかった。
    「……タケルっち……漣っちが……」
     四季さんが泣いている。四季さんが泣くのを俺は初めて見た。俺はどんな顔をしていたんだろう。自分の表情はわからないけれど、泣きたいような気持ちだった。
     俺も、四季さんも言い出せなかった。口にしたら、それを認めなければいけない気がしていた。それでも、お互いに思っていることを嫌というほど理解していた。だって、どう考えてもコイツは死んでいた。
     靴も脱がないままで放り出された青白い足首。変色した唇。寝息も吐き出せない、生き物の体温を失った体。それが今、俺たち二人の目の前に転がっている。
     夢なのだろうか。抓るのは、自分の頬のほうがよかったのだろうか。そう思って頬を抓るが、当然のように痛い。俺を見た四季さんが俺を真似て一言、「夢じゃない」って呟いた。
     四季さんはもうコイツを呼んでいない。ぐすぐすと泣きながら、時々思い出したようにコイツの肩を揺すっている。俺はそれを眺めている。沈黙は、諦めなのだろうか。視線が彷徨って、一瞬だけかち合って、困ったように揺らいで、床に散らばった銀色の髪へと落とされる。そんなやりとりを何回繰り返したんだろう。唐突に四季さんが口を開いた。
    「薫っち……」
     たった一言。その自分自身の呟きに鼓舞されるように、四季さんが勢いを取り戻す。
    「……ねぇ! さっき、薫っちが事務所にいたから、」
    「え?」
    「診てもらうっす! 漣っちのこと、助けてもらおう⁉」
     それは冷静に考えたら馬鹿げた提案だったんだろう。もう死んでいる人間を診てもらおうだなんて。
     それでも、俺は首を縦に振った。救急車や警察を呼ぶでもなく、ラウンジに駆け込むでもなく、プロデューサーに連絡をするでもなく、四季さんに手伝ってもらってコイツをおぶる。少しだけ動揺したようなラウンジを突っ切って、背中いっぱいに広がる死の気配を振り切るようにして、全力で事務所へと駆けていった。


    「薫っちは⁉」
     俺の代わりにドアを開けた四季さんの大声が、事務所中に響き渡る。叫び声みたいな疑問に返される声をかいくぐって、俺は真ん中のソファーへと向かう。コイツを、ちゃんとした場所に寝かせてやりたかった。
    「タケル、どうし……え? レン? どうしたの?」
    「……怪我、してるんですか?」
     座っていた隼人さんと旬さんが席を開けてくれる。そのスペースに物言わぬコイツを横たえた。不安そうに注がれる視線に返せる言葉を俺は持っていなかった。死んでるんだ、って。その一言がどうしても言いたくなかったんだ。
    「薫っち! こっち! 早く、早く!」
    「なんなんだ学生……おい、どうした」
    「漣っちが、漣っちが、」
     床に倒れてて、冷たくなってて、目を覚まさなくて。俺とおんなじで、四季さんもコイツが死んでるって口に出すことができなかった。それでも喋れば喋るほど、コイツが死んでるってことを伝えてしまう。こんなの、寝てるだけだって思いたいのに。
     薫さんがコイツの頬に触れる。助けて、って。神様に縋るみたいな四季さんの声が聞こえる。俺は八月の沈黙を思い出して、息が詰まる。俺は何を頼っていいのかわからずに、神様に祈ることもせず、ただ時間が動き出すのを待った。
    「…………おいボクサー、拳法家は昨日まで普通にしてたか? 何か、変なところは?」
    「あ、いや……普段どおり……だったはずだ」
    「そうか…………よし、温めてみよう。学生、シャワー室で湯に当ててこい」
    「……は?」
     果たして、これはどのような考えを経て導き出された答えなのだろうか。薫さんが真剣に口にした言葉に思考が止まる。温めてみようだなんて、そんな、冷えたご飯をレンジでチン、みたいなこと。
     一瞬で沈黙を濁していく混乱。だが、誰かが疑問を口にする前に四季さんが声をあげる。
    「学生ってどの学生っすか⁉」
    「誰でもいい」
    「じゃあオレ、あっためてくるっす!」
     そう言ってアイツの手を取った四季さんを見て、周りのみんなが動き出す。まるで魔法が解けたみたいに。
    「ああ、四季くん、引きずっちゃってますよ」
    「オレがこっち持つから」
     ワイワイと、隼人さんたちがアイツを取り囲む。手伝わなきゃ、って思う暇もなく、アイツはシャワー室へと運ばれていった。
     えっと、どうしよう。
     薫さんに聞きたいことがたくさんあった。だけど、薫さんは輝さんと何やら話し始めてしまって、入り込めない。ぼんやりと視線を彷徨わすと、翼さんと目があった。
     困ったような顔をしてしまったのかもしれない。翼さんはゆっくりとした口調で、「大丈夫だよ」って言って、俺の手を取ってくれた。俺の手は震えていなかったはずだけど、そのぬくもりに自分の手が冷え切っていたことを知る。怖かったね、って言われて、そうだったのか、って他人事みたいに思った。そうやって、しばらく翼さんと手をつないで過ぎていく時間を見送った。
     翼さんには薫さんがああ言った理由がわかっているのだろうか。ぼやり、気になった。聞いてみようかと思った瞬間、四季さんの大声と歓声が聞こえてきた。数秒もせずに、バタバタとした足音が近づいてくる。
    「タケルっち! 漣っち起きたっすよ!」
     一番望んでいたこと。一番聞きたかった言葉。その言葉に心底安堵した。胸の中が、戸惑いも疑問も入る余地のないほどに満たされていく。不思議なことはたくさんあったけど、今はとにかくアイツの目が覚めたことを喜んだ。
     少し遅れて隼人さんたちが戻ってくる。後ろにはバツの悪そうなアイツがいる。ばしっ、と目があって、声を出す前に露骨に逸らされる。視線の行き場を失ったアイツに、怒ったような、呆れたような声で薫さんが問いかける。
    「君はミラだな。特性は冬眠。違うか?」
     疑問の形に、答え合わせのような響き。返されたのは、ふてくされたようなアイツの目。
    「……だったらなんだってんだ」
    「呆れたな。プロデューサーが戻ったら説明をしろ。どうせ言っていないんだろう」
     薫さんのミラという言葉と、アイツの肯定。少しだけざわついた場に、話は終わりだとでも言いたげに薫さんが返した。アイツは返答をせず、不機嫌にソファに転がった。
     きっとほとんどの人間は現状をわかっていない。つかの間の空白の後、俺たちはアイツではなく薫さんを一斉に取り囲む。その様子を、輝さんと翼さんが見守っていた。



    「なんだ君たち……落ち着け……ああ、過去に似たような症例を読んだことがあってな。……なぜ僕に聞く。本人に聞けば……はぁ、ミラについては聞いたことくらいはあるだろう……そうだ。人間以外の生き物に似た特性を持った人間。それであっている。彼は冬眠に似た特性を持つミラだ。僕の知っている症例は、厳密には冬眠とは違ったようだが。まぁ、彼のことに関してはプロデューサーが戻ってきたら詳しい説明をさせ……うるさいぞ学生。……何? 君に決まっているだろう四季。わかった。わかったから。
     おそらく、なんらかのきっかけ……体温や気温の低下のようなトリガーがあって仮死状態になるんだろう。爬虫類の冬眠に近いな。おおかた、昨晩からの急な冷え込みで仮死状態になったんだろう。
     ……もういいか? 憶測でしかないんだ。プロデューサーが戻ってきたら拳法家に説明させる。もっとも、彼が自分の症状をどれほど理解しているか、僕にはわからないがな」



    「漣、ミラならちゃんと言うように、最初に話したよね?」
    「……寒くなったら仕事しねーって言ってあったんだからいいだろ」
    「いいわけないでしょう。現に今、いきなり寒くなったせいでみんなを……タケルと四季を心配させたのは誰?」
     うっ、とコイツが言葉に詰まる。てっきり、ソイツらが勝手に心配しただけだ、くらいのことは言うと思ったのに。応接室のソファに腰掛けたコイツの姿勢はいつもより少しだけお行儀がいい。きっと、本当に悪いと思っているんだろう。
     真横に座ったコイツがプロデューサーに叱られている。プロデューサーの横には円城寺さんがいて、円城寺さんは円城寺さんで険しい顔をしている。俺はどんな顔でここにいればいいのかわからない。
    「……次に誰かに迷惑をかけたら、ちゃんとみんなに説明するからね。そもそも、私は隠しておくのは反対ですから」
     コイツがミラであることは隠すことになった。コイツがそれはもう嫌がってみせたからだ。薫さんがプロデューサーに説明している時から盛大に表情を歪めていたコイツは、せめて寮で暮らしている人間と信頼できる仕事先の人間にこの体質を説明するほうがいいと提案したプロデューサーに、ありったけの拙い語彙で、思いつく限りの不平不満を並べてみせた。俺から見てコイツは文句ばかりだけれど、ここまで意固地になっているのは珍しい。
     次は、という条件付きでその気持ちを汲んだプロデューサーは、空気を変えるように話題を変える。
    「冬になったら仕事はしない、って言ってたのはこれが理由だったんだね」
     もともと、冬になったらコイツが仕事を休むとは聞いていた。ただ、理由だけが宙ぶらりんだった。プロデューサーがそれ以上聞かなかったから、俺も円城寺さんもあまり口を出せなかった。そういえばアイドルになる前も、コイツは冬に姿を消していたっけ。ぱちり、脳内でピースが噛み合った。
    「来週、病院に連れて行くからね。ちゃんと検査してもらわないとダメだよ」
     プロデューサーが、学校の先生みたいな口調で諭す。それに対してコイツは嫌々頷いてみせた。どうやらコイツは己の特異体質をしっかりと診てもらったことがないらしい。
     コイツは通院に対して否定的だったが、もしかしたら薬とかがあるんじゃないかという言葉には反応してみせた。「薬があれば寝なくてすむのか?」、と。その言葉はプロデューサーにとって意外だったようだ。「漣は眠りたくないの?」
    「そりゃ、寝なくてすむなら寝ねーほうがいいだろうが」
     いつも寝てるくせにそんなを言う。こういうとき、コイツは当然だと諭すような声を出す。
     そういうもんなのか。そういうもんなんだろう。



    「漣っち冬眠しないですむんすか!」
    「まあ、今のところは」
     四季さんを無視してソファに沈んだコイツに変わって俺が答えた。アイツはそれを遮ることもなく、ただ一度だけ舌打ちをした。態度が悪い。
     そんなコイツの態度にも、四季さんは普段どおり笑っていた。なんだか、当たり前に楽しそうな顔をしていた。


     結局、病院に行っても『劇的に症状が改善する薬』なんてものはなかったらしい。ミラは病気ではないし、そもそもミラ自体がとても珍しい。薬があるのは一部の特性を持ったミラだけのようだ。憶測で期待をさせてしまったと、プロデューサーが眉を下げていた。
     ただ、コイツの特性上、暖かければ寝ないのだから暖かくしていればいい、という根本的な解決策を医者は口にした。暖房の効いた室内で過ごすか、外出時にはうんと着膨れてカイロをたっぷりつければいいとのことだ。なんだか、少し考えればわかるようなことに俺もプロデューサーも気が付かなかった。言われてみれば、確かに。
     低温やけどには気をつけてください。そう締めくくられた言葉をコイツは受け入れることにした。そうしてしばらくは起きていることを決めたコイツは、ぽっかりと空けていた冬の日に、仕事の予定を少しだけ入れた。


     寒くなったら、俺たちのユニット衣装で屋外ライブはできない。俺でさえ出番の前は寒くって、上にコートを着てたって震えてしまう。コイツは耐えられず、眠ってしまうだろう。
     ただ、暖かいスタジオならなんら問題はない。コイツはもふもふの衣装に着替えて、バラエティやラジオに出る。歌番組で歌う。ファンのみんなと握手をする。あとは公園で寝なければ完璧だ。
     念の為、また一人で仮死状態にならないよう、コイツは眠るとき、いや、普段から誰かと一緒にいるようにプロデューサーに言いつけられていた。
     言いつけを素直に守る気がないコイツは、たまにふらりといなくなっては事情を知っている全員を心配させた。そうしたあと、俺に発見されたり、円城寺さんに発見されたり、プロデューサーに発見されたり、事務所の誰かに発見されたりしていた。そうして、見つかると舌打ちをひとつ。散々俺につきまとっていたコイツは、意外と一人が好きなんだとはじめて知った。
     コイツが一人でいたって、多少心配なだけで大きく感情が動いたりはしない。円城寺さんほど慌てないし、プロデューサーほど困り果てないし、四季さんのように泣きそうになったりしない。それでも、コイツが寮に戻るのだけは嫌だった。
     あの日踏み入れた、冷たくて薄暗い部屋。そんなところでたった一人眠るコイツを想像すると、胃の辺りがも締め付けられて、重くなる。まるで冷たい夕方なんかに、たった一匹で鳴いている子猫を見たときみたいに。
     別に、あそこは恐ろしいところじゃない。わかってる。それでも、あの日あそこで倒れているコイツを見つけてからというもの、コイツを寮に帰すのはなんだか怖かった。
     円城寺さんが自分の家に泊まればいいと言うから、コイツは円城寺さんの家ですごしている。俺の家に来たっていい。暖房を、いくらでもつけてやるから。


     事情を知る全員が、なんだかひやひやしながらコイツを見守っていた。
     コイツはそれをひとつも気にせず、いつもどおりに過ごしていた。



     冬が好き。そんなこと言ったら春も夏も秋も好きだけど、冬になったら冬が好き。
     桜が咲いたら春が好き。セミが鳴いたら夏が好き。紅葉が舞えば秋が好き。雪が降れば、冬が好き。自分の名前が『四季』だから、きっとこんなに季節にワガママなんだ。
     だから四季折々、ずっと楽しんでいたい。せっかくの、十六回目の冬を楽しみたい。
     冬を知らないなんてもったいない。
     そんな人がいるなんて、考えたこともなかったんだけど。


     空気が研ぎ澄まされて、本格的に冬が来た。漣っちは冬眠せずに起きてる。普段どおりに動いてる。寝てたって、冷たくなんてなってない。触れた頬の温度に、オレの心音が重なる。なんだ。こんなに簡単なことだったんだ。
     プロデューサーちゃんが漣っちに一人でいないように言ってたから、オレはなるべく漣っちと一緒にいることにした。別に頼まれてなんていないけど、ちょっと離れたところで冬の空気を胸いっぱいに吸い込むと、清涼感の中にあの日の暗い海に突き落とされたみたいな冷たさが肺にひとかけら、落ちるから。それが嫌で、一人ですることがないときなんかは事務所に足が向いた。ぽかぽかの事務所にいる漣っちを見ると、テストで赤点を回避したときよりもずっとずっと安心した。
     過保護なくらいむくむくに着膨れた漣っちの頬は上気してる。暖房が効いてるから仕方ない。それでも服を脱がないのは何でだろう。もしかしたら、体温調節がうまくいってないのかも。漣っちは詳しいことを教えてくれない。元気ならそれでいいんだけど、ちょっとさみしい。タケルっちとか道流っちは知ってるのかな。そうだとしたら、オレにも教えてくれる日がくるのかな、って。


     タケルっちがゲーム画面を見てる。道流っちは最近別行動が多いって言ってた。連ドラの撮影が忙しいって、タケルっちが教えてくれた。
     漣っちはテレビを見てる。前にあった雪まつりの映像をじっと見てる。オレは箱の中の雪を見て、ちょっと青森を思い出す。
     冬が好き。一瞬で心に降り積もる、一面のまっしろ。そこに落ちたふとした疑問。
    「漣っち、もしかして雪見るの初めてっすか?」
     冬を知らない人間がいるなんて、考えたこともなかったんだけど。
    「…………ん」
     これは、「そうだ」って意味なのかな。わかりにくいけど漣っちは冬を知らないはずだから、きっとこれは「そうだ」ってことだ。
     タケルっちが顔をあげた。そうして一言、そうなのかって言った。声の色でわかる。きっと、タケルっちはオレとおんなじ気持ちでいる。
     そっか。雪、知らないんだ。
     じゃあ、雪合戦も知らないんだ。ゆきだるまも見たことないんだ。かまくらに入ったこともないんだ。
     冬を知らないなんてもったいない。去年までは仕方ないことだったかもしれないけど、今年なら。着膨れて耳までほんのり赤くなった漣っちならきっと、冬を楽しむことができる。
     ここは、オレが一肌脱ぐしかない。
    「漣っち、冬もずっと起きてるんすよね? 雪、見に行くっすよ!」
    「あ?」
    「だって、冬起きてるの初めてなんすよね? じゃあ、冬っぽいことするっすよ!」 
     さっき浮かんだことを手当り次第に喋る。雪を見に行って、雪合戦して、ゆきだるま作って、かまくら、はちょっと作るのが大変だけど。次から次へと湧き出るそれは、とっても素敵な名案に思えた。
     漣っちは少し考えた後、雪合戦もゆきだるまもかまくらも知らねぇ、って言った。断られはしなかったから、全部見に行こうって返した。漣っちはなんだか考えてるみたいだった。
    「いいんじゃないか? 冬は初めてなんだろ。行ってこいよ」
    「何言ってるんすか! タケルっちも行くんすよ?」
    「え? 俺もか……?」
    「当たり前っすよ! オレ、タケルっちとも遊びたいし、タケルっちが来たほうが漣っちも喜ぶし!」
    「はぁ? 誰が喜ぶかよ!」
    「オマエが喜んだって、こっちが願い下げだ」
     いつもどおり盛り上がる二人を尻目に、オレは計画を練る。
     まずは漣っちをこたつにいれるのだ。絶対に気に入ってくれると思う。そんで、こたつでちょっとお高いアイスを食べる。鍋もしたいな。帰り道でにくまんも食べたいな。
    「冬はおいしいものがいっぱいあるっすよ! 鍋とか、アイスとか、にくまんとか!」
    「うめぇもん……って、鍋もアイスもにくまんも知ってるし」
    「冬に食べるのは別格なんすよ! ね? タケルっち!」
    「あ、ああ……そうかもしれない」
     タケルっちの同意を得たオレは、なんだっけ? 魚が水に入るみたいなあれ。ようは、ちょっと調子に乗る。オレはいかに雪合戦が楽しく、ゆきだるまは可愛らしく、かまくらはあったかいかをまくしたてる。漣っちは勝負と聞いて少し反応して、可愛いからなんだと呆れたように言い、雪でできたものがなぜ暖かいのか不思議そうにしていた。
    「ねー、ダメっすか? 絶対ぜーったい、楽しいと思うんすよ」
     果たしてオレのプレゼンは漣っちの心に届いたのだろうか。テストの返却を待つあの時間にも似た緊張。お願いだから、偉そうに頷いてほしい。
    「……雪、見てやってもいい」
     そのかわり、うまいもんを食わせろよと漣っちが言う。タケルっちも行こうね、って目を合わせたら、困ったように笑って頷いてくれた。



     アイドルになってから、新幹線に乗る機会が増えた。それでもホームに辿り着くまでの道のりは人でごった返していて、いつまでも慣れない。ホームに着くまでは時間が気になってそわそわしてしまうし、なんだかんだ、座席に座るまでは落ち着かない。
     俺はそんな杞憂を持て余しながら駅弁を選んでいた。四季さんのカゴは弁当が埋もれるほど菓子が入っていて、アイツのカゴは弁当が山積みになっている。まぁ、それに関しては俺も人のことは言えない。だって、俺もアイツも気になる弁当全部を胃に収められる程度には食べるほうだから。それに、弁当がどれもこれもおいしそうで、つい。
     ホームの硬い椅子で新幹線を待つ間に四季さんは菓子を二つ開けて、二つともほとんどアイツが食べた。そんな道理はないが、俺が代わりに謝ると四季さんは言った。
    「なんでっすか? おかしってみんなで食べたほうが、メガうまっすよ」
     だから食べていいんすよ、と笑う。俺はようやく、四季さんが持つ袋いっぱいの菓子は俺達のためにもあるということを知る。もらった菓子のパッケージには全部、「冬季限定」って書いてあった。アイツは気がついていたんだろうか。
     新幹線に乗り込んで、真っ先に四季さんは座席をくるりと回してボックス席を作ってみせた。そうして、出来上がった基地を満足そうに眺めて口にする。「漣っち達はプロデューサーちゃんを入れて四人だからちょうどっすね。俺たちは六人だから、全員入れないんすよ」
     座ってすぐにキャリーケースを開く四季さんを横目に、アイツは弁当の蓋を開けた。それを見て、トランプを取り出した四季さんがしょんぼりと眉を下げた。アイツは食ったらすぐに寝るから、叩き起こしてでもトランプに参加させようと心のなかでそっと誓う。でも、もうすぐお昼時だ。俺も四季さんも弁当を取り出した。
    「漣っちもだけど、タケルっちもよく食べるっすよね」
    「四季さんはあんまり食べないな……それは、イカか?」
    「イカ飯っすよ! なんかおいしいって有名らしいっす!」
    「そうなのか? おい、オレ様に一つよこせ」
    「オマエ、よく二つしか入ってないものを一つよこせって言えるな……」
    「いいっすよ! 漣っちもなんかオレにちょーだい……あ、これだとタケルっちがイカ飯食べれないっすね」
    「俺は大丈夫だ。気にしないでくれ」
    「ダメっすよ! 漣っち、このイカ飯はタケルっちとはんぶんこっす」
    「ちっ……なんでもいーから早くよこせ」
     イカはきれいに真ん中で割れた。俺の弁当にイカ飯がぽこりと乗る。
    「サンキュ……代わりに何か、取っていってくれ」
    「じゃあ唐揚げもらうっす! 漣っちからはー……」
    「おら、コレくれてやる」
    「それはオマエの嫌いなものだろ……はぁ、すまない、四季さん」
    「俺はこれ好きだからちょーどいいっす!」
     わいわい、弁当の具が俺達の間を行き交う。普段とはちょっと違う食事風景。ふといつものやりとりを思い出して、思わず口から呟きが漏れる。
    「……円城寺さんも来れたらよかったな」
     円城寺さんは相変わらず忙しかった。俺達のオフが重なる日、どうしても予定を空けられなかった。円城寺さんは笑って、若い子たちで行って来いと言った後、くれぐれも気をつけるようにと、真剣な声を出した。
     ちょっと、考えてしまった。そんな俺に四季さんの明るい声が光る。きらきら、って。
    「また今度行けばいいんすよ! 漣っちが初めての雪にはしゃぐのが見れないのは残念っすけど……まだまだ、オレ達にはやってないこと、いっぱいあるっすよ! その初めてを、道流っちとすればいいっす!」
     すとんって、きらきらが胸に落ちて感覚を満たした。そっか、って思って、そうだな、って思った。感じたことはうまく伝えられないけど、思ったことをただ口にした。「そうだな」って。アイツが何を思ったかはわからないけれど、ふてくされたようにひとりごちている。「誰が雪ごときではしゃぐかよ」
     初めては特別だ。でも、初めてはこれからもたくさんある。今更、気付かされる。
     そういえば、俺はアイツの初めてに立ち会うのか。なんだか、むずかゆいような、背筋が伸びるような気持ちになる。
     四季さんは相変わらず、アイツを未知の世界に引っ張っていく。俺はなんだか楽しくなって、共犯者になる。
    「漣っち、ババ抜きは初めてっすか?」


     旅行しようと四季さんが言ったのが、雪を見ることに決めて一週間もしない日の出来事。
     東京はいつ雪が降るかわからないし、東京の雪はべちゃべちゃだと四季さんは言った。同意見だ。本格的に雪が降る季節でもよかったけど、あんまり雪が深くても動きにくいし、コイツがいつまで起きているのかわからないし、何より四季さんがすぐにでも行きたい、って言うから。
     行き先は仙台に決めた。雪は適度に降るし、新幹線で二時間だ。実は青森も候補にあったんだけど、俺たちはりんごより牛タンを選んだ。
     未成年だけで外泊するのは初めてだった。未成年だけでも泊まったりできるんだな、と感心したら、宿によるみたいだと四季さんは言う。いろんなことを四季さんは調べてくれた。
     ありがとう。楽しみだな。俺の言葉を聞いて、四季さんが照れたように笑う。
    「いっぱいいろんなことしたいから、欲張っちゃったっす」


     がたごと、だなんて風情のある音を立てずに新幹線はすいすいと進んでいく。
     弁当を空にして、ババ抜きをして。そんなことをしていたら窓の外には雪がちらついている。
    「あ! 漣っち! 雪!」
     アイツはトランプから目を外して外を見る。ふうん、とも、へえ、ともつかない吐息が、アイツの唇から漏れた。
     アイツはトランプに飽きても寝たりしなかった。ずっと、雪を眺めていた。



     ひゅっ、と。投げつけられた雪玉が頬を掠める。記憶にある、顔面を狙うパンチよりもずっと遅いはずのそれに翻弄されるまま、近くの木へと身を隠す。そこまで大きくないそれは、俺を匿うのが精一杯だ。木から顔を出すのを諦めて、同じく苦戦しているアイツに意識を割く。
    「てめー四季! 出たり引っ込んだりしやがっ、うぶっ」
    「バカ! 迂闊に顔を出すな!」
    「漣っち三回目! 失格っすよー!」
     顔面に雪玉を受けたアイツが、忌々しげに退場していく。たった今使い切られた残機は一人三つ。ここらへんは四季さんのオリジナルルールだ。さっきまでは俺なんかが知っているように適当に雪玉を投げて遊んでいたけど、実は雪合戦には公式ルールがあるんだと四季さんが教えてくれた。勝負事と聞いて、アイツが食いつかないわけがない。
     フラッグ代わりに置いたペットボトルまでそんなに距離はない。なんとしてでもここで食い止めなくてはならないが、軽率に顔を出すと狙われる。でも、顔を出さないと倒せない。今更ながら、雪合戦の奥深さを思い知る。
     開始前に作った雪玉しか使ってはいけないというのも俺はさっき知ったばっかりだった。雪を丸めながら得意げにニヤリと口角を上げた四季さんの言葉がぷかりと浮かぶ。「オレ、雪合戦得意なんすよ!」
     正直、舐めていた。まさかここまで得意だなんて。隠れるタイミングといい、雪玉のコントロールといい、初めて雪合戦をするアイツだけじゃなくて、俺と比べても差は一目瞭然だった。四季さんの残機はあと二つ。せめて、あと一つくらいは減らしたい。もどかしい、手元にある雪玉はあと二つきりだった。
     牽制するように飛んでくる雪玉を前に決意を固める。やるしかない。意を決して飛び出せば、フラッグに届きそうな四季さんが見えた。間に合わないとわかっていても雪玉を投げる。雪玉は当たったけど一つだけだ。そのままフラッグを取られてしまった。残機は減らせたけど、やっぱり悔しい。
    「やったー! オレの勝ちっすね!」
    「チッ……もう一回だ! もう一回!」
    「ダメっすよ! そろそろ雪だるま作らないと、時間なくなっちゃうっす」
     雪合戦は時間余ってたらあとでやろうと四季さんが言う。アイツは当然のように噛み付いた。
    「はぁ? だるまになんて興味ねーよ。それ、勝負じゃねーんだろ?」
    「雪だるまでどうやって勝負するんだよ……」
    「……芸術点?」
     結局、勝負になってしまった。アイツはぎゃいぎゃい騒いでいたが、雪玉を転がし始めた途端、口数が減った。こういうところはわかりやすい。思ったより雪が積もっていてよかったなって思う。くるくる、ころころ、雪玉が大きくなっていく。芸術点は大きさで決まるものではないと知っていても、アイツに負けるのは癪だった。時間切れに注意しつつ、俺たちは雪玉を転がしていく。
     三つの雪だるまを、順番にカメラに収める。勝敗を決めるのは円城寺さんだ。きっと俺たちは三人とも、勝負がつかないって、わかってた。それでも、自分が勝つって、みんなが言っていた。
    「いつか事務所のみーんなで、雪合戦したいっすね」
     四季さんが楽しそうに言った。俺も、そう思う。ちょっとだけワガママを言っていいなら、その時はアイツらも混ぜてやってほしいなって思った。そんなこと、言えなかったけど。


     宿は立派な宿だった。それこそ、ちょっと気が引けてしまうくらい。俺は荷物を持とうとしてくれる宿の人にどう対応していいかわからなかったが、アイツは上機嫌に荷物をもたせていた。四季さんは俺と同じで、少しうろたえていた。
    「うおおお! テンションあがるっすね!」
    「なんだ? この匂い」
    「畳の匂いだ……たぶん」
    「新品の畳っすね!」
     案内された部屋は、ラウンジよりももっともっときれいだった。少し自信はないけれど、これはまっさらな畳の匂いだ。アイツはこの匂いが気に入ったようで、荷物を放り投げてごろりと畳に寝転がる。四季さんが上から座布団をかけて、アイツにスネを蹴られていた。
     メシはまだかと、思った通りのことを言うアイツに四季さんが菓子を取り出す。事務所のみんなへの土産だと思っていたのはこれだったのか。バリバリと袋を開けるアイツに呆れつつ、四季さんの好意を素直に受け取ることにした。夕飯に牛タンが出るのに、牛タン味のせんべいを食べた。まんまるな銘菓も食べて、置いてあった菓子も食べて、アイツが言った。「夕飯、期待できそうじゃねーか」
     広い部屋。その窓際。昔から見慣れているはずの雪景色がオレンジの灯りを取り込んでぼやりと光る。ファンタジーの世界みたいだ。それに気がついた四季さんがアイツを連れてこっちに来る。アイツは窓の外を見て、短くない間、ずっと黙っていた。四季さんも黙っていたから、俺も黙った。そうやって、控えめなノックの音が響くまで、ずっと俺たちは外を見ていた。四季さんが扉に駆け寄っていく。俺はアイツをちらりと見る。外から視線を外したアイツと一瞬だけ目があった。


    「ちまちま出してねーで一気に出せよ。全然足りねー」
    「オマエ、それ絶対に旅館の人に言うなよ……」
     次から次へと運ばれてくる料理は、どれもこれもがおいしかった。ただ、食べるのが早いコイツは待ちくたびれるとすぐに四季さんが買ってきていた菓子に手を伸ばす。俺は旅館の人がそれを見やしないかとヒヤヒヤする。
     ゆっくり、よく噛んで食べればいいんだ。いつものように早食い勝負を挑まれたが、断った。せっかく四季さんが選んでくれた宿と料理だ。丁寧に味わいたい。俺も食べるのは早い方だけど、意識してゆっくりと咀嚼する。
     最初は野菜やら酢の物が運ばれてくるから不満げだったコイツも、魚や肉が運ばれてくるようになったあたりで上機嫌になっていた。たっぷりの刺し身と、青森じゃなくて仙台にした理由の一つ、牛タン。
     刺し身もおいしかったけど、牛タンは本当においしかった。焼肉屋で食べるそれとは、厚みも柔らかさも違って驚いた。柔らかくて、すんなりと噛み切れて、なんだか不思議な食感だ。それに、おいしい味がする。何の味って言えばいいんだろう。とにかくうまい。地元にこんなものがあったとは。
     肉を噛みながらふわふわと考える俺に、四季さんがいたずらっぽく問いかけてくる。
    「タケルっち、食レポするっすよ! ……当店自慢の牛タンはいかがっすか?」
    「えっ? あ、いや……待ってくれ、とっさには浮かばない」
     食レポは苦手だ。まして、いきなりなんて反応できない。正直、「うまい」としか出てこない。捻りのない感想を飲み込んで、言葉を探す。四季さんはコイツの方を見て、言う。
    「じゃあ、漣っちは?」
    「うめぇ」
     かぶった。最悪だ。
    「それ、バラエティだったら絶対いじられるやつっすよ」
    「あ? いじられんのはチビのほうだろ。なんにも言えねぇとか、ダッセエの」
     特徴的な笑い声。オマエよりマシだと言いたかったが、浮かんだ言葉はコイツと全く一緒なのだ。まして、俺は何も言えていない。何も返せない。
     ほっこりした煮物に箸をつけながら、コイツが言う。珍しく野菜をうまそうに食いながら、コイツが言う。
    「おい、こんだけ色々出てんのに米はねえのかよ」
    「そういえば出てこないな……」
    「忘れられてんすかね」
     そんなことを話していたら、天ぷらが来た。きれいな色の衣から、エビのしっぽが覗いている。衣が黄色くて、エビが赤くて、野菜の緑が透けていて。そういう、普段気にしない些細なことが、なんだか心に色を添える。
     料理を運んできてくれた人に、意を決して米はまだかと聞いてみた。優しく微笑む彼女が言うに、米は一番最後にくるらしい。
    「……ご飯、最後にくるんすね」
    「……おかず、ないのか」
     牛タンを取っておくのはマナー違反だろうか。そう考えて、牛タンはすでにぺろりと平らげてしまったことを思い出す。刺身も、牛タンも、煮魚も、ご飯と一緒に食べたかったのは俺だけではないはずだと思いたい。サクサクのてんぷらを食べながら、そう思う。おかずだけを食べるのって、不思議な感じだ。米がなくてもおいしいのは、丁寧な味付けのおかげなんだろう。
     茶碗蒸しを物珍しそうにつつくコイツを見ていたら、米が来た。ささやかな漬物と、味噌汁がついている。これで最後か。オレもコイツもおひついっぱいの米に手を伸ばすが、四季さんはもう食べられないと言う。
     おかずがなくても米はおいしかった。おかずがないからだろうか、これが俗に言う『米本来の甘み』なのだろうか。やっぱり言葉は足りないんだけど、うまい。コイツが同じことを思っているのかはわからないけど、文句も言わずに食べてるのを見るに、わりと気に入ってるんだろう。
     味わいながらじっくりと噛み締めていたら、おひつはからっぽになっていた。デザートを運んできた旅館の人が少し驚いたように、おかわりはいるかと聞いてきたので断った。とっくに食べ終わっている四季さんをこれ以上待たせるのは、ちょっと気が引けた。
     甘いものは別腹、なんて言うけど、果物の並んだ皿は四季さんのお気に召したようだ。俺たちもわりと腹は膨れていたから、食べすぎて苦しい、だなんて笑いながら切りそろえられた果実で喉を潤した。


    「まさかご飯が最後とは思わなかったっす……」
     まっさらな畳に、食べてすぐ横になりながら四季さんが言う。俺もそれに倣いごろりと転がる。いい匂いがして、呼吸が深くなる。
    「すごかったっすねー。なんか次々に色々でてきて……もーなんにも食べれないっすよ」
     食事中も喋り続けていた四季さんは、食べ終わっても喋り続けていた。定期的にアイツをべしべしと叩きながら、アイツが寝るのを阻止している。眠らせるわけにはいかない。なんと、この後も予定があるのだ。俺たちは一日中、遊び倒すと決めている。
    「オレ、ちょっと緊張してたんすよ。でも味がわからなくなったりしなくてよかったっす」
    「ああ……俺も少し緊張した」
     ほっぺを伸ばされたアイツが四季さんの手を払う。最近気がついたんだけど、アイツが四季さんに伸ばす手は、拒否という意思表示でも柔らかい。それを俺はなんだか穏やかな、スープの湯気に霞むテーブルの向かい側を見るような気分で眺めている。もっと、ずっと、揺さぶられると思っていたのに。
    「悪くなかったけどな……肉が足りねー」
    「明日、牛タンの店に行くだろ」
     きっと、その店はかしこまらなくていい店のはずだ。そりゃ、ここに比べれば、だけど。
     俺たちはがやがやとした店内で、いやというほど牛タンを食べる話をする。おかずと一緒に米を頬張る予定を話す。次々、次々と楽しいことを並べながら、時計の針を追いかけて、時計の針に追いかけられる。
     抜きつ抜かれつ、一歩リード。ごろごろ、転がる俺たちに追いついてきた時計の針を見て、四季さんが言う。
    「よっしゃー! そろそろお風呂の時間っすよ!」



     雪合戦ってのは、つまらなくはねえ。四季がもやしのくせにあそこまでやるとは思わなかったが、もう一回やったらオレ様が勝つ。
     雪ってのはそもそも、歩きにくい。らーめん屋がうるせえから、らーめん屋の買ってきた靴で来たのは正解だったが、それでも歩きにくいもんは歩きにくい。転んだのは何年ぶりだろう。記憶にない。凍った道はこんなになるんだな。雪の、ぎゅっぎゅってする感覚は生まれて初めてで、まあ、珍しいかそうじゃないかと聞かれたら、珍しい。そういう変わった条件で動き回って勝負するのも、まあ、悪くねえ。
     ゆきだるまとかいうやつは全然だるまに似てなかった。らーめん屋の家にあった赤いやつとは形も色も何もかもが違う。四季とチビのやつ、名前間違えてんじゃねえだろうな。
     雪玉がどんどん大きくなるのは、なんだか不思議な感じだった。泥団子とは少し違う。ってか、泥団子はこんなに大きくする必要、なかったからな。四季が雪がさらさらすぎなくてよかったと言っていた。雪にも、種類があるらしい。積もっててよかったとも言っていた。
     ゆきだるま。オレ様のが一番デカいからオレ様の勝ちなんだが、勝敗はらーめん屋が決めることになった。すぐに返事はこなかったけど、夜になったら返事が来た。チビの読み上げる、らーめん屋の言葉。「みんなすごいな。これは、全員一番だ」
     オレ様はこういうのを聞くとちょっとムカつく。でも、今日は気分が悪くなかったから、それで納得してやった。まあ、どっからどう見てもオレ様の優勝だけどな。


     らーめん屋の家と似てるけど違う匂い。畳が新品なんだと四季が言った。この草むらみたいな青が、いつかはらーめん屋んちの床みてぇになるんだろうか。妙な感じだが、まあ、どっちにせよこれはいいもんだ。
     荷物持ちもいたし、もてなされるのは悪くねえ。気分良く新しい畳を味わってたら四季が座布団をドサドサかけてきやがった。スネを蹴る。加減してやったら調子に乗る。まあ、今日は許してやる。
    「おい、メシはまだかよ」
     机の上には菓子が少し。四季が見つけた茶が三つ。さっきのもてなしには釣り合わない食いもんの少なさだ。呆れる俺に四季が菓子を差し出す。てっきり、残りのバンド野郎への土産かと思っていたら、どうやらオレ様たちへの貢ぎ物らしい。いい心がけだが、四季がこういうことをすると、ちょっとざわざわする。それでいいのに、そうじゃない、って文句を言いたくなる。まあ、四季が楽しそうだからいいんだろうけど。
     菓子はうまかった。土産物でこんなにうまいんだ。メシも期待できそうだ。
     あらかた食い終わって、見渡す広い部屋。その窓際、見慣れない表情のチビがいる。からかってやる前に、四季がオレ様の手を引いていく。振り払えたはずの手を繋いだまま、弱っちい力で窓際へと連れて行かれる。
     チビが見ていたのはオレンジ色に染まった雪だった。じっと見るが、それ以上でも以下でもない。ぼんやりとした灯り、橙色の光。
     きれいだとは思う。でも、それよりも肺に落ちた気持ちが広がっていく。チビは雪を見るとこんな顔をするんだな。
     短くない時間、ずっと黙ってた。チビも、四季も、オレ様も。
     こんこん、とドアが鳴る。一番最初に動いたのは四季だった。オレ様はチビをちらりと見る。外から視線を外したチビと一瞬だけ目があった。


     ここのメシはなんか変だ。思ったからそのまま口にしたらチビがうるさかった。
     とにかく量が少ねえ。まさかこれで終わりじゃねーだろうな、と四季を見れば、順番に運ばれてくる、はず、と少し自信なさげに返される。
     待つのは好きじゃねえが、つまめる菓子もあることだし待ってやる。そうしてたら次々に料理が運ばれてきた。最初は野菜だのすっぺーわかめだの、とにかく腹にたまらねえものしか出てこなかったが、しばらくしたら魚や肉も出てきた。なんだ、やればできんじゃねえか。そもそも、オレ様はこのギュウタンが目当てで来てるんだ。
     刺し身もいいが、ギュウタンは特別うまかった。何枚でも食いたいが、満足できる量はない。野菜とかどうでもいいから、ギュウタンをよこせっての。
     そんなことをふわふわと考えていたら、ずっと喋り倒していた四季がそのままの流れでチビにちょっかいをかけていた。
    「タケルっち、食レポするっすよ! ……当店自慢の牛タンはいかがっすか?」
    「えっ? あ、いや……待ってくれ、とっさには浮かばない」
     ダッセエの。バカにしてやろうと口を開く前に、四季がオレ様を見る。
    「じゃあ、漣っちは?」
     面倒だが、最強の食レポってやつをチビに見せつけてやるか。
    「うめぇ」
     チビがうんざりしたような顔をした。気がする。
    「それ、バラエティだったら絶対いじられるやつっすよ」
    「あ? いじられんのはチビのほうだろ。なんにも言えねぇとか、ダッセエの」
     チビが何も言えずに悔しそうにしている。それを眺めながら野菜を食う。やっぱり肉のほうがいいが、この野菜はマズくねえ。味の染みた野菜を口にして、そういえば、と疑問が浮かぶ。
    「おい、こんだけ色々出てんのに米はねえのかよ」
    「そういえば出てこないな……」
    「忘れられてんすかね」
     うまいもんが出てくるのはいいが、米を忘れられるのはウゼエ。米について話してたら天ぷらが来た。オレ様が聞く前にチビが、米はまだかと聞いていた。なんでも、米は最後にくるらしい。肉とかと食ったほうがぜってーうめえのに。
     変な、しょっぱいプリンみたいなもんを食ってたら米が来た。肉はついてない。だが米の量には満足だ。そのまま食べる米も、悪くはなかった。
     一通り食べて満足してたら果物がきた。食べすぎて苦しい、って四季が笑って、じゃあよこせって言ったらベツバラだ、と断られた。チビも四季も満足そうにしてたし、オレ様も特に不満がなかったからのんびりとそれを食べた。ちょっとだけ、選ばなかったリンゴの赤さを考えた。


     さっきも思ったが、この畳は本当に悪くねえ。チビの家にも新品の畳があれば、もう少し宿として使ってやるのにな。
     食事の感想を喋り続ける四季は、口と同時に手を動かしてオレ様のことをぺちぺちと叩いている。まだ予定があるとか言ってたが、もう終わりでいい。このまま寝たい。のに、四季はオレ様の頬を引き伸ばす。手をはたき落とす。繰り返して、四季がオレ様にもメシのことを聞いてくる。
    「悪くなかったけどな……肉が足りねー」
     肉だけ、あと何十枚かは食える。
    「明日、牛タンの店に行くだろ」
     そういやそうか。ギュウタンが好きなだけ食べれるのはいいことだ。四季も、チビも楽しみなんだろう。メシを食ったばかりのオレ様達は明日のメシの話をする。王様のような気分になる。まるで、世界が手のひらに収まっているような。
    「よっしゃー! そろそろお風呂の時間っすよ!」
     そうしてまた一つ、楽しみに手を伸ばす四季を眺めて思う。オレ様はカンヨーだし、機嫌もいいから、ちょっと眠みーけど付き合ってやる。



     えっ、って思わず言ってしまった。四季さんは俺の顔を見て、えっ、って声を出す。そっか、眼鏡は外さないんだな。一人納得していたら、四季さんが不思議そうな顔をしていた。扇風機が回る脱衣所は、部屋よりも少し肌寒い。
     外に続く扉からは夜が見える。四季さんの声で埋まる脱衣所も、この先にある風呂も、貸し切りだ。時間制限はあるが、人がいるよりゆっくりと入れるし、何よりわくわくしてテンションがあがる。そんな理由で俺たちは貸し切り風呂をプランにねじ込んだ。しかも、露天風呂だ。名前が家族風呂っていうからちょっとむずむずしてざわざわするけど、それ以上に空が見える風呂は楽しみだった。
     アイツは風呂が嫌いじゃない、はず。カラスの行水だっけ、普段アイツは一瞬で出てきて髪から滴る雫で床をびしゃびしゃにするけれど、夏なんかに水風呂を張ってやるとのんびりとぷかぷかやっている。じゃあ冬は、って言われるとわからないけれど、アイツにだってそれはわからないわけで。
    「おい! 風呂入るならとっとと行くぞ!」
     アイツの声に急かされて、俺たちは扉を開ける。信じられないくらい寒くって、冴えた空気をきれいだと感じた。


    「漣っち、洗ってる間に固まっちゃわないっすかね……?」
    「……まあ、風呂に入れれば動くんじゃないか……?」
    「うっせーぞ……余計なこと言ってねーで……手ぇ動かせ……」
     二人してコイツをわしわしと洗いながら不安になる。気持ちが口を動かして、ちょっと手が淀む。コイツは寒さで動きが極端に鈍くなっていた。変なところで律儀なのか意固地なのか、湯船に浸かる前に髪や体を洗おうとするコイツを手伝っているうちに少しだけあの日の冷たいコイツを思い出して胃が冷える。コイツはそんなことは大したことじゃないと言うように、偉そうに俺達に文句をつけてる。
     洗い終わったらコイツはひんやりとしていた。俺達も冷えていたけど、俺達と違って、なんというか、内側からの体温みたいなものを感じない。ゆっくり、ゆっくり歩くコイツに焦れて、四季さんが俺に助けを求める。文句を言うコイツを抱えて湯船に放り込む。ちょっとだけ、猫を風呂にいれる動画を思い出す。
     俺達が体を洗ってる間に暖かくなったんだろう。風呂に浸かるころにはアイツは元気になっていて、持ち込んだ飲み物に口をつけていた。ドラマなんかでみた大人の真似事、酒の代わりの清涼飲料水。俺たちはまだ子供だから、アイスのオマケ付き。
     湯気で溶ける前に、果実を模したアイスを口に放り込む。コロコロと舌先で転がせば口の中が冷たくなって、飲み込むと、熱くなった体の真ん中を氷が伝う。ちぐはぐな感覚って楽しいのかもしれない。「こたつでアイスもいいけど、お風呂でアイスってのもいいっすね」、って。四季さんの言うとおりだ。
     お湯の違いはうまくわからなかったけど、するりと撫でた肌はすべすべになっていた。熱めのお湯でぽかぽかしたところに、ひんやりした風が頬を冷ましてくれる。難しいことはわからないけど、気分がいい。四季さんが歌い出した鼻歌を、俺とコイツはのんびりと聞いていた。
    「あ、漣っち、タケルっち。見るっすよ」
     仰いだ先の空には小さな光が散らかっていて、月が一つにひときわ大きな星が三つ。冬の大三角ってこれか。四季さんが星の名前を教えてくれる。
    「一個はシリウスって言うんすよ」
    「ああ、聞いたことあるな」
    「で? どれがしりうすなんだよ」
    「どれかっすよ。んで、あとあのおっきい二つと合わせて冬の大三角っす」
     残り二つの名前は忘れたと言う。
     シリウスも他の星も聞いたことないからこれは高校で習うんだと思ったら、小学生の時のことなんて覚えていないと四季さんは言った。俺も習っていたようなのだが、記憶にない。それでも星はきれいだったから、大丈夫。知らなくてもきれいだから、俺も、四季さんも、コイツだって、大丈夫。
     数千回も過ぎ去って、何万回も迎えるはずの夜空がこんなにきれいなことって、きっと少ない。それでも、こうやって気がつけたなら、星空はこの手の中にある。だから、大丈夫。
     人よりも少しだけ長い夜に眠っていたコイツは、初めてじっくりと見上げる冬の空をどう思ったんだろう。きれいだって、そう思ってたら嬉しい。俺だけじゃなくて、きっと四季さんだってそうだ。景色だけじゃなくて、こういう心の動きだって、共有できたら嬉しい。別にいつもそう思ってるわけじゃないけど、今日は星がきれいだから。
     コイツが見る、初めての景色だろうから。
    「きれーだな」
    「……え?」
     ぽつり、ひとりごとのような声。
    「冬って、全然ちげーんだな。空気が冷てえだけなのに、色が違う……変なの」
     コイツも、きれいだとか言うんだ。きれいだって感じないとは思ってないけど、それをこうやって口に出すってのは予想外だった。俺はきっと四季さんと同じ顔をしていた。四季さんは少しだけぽかんとしたあとに、嬉しそうに笑った。
    「……ふふ、来てよかったっすね」
    「まあ、悪くねえ。来てやった甲斐もあるってもんだ」
     やるじゃねえか。ってコイツは四季さんに言った。そうして、誇らしげな四季さんから視線を俺に移して、一言。「チビもな」
     俺の顔を見てコイツは笑う。ふてくされたように照れるのは、コイツのほうだったはずなのに。
     口元まで沈み込んだ風呂も、満天の星空も、今は俺達のものだった。


     なんでだろう。四季さんが笑うたび、コイツが言った「きれーだな」って言葉を思い返すたび、空の星がきらきらと光る。コイツはもうきれいだなんて言わなかったけど、夜空を仰ぎ見る横顔と眼差しは真摯に見える。頬はやんわりとした桜色。ちゃんとあたたかそうで安心する。
     四季さんは少し前におしゃべりをやめた。そうやって、三人で星を見ていた。アイスはとうになくなっていて、俺が口をつけた清涼飲料水は冬の風でひんやりとしている。なんとなしに、酒を飲んでみたくなった。
    「……俺さ、アイドルになってから、いろんなこと、してきたけど」
     唐突に、心からぽろぽろと言葉が溢れた。
    「なんだろうな。こういうのは初めてだ……うまく、言えないんだけど」
     この心臓の高鳴りとか、肺を満たす高揚感とか、そういうものの正体がつかめないまま口にした。四季さんが、オレもっすよ、って笑う。
    「……なんだろうな。うまく言葉にならない」
     そんなもんっすよ。四季さんは言った。
    「漣っちに初めて雪を見てもらおうとしたっすけど、オレも初めてのこと、いっぱいだったっす。雪合戦だって、タケルっちと漣っちとするのは初めてだったし」
     こんな旅館も初めて。あんな食事も初めて。あの豪勢な食事を思い出して愉快になる。初めてのことが、いっぱいあった。
    「……俺、天ぷらを塩で食べたのも初めてだ」
    「それも初めてっすね! オレも!」
     漣っちもっすよね、って問いかけた四季さんをちらりと見て、ああ、って、コイツは一言。ささやくように口にしたっきり、また満月のような目が星空を見上げる。よっぽど気に入ったのか、あるいは不思議なのか。どちらにせよ、よかったなって思う。
    「あと、米が最後に出てくるのも初めてだったな……」
    「そっすね……あれ、ぶっちゃけちょっと恥ずかしかったっす……」
     コイツは話に入ってこなかった。ただ、星を見てた。ぼんやりと、ゆっくりと。
    「けどオレ、すーっごく楽しかったっす! 新幹線も、雪合戦も、ご飯も、今も、全部! タケルっちは? タケルっちも楽しかったっすか?」
    「ああ、俺も楽しかった」
     俺だって、全部楽しかった。何もかも、初めてみたいに楽しかった。実際に初めてのことはいくつもあって、俺はわりと、いろいろを知らないんだって気付かされた。
     もしかしたら、俺とコイツはあまり変わらないのかもしれない。四季さんだって、きっと。
    「漣っちは?」
     その問いかけに、きまりが悪そうにコイツは答える。
    「……さっき言っただろ。悪くねえって」
     四季さんが笑う。また、星がきらめく。夜空を手放すまで、あと数十分。頬を夜風が撫でて、零れそうな満月がもう一度、星を見る。


     湯上がりの牛乳ってのは誰が考えたんだろう。きっと、頭のいい人だ。意外なことに、ここで一気飲み対決を提案したのは四季さんだった。よほど自信があるのかと、身構えた勝負は俺とアイツが同着一位。言い出しっぺの四季さんは思ったよりも遅かった。
     そのまま体が冷えないうちに部屋に戻れば、見るからにふわふわの布団がきっちりと敷かれていた。布団に飛び込む四季さんに続くように、アイツは隣のシーツに沈み込む。その様子はなんだかけだるげだ。いつもだったらアイツは自分が一番乗りだとか言い出して駆け出すはずなのに。なんだか、四季さんといる時のアイツは面白い。最初は不機嫌なのかと思ったが、最近はなんだかすましているように見える。
     朝起きて、コイツがカチコチになっていたら笑えない。俺の分の毛布を重ねてやれば、四季さんも自分の毛布を積み上げた。重てえ、ってアイツは言ったけど、そのまま布団に潰されるがままになっている。
     電気を落とそうかとスイッチのところに向かったら、四季さんが言う。「豆電球がいいっす!」
     薄明かりの中、布団に戻りながらふと思った。コイツが真ん中で寝るのか。四季さん、なんで端っこに行ったんだ。気まずいわけじゃないんだけど、いつもは円城寺さんが真ん中だから。
     ぼんやりとした灯りの下、四季さんがどこか誇らしげに問いかける。
    「漣っち、初めて満載ツアーはどうだったっすか?」
    「あ? ……別に。雪は変だし空も変だし……ギュウタンはうまかったけどな。メシは悪くなかった……そういや駅弁もうまかったな……風呂も悪くねえ」
     それは大満足と言えるんじゃないか。そう思ったが、俺が言うとまた言い争いになる。
    「よかったっす! 雪は慣れっすよ、慣れ! 雪合戦、いつでもリベンジ受けて立つっすよ!」
    「あぁ?」
     俺が何か言わなくても言い争いになりそうな気配。四季さん、コイツに勝敗の話をすると面倒だぞ。
    「初めてのこと、楽しくなかったっすか?」
     でも、そんなものはまったく気にせずに四季さんが続ける。俺は開きかけた口を閉じる。
    「……初めてだろうがなんだろうが、雪は変わったりしねーで雪だろ」
    「そっすか? 確かに雪は変わんないと思うけど、漣っちが変わるっていうか……変わる前は今しかないっていうか……」
     四季さんは、なんだろ、って唸りながら枕に顔を突っ伏した。声がくぐもる。俺には四季さんの言いたいことがぼんやりとわかる気がした。コイツは、どうなんだろう。
    「……うまく言えないっすけど、オレは初めてのこと、好きっすよ。わくわくして、ドキドキして、ちょこっとだけ、怖くて」
    「……ふん」
     コイツは寝てなかった。寝たふりもしなかった。それだけ、たったそれだけで、四季さんとコイツの間に流れる空気に触れたような気がしてくる。
     優しい気持ちになった。コイツから、何か言葉が欲しかった。何か言わないと、って思ったわけじゃないけれど、ぽろりと言葉が宙を舞う。 
    「俺も」
     声に反応した四季さんが、嬉しそうに、うん、って笑う。
    「俺も……わくわくして、ドキドキした。ああいう料理も、こういう宿も、特別な風呂も……てんぷら、塩で食うのとか……四季さんと、オマエと、雪遊びするのだって、」
     全部、初めてだった。オレも、って、四季さんの嬉しそうな声。
     うまく言葉に出来なかったけど、本当に楽しかったんだ。見慣れた雪でさえ、初めて見る宝石みたいにきらきらしてた。
     四季さんも、オマエも、そうだったらいい。
     いや、これは願望なんかじゃない。だって、わかるから。雪に反射して、星に届きそうな俺達の笑い声。こうやってオレンジ色の光の中に揺蕩う、共有された温度。その全部が、教えてくれる。
    「なんだか、オレ達も初めてのこと、いっぱいあったっすね」
     誰一人わからなかった、米のくるタイミング。
    「……なんだよ。オレ様と似たようなもんじゃねーか」
     くはっ、って。いつもより覇気のない、呆れたような柔らかい音。共鳴するように四季さんが笑うから、少しだけ俺もつられてしまう。
     おやすみ、って言うタイミングを逃していたらコイツは寝た。宙ぶらりんの沈黙に、四季さんが言葉を投げ入れる。「おやすみ。漣っち。タケルっち」
     そう言って、四季さんは言葉を閉じた。満ちた夜の帳を下ろす。
    「……おやすみ、四季さん。……オマエも」

    十一

     星なら見慣れてる。どこでだって見れるし、どこにだってあるし。
     当然それは日本にもあった。薄霧の向こうとか、蒸し暑さの積もった層の上とか、そろそろ眠りの足音が近づいてくるような風の根本とか。
     きれいかきれいじゃないかって言われれば、まぁきれいだ。だからなんだって話だけど。少なくとも、眠っちまいそうな冬の夜に素っ裸で体を洗うなんてマネをしてまで見てえもんじゃねえ。
     それでも、冬の風呂ってのは思ったより気に入った。外で入る風呂は別に初めてじゃねえけど、こんな冷たい空気を頬に浴びながら入る風呂は初めてだった。冷たい風ってこんななんだな。眠くならねえのが変な感じ。アイスが喉を通る度に、熱いんだか冷たいんだかわかんなくなる。寒いのに眠くない。冷たいのに熱い。ちぐはぐな感覚は思ったよりも早く馴染んだ。
     空を見た四季の指し示す先、言葉。星には名前があるってのを初めて知った。星の正体はわかってた。きらめいて、行き先を示すもの。夏に光る三つの星の名前を知らず、ただ方角だけを知っていた。
     しりうす。ようやく名前のわかった星はどこにあるのかがわからない。四季の野郎、忘れてやがった。チビも知らない。らーめん屋ならわかるんだろうか。別に知らなくたって困らねえけど、聞いてやってもいい。
     大きく光る三つの星。夏にも似たような光はあるけど、これはまとう空気が違う。これが四季の見せたかった夜空なんだろうか。そうだと思う。でも、それだけじゃない気がする。それでも。
    「きれーだな」
     え、って。チビのマヌケな声。
     別に言わなくてもいいことだけど、言ってやる。気まぐれだ。
    「冬って、全然ちげーんだな。空気が冷てえだけなのに、色が違う……変なの」
     星から目を離せば、二人共バカみてえなツラしてやがる。それをからかってやるまえに、四季が嬉しそうに言う。来てよかったっすね、って。その様子がなんだか得意げだから、褒めてやってもいいと思った。
    「まあ、悪くねえ。来てやった甲斐もあるってもんだ……やるじゃねえか」
     そう言ってやればなんだか四季は嬉しそうで、まあ、悪い気分じゃねえ。ふと見ればなんだかチビも同じような顔をしてたから、コイツも褒めてやることにした。この風呂を選んだのは四季とチビだしな。
    「チビもな」
     その時のチビの顔は傑作だった。情けないツラを笑ってやれば、チビの口元と視線が風呂に沈み込んでいく。
     風呂も、風も、星も、冬も、その顔も、悪くなかった。悪くねえって、笑ってやった。


     本当に、悪くねえと思ったんだ。
     いつもどおりの四季のおしゃべりと、珍しく饒舌なチビの声を聞きながら、そう思う。
     伝えてやるのは、あと一回だけだけど。


     この旅で、四季はやたらと初めてにこだわる。楽しかったか、と聞かれて、少し言葉に詰まった。
    「……初めてだろうがなんだろうが、雪は変わったりしねーで雪だろ」
     楽しいかつまらないかで言えば、つまらなくはなかった。でも、オレ様が何度雪に触れようが、雪は雪だ。それでも四季は、初めてが特別なのだという。
     雪が変わらなくても、オレ様が変わるという。今は、変わる前だ、って。
     当たり前だけど、オレ様が寝てたって世界は動く。星が出て、太陽が出て、月が出て、春が来て。
     見たことのない世界に広がっていた星空は、不思議と特別に感じられた。これが四季が言う、『変わる前のオレ様』なんだろうか。オレ様はいつか、この空を当たり前だと思う日がくるんだろうか。
     オレ様は冬を過ごして、何か変わるんだろうか。変わるとしたら、何が、どう変わるんだろう。オレ様はオレ様な気がするんだけど。
     変わることは別に怖くない。楽しみかと言われると、わからない。
     四季は珍しく言葉を探していた。それを見て、あの空を覚えててやってもいいかって思った。たとえしりうすが当たり前になったって、あの夜空は特別のままにしといてやろう。
    「俺も」
     チビがぽつりぽつりと喋りだす。四季と同じように、たどたどしく言葉を探しながら。オレ様はその声に、願いのようなものを感じ取る。オマエもそうだろ、って。疑問じゃなくて、なんだかわかったようなそれに返事はしなかった。
     一緒だ。オレ様も、コイツらも。どっかしら違うんだろうけど、少なくとも、
    「……なんだよ。オレ様と似たようなもんじゃねーか」
     少なくとも、オレ様とコイツらは米のくるタイミングを知らなかった。
     なんだか少し笑ってしまう。コイツらはやっぱり、オレ様よりもまだまだガキだ。オレ様につられて四季も笑う。チビも笑う。変なの。まあ、今日は機嫌がいいし、特別な夜なんだろう。それでいい。
     眠い。でもわかる。これは長い眠りじゃない。オレ様を潰す布団の山が、死に似た足音からオレ様を逃がそうと躍起になっている。目覚めても春にはならない。コイツらはいなくならない。空気はきっと冷たい。
     始まるのは、明日だ。目を閉じたって、いいんだ。

    十二

     おやすみ、って言葉はちょっと残念だけど、とっても優しくって好き。
     ぼんやりしたオレンジの灯りを盗み見る。漣っちはもう寝てるし、きっとタケルっちだってあの夜空みたいな色を閉じているはず。
     漣っちはよく「悪くねえ」って言う。好きって言葉を持ってないのかなって、ちょっとだけ胸がぎゅってなる。それでも、ちゃんと知っている言葉で感情を伝えてくれるから、オレは漣っちが好き。
     タケルっちも言葉は少ないけど、感情を映した星空と青空の真ん中みたいな瞳でまっすぐに思いを伝えてくれるから、オレはタケルっちも好き。どこがって言われるとわからないけど、二人はちょっとだけ似てる気がしてる。
     オレも、漣っちも、タケルっちも、いっぱいいろんなことが出来てよかった。初めてのことがいっぱいできてよかった。インスタにあげてハッシュタグつけて世界中の人に伝えたいけど、こっそりこっそり、例えばセンパイだけにとか、ちょっとの人だけに教えてあげて、あとは隠しておきたいような感じ。
     冬の大三角、残り二つも教えてあげられたらよかったな。帰ったらジュンっちに星の名前を聞いてみよう。そうだ、センパイ達とも星を見に行けばいい。そうして、星の名前を覚えて、今度は事務所の屋上で、買ってきた肉まんを食べながら漣っちたちと星を見よう。雲がなければいい。満月じゃなくったっていい。
     初めてのことって、楽しい。ちょっと怖いけど、わくわくして、ドキドキする。それって、ハヤトっちを見つけた時の感情に似てる。オレが初めてのきらめきを見つけて、そこから世界中の初めてに気がつけた瞬間。宝箱をぶちまけたみたいに、世界がキラキラと光りだした日。
     センパイがオレにくれたみたいに、オレも二人に伝えられたらいいな。もう二人が知ってたら、一緒にドキドキしていきたいな。
     キラキラした景色が、いっぱい見たいな。
     眠くないけど眠たい。豆電球がぼやける。もったいないから楽しい日は終わらせたくない。でも、二人も寝てるし、今日はおしまい。

    十三

     初めてカイロを貼ってる時、バカじゃねえのって言いかけた。これまでの深い眠りを思い出して、少しだけクソ親父を思い出した。親父はいつも、起きたら隣にいたっけ。一回だけ、いなかった時もあったけど。そんで路地裏の一番寒くて誰にも見つからないところを思い出して、目覚めてからチビを見つけるまでの焦りに似た感情を思い出していた。布団に埋もれたはずの手が冷たくなっていくような錯覚。畳の青に混ざる冷たい匂い。
     熱されたジャケットと着ながら、こんだけのことで、って思った。でもどうだ、たったそれだけでオレ様は眠ることなく冬のど真ん中に突っ立っていられる。あまりに単純な体に思わず笑ってしまった。
     こんなに簡単に雪が、冬が見れるとは思ってなかった。季節で空気が違うのは気がついていた。冬の空気が一番透明なんだって知った。
     ずっと、知ることはないと思ってた。知る必要なんてなかったし、特別知りたいとも思ってなかった。
     春、夏、秋。そうしたら目を閉じて、気がつけば春だ。なんにも困らない。黄色い花の名前だけを覚えて、気がつけば雨が降る。
     まどろみに雨音がまじる。空と地面の音。
     そういえば一度だけ、春が来る前に目覚めたことがある。これは親父にも、誰にも言ったことはない。
     この前みたいな異常気象だ。真冬に、うんと暖かい日があった。温もりにつられて目覚めても、誰も居なかった。起き抜けの体はまだ少し重くて、動き出した胃が空腹を訴えていた。これは冬でも、春でもないと思った。でも、じゃあ、あれはなんだったんだろう。
     親父は誰かにオレ様を預けることはしなかった。それがどんなに寒い冬でもだ。親父は風が強くなると、誰にも見つからない場所にオレ様を隠す。鍵がかけれるような場所だったら鍵をかけた。あの冬は誰も使わなくなったっていう小屋にいた気がする。
     誰もいなくて、ただ暖かくて、腹が減ってて。それでも外には出られなかった。鍵がかかってたってのもあるけど、外に出たら死んでしまうんだと思ってた。誰の迎えもないまま、死んでいくんだって。
     本当の死は知らなかったけど、本質には触れていたつもりだ。明けることのない眠り。永遠の冬。
     冬を知らなかった。知ることはないと思っていた。知る必要もなかった。それでも、あの日を堺にオレ様は冬がなんなのかを時々考えていた。眠りの外側には、果たして何がいるのだろうと。死の影に、形はあるのかと。

     今揺れている穏やかな時間の外には冬がある。

     昔、親父に一度だけ聞いたことがある。冬ってなんなんだ、って。
     親父はキョトンとオレ様を見て、それからどこでもない場所に目線をやって、そこからとんでもなく時間をかけて、「えらく寒い」とだけ呟いた。まるで、ひとりごとのように。


     雪が降ってる。夢の中にいる。真っ白な世界をガキのオレ様は親父に手を引かれて歩く。そんなありえない光景を少し離れたところから見ている。オレ様は冬を親父と歩いたことはない。オレ様は冬を歩くことなんてない。そのはずだった。
     ふいに手が引かれた。振り向くと笑顔の四季と穏やかな瞳をしたチビがいる。
     三人一緒に歩き出す。さくさくと雪が鳴る。振り向くと、二倍くらいに着膨れたオレ様をガキの頃のオレ様が見てる。景色と意識がぼんやりとしてくる。そういえば、冬の眠りには夢がないことを思い出していた。

    十四

     昼にあれだけ牛タンを食べたのに、新幹線のお供に牛タン弁当を選んでしまった。それと、鶏めしと牡蠣飯と笹巻きのえんがわ。アイツのカゴはやっぱり弁当が山積みになっていて、四季さんのカゴは土産物でパンパンだ。四季さん、土産はさっきも買ってた気がするんだけど。
     行きの何倍も荷物が増えた四季さんに代わって俺が基地を作る。くるりと回った椅子に腰掛ければ、コイツはもう弁当を広げている。昼に牛タンをこれでもかと食べたのに、牛タン弁当。よく食えるなって思ったけど、おやつの時間は過ぎていると思ったら、腹が減ってくるから不思議だ。
    「えっ? 弁当食べるんすか……?」
    「は? メシ買ったら食うだろ」
    「てっきり晩ごはんにするんだと思ってたっす……」
     何かを言いかけながらこちらを見た四季さんが、俺の取り出した弁当を見て言う。「タケルっちもかー」
     そうか、これを晩飯にするのはいいアイデアだ。円城寺さんと一緒に食べるのもいいかもしれない。そう思い弁当をしまう。コイツを見れば、弁当は半分くらいに減っていた。
     コイツの買った二つの袋のうち、一つは全部牛タン弁当が詰まっていた。コイツはそういうところがある。きっと、よっぽど気に入ったんだろう。それに、同じ牛タンでもいろんな種類の弁当があったから、そうなってしまう気持ちもよくわかる。
    「四季さん、おみやげいっぱい買ったな」
    「へへ、これが事務所のみんなの分でしょ……これはプロデューサーちゃんの分、これが賢っちへの分で、これがセンパイ達への分……あ、これは麗っちへの分! これね、オレと漣っちと麗っちでおそろっちなんすよ」
     そう言って取り出したのはこけしだった。なんでも、傾けると光るらしい。
    「タケルっちもいっぱい買ってたっすよね」
    「ああ……世話になったジムの人たちへと……あとは大体四季さんと一緒だ。……こっちは恭ニさん達へのおみやげ。これは、いいものだと思う」
     俺のボストンバッグは猫のぬいぐるみでふっくらしている。四季さんが調べてくれた、少し裏通りにあった猫のものがいっぱいある店にいたぬいぐるみ。迷ったけど、一番柔らかかったこいつらにした。こいつらはコントローラーを握り疲れた俺達の手を癒やしてくれるだろう。あとはごまの団子。これは確か、俺達が回し読みしてる漫画に出てくるんだ。みんな食べてみたいって言ってたし、俺も興味があったから。溶けないかだけが心配だけど、保冷剤をたくさんいれたからきっと大丈夫。
    「漣っちも荷物増えたっすね」
     正直、コイツは最初の荷物が少なすぎただけだと思う。それでも、大きな紙袋二つ分の荷物が増えた。
    「チビとの勝負があるから、らーめん屋と下僕にはくれてやるけどな。残りは全部オレ様のもんだ!」
     どうやら、知らないうちに土産物勝負が始まっていたようだ。でも、勝敗の行方はイメージできた。きっと、二人して優勝だ。
     あとは同じ菓子ばっかり買い込んでるのを見た。気に入ったんだろう。本当に自分で食うんだろうなって思ってたら、四季さんがそっと耳打ちしてきた。
    「漣っちね、ちっちゃいお菓子買ってたんすよ」
     あれは絶対に麗っちの分だと思うっす。その言葉を耳敏く拾ったコイツが、同じ言葉を口にする。「全部オレ様のもんだ!」
     コイツはまた弁当に手を伸ばす。なんだかいくらがたくさん乗っている。仙台って、いくらもおいしいのか。俺が口にする前に、四季さんが言う。
    「仙台って牛タンだけじゃないんすね。いくらもあるんすか」
     一口ちょーだい、ってねだる四季さんの口に、文句を言いつついくらをねじ込みながら、コイツは言う。
    「みてぇだな。ま、うまいもんも多いみたいだし、また来てやってもいい」
    「名物、牛タンだけじゃないんだな」
     俺は一口をねだれなかった。いくらも買えばよかったかな。ふわ、と思っていたら四季さんが言う。
    「また来なくちゃっすね!」
     今度はいくらも食べよう、って。そのあとでちょっと困ったように笑う。仙台もいいけど、いろんなところに行きたいっすね、って。沖縄、京都、北海道、あとはどこがいいんだろうって少し考えた後に、思いついたように口にする。「あ! 青森にも来てほしいっす!」
     行きたいところってあんまり考えたことなかったけど、四季さんが言うところはどこも楽しいんだろうな。沖縄も、北海道も、京都も、ちゃんと観光したことはない。俺にはまだ、知らないものがたくさんある。
     そういうの、ちゃんと知っていかないとな、って思った。少し違うか。俺は、そういうのをもっともっと知っていきたい。
     きっと俺にはこういうのが、少しずつ、足りていないんだと思う。でも、今からでも遅くない。どこにだってきらきらしたものは散らばってて、俺はきっと、アイドルになってからその拾い方を学んできている。
     あとは、身勝手な感情だ。きっと、コイツもそうだと願う。コイツもそういうのが下手くそで、俺とおんなじなんじゃないかって思っているんだ。深い眠りに過ぎ去る季節だけじゃない。コイツだって米の出るタイミングを知らなくて、天ぷらを塩で食べたことがなかった。それでも冬の空にシリウスを見つけたように、コイツだってきっと見つけていける。
     俺と一緒に、変わっていってほしいと思ってしまう。コイツのことなんて一つもわからないくせに。
    「また、いろんなことするっすよ。いろんなとこ行って、いろんなもの食べるっす」
     穏やかな声に、少しの高慢から意識が引き戻される。また何かを見つけに行こうって、星が灯る。
    「まだまだやってないこと、いっぱいあるっす。だから、」
    「ふん……たまになら付き合ってやってもいいぜえ? チビが今回みたいに、泣いて頼んでくるならな!」
    「誰が泣いた。……四季さん、今度は隼人さんも誘って、三人で遊ぼう」
     四季さんが笑う。
    「あはは! 四人のがいいっすよ!」
     四人なら、また変わった時間が生まれる。俺と、コイツと、四季さんと、隼人さんと、この四人で過ごす景色は何色なんだろう。
    「ハヤトっちなら漣っちのこと、ミラってわかってるっすもんね。麗っちは知らないからあったかくなったら……んー、ねえ、麗っちには教えてあげないんすか?」
    「別に……気が向いたらな」
     驚いた。コイツは断らなかった。他人には言うなと、あんなにプロデューサーに訴えていたアイツが、いつもより静かな声でそう告げた。俺はそれを、お天気雨を見るような心で受け止めた。
    「ま、言わなくてもいいんすよ。そしたら、夏に遊ぶっす! 漣っちプール好きっすか?」
    「ぷーるぅ?」
     コイツはプールを知らなかった。でも四季さんの話を聞いていると、俺の知っているプールとは様子が違う。遊園地のプールは、波があったり流れたりするらしい。どうやらここにも初めては潜んでいるようだ。
     俺も、みんなをゲームの外に誘ってみようか。プールじゃなくたっていい。恭ニさんの家から飛び出して、少しだけ遠いところに行ってみたい。普段ゲームばっかりやっている俺たちは、コントローラーから手を離して何をするんだろう。みんなは、何が好きなんだろう。
     ねえ、いっぱい遊ぼうね。四季さんが歌う。窓からは雪が消え、喧騒が滲んできた。もうじき旅が終わって、また日常が始まる。冬が深くなって、春が来て、夏が来て、秋が来る。
     春も、夏も、秋も、楽しみだった。きっと、知らなかったことがたくさんある。知らないこと、たくさん知っていこう。コイツと、四季さんと、みんなと。
     コイツも、同じだといいな。なんでだろう。コイツもそう思ってたら、俺はすごく嬉しい。
    「……漣っちは雪を知らなかったけど、」
     降りる支度をしていたら、ふと四季さんが口にした。
    「漣っちはさ、きっとオレもタケルっちも見たことがないものを見たことがあると思うんす。タケルっちが、オレの知らない景色を知ってるみたいに。オレが、二人の聞いたことない音を聞いたことあるみたいに」
     俺は真四角のリングを思い出して、施設で一番大きなけやきの木を思い出していた。見せられなくても、きっと伝えられるもの。伝えたいと、思える人達。
    「今度教えてほしいっす。見てきた景色とか、忘れられない食べ物とか、冬に見る夢とか」
     コイツは何を知っているんだろう。何を心に詰めて、今まで歩いてきたんだろう。十八回の春、夏、秋。何を拾って、生きてきたんだろう。
    「…………気が向いたらな」
     アナウンスで消えそうな小さな声。それを受け取った四季さんが嬉しそうに笑う。待ってる、って。
    「……そんときゃ、チビにも教えてやるよ。ついでに、な」
     泣いて喜べって、いつもの調子でコイツが言う。泣きはしないけど、喜んでやったっていい。思ったことはひとつも言わず、勝手にしろって呟いた。
     ふと見えた夕焼けには冬が溶けて、シリウスが滲む。もうじきに、夜が来る。まどろみが、夢を連れてくる。
     コイツが長い眠りの中でどんな夢を見てきたのか、聞ける日が少しだけ楽しみだった。

    十五

     窓を開け放てば冷えた空気が部屋に満ちる。目が覚めるような冷気は、コイツにとっては眠りの合図なんだろう。
     見慣れた薄着になったコイツは、なんにもない部屋のど真ん中に転がった。その顔は不機嫌そうで、聞けば二日ほど食事をしていないらしい。眠る前はなるべく食べないようにしてるって言ってた。コイツの横にはお供え物みたいな水と食べ物、充電器を挿しっぱなしにしたスマートフォン。四季さんが何度も何度も使い方と自分の番号を口にする。何かあったら連絡してね、って。四季さんの話を聞き流していたコイツを見てたら、目があった。コイツは一言、寝るだけだ、って言った。俺は、どんな顔でコイツを見ていたんだろう。
     ここの合鍵を預かったのは円城寺さんだ。心配なんだろう。寮ではなく、すぐ近く、店の冷凍庫を貸そうか、だなんて言い出した。漣一人くらいなら片付ければ入るぞ、って。それは流石にマズイだろう。うっかり客の目に入ったら、あらぬ噂が立つのではないかと思う。人骨ラーメン。都市伝説になりそうだ。それはマジヤバっすよって言う四季さんに、円城寺さんが笑う。冗談だ、って。
    「クリスマスまで起きてられたら、一緒にパーティーできたんすけどね」
     コイツはクリスマスを待たずに眠る。やっぱり、十八年間続けた生活はすぐには変えられなかったみたいだ。年末の仕事を足せそうかと聞くプロデューサーに、少し悩んだあとにだりーから寝るって答えていた。
    「やっぱり眠らないと辛かったか……これまで、大丈夫だったか?」
    「別に。今だって、寝てえから寝るだけだ。……まあ、来年は気が向いたら起きててやってもいいぜ」
     心配する円城寺さんに、別に眠らなくても問題はないと言う。どれもこれも気まぐれだと。
    「今度……あ、もちろん漣っちが無理しない感じで……もっと冬に慣れたらなんすけど、やっぱり一緒に遊べたら嬉しいっすね! クリパして、初詣行って、あとなんだろ。バレンタイン?」
     眠たげで、怪訝な顔。そっか、コイツはクリスマスも初詣も、バレンタインも知らないんだ。俺と同じように気がついた四季さんが言い足す。
    「クリスマスはサンタが来てプレゼントをくれるっす。初詣はお参りに行って、バレンタインはチョコもらえるんすよ。あ、チョコが届いてたら全部漣っちにお供えしとくっす」
     チョコはもらえないやつもいる。でもコイツにも一応ファンはいるから、まあもらえるだろう。どれだけのチョコレートが届くかわからないけど、供えられたチョコレートに埋もれるアイツはちょっとおもしろい。
    「節分もあるな。漣の部屋も豆をまいておいてやるからな」
     そういえば、節分もある。円城寺さんが言うんだ、豆もまいてやるか。節分で豆をまくなんて、どれくらいぶりだろう。ましてや、それが楽しみだなんて。
    「ひな祭り……は男だからあんま関係ないしなぁ、ちらし寿司食べて……お花見までには起きるんすかね?」
    「花見の時期は、それなりに寒いからなぁ……」
     円城寺さんが考え込むように腕を組む。それを見てコイツは起きるときは起きる、って呟いた。起きたら絶対に電話してほしいと四季さんが念を押して、定期的に見に来るからと円城寺さんが言った。桜のつぼみが膨らむ頃、俺たちは毎日ここにくるんだろうな。寮は事情を知らない人ばかりだから、言い訳を考えないといけない。円城寺さんならなんとかしてくれるだろう。
     そんな他愛ない話の中で、少しずつコイツの反応が鈍くなってきた。けだるげな相槌もなくなって、瞳が閉じる。
    「……漣っち、寝ちゃった」
     四季さんの手がコイツの頬に触れる。冷たい、って、ひとりごとみたいな声。確かめようと伸ばした手が触れた首筋はあの日と同じで、氷みたいな温度をしている。やっぱり少しだけ心が揺れた。コイツの言う通り、コイツは寝るだけなんだけど。
    「……よし、そろそろ帰るか!」
     円城寺さんがそう笑って、一度コイツの頭を撫でて、立ち上がる。それに続いて、玄関までを歩き出す。振り向くと名残惜しそうな四季さんがいて、俺の視線に気がついてこちらにやってくる。また春にね、ってアイツに手を振って。
     扉をくぐる。鍵が閉まる。円城寺さんがこれからラーメンを食べに来ないかって誘ってくれて、四季さんがそれを追いかける。二人の背中を見て、閉まった扉を見て、廊下にも満ちている冷たい空気を吸い込んで。
    「……じゃあ、また。春に」
     誰にも届かない呟きが霧散する。俺は二人を追いかけて歩き出す。
     世界に冬が満ちている。いつか、銀色の霜を踏みながらアイツと歩く日がくるんだろうか。ざくざくとした音を聞きながら、アイツはどんな顔で俺と並ぶんだろう。


     冷たい世界で、冬の中で、シリウスの下で。
     笑っていてくれたら、すごく嬉しい。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    🙏🙏🙏🙏🙏👏👏👏👏👏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works