ワインとマナー 北村想楽と九十九一希は、二人きりの時だけ酒を飲む。
ふわり、それは口にせずに決まった取り決めだった。
北村想楽、清澄九郎、九十九一希。彼らは北村想楽が成人した日にどこにでもある居酒屋で酒を飲んだ。個室は狭く、バイトであろう店員は彼らの顔を見て、あっ、と言ったけれど、騒ぎになることはなかった。
飲酒。全く変わらない北村想楽、少し赤くなった九十九一希、そして、嗚咽を漏らす清澄九郎。賑わう店内で、その個室だけは空気が薄くなったようだった。
緑茶サワーを二杯飲んだ清澄九郎は、残り二人が飲んでいる酒が緑茶サワーではないことを悲しみ、さめざめと泣いた。ごめんねー、とそれをなだめ、あやすように緑茶サワーを注文しようとした北村想楽の手を、思いの外強い力で清澄九郎が掴んだ。そして、泥のような声で己の鍛錬が足りないから貴方にお茶の魅力が伝わらないのだと泣き、それ故に気を使わせたことを泣き、やがて世界の酒をすべて緑茶サワーにすると誓い、泣いた。その決意の涙を九十九一希はぼんやりと眺め、その真摯な涙を北村想楽は拭ってやっていた。
北村想楽と九十九一希は、二人きりの時だけ酒を飲む。
それは、あの日清澄九郎の涙によって打ち立てられた、彼らの約束だった。
そもそも、三人でいるときは茶を飲むのだ。茶は好きだ。三人がそう思っている。ことさら、二人は清澄九郎の淹れたお茶が好きだった。酒など、飲む意味がないのだ。
それでも二人は酒を飲む。双方、意味がないと言いながら、相手に意味を求めている。
二人はアルコールの力で、相手の口が滑るのを待っている。
飲むなら静かな場所がいい。もっと言えば、二人っきりがいい。
だって、他人がいたら相手の口が固くなるかもしれないし相手が口を滑らせた言葉を聞き逃してしまうから。
その日は北村想楽の家で飲んでいた。彼の兄が帰ってくるまでというタイムリミットまで、二人はゆっくりを酒を飲むつもりだった。
いつも飲む酒は特に決めていない。彼らはそこまで酒を知らない。知識でしか、知らない。だから、色々な酒を試す。二人のお気に入りを見つけるために。
その日はワインを飲んでいた。聞きかじった知識で、コンビニからチーズとサラミを買ってきた。
思ったより渋い、だとか、ジュースに見えるのにぜんぜん違う、だとか。それぞれがめいめい好き勝手に感想を述べながら、買ってきたチーズとサラミを食べた。酒が減るペースは遅かった。
それでも、それなりに量を飲んだ。ワインのボトルには、あと一杯分くらいしか美しい紫の液体は残されていない。そんな中、北村想楽が口を開いた。
「ねー、一希先生。ワインを女性から相手に注ぐのは、『今夜OK』のサインらしいよー」
そう言って、空になった自分のコップを九十九一希の方へと傾けてみせる。その仕草に九十九一希は少し戸惑ったが、それをおくびにも出さずに視線だけを返す。
バチ、と視線が絡む。お互いにそれを逸らすことはしない。
「…………まあ、たんなるマナーの話らしいけど。それに、僕たちは女性じゃないしー……でもさー」
相変わらずの、何かを含んだ笑顔。
「一希先生は、マナーに厳しいほうかなー?」
そう言って、さらにぐい、とコップを九十九一希へと向ける。ワイングラスならもう少し見栄えがしたのかもしれないが、そんなもの、この家にはなかった。いつも麦茶を注ぐ無骨な容器が、空っぽのままで九十九一希を見つめている。
九十九一希はそれを見て、それからあと少ししか中身のないワインボトルに目をやった。そして、目を伏せた後に自身のコップを思い切り傾けた。半分以上残っていた液体が、喉をつたい胃に落ちる。
ダン。まったく華奢ではないコップがテーブルに叩きつけられて、それなりに大きな音を立てる。そのコップを北村想楽の方へと傾けて、九十九一希は呟いた。
「……想楽さんこそ、マナーには厳しいほうなのか?」
「……ふふ」
お互い、少しの笑みをこぼして相手へとガラスを傾ける。ワインボトルには、一杯分のワイン。北村想楽の口にした、どうでもいいマナーの話。
どちらかが、くだらない、って笑いながら手酌しでワインを飲んでしまえばいいのだ。それなのに、お互いにそうはせずに沈黙に身を置いている。視線が線香花火みたいに、控えめに火花を散らす。
沈黙はいつまで続くだろう。
今日のアルコールは、どちらかの口を滑らせることができるのだろうか。
お互いに、それを待っている。お互いに知っていることがある。お互いに、相手の気持ちを知っている。知っていて、それを相手が口にするのを待っている。そうして、それに悠然と肯定を与える日を待っているのだ。
益体もない、意地の張り合い。相手の気持ちも自分の気持ちもわかっているのに。
口にするにはあまりに癪な、叫び出したいあの言葉。
『いい加減そっちから告ってこい!』