花に笑顔紅茶をカップに注ぐ手が綺麗だと思った。それだけが強い印象として残っている。
残念なことに、仕事で一緒になったことはなかった。だから、一緒に仕事をしたことがある人たちと比べたら、俺と幸広の間には少し距離があったかもしれない。それでも事務所で顔をあわせれば挨拶ついでに益体もない話をする程度には関係は良好だったし、そんな距離感が続くと思っていた。みのりさん、と俺を呼ぶ彼の声は好きだった。
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だから、輝にダーツバーに誘われたとき、そのメンツに幸広がいたのには驚いた。だって、他に呼んだのは俺と次郎だと言うから、てっきりそんなに若い子は呼ばないと思っていた。雨彦あたりが呼ばれるとばかり思っていた。
幸広と話ができる。唐突に与えられた機会は嬉しいものだった。世界中を旅してきたという彼の話はきっと素敵なものだろう、そう思った。夜を待つ間、一度だけ彼が紅茶を注ぐ指先を思い出していた。
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ダーツバーで輝は一杯もお酒を飲まなかった。明日は仕事だから、と言っていたが俺にはわかる。きっと次郎もわかってる。輝はきっと、自分より7つも年下の幸広の前で酔いたくないのだ。
みんなでダーツをして、ビリヤードもした。幸広はいい意味で21才には見えなかった。受け答え、ゲームに興じる余裕、酒を飲むペース、全てが大人びていた。俺はずっと酒を煽りながら、幸広がビリヤードをする指先を見ていたと思う。俺が21才の時には何をしていたっけ。ぼんやりと考えてしまった。
しばらくして、次郎と輝がダーツへと戻っていった。俺と幸広はバースペースのカウンターに座り、他愛のない話をしていた。事務所で顔をあわせたときとなんら変わらなかった。俺はそんな毒にも薬にもならない話をしながら、幸広が旅をした国の話を聞きたいと思っていた。
「みのりさん、グラス空ですね」
「あ、ホントだ。もう一杯もらおうかな」
いつの間にか空になったグラスに気がついたのは幸広だった。よく気がつくのは職業柄だろうか。
自分でもよくわからない、長い名前のカクテルをオーダーする。しばらくして、薄い青と紫の中間の色をしたカクテルが差し出された。綺麗な色だと思った。
「あ……ねぇみのりさん。みのりさんって花に詳しいですよね?」
「ん?そりゃ普通の人に比べたらね……なんで?」
さっきまでの話題から話がとんだ。理由を聞けば、はにかみながら返される。
「実は……昔、海外で見た花があるんですけど、どうしても名前がわからないんです。みのりさんのそのカクテルを見たら思い出して。そんな感じの、綺麗な青色をしていたんですよ」
懐かしいなぁ、と笑う。花びらはこれくらいの大きさで、高さはこれくらい。葉っぱがこう流れてて、たくさんの花がしだれ桜みたいに……身振り手振りで話す幸広は年相応に見えた。
「んー、どれのことだろう……海外の花だよね……」
心当たりの名前をスマートフォンに打ち込み、画像を幸広に見せる。だがどれも違ったらしく、いくつかの候補をあげたあたりで俺の心当たりは完全に尽きてしまった。
「うーん、ごめん。わかんないなぁ……」
「あ、いいんですよ。俺も本当にふと思い出しただけなんで」
幸広のグラスにはまだ酒が半分くらい残っていた。くるくるとグラスを揺らす幸広の手と指先を見ていた。どこかで氷がカラン、と鳴った。
「気になるねー。あ、うちに植物の図鑑があるから」
貸してあげるよ。そう言うつもりだった。
「今度、うちにおいでよ」
言ったあとで、何かが違うと気がついたが時すでに遅し。酔った頭は取り繕うことを放棄して、きっととろんとした目が幸広を見つめていた。
「いいんですか?ぜひ」
目の前で綺麗に笑う男。
接客業の男の笑顔は綺麗すぎて疑われかねないと思った。アイドルの笑顔も。
その場限りの口約束なのか、本当にうちにくるつもりなのか。その日は何もわからなかった。
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その約束が口約束ではないとわかったのは翌日だった。スマートフォンにメッセージが届いていた。
『本当に伺ってもいいならぜひ行きたいです。ご都合のよい日はありますか?』
一瞬、なんのことだかわからなかった。
ハッと我に返って急いでメッセージを返して、散らかっていた部屋を少し片づけた。
***
幸広は本当に我が家にきた。なんだか不思議な感じだった。縁が深まる時というのは、なんともとんとん拍子なんだなあ、そう思った。
差し入れです、とパックに詰められた軽食と紅茶の入ったポットを手渡される。俺は冷蔵庫に入れておいた2リットルペットボトルのお茶とコーラを取り出す機会を完全に失った。
男2人が並んで植物図鑑を開く。相当な分厚さの図鑑は全部で6つある。この中に、あればいいんだけど。
ぱら、ぱら、と図鑑を捲る音が部屋を満たしていく。ときおり、俺が紅茶を飲む。幸広はたまに目にした植物について感想を述べるものの、目当ての植物は見つからないようだった。
ぱら、ぱら、ぱら、
「あ、軽食は好きなタイミングで食べてくださいね。アスランの自信作なんです」
ぱら、ぱら、ぱら、
「へぇ、楽しみ。どうせだから一緒に食べよう」
ぱら、ぱら、ぱら、時折挟まる感想以外、何もない2人の空間。
ぱら、ぱら、ぱら、ずっと長い間そうしていた。
「ねぇ、みのりさん」
ぱら、ぱら、ぱら、5つめの図鑑に手がかかったあたりで幸広が言う。
「もしかしたら、そんな花なかったのかもって、思うときがあるんです」
ぱら、ぱら、ぱら、彼の手は止まらない。
「道に迷って、疲れ果てて、死ぬかもって思って、そんなときに俺が見た幻覚かなにかなのかなぁ、って」
「どこで見た花なんだっけ?」
「中東の、どこか。でも、それすら曖昧なんですよね」
そう言って懐かしそうに笑う。俺は、残り一冊になった図鑑に彼の探し物があることを祈った。その時だけ、俺は確かに彼の幸いを願っていた。
***
結局、どの図鑑にも幸広の言う花は乗っていなかった。ダメだったか、と笑う幸広はなんだか楽しそうで、自分がなんだかよい行いをしたような錯覚を起こす。
アスランが作ったという軽食を2人で食べながら、俺は言った。
「ねぇ、その花の話をもっと聞かせてよ。花だけじゃない、幸広が綺麗だって思ったものの話、もっと聞かせて」
喜んで。そう笑う幸広の笑顔はやはり年相応だった。この笑顔なら信じたっていいし、騙されたっていいなって思った。