春に嵐 俺にはドラマの仕事が増えた。その日もドラマの撮影だった。円城寺さんもアイツもいない、一人きりの仕事。隣に誰もいないことにも慣れた。いいことなのか悪いことなのかはわからない。
その日起きた出来事は、人から言わせれば本当に些細な出来事なのだろう。共演していた子役の少女が、撮影道具だった百合の花をくれた。それだけだ。それだけの出来事が、俺にとっては大きな出来事だった。
手のひらの中の白百合。花言葉も何もわからない白い花。
花を見るたび、俺はアイツを思い出す。決して褒められないような、後ろ暗い感情という、モヤのようなフィルター越しにアイツを見つめる。さらさらとなびく銀の糸が甘い花の香りを纏って、俺は想像を映し出すブラウン管へと酩酊していく。
ブラウン管の中で、アイツが白百合に埋もれてこちらを見ている。感情の読めない、冷たい目で。
俺は花を見ると、頭の中でぎっしりとその花を敷き詰めた四角い箱にアイツを横たえる。そうして、その箱がいかに美しく佇むかで花の美醜を判断することが多くなった。
白百合に埋もれるアイツを想像する。真っ白な肌が百合の花弁に溶け込んで、銀の髪がそのじっとりとしたベロアのような絨毯に光を与える。美しいと思う。不安になるほどに儚いと思う。それだけで、俺はこの花を気に入った。
家に帰ると当然のようにアイツがいる。その日常を愛しいと感じる。実は、たまに円城寺さんの家に泊まるアイツにやきもきしたりもする。それでも、アイツはここを帰る場所にしていると知っているから、ぐっと堪える。「ただいま」と言うと、返事もせずにアイツがこちらを向く。それが、ひどく愛おしい。
こちらを見たアイツは俺の手に携えられた白い花束を見ると、少しだけうんざりしたような顔をした。
気持ちはわかるけど、この悪癖がやめられない。始まりはいつだっただろうか。多分、『卒業』の撮影で、薄紅の中に佇むアイツを見たときからずっと、この妄想に囚われている。アイツのことなんて、好きでもなんでもない時から、ずっと。
時折脳内で繰り返すこの光景は、実現しないとわかっていた。それなのに、アイツは俺のそばにいて、俺の気持ちを受け止めている。アイツが俺のものになったとは思わないけれど、アイツを俺のものにする想像が一気に現実に近づいた。
だから、戯れならば許される。
ごろ、と。不満げにアイツが床に横たわる。俺の願望を知っていて、口にするものバカバカしいと言うように、冷たい床に体を預ける。
フローリングでよかったな、って思う。畳よりもずっと、アイツの白さと花の色が映えるから。
横たわったアイツの顔に、少女から貰った白百合を敷き詰めていく。そんなに量はないから、顔の周りだけ。
ああ、やっぱり思ったとおりだ。銀の柳も滑らかな陶磁も、すべてが真っ白な花弁に沈んでいく。
きっと、うっとりとした表情をしていたのだろう。はぁ、と大きいため息を吐いたアイツが、バカにしたように呟く。
「満足かよ」
それなりに、と返す。美しいなって、思う。でも、何かが違う気もする。何か、その正体は掴めない。
クランクアップの日、高揚した気分が両手いっぱいの花束で欲望へと形を変えた。尊敬している監督や、気の合う共演者たちへむける笑顔に嘘はない。だけど、どうしても思考がこの色とりどりの花へと逸れる。たびたび俺の視線はその花束を愛でる。よっぽど花が好きなのね、年上の女優が笑った。俺の薄暗い悪癖を知っているのはアイツしかいない。
帰宅して、アイツがいないことに心底ガッカリした。この花はどれだけ持つのだろうか。この悪趣味な戯れに目覚めてから買ってきた花瓶に水を注ぐ。置く場所を探して、シンクの脇に置く。台所の一角を占拠した、この咲き誇る花の美醜は、箱に収めてみないとわからない。
眠る前、部屋に漂う花の香りを纏ったアイツを想像する。頼むから、この花が枯れる前にここにきてほしい。
冷たいフローリングの海に浮かぶコイツに口づけをする。それだけで、昨日からずっと漂っていた花の香りが濃くなった気がする。コイツは俺の下で、またあの目をしながら俺を見上げている。
昨日の翌日の今日。ふらりと立ち寄ったコイツは俺の悪癖の餌食になった。アイツは我が物顔で俺の家に上がり込み、手を伸ばしたカップラーメンに注ぐお湯を求めて台所にたった瞬間に花瓶の花を見つけ、うんざりしたような顔を見せた。そして、手元をちら、と見る。封の開いたカップラーメンを放り出して帰るのは、何かが違うと思ったんだろう。お湯が沸くまでの間、アイツは一度だけ俺を見た。小さな声で、「どうしようもねぇな」と呟いた。
硬いフローリングに寝かせたコイツの背中は痛くないだろうか、って。何回かに一回は思うのに、俺は座布団を買い足すのをいつも忘れる。座布団は、思い出そうとすると花びらが覆い隠してしまうのだ。すまない、と伝えるべきだろうか。でも、それが座布団のことだと伝わるとは思えなかったから、黙ってもう一度舌を絡めた。
呼吸を奪うように快楽を求めれば、だんだんコイツの頬が染まってくる。そうすると俺はこの箱がどう変化したのか気になって、唇を離してコイツを見下ろす。チッ、と。隠す気もない舌打ちが聞こえてくる。
名前もわからない赤い花。さっきまで真っ白だったコイツの肌と並んでいたときはあんなにキレイだったのに、薄紅に移った頬と並ぶとその色は一気にチープでバカバカしく見えてきた。代わりに、さっきまでコイツの白に埋もれて存在を消していた小さな白い花は、その健気さでコイツの薄紅を引き立てている。どうでもよかった花が、少し好きになった。
「しねーのかよ」
焦れたようにアイツが言う。返事に一瞬だけ詰まる。その一瞬で自分の感情がわからなくなって、甘ったるい匂いが欲を引きずり出し脳を支配する。服を取り去った胸元、赤い血が透ける白い皮膚に、あの日の桜を想う。もうとっくに戯れではすまないところまで来てるのに、俺もコイツも何も言わない。
「……する」
甘い匂いの中で舐めた皮膚は塩の味がする。性の匂いが濃くなって、花の香りと混じり合って脳をドロドロにしていく。
宵色の帳が降りるとき、アイツに一番似合う花を夢想する。
それは、この世に存在するのかもわからない色と形をしていて、俺の思考を飲み込んでいく。
そうなると俺は世界中の花が美しいと思えなくなって、この世にキレイなものなんて存在しないんじゃないかって思ってしまう。それは、悲しい。俺はあの日の紅色の嵐を正しく思い出せなくなっている。
そんな夜はアイツに会いたい。アイツがいる夜は、抱きしめたい。腕の中のぬくもりからは、花の香りではなくて汗と肉の、人間の匂いがする。それが、とても価値のあることのように感じる。それなのに、目覚めたら思い出せなくなる、美しい花の夢を見る。
きっと俺は、あの日見たはずの美しいものを探している。
アイドルは花と関わる機会が多い。楽屋花、フラワースタンド、手渡される花束。
アイツだって当然花をもらう。それを横目に見る。妄執に、捕らわれる。アイツがこちらを見て、口だけを「バァカ」と動かす。悲しんだり怒ったりすればいいのに、俺はぼんやりと考える。「あの花は、キレイじゃない」
最近は美しいと思える花が減った。花が美しいと思えなくなったって、きっと人生に支障はない。それでも、それを寂しく思う気持ちはあるから、今日も俺はアイツを甘い香りの海に横たえる。
ぼんやりと見下ろす水面から声が聞こえた。普段みたいなやかましい声でもなくて、夜だけ聞こえる何もかもバカバカしいって言いたげな声でもない、ただ優しい声。
「……結局、チビはどの花が好きなんだ?」
こんなこと、聞かれたのは初めてだった。どうして、と返せば、もう飽きた、と返された。
「抱かれるの、嫌になったか」
「イイなんて一回も言ったことねーよ」
「……そういえばそうだったな」
そんなことを、俺に抱かれながら言う。水面に波打つ菫の花が、火照った頬に寄り添っている。
「まっ、オレ様は最強大天才だからなぁ! チビにジヒ、ってのをやってんだ」
だから俺に抱かれてやっていると言う。正しく、真実なのだと思う。
「でも、飽きたんだろ?」
「テメーがいつまでもバカやってっからだ」
続く言葉。「いいかげん」までを発したコイツの唇に舌を差し入れる。なんとなく、続きが聞きたくなかったから。すると警告のように、それなりの強さで舌を噛まれる。痛みに舌を引っ込める。俺から開放された唇が音を紡ぐ。「いいかげん、コレ、やめろ」
「…………わかってる。……迷惑かけたし、気味、悪かったよな」
「そういうこと言ってんじゃねぇよ」
じゃあ、何が言いたいんだ。目だけで問いかければ伝わった。少しだけ考える素振りを見せたあと、コイツは言う。
「オマエ、もう何がしてーのかわかんなくなってんだろ」
沈黙。俺はきっとポカンとしてた。見当違いにもほどがある。だって、俺は。
「……いや、そんなことはない。俺は、オマエと並べるとキレイな花がわかるから……それで……」
つっかえつっかえ口にする。なんでだろう、言葉がスラスラと出てこない。
「……キレイな花が見てーのか?」
「……その、はずだ」
そのはずだ。そうに決まってるはずだ。なのに、なんでこんなにふわふわとした言葉しか出てこないんだろう。でも、なんで俺はキレイな花が見たいんだろう。キレイなものを見たいと思うのに理由なんていらないはずなのに、俺はこれに理由があることを知っている。本当に見たかったものが、宙ぶらりんの肺にぽとりと落ちた。
「違う……桜が見たい」
正しくは、あの日の桜が見たい、だ。
あの日、学生服を着たコイツを飲み込むように咲き乱れた淡紅の嵐。あれが、本当にキレイだったから。キレイだったのにキレイだったという思いだけが残っていて、そのときの風の色すら思い出せないから。
きっと、俺はずっと探しているんだ。あの日、手のひらをすり抜けた花びらに代わるキレイなものを。
「桜なら見てんだろ」
「……オマエと桜が見たい」
桜なんて何回も見た。でも、コイツと二人で見るならきっと何かが変わる気がした。あの日のように。
捜し物に、手が届くような気がしたんだ。
仕方ねぇな、とコイツが呟くと、桜色に染まった胸が上下した。フローリングに散乱した菫の青が、ケタケタと俺を笑った。
晴れた日に桜が見られればいい。だけど、晴れた日がオフとは限らない。だから、俺とアイツの休みがかぶる日だけは雨が降らないようにと祈っていた。
雨は降らなかったけど、ゆったりと雲が流れていた。あの日見た青空と何が違うだろうか、考えてやめた。感情以外何も残っていない日の空の色なんて、覚えているはずがない。
平日だったけど人はそれなりにいた。子供が桜の花びらを追いかけていた。アイツはそれを一瞥することもなく、たまこやで買い込んだコロッケを頬張っていた。
風が吹けばいい。あの日のように心を乱す嵐が見たい。もう一度、あの美しいものに出会いたい。願った矢先に桜の花びらが舞い上がった。その光景を目に焼き付けて、思う。
ああ、これじゃなかった。
違う、と。それだけが明確にわかる。凪いだ心が途方に暮れる。数秒か、数十秒か。叩かれた肩の痛みに我に返る。二つの満月がこちらを見ていて、なんだか申し訳がない気分になる。
これじゃなかった。
それだけを伝えるために、ぐっと感情を飲み込まなければならなかった。落胆だけを吐き出して、言葉に変わるようにと、もう一度息を吸う。その瞬間、それを見つけた。
揺蕩う銀の川。アイツの髪の毛についた花びら。パッと、そこから色づいた世界。
キレイだなって思った。アイツに寄り添う花じゃなくて、花を纏ったアイツをキレイだと思った。記憶の中、桜の花びらが飛び去って、記憶の泉にアイツの姿が鮮明に映る。
ああ、きっと、これをずっと探していたんだ。
「……キレイだな」
「そりゃよかったな」
そう言って、アイツは桜を見た。キレイだと思ったのはオマエだと、言うべきか少しだけ迷って口を噤んだ。別にこれは伝えなくていいかなって思って、代わりに謝るように投げかける。
「……もう、しないから。ああいうこと」
「ふーん」
アイツはそれっきり何も言わず、最後のコロッケにかじりついた。想像上の花が笑う。コイツがキレイなら、それだけでいいかと思う。
桜の木の下で、ぼんやりと座っている。隣には、あくびを隠そうともしないコイツがいる。駆け回ってる子供の奥に、花かんむりを作ってる少女がいる。
「懐かしいな」
「あ? なにがだよ?」
「花かんむり」
小さい頃、アイツらに作ってやったっけ。「なんだそれ」ってコイツが言った。コイツは花かんむりを知らないんだなって思って、本当に気まぐれに、咲いているシロツメクサを摘んだ。
ぐにぐに。茎を曲げて、絡めて。だんだんと形になっていく花輪を、アイツは珍しそうに見ていた。
「花かんむり」
ぽつり、噛みしめるように呟いて、はじかれたように笑う。
「冠か、オレ様にピッタリだな!」
特徴的な笑い声を背に、草の匂いがする王冠が完成する。ほら、と口にして、それをコイツにかぶせると、胸の奥からぶわりと風が吹き抜けた。苦しいような、切ないような。愛おしいような。得意げに笑うコイツを見ていると、世の中の花すべてに意味と価値があるような気がした。
きっと、もう大丈夫。
「それ、好きだな」
「あ? それってどれだよ」
花が、って言えばよかったのかな。
「オマエが」
そういえば、好きだって、コイツの目を見て初めて言った。