傷名 僕にはきっと、脆いところがある。
自分が弱いとか傷だらけだとかは思っていない。でも、なんか、ちょっとした欠けた部分があるような気がしているんだ。ぽっかり空いた、虫歯みたいな、そういう部分が。
小さな穴の奥がちょっと空洞になっている。あ、って大きく口を開けないと見えないような、見えてもどれくらい深い穴が空いているかはちょっとよくわからない、そういう虫歯によく似た痛いところ。もちろん歯医者さんじゃない僕にだって深さのよくわからない、そういう傷。
たまにどうでもいいものが当たって痛む。甘いジュースだったり、冷たいアイスだったり、そういうものが傷にしみる。僕を傷つけるものは当たり前の顔をして世界中に転がっているものだから、ぶつかってしまうとちょっと息がしにくくなって、困る。
でもそんなのはたまにしかないことだ。僕は健康に、それなりにのびのびと、あるいはのうのうと生きている。今日だって事務所に来て、大好きなぴぃちゃんと過ごしていた。
「暇になっちゃった」
ぼんやりと、言わなくてもいいことを口にする。ぴぃちゃんは打ち合わせがあるからと少し前に出て行ってしまった。ヤマムラさんがいるから事務所が閉まることはなかったが、彼はあっちで書類を片付けているし他に人もいない。僕はソファーに沈み込んで、テレビもつけずにのんびりとしていた。
やることはないけど行く当てもない。宿題でもやろうかな。台本でも読もうかな。そんなことを考えていたら、扉の開く音に気が逸れた。
「おはようございます……あれ、百々人先輩。学校帰りですか?」
「おはよう、アマミネくん。アマミネくんも事務所に用事?」
もうおやつの時間なのに言う『おはようございます』にもずいぶん慣れた。そういえば、僕らはもう『業界人』なのだ。
「タケルと隼人と待ち合わせしてるんです。合流したらゲーセンに行こうって話になってて」
なんでも新作のゲームが出るらしい。アマミネくんはスマホでゲームをする印象があったけど、最近は事務所のゲーム好きとこうやっていろんなゲームをしているみたいだ。アマミネくんは天才に相応しく好成績をあげているらしいが、この前のパーティゲームでは複数人からマークされて集中攻撃されたと、不満げに、楽しそうに話してくれた。
アマミネくんは向かいに座ってゲーム機をカバンから取り出した。楽しそうな音楽が鳴って、アマミネくんが画面に視線を落とす。
「なにやってるの?」
僕はアマミネくんの隣に移動して声をかける。するとアマミネくんはゲーム画面を見せてくれた。たくさんのモンスターが並んでいるその画面はなんだか見覚えがある。
「これ、結構前に僕もやったことあるかも」
「きっとコレはその新作ですね。今度タケルとこのゲームで対戦するんですよ」
対戦ってことはこのモンスターたちを戦わせるに違いない。でも、同じ画面に何十体もいるモンスターは、全員が同じ姿をしていた。
「アマミネくん、この子が好きなの?」
「え? 嫌いじゃないけど、何でですか?」
「だって、こんなにたくさんいるから」
かわいい、かはわからないけど、愛嬌のある黒いカラスみたいな子が画面いっぱいにいる。よっぽど好きじゃないと集めない数だ。それなのに、アマミネくんはそれを否定する。
「好きって言うか、厳選してるんです」
「厳選?」
「この中から、一番強い個体を探すんです」
「…………一番?」
あ、きっといま、傷口に何かが触れた。一瞬途切れた呼吸を整える前に、事務所の扉が開く。
「おはよう! あれ? 秀、もう来てたんだ」
「おはよう、秀さん。百々人さん」
反射的に──あるいはゲームから目を背けるように見つめた先にはタイガくんとアキヤマくんがいた。二人はアマミネくんのつけているゲームを見て、ああ、と口を開く。
「すごい集めたね。いい子見つかった?」
「微妙。パラメータはいいんだけど、性格があわない……」
やいのやいの、会話が続いてる。きっとコレは彼らにとっては甘くておいしいケーキで、僕にとっては虫歯にしみる毒でしかない。彼らの『楽しい』はきっと、僕には『つらい』に違いない。だから触れちゃいけないのに、知らないことも怖いから僕は口を開く。
「……厳選って、何?」
「ああ……えっと、このモンスターって同じやつなんですけど、生まれた時から能力に差があるんです」
生まれた時から決まっている能力があると、そうアマミネくんは言った。
「なんていうか……才能的な。これは一生かかっても覆せない、変えられない能力なんですよ」
「そうそう。で、それって対戦するときに致命的なんだよな。これが低いと、基本的には絶対に勝てないようになってるんだ」
絶対に覆せないものがあると、それが生まれた時から決まっていると、彼らは言う。
「……一番に、なれない?」
「そういうことだな」
だから探すのだと、そう言われた。なんでも昔は探すのが大変だったらしいが、いまは簡単に見極める手段があるらしい。
「だからこうやってたくさん掴まえて、優秀な個体を探すんです」
「そうそう。パラメータと……あと性格とか、いろんな要素があるから見つけるのが大変なんだ」
一瞬でわかるようになって楽になったとアマミネくんは言う。なんだか、わかる気がする。だってお母さんはそれを見極めるのに十七年もかかったんだから。
「……その子たち、どうするの?」
「ああ、逃がしますよ」
能力の無い子は、どうなるのだろう。問いかけに返されたのは簡素な言葉だった。この子たちはもう、ここにはいられないんだ。
『残念だけど、元気でね』
あ、ダメだ。思いっきり自分と重ね合わせてしまった。能力が無いと、才能がないと、やっぱりこうやって捨てられてしまうんだ。
一瞬で喉元まで灼けるような不快感がせり上がってきた。ぐ、とそれを押し込めて、なんにも気にしていないように笑う。
「……面白そうだね」
お母さんは面白くなかっただろうな。
「大変だよ。ほぼ作業ゲー」
「でも、乱数こそあれど基本は理詰めの勝負ですからね……パラメータ欠けてたら対人じゃ使えないです」
お母さんは誰かと競っていたんだろうか。
「普通にクリアするぶんには何も気にしなくていいんだけどな……」
普通ってなんだろう。お母さんがどういう風に『普通』なら、さようならはなかったんだろう。
「……そっか」
「……百々人先輩?」
「僕、ちょっとトイレ。みんなはゲーセン行くんだよね? いってらっしゃい」
返事を待たずに、手をひらひらと振ってお手洗いに急ぐ。胃がぎゅってなっていて、吐き気を抑えるために飲み込んだ唾液で喉から潰れたカエルみたいな声が出た。
みんなの視界から外れて、すこし走った。逃げるようにトイレの個室に飛び込んで口を開く。
「ぅ………おぇ……」
吐き気はもう臓器いっぱいに広がっているのに、何度吐き出しても唾液しか出てこなかった。指を突っ込んだら吐けるかもしれないけど、そもそも僕はそこまで吐くのがうまくない。
「ぁ……はぁ、うぅ……」
気持ち悪かった。ゲーム画面いっぱいの『花園百々人』が脳裏に浮かんで、こびりついて離れない。
お母さんが僕を一体一体チェックしている。欠けている能力が画面に表示されて、僕はひとりずつ放り出されていく。お母さんは『作業ゲー』を続けている。使えない僕を切り捨てて、理想の『花園百々人』を探している。
あんな人、もうどうだっていいのに涙が出てきて仕方がなかった。でもこれは吐き気からくる生理的な涙だってわかってる。もう僕はあの人のためには泣けないんだ。
「うぅー……」
吐けない、気がする。しゃがみ込んで感情を逃がすように息を吐く。あのゲームの世界が怖かった。能力が可視化される世界が怖かった。もうあの人はいいんだ。でもぴぃちゃんにだけは知られたくない。僕がいわゆる、『ハズレ』の子だって。
才能がないんだ。生まれた時から決まっている『使えない子』なんだ。ぴぃちゃんは僕に才能があるって言ってくれたけど、アマミネくんを、マユミくんを見るたびに、僕は『足りない子』なんだって痛いくらいにわかるから。
「……ううん……僕はぴぃちゃんを信じてる……」
僕はぴぃちゃんが言ってくれた言葉に縋るしかない。僕には才能があるから。生きていい理由があるから。
才能が目に見えないものでよかった。ぴぃちゃんがあるって言ってくれれば、僕はそれを信じることができる。もしも本当は僕に才能なんてなくったって、ぴぃちゃんに見捨てられないためなら、僕はいくらだって取り繕ってみせる。
「……大丈夫……大丈夫……」
だから、大丈夫。さっきはちょっとビックリしただけ。そもそもほとんどのゲームにはパラメータがあるなんて当たり前の話だ。ちょっと『厳選』にビックリしちゃっただけ。
しばらく座り込んでいた。立つのはちょっと億劫だったし、ある程度時間を潰せばみんなはゲームセンターに行くだろう。
気持ちが落ち着いてきた。吐き気もなくなってきた。すっと立ち上がることが出来た。大丈夫。ちょっと、傷口に、甘くて冷たいものがしみただけ。
さっきまでいた場所に戻る。ぴぃちゃんが帰ってきてくれていたらいい。でも、いまはぴぃちゃんに会いたくない。ぴぃちゃんにぎゅってしてほしい。ぴぃちゃんにいまだけは僕を見ないでほしい。ぴぃちゃんを軸にして、感情がぐるぐるまわって目眩がした。
歩くしかない。一歩、一歩。自分のスニーカーが見える。これ、お母さんが買ってくれたんだっけ。
「あ、百々人先輩。おかえりなさい」
「え……?」
足下を見ていたから気がつかなかった。いるはずのない人間がそこにいた。アマミネくんが、当たり前みたいに座っていた。
「アマミネくん……どうして……?」
「百々人先輩、途中から具合悪かったでしょ」
座って、とアマミネくんが言う。その手には僕のマグカップがあった。
「これ、白湯。もしも他の飲み物がよかった言ってください。給湯室にあるものなら作ってきますよ」
言われた通りに座ってマグカップを受け取る。手のひらにじんわりとした熱が伝わってきて、自分の手が冷えていたことを知った。
「……ゲーセンは?」
「行くのやめました。全員で残ったら気をつかわせるから二人は行かせましたけど、二人とも百々人先輩のこと心配してましたよ」
「……ありがとう」
あんまりありがたくなかったけど、形式上口に出す。残ってくれるならアマミネくん以外が良かったなんて言えるはずもない。
ぴぃちゃんがよかったな。でもぴぃちゃんだとちょっと困るな。マユミくんがいいな。でも、正しいのも困るから、いまはひとりのほうがいい。
「……俺、百々人先輩のこと傷つけましたよね」
しばらくの沈黙を塗りつぶすようにアマミネくんが口にした。答えはあったけど、応える気が無かった僕はマグカップに口をつけてお湯を飲む。
「だから、優しくしたくて。それで残りました」
僕の言葉を待たずにアマミネくんは言った。その口調があまりにも事務的というか、淡々としているから僕の声も自然と落ち着いてしまう。
「……謝らないでね」
「謝りませんよ。俺は悪いことしてませんし」
それはそうだ。アマミネくんはゲームの話をしただけで、僕を害するようなことは一切していない。僕が勝手に傷ついた、それだけだ。
「……でも、俺が悪いことをしてなくたって、百々人先輩に優しくしたっていいでしょう?」
いまさら気がついたけど、アマミネくんはゲームを持っていなかった。きっとそれをカバンにしまって、ゲームセンターの誘いも断って、こうやって僕のための飲み物を用意して、スマホも開かずにずっと僕のことを待っていたんだ。
「……じゃあ、優しくしてもらおうかな」
そう言って僕は動きを止める。にこ、と笑って、早く、と急かす。
「……って言っても、俺、そんなに優しくとかわかりませんよ。一人っ子だし」
「一人っ子って関係なくない?」
「あるでしょ」
そう言いながら、アマミネくんは僕の隣に座る。そうして、僕の頭をゆっくりと撫でてくれた。
「……婆ちゃんはこうするから」
「うん。こういうの……優しいと思うよ」
僕も『優しい』ってよくわからないけど、こういうわかりやすい形はわかる。ただ、こうされたのは本当にひさしぶりだから、返せるものがなにもなくて、どうでもいいような言葉しか渡せない。
「……なんで、傷ついちゃったんでしょうね」
なんだか遠い疑問だと思う。なんで太陽は沈んじゃうんですかね、みたいな、そういう響きによく似ていた。
「なんでだろうね」
言うつもりはないよ。口にせず、他人事みたいに同調してみせる。そっと、アマミネくんの手が僕の頬に触れた。
「……百々人先輩が傷つくの、俺はいやです」
「……僕が傷つくのは、僕の勝手でしょう?」
アマミネくんの手はひんやりしていた。それが少し心地よくて、僕は目を閉じる。
「傷つくくらいさ、好きにさせてよ」
だってさ、どうしようもないと思うんだよね。きっと他人にはわからない傷って言うのは誰にでもあって、僕は僕の傷に敏感なだけだ。アマミネくんだって、本当なら自分の傷を気にかけないといけないと思うんだ。アマミネくんにだって傷はある──あってほしいと、願っている。
「それはそうですけど……それなら、俺がいやだって思うのも勝手でしょ」
「へりくつ。……いいよ。たくさんいやな思いしてよ。それで……飽きたらやめちゃってね。いやな思いをするのも、僕を心配するのも」
目を開く。ラムネみたいな瞳を見つめる。水面みたいな双眸が少し揺らいでいて、きっとこの人は泣くときはあっという間に泣くんだろうなって空想した。
温度が溶け合っていたアマミネくんの手のひらがそっと離れた。それでも、アマミネくんは僕の隣に座っている。
「……ゲーム、やらないの?」
「やるときはやりますよ。別にゲームをやるのは悪いことじゃないし」
でも、とアマミネくんは息を吸って、言葉を吐く。
「でもいまは優しくしたいんで。……たぶん、原因ってゲームの話ですよね」
「じゃあ、肩でも揉んでもらおうかなー」
原因についての部分は丸々無視して僕はアマミネくんに背中を向ける。アマミネくんは少しのあいだ僕の返事を待っていたけど、やがて諦めたように僕の肩に手を置いた。
「あはは、くすぐったい」
「くすぐったいって……肩、あんまり凝ってないんじゃないですか?」
「だって僕まだ高校生だし……あとさ、レッスン続けてたらなんか肩こり治った気がする」
「あーわかります。俺もスマホで肩バキバキだったけど、マシになったかも」
そうやって、どうでもいい会話だけを交わしていた。
くすぐったかったけど、やめてって言わなかった。マグカップの中身がからっぽになったら、やめてって言おうと思っていた。