Watercolor 潮騒が未だに鳴り止まない。歓声のような満ち引きは海から離れても心のどこかで続いていて、プロデューサーの運転する車の窓から見える海は夕日で茜に染まっていた。夏空に沈む夕焼けは柔らかく、昼間のような暴力めいた輝きを潜めて眠たそうにしている。
助手席には秀がいて俺の隣には百々人がいる。百々人はプロデューサーのことが好きなはずなのに、こういうときは必ず後部座席に座っていた。秀は助手席を希望することが多く俺は座席にこだわりはない。なので、いつの間にかこれが俺たちの『お決まりの座席』になっていた。
海が見えるのは百々人が座っているほうの窓なので、俺は百々人越しに夕日が水平線に沈む様を見ていた。百々人の色素が薄い髪にもうっすらとオレンジが灯っていた。百々人も、窓を見ていた。
秀とプロデューサーはなにやら話しているようだがその言葉は意味として捉えられるほど明瞭なものではない。俺は届くはずのない潮騒に身を任せながらぼんやりと海を見ていて、数拍遅れて百々人がこちらを見ていることに気がつく。うっすらと色づいた紫陽花のような瞳には俺が映っていて、それはぼんやりと茜に染まっていた。
「マユミくん」
百々人が柔らかく囁いた。秀とプロデューサーの声はまだ聞こえていて、百々人に意識を取られている人間は俺しかいないのだとわかる。百々人はシートベルトに邪魔をされながら、こちらにからだを近づけて、俺の耳元に唇を寄せ、近づいた距離を片手でそっと世界から隠し、もう一度同じように俺の名前を呼んだ。
「マユミくん」
そう言って百々人は顔を離した。俺は少し考えて、百々人がしたようにその耳に唇を寄せる。
「どうした?」
思ったよりも小さな声しか出せなかった。手を伸ばしたら届く距離には秀もプロデューサーもいるのに、そんな距離で俺たちは秘密を共有しようとしている。百々人の顔を見る。少しだけ逆光で見えにくい。
「……僕、マユミくんの絵が描きたい」
「……え?」
「描いてもいいかな?」
それは唐突な願いだった。百々人の手荷物は膝の上にちょこんと収まっていて、そちらに視線をやれば百々人は違うよ、と笑う。
「いまじゃないよ。家に帰ってから、キミを思い出して描きたいんだ」
海と、風と、茜と。先ほどまで共有していた美しいものを描きたいと百々人は言う。そのなかに俺もいるのだと、そう言った。
「別に構わない」
百々人が何かをしたいと打ち明けてくれると俺は嬉しい。断る理由はなかったし、そもそも俺に出来ることは許可を出すくらいのものだ。百々人が望むならその筆が止まるまで、微動だにせず椅子に腰掛けていたっていい。だが百々人は家に帰ってから、記憶に佇む俺を描くと言った。
ふと、疑問が生まれる。
「構わないが……どうして俺なんだ?」
口にして、すぐにこれは愚かな問いだと思った。百々人が描きたいと言っているのだからそれでいいだろう。訂正する。
「いや……気になっただけで、描くのはいいんだ。だが理由があるのかと思ってな」
問い掛けたのは俺なのに、百々人はこちらに疑問を返すような瞳をした。そうして、ふわりと笑って口にする。
「……キミがきれいだったから」
幸福そうで消え入りそうな声だった。それきり俺たちは言葉を失って、ただ車内にひっそりと浮かぶプロデューサーと秀の声を聞いていた。
***
日々が流れ着いたのは木々が朱に萌える季節だった。あの日に見た茜空を映した葉が揺れている。
秀や百々人と一緒に行動することが多くなったと思う。俺はレッスンやアイドル活動だけではなく、プライベートでも二人と一緒にいる時間が長くなった。
俺たちはレッスン帰りに食事をしたり、一緒に宿題をしたり、シアタールームで往年の名作に涙したりする。そこに秀がいないときもあれば、百々人がいない日もあった。俺がいない日にふたりが何をしているのかは知らない。僅かな興味は口を開くまでには至らず、一緒にぼんやりと音楽に耳を傾けるふたりを想像したりした。
今日は秀がいなかった。俺と百々人はふたりきりで映画を見ている。俺は父親が出ているとは言わなかったし百々人は彼について何も言わなかった。エンドロールまで、ただ沈黙を満たして物語を見送った。
クレジットでは真っ先に『眉見征一郎』の名前が出る。そこでどうしても気になってしまい、俺は百々人を見た。百々人は俺を見ていて、視線があってバツが悪そうに微笑んだ。
「……ごめんね。キミのこと、つい見てた」
電気を消した部屋ではモニターの明かりだけが全てだ。ひっそりと薄ら闇に溶けた百々人の瞳だけが、ざらざらとしたスクリーン越しの反響に照らされてぼやりと光る。
「キミはなにかをまっすぐに見るんだね」
きれい、と百々人は呟いた。あの日の声色によく似ていた。そういえば、百々人は俺の絵を描いたのだろうか。
「前もそんなことを言っていたな。……あの海がなくても、百々人はそう思うのか」
ふっと、光源が失われる。父の演じた男の生涯を語り終えた再生機に見放されてモニターは役目を閉じた。
明かりを失った瞬間は一瞬だけ闇が深くなる。否定も肯定もせず、百々人が俺の頬に触れた。
「見えなくなっちゃった」
「……百々人は、」
独り言のような呟きに、俺は問いを返す。思えば、何でこんなことを聞いたんだろう。
「俺の絵を、描いたのか?」
うまく表情が見えない。百々人の声は微笑んでいる。
「うん。描いたし……いまも描いてる」
「そうなのか」
意外だった。百々人が描きたかったのはあの海だけではなかったのか。だとしたら百々人は、俺を描くために何度も俺を見ていたのだろうか。
「……見てみたいな」
百々人の目に、俺はどう映っているのだろう。
「……ダメ。見せられるほど上手じゃないから」
そんなことはないだろう。言ってしまって、無責任な発言だと省みた。俺は百々人の絵を見てすらいない。
見もしないで、だなんて百々人は言わない。ただ、見えない表情から僅かな感情を落とす。
「……まだ、描いてていいかな」
交換条件は卑怯だろうか。俺は、俺の目の前で百々人に絵を描いてほしい。描くのなら、俺の目の前で、だなんて。
「……構わない」
そんなことは言えなかった。
たったそれだけのことが言えなかった。
***
「ん? マユミくん、どうかした?」
「あ、ああ。いや、なんでもない……」
百々人の視線に気がついてから、俺も百々人を見る機会が増えた。ふと視線を向けた百々人はこちらを見ているときもあれば全く俺を気にしていないときもある。つまり、普通だ。
雪に吐息が溶けるにつれて、なにげない視線の意味を考えるようになった。百々人はまだ俺を描いているのだろうか。自惚れにも近い感情だが、きっと描いているのだと思う。視線で切り取った俺をたったひとりで描いているのだと、理由もなしにそう思う。
想像する。百々人はひとりだ。俺がいて、秀がいて、プロデューサーがいて、事務所のみんながいて、学友だっているだろう。それでもたったひとりの家に帰るしかないと、そう聞いている。
『マユミくんにだけ教えてあげる』
たったひとり、俺だけが知っている秘密だ。帰る場所には、もうだれもいないのだと。
『絵を描かせてくれるお礼』
百々人は微笑んだ。すぐにその笑みは自嘲になった。「僕はズルいね」と呟いて、もう一度綺麗に百々人は笑う。
『……キミには知ってほしかったんだ』
俺がそれを知ったのはクリスマスも正月も終わった後だった。自分の瞳が後悔に歪むのが手を取るようにわかった。百々人、と名前を呼んでその手を取る。許されるなら、抱きしめたかった。
『……俺に出来ることはないのか』
『マユミくんは僕に絵を……マユミくんを描かせてくれるじゃない』
その手は冷たい手だったが、俺の手も悲しいほどに冷えていた。分け合えるぬくもりはなく、感情はちぐはぐだ。
百々人は、俺をあやすように言う。
『……キミとデートがしたい』
それが恋仲になりたいという意味には、どうしたって受け取れなかった。
『絵を描くためか?』
『うん。いろんなキミが描きたい』
俺は百々人と恋仲になりたかったのだろうか。そうならばそう言えればよかったのに、その時の俺はただ百々人の安寧を願っていた。望むこと、何だって叶えてやりたいと思っていた。
『海に行こう』
百々人はそう言った。まだ桜も眠ったままの、白く冷たい季節だった。
***
冬の海には誰もいなかった。誰も目覚めていない時間に、誰もいない電車に乗って、誰もいない海に俺たちはやってきた。ぼやりとした朝霧が水面を揺らしている。
「寒いね」
百々人はいつものように笑みを浮かべながら海へと近づく。その手を取った。
「濡れたら冷える。風邪を引くぞ」
「そうだね。……ねぇ、こっちきて、ここに立って」
波打ち際、ギリギリ靴が濡れない場所。百々人は横に立って、じっと俺を見る。
「海を見て」
親指と人差し指で枠を作り、景色を切り取って百々人は言う。閉じ込められた俺は身動きが取れない。
「……そちらを見なくてもいいのか」
「うん。海を見てるキミが見たいの」
紫陽花色をした瞳が、まっすぐにこちらを射貫いている。季節を忘れて咲いた紫陽花から目を逸らして俺は海を見る。
日は昇っているが真上にはない。中途半端な朝の太陽が海をキラキラと輝かせている。美しさが引きずり出した溜息が白く滲み霧散していくなかで、俺は百々人についてを考える。強くて弱い、大切な仲間について考える。
「……マユミくん、別のこと考えてる」
呆れたような、許すような声。
「……すまない」
「いいよ。これはこれで絵になるし……でも、海に集中してるキミも見たいな」
わがままを言ってごめんね。そう謝る百々人に問題は無いと告げる。海を見据え、背筋を伸ばす。
冬の海は初めてではなかった。いつのことだか忘れたが、水に足を浸すこともせずにただ海を見ていたことを覚えている。いや、冬の海だったか、自信がない。浜辺に立ったのかすらあやふやだ。ただ『眉見』であった両親は車から出ることができず、両親から離れたがらなかった幼い俺が車内から海を見ていただけなのかもしれない。
両親のことを考えた瞬間、俺は視線だけで百々人を見てしまった。百々人は困ったように笑ったあと、世界の秘密を明かすように口にする。
「……僕は透明のはずなのに、キミは僕を見るんだね」
百々人が俺の手を取った。冷たい手が俺の手を引いて、足音を殺すように浜辺を渡る。俺はそこに声を落とす。
「……次はどこに行こうか」
俺からも手を握り返した。僅かに体温が奪われる感覚が心地よかった。こんなに弱々しい熱ひとつでも、百々人になにかを与えられることは幸福だった。
「……きれいなところ」
「ああ、どこにでも行こう」
きれいなところ。もう一度、確認するように百々人は口にする。
「きれいなものを見ているキミが見たい。ねぇ、マユミくんがいいなら、もっとデートしたいよ」
二つ返事で頷いた。太陽が昇りきるまえに俺たちは東京に戻る電車に乗る。人のまばらな車内で肩を寄せ合いながら、珍しく何も言わずにぼんやりとしている百々人の呼吸を聞いていた。
***
それを知ったのは偶然だった。台本を受け取るために寄った事務所で、台風のような笑い声を聞いた。
牙崎の声だ。なんでもオーディションに合格したらしい。この事務所から数人が特別ドラマのオーディションを受けているのは聞いていて、その中には百々人の名前もあった。
意外だった。正直、俺は百々人か榊が受かると思っていた。オーディションを受けた人間は百々人と榊と牙崎、それと都築さんだっただろうか。ドラマの内容を詳しくは知らないが、オーディションを受けた人間からして物静かで柔らかな役柄を演じることが求められているのだと思っていたので、牙崎が受かっていたのには本当に驚いた。
ホワイトボートに書かれているプロデューサーの予定に牙崎の付き添いが追加されている。俺は胸がざわざわとして、レッスン室へと足を運ぶ。
そこにはきっと百々人がいる。この予感が杞憂ならそれでいい。百々人がいなければ、それが一番いい。
いるのならば、俺のことを必要としてほしい。
感情のない、メトロノームの音が聞こえる。そっと最低限開いたレッスン室の扉から中を覗けば、シューズをすり減らすようにステップを踏む百々人の姿が見えた。
泣いているように見えたが、そう考えることは失礼なことなんだろう。それでも、そう見えた瞬間にどうしようもなく心が動いたのも事実だ。それは恋よりも、愛に近かった。
「百々人」
名前を呼んだ。百々人は足を止めてこちらを見る。当たり前みたいに泣いてなどいない。
「……マユミくん、どうしたの?」
泣いていない。でも笑ってもいなかった。足早に近づいて、きっと口にしてはいけなかったことを言う。
「……泣いているのかと思った」
「え? ……誰が?」
「百々人が」
「なにそれ。変なマユミくん」
笑ってくれたら、いや、もしも百々人が笑ってしまったら、俺はきっと百々人を抱きしめていた。でもどんなに悲しそうな顔をしても百々人はひとりで立っていた。遠足の日に雨が降ってしまったときのように、百々人はぽつぽつと喋り出す。
「泣いてないよ。泣いてないけどね、僕、オーディションに落ちちゃった」
悔しい、と短く百々人は吐き出した。そうして数秒の後に、俺なんかいないみたいに口にした。
「……ぴぃちゃんの隣は牙崎くんのものになっちゃった」
「……次がある」
俺の言葉が届いて、独り言が会話になる。百々人は少しだけ早口になって、睨むような、縋るような視線を俺に向ける。
「本当に、次なんてあるのかな」
あるに決まっている。俺がそう口を挟む間もなく百々人は続ける。訴えるような声色には、確かに不安が滲んでいた。
「次なんてないかもしれない。これっきりで見捨てられるかもしれない。……これが最後のチャンスだったのかもしれない。僕が、なんにも知らないだけで、」
百々人の視線が落ちていく。同じように視線を少しだけ下げれば、百々人の指先が震えているのが見えた。少しだけ、呼吸が荒い。
「百々人、大丈夫だ。そんなことは、」
「わからないよ。僕だって諦めない限り続くって思ってた。でも違うんだ。知らないうちに、僕は最後のチャンスを逃がしちゃってるのかも……」
百々人は自分自身の声で不安を加速させていくように見えた。そんなことはない、大丈夫だと何度も繰り返しながら、俺は百々人の背中をさする。
そうやって、ふたりでひっそりと息をしていた。メトロノームだけが平坦に、追い立てるように時を刻む。何度も何度も針が動いて、ようやく百々人は顔をあげた。
「……マユミくん、僕もう大丈夫だよ」
「……もう泣き止んだのか?」
「だから泣いてないってば。マユミくんってば、おかしいね。……でも、ありがとう」
百々人はパッと俺から距離を取り、いつものようにケロリと笑った。そうして、夕飯の献立を考えるように口を開く。
「あーあ、受かりたかったなぁ。しばらく暇だし、レッスン多めに入れようかな」
ひらひらと踊るように、百々人はメトロノームに近寄りその針を止める。一瞬のうちに訪れた沈黙を埋めるように、俺は声を出した。
「時間があるなら、俺と出かけないか?」
「マユミくんと?」
「ああ、デートをしよう」
俺の言葉に百々人は楽しそうに笑った。どこに行こうかと問い掛ける前に、百々人は「きれいなところに行きたいな」と囁いた。
***
休日の博物館には誰もいなかった。まるで誰かが──神様が仕組んだような静寂にたったふたつの足音が響く。半歩、俺が先行していた。並んで歩きたかったけれど、俺が歩を緩めると百々人もペースを落とすものだから俺たちの距離は縮まらない。
順路に従い歩を進めれば世界各国の装飾品が順番に俺たちを迎え入れる。ガラス越しに、大きな蜂を閉じ込めた琥珀を見た。首が折れそうなくらい大きな石がついたネックレスを見た。どれほど華奢な指先を彩ったのかわからないほど存在が幽かな指輪を見た。
ここにあるのは装飾品と宝石だ。どれもが美しいものだと思うが、ここが『きれいなところ』なのかは確証が持てない。海に行けばよかったと僅かに後悔する。美しさと『きれい』の違いについて考える。
ゆっくりと、歩く。惹かれた色について秘めやかに言葉を交わす。百々人はティアラの説明文に視線を落とし、馴染みのない海外の名前を読み上げた。そうして、また歩く。
順路を示す矢印が装飾品を展示していた部屋から俺たちを遠ざけた。そうして次に足を踏み入れたのは、宝石と宝石になりきれない鉱石が磨かれることもなく飾られている部屋だった。
ぼやりとした人工的な光を受けていくつかの石がきらきらと光っている。不透明なターコイズだけが、光に順応することなく佇んでいた。
百々人と目が合った。お互いに宝石を見ていないことは明白だった。人工的な光にふわりと浮かびながら、百々人は困ったように口にする。
「マユミくん、僕じゃなくて宝石を見てよ」
一瞬だけ視線をターコイズに向ける。こんなものよりも百々人を見ていたいと告げたら、百々人はなにを思うのだろう。
「……デートなのにか?」
「うん。僕たちのデートってそういうものでしょう?」
そう言ってまた百々人は指先で枠を作り俺を世界から切り離す。シャッターを切るように片目を閉じて、百々人は短く息を吐いた。
「僕ね、きれいなものを見てるマユミくんが描きたいんだ」
「……お前を見ていない俺をか」
俺が見ていたいのは石よりも百々人だ。それでも、そうは言えずに俺は拗ねたような疑問を返す。「僕はきれいじゃないから」と自嘲気味に笑う声に短い否定を返せば、百々人はゆっくりとまばたきをした。
「……最近の僕たちはよく目が合うよね。……キミが、僕を見るから」
ぱっと、指先で作られた枠組みがはぐれた。
「……百々人も俺を見ている。お互いに見ていなければ目はあわない」
百々人はまっすぐに俺を見ている。
「僕は見るよ。キミが描きたいから。……でも、なんでキミは僕を見るの?」
問い掛けに応じる隙も与えずに百々人は俺の手を引いた。あちらに翡翠があると百々人は笑う。キミの瞳の色だと笑う。
「百々人」
「なぁに?」
見つめていたい。何かをしてやりたい。好きだと言えるはずなのに、確かな愛であるはずなのに、それがうまく恋になってくれない。
「……お前が絵を描いているところが見たい」
抱いている気持ちは正しいはずなのに、俺はきっと正しくないことを言った。
「……いいよ」
百々人は俺の手を離す。翡翠を収めたガラスケースを通り越して、くるりとこちらを振り返る。
「帰ろうか」
家に帰ろうと百々人は言った。誰もいない家にキミを招くと、そう言った。
百々人の家には誰もいなかった。がらんどう、という芝居めいた言葉が心を焦がす。
ここがリビング。こっちが僕の部屋。閉じた扉の前で百々人は呟く。
「マユミくんは、どこまでが見たいのかな」
天気を訪ねるような声色で、独り言にしかなれなかった言葉を紡ぐ。繋ぎ止めるように俺は気持ちを返す。
「許されるところまで、全て」
「……見せてもいいって思えるよ。キミを描いた絵、全部」
呆気なく開いた扉の向こうには簡素な空間があった。足を踏み入れれば部屋の隅には賞状とトロフィーが乱雑に追いやられているのがわかる。百々人は飲み物を取ってくると言い、自由にしててと俺を許して部屋を出た。
座ることもなく部屋を見渡す。机の棚には人ひとりの首が収まる程度の箱があって、机上にはいくつかの絵の具が散乱していた。
正直、生活感がないという点で言えば俺の部屋も似たようなものかもしれない。それでも俺の部屋は俺のためにある。この部屋は百々人に従うことをせず、この空白に百々人を飲み込んでいやしないかと心配になった。紫陽花色の瞳をふわりと細めて笑う男ではなく、絵の具から漂う美術室のような香りが主のように停滞しているように感じてならない。少しだけ、胸がざわついた。
百々人は水の入った手のひらに収まるほどの小さなペットボトルを二本だけ持ってきた。「ごめんね、なにもなかった」と苦笑して、体を投げ出すようにベッドへと腰掛ける。
俺も誘われるように横に座った。丁寧に作られたスプリングがゆっくりと沈んだ。俺たちは水を半分ほど飲み干した。ふいに立ち上がり、百々人は棚から箱を取り出す。
「……これが、僕の描いたマユミくん」
蓋を開けると真っ先に緑色が視界に飛び込んできた。はがきほどの大きさの紙がいくつもいくつも折り重なって、独特の匂いをまき散らす。
「……これが俺か」
一枚、紙を取り出す。それは見覚えのあるパフェの絵だった。確かあの時は伊瀬谷の発案で、『映える写真』を投稿して一番反応が得られた人間が優勝という企画を行った記憶がある。これは秀と、百々人と、俺で、見栄えする写真を撮ろうと足を運んだ喫茶店で頼んだパフェの絵に見えた。
違うところと言えば、ぎっしりと詰まっていたバニラアイスの色が透き通った緑色で塗られているところだ。まるでパフェの一部分をくりぬいて、その奥にある深く満たされたメロンソーダを透かしているように見える。透き通った緑の奥に、小さく、小さく、キラキラと光が散っている。
「うん。これは嬉しそうに果物のパフェを見て、おいしそうに食べるマユミくん」
マユミくん、と百々人はもう一度俺の名前を呼んだ。百々人ははにかみながら、バツが悪そうに口にする。
「……僕ね、マユミくんの目の色を描いてるんだ」
がさがさと、くじ引きのように無造作に百々人は紙を取り出した。
「これは舞台の資料を探しにみんなで図書室に行ったときのマユミくん」
一面に並んだ本棚に収まったいくつかの本の背表紙が椿の葉のような深い緑を湛えている。落ち着いた、理知的な色だった。深く沈んだ思考の色だ。
「こっちが映画を見てるマユミくん」
ざらざらとしたタッチだった。モニターの中には震えるようなアイビーグリーンが閉じ込められていて、その上から侵食するように薄灰色の闇が塗られている。
「これは冬馬くんたちと僕らでサッカーをしたときのマユミくんだね」
ぽつんと、四角い白紙の真ん中にサッカーボールが置かれている。本来なら黒く塗られるべき部分に空色と混じった黄緑色が漂っていた。
百々人の言葉と共に俺はいくつもの緑色を見た。抽象画と呼ぶのが正しいのかはわからないが、これはおそらく概念的なものなのだろう。指先が辿る緑はどれも色が違っていて様々な表情で俺を驚かせる。これら全てを、俺の目の色だと百々人は言う。
「……これは、マユミくんが泣いてたとき」
寂しく、満たされて、波を打つような色をしていた。博物館で見た宝石によく似た色だった。水溜まりのような円形には、訴えかけるような慟哭が秘められていた。
「……映画を見て泣いたときか?」
「ううん。これはそういう涙じゃない……」
間違いなく、穏やかな時間だった。百々人は俺を見る。俺は百々人を見つめている。
「そういう意味ならば……俺は百々人の前で泣いたことはないはずだ」
そもそも俺は映画鑑賞以外で泣いたことがあまりない。泣いた記憶は小学生の時で止まっている。それなのに、百々人は笑う。
「僕にはそう見えたんだよ。……ううん、違うなぁ。きっと僕はこのとき、キミに泣いてほしかったんだと思う」
百々人の手が俺の頬に触れて、離れる。百々人の言葉で気がついた。俺はきっとあの日、レッスン室で百々人が泣ける手助けがしたかったんだ。
泣いて、ほしかったんだ。
「……これが一番最初に描いたマユミくん」
取り出された紙が映し出していたのは、茜に染まる海と空だった。境界があいまいになって溶け合ったオレンジにうっすらとした緑が透けていて、秋に駆け出したばかりの紅葉のように萌えている。車内で俺を描きたいと言った百々人はこれを見ていたのか。ああ、そういえば、あの車内で見つめた百々人の瞳の色は逆光でよく見えなかった。
「……きれいだって、思ったんだよ」
百々人は一度だけ深く息を吐き出して、ペットボトルに残っていた水を飲み干した。俺は魔法にかけられたみたいに、沈みかけた太陽から目がそらせない。
「……お前から見た俺の瞳は、こんなにも鮮やかなんだな」
ひとつとして同じ色などないのではないかと錯覚するほどの俺を、百々人は見つけて、見つめて、手のひらに収まる世界に閉じ込める。
「……マユミくんの、何かをまっすぐに見る目が好き」
俺をまっすぐに見つめながら百々人は言う。
「きれいなものを見る、きれいなキミの目が好き」
うっすらとしたピンクアメジストの瞳の中に俺がいる。琥珀に囚われた虫のように、動くことができない。
「それなのに……マユミくんは、僕を見る時間が増えたね」
「ああ」
お前が俺を見るから。俺の中では当たり前になっていることを伝えれば、百々人は「描いていいって言われたから」と悪びれもせずかすかに笑う。
「僕ね、マユミくん越しに見るものが大好き。茜の空も、深い海も。人を待つ本も、飾ることをやめて飾られた宝石も……おいしそうなパフェも、全部」
歌うような百々人の言葉に胸がチリ、と焦げた。感情の名前は嫉妬だと思うのに、何に嫉妬していいのかがわからない。
「俺のことは?」
「……マユミくんのこと?」
「そうだ」
「……わかんないよ」
百々人はもう一度水を飲もうとして──ペットボトルが空っぽなことに気がついて、ゴミになったそれをゴミ箱へと投げた。呆気なくゴミ箱に吸い込まれたペットボトルを見て、浮かんだ『分別』の二文字から目を逸らす。
「……俺は百々人が好きだ」
恋という確証もないまま、愛という衝動に任せて口にした。好きという言葉が内包するいくつもの意味に甘えて、百々人の声を待つ。
「……マユミくんが僕のことを好きなら、少しこわい」
その言葉を聞いて、取り返しのつかないことをしたと心臓が重く脈を打った。これは共に邁進するユニットメンバーへ向けていい好意の範疇を超えている。
動揺が伝わったのだろう。百々人は一言「違う」と呟いて、「好きになってもらえて嬉しい」と沈んだ息を吐いた。嬉しいという言葉には似合わない、重くて暗い声だった。
「……本当は、僕を見るキミの絵も描きたかった」
百々人の指先が、いくつかの絵をなぞる。
「それでも形にできなかった。形にしてしまったら、描いてしまったら、それは失ったときに遺影になってしまうから」
わかるような、わからないような。これはそういう類いの話だ。キミの目はやさしい。せせらぎのような、百々人の声を聞く。
「……こわいのは、僕を見るキミの目が変わること。いつかキミの目が冷たくなって……呆れたように僕を見て……それでいつか、僕のことを見なくなるんだ……」
だから、始めから僕を見ないで。百々人は臆病な本心を晒けだす。
「そんなことあるわけがない」
「そんなの信じられないよ」
「俺のことが信じられないのか?」
卑怯な物言いだ。それでも言わずにはいられなかった。後押しした気持ちの名前はきっと、悲しみだ。
「……マユミくんが僕を見なくなっても、それはマユミくんが悪いんじゃない」
俺ではなく、自分自身に言い聞かせるように百々人はうつむいた。
「僕がきっと、マユミくんの期待を裏切っただけ」
悪いのは僕だから。そう言って百々人は立ち上がった。机の前の椅子を引き、腰掛けて白い紙を取り出す。
「いまからキミを描くよ。そういう話だったよね」
百々人が絵の具を取り出す。緑色だけがやたらと減っていた。水を取ってこないと、と呟いて、百々人は振り向いて俺を見た。
「愛はこわいんだ」
遺影を描くよ。僕を愛しているその瞳を描く。
百々人が口にした言葉を否定せず、俺は一言「恐れないでくれ」と訴えた。愛していると、そう伝えた。
「愛はこわいよ。わからなくて、深くて、重い。……でもね、僕だってキミが好き」
百々人は指先で枠を作り、世界から俺を切り取った。愛に侵された俺が額縁に収められる。百々人が描く愛に染まった俺の瞳はどんな色をしているんだろう。
「……いつか恋に成って。暴力みたいな感情で、僕の世界を全部めちゃくちゃにして」
想像する。秩序もなく紙一面に散る無数の色を。
「描き出せないほどの衝動を見せて」
ハッキリとそう口にして、百々人は俺に背を向けた。戻ってきたときには何もかも元通りみたいな顔をして、百々人は楽しそうに笑っていた。