狩人 vol.2暗い、痛い
そして、怖い
聞こえるのは自分達の呼吸と、走る足音。
どこまでも追いかけてくる、あの音。
どこから矢が飛んできているのか、全くわからない。それでもひたすらまっすぐ走り続けている気がするが、いまはそれしか思い付かなかった。
暗がりの中、油断したらすぐに足元をとられそうな足場の悪い道を走り続ける。掴んだ手を強く握りしめて。
一瞬、目の前にうっすら壁が見えた。
見間違えかと思ったその壁に、空気を切る音と共に、矢が突き刺さるのが見えた。
喉がつまるような感覚に足が止まりそうになる、それでもぐっと目を凝らした。行き止まりかどうかもよく見えない。
曲がるか?それ以外の選択肢はない、ハンターは後ろから近づいてきているのだから。行き止まりだったら?迎え撃つ?俺が?そんなことができるのか?
心臓が痛いほどうるさくなってきた。うまく呼吸ができない気がして、からだが強ばっているのか、頭もうまく回らなくなってきた。
どうすればいい?
この状況を切り抜けるには。
目の前に壁が迫っている。だんだん自分の足音しか耳に入ってこなくなり、一歩一歩がひどくゆっくりに感じる。一か八かかけるか?それはどっちにだ?足は止まらない、もう左右に道が続いていることに賭けるか、なにが正しいのか。もはやこの時間がひどく長く感じるくらい、息苦しかった。
その時、一歩踏み出した瞬間に踏み抜く感覚がしなかった。視界が大きく揺れて、まるで地面が落ちていくように体が落ちていく。
こんなところで転んでしまったのか、そんな考えがよぎったとき伸ばした指先に触れたのは、地面ではなかった。
踏み抜いた地面から、そのまま下へと落ちていく。ゆっくりと流れていた時間がスイッチを切り替えたかのように鮮明になる。
本当に落ちていると気がついたときには、ぽっかりあいたコンクリートの穴を見上げていた。その向こうで一瞬、人影が見えた。
「……痛っ……」
呼吸をすると鈍い痛みを感じる。背中が痛むような気もするが、なによりも息苦しい。胸になにか重りがのっているような感覚に、さっき見上げた光景を思い出した。慌てて頭を起こすと、息苦しい原因がわかった。
「だ、大丈夫ですか?」
軽く声をかけても返事がない、胸元で目を閉じている彼女の肩を軽く揺すると、眉間にシワを寄せてゆっくりと顔をあげた。頬は砂ぼこりで汚れていて、涙のあとがはっきりと見えるが、大きな怪我は見当たらなかった。
「大丈夫ですか?どこか痛むとか」
「……大丈夫、ご、ごめんなさい」
少しほっとしたような顔をしてから、すぐに慌てて体を起こした。ぐっと胸を押される感覚に顔を歪めてしまったのか、大きな瞳が不安そうにこちらを見た。苦笑いをするとそっと俺から離れた。
「ごめんなさい…痛かったよね」
「いや、大丈夫ですよ、これくらい……」
そういったものの、どれくらいの高さから落ちたのかわからない。足は至るところに擦り傷があるが、特にそれ以外の痛みや違和感はない。落ちたときに多少背中を打ったのか、鈍い痛みはあるものの軽傷で済んでいるようだ。
隣に座る彼女も、左腕を少しさすっていたが、走っているときにどこかにぶつけただけだと首を横に振った。
立ち上がろうとしたとき、ギシリと鈍い音が聞こえた。踏み込んだ足場はどことなく不安定で、コンクリートの固さとはかけ離れている。慌てて地面を触ると、変に柔らかい感覚とギシギシと音が聞こえてくる。
「…ベッド?」
目を凝らすと、うっすらと白い板のようなものが山積みになっている。軋む音はスプリングの音なのか、鉄パイプの仕切りがあるだけの、簡素なベッドの上に落ちたようだ。
お陰で大きな怪我をせずに済んだが、どこか山積みになっている形が不自然に感じた。瓦礫に埋もれていていくつあるのかわからないが、まとめて高く積み上げているような、まるで壁をつくるために並べたようにも見えた。
ベッドに散らばる瓦礫を見て思い出したが、そっと上を見上げると天井には穴が開いているものの、人影はない。
「……もしかしたら、諦めたのかもしれない」
「わかるの?」
「わからないけど」
なるべく音をたてないように瓦礫の上に上ってみたものの、このベッドの山のせいか穴は人が通れるほどの大きさではなかった。
地面が抜けた時に、そのままベッドの山によって大きな瓦礫が斜めに転がり落ちたのか。上から降りようとすれば降りれるのかもしれないが、俺でも通れるかどうか怪しい。
「これじゃさすがに通れないだろうし、多分」
「……そうね、でもまだどこかにいるかもしれない」
「それは、そうですね…」
とりあえずこの場所から離れることにした。
不安定なベッドから降りると、振り返って彼女の手をとった。無意識にやっていたが、よく考えると今日初めて出会った女性に手を差し出している。
変に顔が熱くなるが、そんなことを気にしている場合じゃないと、ひんやりとした手が現実に引き戻してくれた。
ベッドから降りても、離れない冷えた手はどこか震えている気がする。
ゆっくりと歩き出すと、さっきよりは暗闇に目が慣れたのか、辛うじて足元は見える。まっすぐ伸びる廊下のような道をそっと進んでいった。
「……あの」
「なに?」
「ここがどこか、見覚えがあったりしますか?」
「……」
うつむいてしまった彼女を見て、なんだか申し訳なくなった。
まだまだ未熟だが、これでもケイだ。ここまで危機的な状況はなかなかないが、それでもゼロではない。いつかこういう日が来るとはわかっていても、思ったようには動けなかった。
だが彼女はどうみても一般人だ。この状況でなにか聞かれても、こっちが聞きたいと思うだろう。正直、俺自身も同じ質問をされたら覚えがないとしか言えない。
壁はなにかが貼ってあったようにも見えれば、汚れているだけかもしれない。老朽化が進んでいるのか、歩く度に砂利を踏むような音がする。
「すみません、俺この街に来たばかりなんで」
「ううん、ごめんなさい。うっすらだけども、見たことがある気がするの」
「え?」
顔をあげると、彼女はなにかを思い出そうとするように頭を押さえていた。うつむいたのは、考えていたからなのか。
「すごい昔、子供の頃にいた……どこかで……」
もう少し、と眉間にシワを寄せる姿を見ていると自分ももどかしくなって、彼女をじっと見ていた。するとはっと大きく目を見開いて慌てて顔をあげた。
「待って!」
強く俺の腕を掴んだ時、静かな廊下に声が反響した。廊下の奥まで響いた声に息を飲んだ。それは彼女も同じようで、慌てて口を押さえていた。
なにが起きたのかわからないが、掴んだ手は離れることはなく廊下の真ん中で二人ともピタリと止まった。
ゆっくり彼女の手が伸びてきて、俺の足元を指差している。薄暗い地面は自分の靴が視認できる程度だったが、そこでようやくわかった。通りで狙われるわけだ、蓄光のソールが少しだけぼんやりと光っていた。
だが彼女が言いたかったのはそれではなかったのか、何度も指を差す地面には一瞬なにかが光って見えた。ソールの光と同じ色が、まるで線のようにちらついて見えた。
「……糸?」
「多分、踏まない方が、いい」
後ろでか細い声が聞こえる。強く掴んだ手がさっきよりも震えているのがわかる。なんだか嫌な予感がしたが、光をみて思い出した。
「俺の後ろにいてください、声をかけるまで、なにも見ないで」
ないと思っていたが、ポケットになにかある感覚がした。驚くことに財布もスマホも、家の鍵さえもすべて残っていた。スマホの画面を開くと、眩しい画面に思わず目を細めた。
画面端では電波は立っていない。電波も入らないほどの廃墟だからか、荷物は奪わなかったのかもしれない。その事に安堵するも、すぐに息をのんだ。薄暗い廊下を照らすように、スマホの画面を向けた。
ぞっとした。
言葉がでないなんてものじゃない、目の前に広がる光景は、スクリーンの先でしか見たことのないものだった。
壁に飛び散っている赤茶色の飛沫、地面の所々に黒い模様が丸く広がっている。壁に吹き付けるようにして飛び散っているあたり、そっと画面を天井に向けた。
光に反射して糸が何本も見えた。明かりがないと気づくことのできない糸の先にあるのは、大きな鎌のようなもの。足元の糸は壁際にそって天井にまで伸びていた。さっきのようにこの道を走り抜けていたら、あと一歩踏み出していたら。映画で見ていた光景が目の前に広がるどころか、自分がそうなるところだった。
「……他の道を探した方がいいです、あいつ、罠を仕掛けてる」
スマホの画面を閉じてゆっくりと振り返ると大きな目が涙を溜めているのがわかった。白い顔が余計青白く見えるくらい、冷たそうだった。
「その、助かりました」
「……大丈夫、ごめんね。急に引っ張って」
「大丈夫です、むしろありがとうございます」
この状況で笑っても仕方ないのかもしれないけども、俺が不安そうな顔をしても仕方がない。
どこかで、覚悟は決めなきゃいけない。
「ここがどこか、なんとなくわかりますか?」
「なんとなくだけども、昔、すごい昔に来たことがある病院な気がする」
「病院?」
あの簡素なベッドと、まっすぐ続く通路からして、確かにそうかもしれない。壁際にある椅子は革も剥がれているが、壁にそって並んでいる。
「昔にね、体があんまり強くなくて病院にいたんだけど、この街には大きな病院が多くなかったから」
「なんとなくでいいんで、出入り口ってどこか覚えてたり……」
「なんとなく、だけども。ここがどこかわかれば」
彼女は小さく頷いた。少しだけ希望が見えた気がするが、いまハンターがいないだけで時間はあまりない。罠を仕掛けられているのだから余計だ。
「ひとつだけ、いいですか」
「なに?」
深く息を吸った。少し埃っぽく感じるが、今のうちに呼吸を整えておかないと、きっとすぐには走りだせない。俺たち以外にも人がいる。その人たちを助けられるかは、自信がない。なによりも正直怖い。だけどもその覚悟は、この街に来る前にしたはずだ。
「なにかあったら一人で逃げてください。俺はRunner。ドロを追いかけるケイです」
いつまでも逃げる側には、いられない。