「……回収しに来た」
迎えに来たと言わないあたり、彼の心境が伺えるものである。隣の席でちまちま嗜む程度に味わっていた男は、酒場に似つかわしくない冷めた態度の男を見上げた。
今回収されようとしている金髪の青年と、男は最近飲み友達になった仲である。きっかけは些細なもので、男が恋人との喧嘩に悩んでいた時に彼が「やあお兄さん、どうしたんだい? 僕でよかったら話を聞こうじゃないか」とつまみを奢ってくれたことが始まりだった。男はスメールには最近来たばかりで、その笑顔がよく映える美貌の男が著名な建築デザイナー・カーヴェであることを知らなかった。それ故に余計な先入観や気後れなどなく、ただ純粋に飲み仲間として杯を交わすことができたのであった。
最初こそ気の良い優男という印象だったが、何度か酒場に通う内に男はカーヴェのことを知っていく。曰く、有名な建築デザイナーでありその腕は確かであること。曰く、教令院でも一目置かれる”天才”であること。曰く、ルームメイトがいること。そして彼はそのルームメイトの金で飲んでいること。あの日のつまみも、実際は彼のルームメイトの奢りだったこと。だんだん情けない印象が強まっていったが、それはそれとして話していて楽しい飲み仲間として好感は持っていた。
そんな彼が、カーヴェのルームメイトを知ったのはひと月ほど前のことである。ついに自分で帰ることもままならない程に酔い潰れたカーヴェを迎えに来た彼を見た。翡翠を裏に宿した銀色の跳ねた髪、もしかして人でないのではと思わせるような不可思議な虹彩、思わず身を竦めてしまうような圧を感じさせる体躯。それは、巷で聞く教令院の書記官の特徴とも、カーヴェから聞く「恋人」の特徴とも一致していた。
それからたまに、男はカーヴェのルームメイトと遭遇することが増えた(といってもカーヴェを迎えに来る時に姿を目にする程度だ)。冷めた態度の男が彼を迎えに来る度、本当にこの人がカーヴェさんの恋人なのかとつい勘ぐるような目を向けてしまう。カーヴェの語る「恋人」と、確かに見た目は一致している。しかし態度が全く違うのだ。男の想像するカーヴェの「恋人」は、とてもいじらしくかわいらしい人だった。喧嘩してもかわいいと思えてしまうような人だったのに、出てきたのはこれ。男は「恋は盲目」という言葉を思い浮かべていた。
「あ! アルハイゼン!」
「今回もアルハイゼンさんのツケで?」
「……俺ではなくこいつのツケにしておいてくれ」
その会話はすっかりお馴染みのもの。男は氷で少し薄くなった酒をごくりと減らした。
「アルハイゼン~」
「……その調子なら自分で歩けそうだな」
「抱っこ!」
空気が凍った。カーヴェの声はよく通る。それも今は陽気に酔っている状態、自制心があまり働いていない。それ故に彼の思うまま、セーブされていない声量のそれはよく酒場に響き渡った。響き渡ってしまった。
成人男性(酔っ払い)が成人男性(素面)に「抱っこ!」とねだる姿、それはもう地獄絵図である。注目を集めていると気付かないカーヴェはにこにこと実に楽しそうな笑みを浮かべていた。
「聞こえなかったのか?」
「……俺は何も聞いていない」
「抱っこだ、アルハイゼン」
俺達は何も聞いていない。そう訴えるように酒場の者は皆、二人から目を逸らす。しかし意識は二人の動向をこれでもかと気にしていることが、しんと静まり返った空気で明らかになっていた。
「何だよアルハイゼン、そんなに嫌がることじゃないだろ」
「君はここがどこだかわかっているのか?」
「酒場」
「…………」
なんと家だと勘違いしているのではなく、場所を正しく認識した上で抱っこをねだっているらしい。その恐ろしさに酒場の者全員(当事者二人は除く)は震え上がった。だがカーヴェの暴走は止まらない。む、と不機嫌そうに黙り込んだアルハイゼンに「全く君は頑固だな!」と吐き捨てる。そして、酔っ払いとは思えぬ機敏さで立ち上がった。
「おい、待て」
「待たない!」
「あ、おい、こら」
そしてカーヴェがアルハイゼンを抱き上げた。そう、カーヴェが。アルハイゼンを。抱っこした。
そこでようやく酒場の皆は、自分達が誤解していたことに思い至る。あれ、もしかしてカーヴェさんの「抱っこ!」って「抱っこして」ではなく「抱っこさせて」なのか。あの書記官を抱っこできるのか。いやもうしてるんだけど、あの書記官がまるで猫のように抱きかかえられている状態って本当に現実か。現実なんだけど。現実なんだけど。皆、その衝撃的な光景に目を奪われ、息を飲む。二人の世界に突っ込もうとする無粋な輩はいなかった。
「おっも!」
「下ろせ」
「やだね! このまま君を抱っこして帰るぞぉ!」
「やめろ」
「わがままを言うんじゃない、アルハイゼン!」
「どう見てもわがままを言っているのは君だ」
ん~? とカーヴェがアルハイゼンの顔を覗き込む。大変陽気、にこにこ笑顔のカーヴェとは対照的に絶対零度の真顔のアルハイゼン。二人の温度差でちょっとした雲くらいならできそうだった。このまま雷雨を引き起こさないでほしい、店主は切実に願った。本当に雷雨が起きたことはないが、酔った二人が喧嘩の嵐を巻き起こし言葉を失うような惨状を引き起こしたことはある。カーヴェはともかくアルハイゼンは素面に見えるので問題なさそうだが、それでも祈ってしまうものだった。
「もう……仕方ないなあ、君ってやつは!」
「何がだ」
「大丈夫、わかっているさ! さあさ、早く帰ろう! 僕達の家へ!」
「俺の家だが」
「僕達の! 愛の巣だろ!」
「は?」
これで普段は同居の事実を隠しているので呆れたものである。俺達は何も見ていない、何も聞いていないぞ。客達は皆、そう訴えるように目を逸らし、素知らぬ振りを見せつける。そんな空気の中、アルハイゼンはため息を吐いた。そして、店主に挨拶をくれる。
「…………明日、絶対に、この調子に乗った男に全て払わせる」
カーヴェに抱き上げられた男はそう、とても低く地を這うような声で言った。それを聞いた酒場の客はまるでドラゴンスパインの最中にいるかの如く震えたが、当人は全く気にしていない。彼は陽気に歌でも歌いそうな調子で、帰路へのステップを踏み出したのであった。