なんでもない特別な一日を とある肌寒い――しかし少しずつ春に近づいていることがわかる――冬の日。スメール一の建築家と言わしめる天才デザイナーは密かに焦りを覚えていた。
「…………まずい。全く思いつかなかった……」
結局昨晩の風呂をすっぽかし、夜通しぐるぐる思考の渦にはまってしまった。それ故に少し煌びやかさを失っている髪をくしゃりと掻き上げ、息を吐く。その重々しい溜め息は、とても晴れやかな朝には似つかわしくない。
「また依頼人の笑顔のために徹夜か?」
カーヴェと違い、しっかり睡眠を摂ったらしい同居人の挨拶は相変わらずひどいものだ。ちょっとは心配してくれたっていいだろう、とカーヴェは眉をひそめる。とはいえ実際に心配するような言葉を向けられたら、それはそれで機嫌を悪くするのでこの対応がベストだったりするのだが。
「僕にもくれ」
「自分のものは自分で用意しろ」
「はぁ? たかがコーヒーの一杯だろ」
なんでそんなことを言われなくちゃならないんだ。寝不足も相まって、カーヴェの声はいつもより刺々しい。だがアルハイゼンがそれを気にするような男かというと否。彼は平然とカーヴェに背を向け、朝食の支度を始めた。平和に過ごすためには規則正しい生活を。そんな彼の姿勢はいつだってぶれない。
「おい、アルハイゼン」
「二個でいいか」
「…………ああ」
コーヒーは入れないのにピタは用意してくれるのかよ。そんな文句を飲み込んで、カーヴェは席を移す。苛立ちと焦燥感で忘れていた食欲が、朝食の香しさによって目を覚ましたようだった。ぐううと叫んだ腹の虫を誤魔化すように、カーヴェは急いた仕草で手を拭く。それから、アルハイゼン好みのピタを口に放り込むのであった。
「……それでは、行ってくる」
徹夜明けと快眠明けでは動きが異なる。先に食べ終え、着替え諸々の支度も終わっていたアルハイゼンは颯爽と職場へと向かった。そしてカーヴェはそれを適当に見送り、数分後。
「…………あああああああ……」
盛大に頭を抱えた。その大げさで冗長でわざとらしい溜め息には、これでもかと苛立ちが表れていた。
昨晩はまとまらないアイディアに、朝食を食べるまではコーヒー一杯分の優しさもない同居人に、そして一人になった今はどうしようもない自分自身に。カーヴェの苛立ちは尽きることがない。普段であればそれすらもエネルギーとして精力的に仕事に取り組むところだった。が、あいにくと今はその余裕がない。何故なら。
「なんで誕生日なのに喧嘩してるんだよ僕は……!」
そう、今日はアルハイゼンの誕生日である。国としての記念日や催しが被っているわけでもないので、世間一般的にはただの平日だ。もしかすると誕生日の当人であるアルハイゼンですら、特別さを感じていないかもしれない。そうなると彼の誕生日を特別な、祝うべきものとして見ているのはカーヴェだけになる。だからこそカーヴェは夜通し悩んでいたのだ。あの、かわいくないがかわいい恋人の誕生日をどうやって祝うか。あの仏頂面をあっと驚かせ、誕生というもの日の特別さをわからせてやりたい。カーヴェはそう考え、ああでもないこうでもない、これでは足りないこれだとコストがかかりすぎるだの悩んで数時間。その結果、誕生日には相応しくない朝を迎えてしまった。
「……こうなったら夜、帰って来てからだ。あいつが家に帰って来てからが本番だ」
あいにくと険悪な朝というのは、日常ではないものの滅多にないわけでもない。それだけカーヴェの生活リズムは不規則で、頻繁に夜を無為に明かしているというわけである。それについての是非はともかく、それなりにあるということはまだ挽回が効くだろう、そうカーヴェはポジティブに考えることにした。前向きというよりは現実逃避に近しい気がするが、それも考えない。とにかく悩みごとの多い彼は、その悩みから目を逸らす手をよく使うのである。
「待ってろアルハイゼン、恋人と過ごす特別な誕生日ってものを教えてやる……!」
因みに今日は、彼らの関係性に恋仲の二文字が加わって初めての二月十一日である。
「…………もうだめだ……」
案の定ダメだった。色々と考えたのだが、そもそも数時間の猶予で大仰なサプライズは用意できない。結局朝から一寸も進展のないまま、カーヴェは二人の夕食まで終えてしまった。
何も昨日まで放置していたわけではないのだ。計画は一ヶ月前から練っていたのだが、色々なトラブルに「これだけ猶予があるのだからもっと」という凝り癖、その他諸々が重なって今の今まで進捗がなかったのである。恋人としての初めての誕生日、あのアルハイゼンの思い出に残る一日にしたい。理想とハードルの高さが、カーヴェを苦しめていた。
だが、こうなればなりふり構っていられない。最悪なのは何もできずいつも通りの一日として消費してしまうことである。なのでカーヴェは恥を忍んで、本人に誕生日プレゼントの要望を訊ねた。午後八時、もう誕生日は残り四時間。だが、何もできないよりはマシである。不甲斐なさに苦しむカーヴェに対し、アルハイゼンはあっさりとその問いに答えた。
「なら、ファテを作ってほしい」
「……そんなのでいいのか?」
思わずそんな言葉が出た。アルハイゼンはただその問いに答える。うん、それがいい。時たま出てくる彼の柔らかい言葉は、彼が素直な正直者であることを如実に物語る。彼が相手だと捻くれた見方をしてしまうカーヴェも、そうかと受け入れることができるくらいには。
「……わかった。材料は……」
「ある」
即答だった。材料はありふれたものばかりだし、簡単に作れるおやつとして普遍的な料理でもある。だが、だからといって常に材料が揃っているかというと話が変わる。そのはずなのだが、どうやら材料は揃っているようだ。カーヴェは面食らいつつ、会話を続けた。
「……ん。じゃあ今から作るけど……何かリクエストとか、あるか……?」
誕生日とはその日の主役たる資格である。この惨状も、そもそもはアルハイゼンに何かしてやりたいという思いがきっかけなのだ。だから最大限アルハイゼンの要求を呑もうとカーヴェは彼の顔を窺う。だがアルハイゼンはカーヴェの申し出に「特にない」と答えた。そしてすぐに、その真意を口にする。
「……こうして、誰かと普段食べないものを食べるだけで十分だ。だから、特別に望むことはない」
「…………」
僅かに緩んだ目尻に、カーヴェは溜め息を吐きたくなる。これだ、彼のこういうところがいけないのだ。どれだけ腹立たしく憎らしくとも、ふとした瞬間不意を突くように穏やかな可愛らしさが表に出てくる。自分は、そういうところに弱い。そして、そういうところをどうしようもなく愛おしく思ってしまう。自覚していても惚れた弱みはどうすることもできないものだ。カーヴェは照れを誤魔化すように咳払いを挟み、しつこく訊ねる。
「いいんだな? 僕の好きにして」
「ああ」
「以前、君が『どうせ食べる時に崩すのにそこまで盛り付けに凝る必要があるのか?』なんて散々に言ったミニアルカサルザライパレスを作ってもいいんだな?」
「崩されてもいいなら」
「別に構わないさ、あくまでも模したファテだからね」
「ほう。さすがに学習したか」
「ど、堂々と馬鹿にしやがって……!」
確かに食べる時に崩さなければならないという常識を忘れてショックを受けたことはあるが。カーヴェがぐぬぬと羞恥に顔を歪めれば、アルハイゼンがちらりと壁に目をやり一言。時間はいいのか。淡々とした問いかけに、カーヴェはふん、と感情を露わにする。
「わかってるさ、今すぐ作る! そうじゃないと意味がないからな!」
二月十一日の最中に作って食べるからこそ、丹精込めた一作は新たな価値が生まれる。「アルハイゼンのため」というエゴを叶える、カーヴェのための一作。それの賞味期限は紛れもなく今日中なのだ。早く取りかからなければなんでもない一日に戻ってしまう。カーヴェは急いで、しかし慌てることなく特別なデザートの準備を始める。それを、アルハイゼンは満足そうな顔で眺めていた。