まだ未開封の芋焼酎のボトルが3種類。
お茶、ソーダ、お湯、水、氷、各種割材も一歩も動かないで、手をのばせば届く位置セッティング済みだ。さらに、頂きものの明太子を軽く炙れば、テーブルの上にはあっという間に楽園が完成する。
「よーし、呑むぞぉ」
元々お酒は飲まない日のほうが少ないけれど、やはり平日は社会人として少し抑えめになる。けれど今は金曜日の22:30。そして明日は暦通りの休日。貴重なこの夜を無駄にしてはなるまい。私は意気揚々と1つボトルを選び、グラスにいれるとまずはストレートで飲み干す。
「くーーーっ」
のどの奥に染み渡る刺激が『ああ、最高に生きてるな』って実感に変わっていく。
さぁ、間髪いれずにもう一杯。と。
ぴんぽーん
「………えぇ?」
時刻は22:42。
来客がある時間とは到底思えない時間に、部屋にその音が鳴り響いた。
(宅配………?いや、こんな時間にそれはないか)
首をひねりながらも、少し悩んでいると、ぴんぽんぴんぽーんと二回続けてチャイムが押された。
「えー………」
正直に言ってしまうと……今は、面倒くさい。
普段なら絶対に何も考えずに、はーい、と玄関先に飛び出していくけれど、天国にたどり着いた今は、誰にも会いたくないし一歩たりとも動きたくない気分だ。
今日はこのままテーブルにかじりついて、眠くなったら寝て、飲みたくなったら呑むを繰り返していたい。
(居留守………つかっちゃおうかな)
悪魔のささやきが脳内に響くとほぼ同時に今度はブルル、とテーブルに振動音が響く。
「?」
LIMEの着信。メッセージみたいだ。チャイムには居留守を使うとしても、これくらいは反応しないと。
スマホに手を伸ばして画面に目を落とす。
『From:服部耀
マトリちゃんに告ぐ。君は今包囲されている。
無駄な抵抗はやめて今すぐ出てきたほうがいいよ』
最後の「よ」を読み終わると同時に、ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽん。
こちらの文字を読むペースまですべて見計らったかのようにチャイムが連打されて、けたたましい音が部屋中に鳴り響く。
「わ、わぁぁ、申し訳ありませんっっっ!」
慌ててテーブルの楽園から飛び出して、玄関の扉へと向かう。
「あ、やっと出てきた。こんばんは」
「服部さん…こ、こんばんは……」
「ずいぶんと出てくるの遅かったけど、居留守?」
「………すみません」
仕事帰りなのだろう、鞄を手にしたままの服部さんは私が居留守を使っていたことに対しても特に不快感を示すわけでもなく、ただ裏の読めない微笑みをにっこりと浮かべるばかりだ。
「えっと、今日はどうかされましたか?」
「今日はお酒を飲みたい気分だったから、ご相伴にあずかろうと思って」
「………は?え?」
「ってことで、お邪魔しますよ」
あっけにとられてるうちに、あれよあれよという間に部屋に押し入ると、テーブルを見ては、豪華だねぇと言って勝手に座り込んでしまった。
「えっと」
「マトリちゃん、こんなに簡単に部屋に入り込まれて大丈夫?悪い人に壺とか売られてない?」
「いや、服部さん相手に抵抗しろっていうほうが無理…」
「おや、敗北宣言。じゃ。グラスちょーだい」
「あ、は、はい」
とりあえず、予期せぬ来客の注文通りに、ロックグラスを渡すと、まだあけていない焼酎のボトルちゃんが魔王の手にかかっていった。
「服部さん、今日はどうしてこちらに………?」
服部さんも一杯目はストレート派なのか。一切割材を使わず、渡したそグラスにそのまま焼酎をいれてそれを飲み干す。
「んー、なんとなくお酒が飲みたいなぁと思って」
「うちって、そんな大衆居酒屋みたいな存在になってたんですかね」
「だって今日はマトリちゃん、落ち込んでるだろうから、おうちに帰って美味しいヤケ酒でも飲んでるかなって」
「ブッ………ゲホッゴホッな、ケホッ、なんでそれを!?」
服部さんからの思わぬ爆弾投下に焼酎が変なところに入って思わずむせかえる。
私が落ち込んでいる原因なんて、捜査企画課のメンバーですら詳細は知らないことを服部さんが知るわけもない。それを見抜かれたなんてどういう勘をしているのだろう。
超常現象まで含めた可能性を視野にいれたくなってきた。
「どうして知ってるの?って顔してるけど、マトリちゃんに何があったかなんて知らないよ?」
「もう心読まれてる段階で信用ないです」
「ありゃ。でも、今回は本当。さっき、外で鬼気迫る勢いでお酒抱えながらマンションに入っていく姿を見ただけ。そんな浮かない顔した人がお酒抱えてたら、この後はやけ酒で酒盛りしかありえないでしょ?だからお酒飲みにいこうかなって」
「なるほど…」
いつも視野が本当に広い人だ。
私は部屋がマンションに入る瞬間、視界には服部さんはいなかった。だから見かけたとしたら、後ろ姿でしかありえない。それで様子がわかるのは、一人だけ4次元にでも生きているんじゃないか。
(…服部さんならありえるな)
ばかげた妄想にうなづきながら、次のお酒を飲もうとグラスを手にすると、服部さんが瓶をこちらに傾ける。どうやら注いでくれるようだ。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。で?何かあったのって聞いてほしい?」
「…いえ、聞かれたくないですね。いろいろ自分の中で呑みこむためにお酒に頼っているので」
「なるほど。勇ましいことだ。」
勇ましい、かどうかはさておいて。
今誰かにこんなこと言われた、あんなことされたと言いつけるのは、甘えているみたいでなんとなく嫌だ。だから捌け口は必要としていない。
今の私に必要なのは、一回全部吹っ飛ばしてくれる、アルコールだけ。捜査企画課のメンバーはなんだかんだで少し甘やかしてくれるけれど、服部さんも甘えを許してくれる性格でもない。
だから、きっとこのまま何も聞かずにいてくれると思うと、気分が少しだけ軽やかに…
「でも隠されると気になるから逆に聞いちゃおう」
(せ、性格…)
「あ、性格悪いって思ったでしょ」
「…思ってません」
「本当に?」
「…そこまでは、思ってません」
「正直者だねぇ」
楽しそうな笑い声と同時に服部さんがグラスを差し出してくる。今度は私がお酌をする番らしい。
「割ります?」
「じゃロックで」
「はい」
氷をカランといれて、焼酎を注ぐ。
とくとくとく…と気持ちのいい音を立ててグラスを半分程度まで満たしたあと、軽くありがと、という言葉が返ってきた。
「じゃー、マトリちゃんも割ろうか」
「あー、もう少し酔うまではストレートで」
「ううん、お口のほう」
「…ああ」
何があったか言えということか。どうやら何があっても流してくれる気はないらしい。相手は捜査一課の課長。黙秘なんて、できるわけがない。
「結構甘えた話ですよ?聞いていてうんざりされるかもしれません」
「いつも酸っぱいマトリちゃんの甘い話が聞けるなんて楽しみ」
「あはは、そういう話ではないんですけどね」
逃がしてくれるほどやさしい人ではあるまい。仕方なく私は目をとじて、自分のお酒の原因を思い返す。
===
月に一回の厚労省上層部への【報告会】
それは特例でマトリへの加入を認められた私がいかに麻薬取締官として役に立っているか実績を上に報告する日なのだけれど、いくらもがいても努力をしても優秀な上に経験もある先輩方に追い付けるまでは程遠く。
『いつもどおりですね』
笑う声が聞こえる。
予想どおり今月も大したことありませんね、期待してませんけどもうちょっとがんばりましょう、優秀なメンバーにお守りしてもらうからいつまで経ってもお姫様って呼ばれるんですよ。体質は恵まれても…ねぇ?うちも慈善事業じゃないから猫の手くらいは役に立ってくれるといいんだけど。
いつも上層部から私にかけられる評価は関さんがフィルターをかけてくれているけれど、報告会に臨むのは一人。
付き添おうか?という言葉はいつもくれるけれど、忙しい関さんたちに迷惑ばかりかけていられないから、全然平気ですよ!なんて言ってのけてはみせる。けれど、毎回こんな言葉を投げかけられるのは、気分が滅入るし、これをいつも知らないところでガードしてもらっていることを考えれば、なおさら申し訳なくて気分が沈んでいく。
勿論、愛のある叱責とそうでないものの違いくらいは、見分けられるつもりだ。
だから、彼らの言葉はそのまま心に受けれける必要はあまりない。事実である部分が多いとしても、目的は純粋に私を見下してストレスのはけ口にでもしているのは明らかで。落ち込んじゃいけない、めげちゃだめだ、見返すんだと精一杯のポジティブを総動員しても、最後に摩耗して、下唇をかみ、精進します、と答えるだけで毎回精一杯だ。
だからこの日は私は自分を甘やかすと決めて、報告会の日は一人で酒盛りを開く。緊急の連絡が入って急に出勤になったらどうしようという考えも一度端に追いやり、とにかく、自分を甘やかすって決めている。
「ここまですべて私視点の話ですので、正しいかどうかはさておいて。悪意はあるのだと感じています。けれど、すべて事実である以上、まったく落ち込まないでいることも難しくて」
守秘義務や内部事情に関わる部分だけを省きつつ、おおむね語った後に服部さんが注いでくれたお酒を飲む。
「役立たずだから、役立たずと罵倒されても、言い返せなくてお酒に甘えて寄りかかってるんです」
「ふーんなんだか大変そう」
聞いたわりに服部さんは、にっこり笑顔でそれを流すと一口お酒をまた口にする。
(こんなことで落ち込んでるなんて幻滅されたかな)
それは少しだけ嫌だなぁと思いながら、私もグラスに口をつける。
いつもよりアルコールをきつく感じて、つん、と鼻先に何かがのぼってくるような気がした。
「先月の有楽町での薬物中毒者による傷害事件」
「はい?」
「運搬業者の犯人がデパートのバックヤードを取引に使っていることがばれたとき、抵抗をみせた。危うく人質として捕らえられそうになった従業員の女性を身を挺してかばったのはマトリちゃんじゃなかったっけ」
「えっと、服部さん?」
「あの日のマトリの役割は証拠品を多く押収するお仕事で、被疑者の捕獲や安全の確保はうちの仕事だったと思うんだけど、なんであの時、君は証拠品の押収を放棄して割り入ってきたの?」
「理由なんてありませんよ。優先すべきは人命です」
「正解」
ぽん、と頭の上に暖かい重みが降ってくる。それが髪の毛の上を左右に動く。
「実績は足りないし、他のメンバーと比べても劣る部分は多い。まだまだ酸っぱいけど、マトリちゃんは大事なことだけは絶対に間違えない。役立たず、ではないんでない?」
私はお酒に弱かっただろうか?
鼻の奥が、またツン、とこみ上げてくる何かに刺激されて、それがぽたりと目からこぼれた。
立場は違えど、服部さんは些細なことも見逃さない憧れの存在で、そんな人からこんな言葉をかけてもらえたら、感情をとどめておくなんて無理に等しい。
1粒、2粒とこぼれるものをなんとか眼の筋肉で止めようとしても、無駄で、一度決壊してしまえば、それはとどめておくことなんてできなかった。
よいしょ、とお向かいにいたはずの服部さんは立ち上がると私の隣に腰かけて、肩をまわすと、ぐいっと私を引き寄せる。
「わ」
「今日はお酒もらっちゃった分、寄りかからせてあげよう」
服部さんのワイシャツで顔を押しあてられながら、あやすように頭をそのまま撫でられる。しみついたタバコの香りが今はなんだか心が落ち着いていく。『役立たずじゃない』という言葉が染み渡っていくと、心の中で重くのしかかっていた無能の烙印が溶けていく気がした。
「…ふふふ」
「おや、笑ってる。もう元気でたの?」
「はい、ありがとうございます」
名残り惜しいけれど、元気は、もうでてしまった。私の返事とともに、回された腕が離れていく。私も、寄りかかるのはやめにして、代わりに正座に座りなおして、ボトルを一本手にとる。
「なので、ここからは楽しくお酒を飲もうと思うですが、服部さんもご一緒にいかがですか?」
「じゃあ、ご一緒しましょうかね」
もう、お酒で気持ちを飛ばす必要はない。
ただ、少しでもこの時間を長く過ごすために、今度は水割りにしよう。そう考えて私はデキャンタに手を伸ばした。
逃げるためじゃない。
楽しくておいしいお酒の時間が幕をあけた。