たにま「あっ……」
隣を歩くグレイが唐突に上げた声に、アッシュは足を止めて振り返った。
薄暗い水族館の順路の途中、少し後ろで立ち止まっているグレイを見ると、何やら慌てた様子で身を縮こまらせている。右腕が、平均よりもサイズが大きい乳房を支えるようにしていて、左手はVネックのニットワンピースの胸元を掴んで中を覗き込むようにしていた。
「どうした」
眉を顰めて問いかけると、うぅ、と不明瞭な声が返ってきた。重ねて、なんだよ、と言うと、目元をじわりと赤く染めて、窺うように上目遣いをする。
「あの……」
「はっきり言え」
「……イヤリング、が……」
「あ?」
「…………イヤリングが、落ちちゃって…………」
ぼそぼそと言う声を拾って、珍しく編み込みでハーフアップにしているおかげで見えやすくなっている耳を見ると、右耳にあったはずの飾りがなくなっていた。以前、アッシュが贈ってやったイヤリングの片割れで、もう片方は左耳にきちんとついている。
なんだそんなことか、と大きくため息を吐くと、グレイはびくりと大きく肩を震わせる。別に怒っているわけではない。呆れているだけで。自分の言動でグレイがいちいちびくつくのはもう慣れたものだが。
「どこに落としたんだよ」
呆れを隠さずに言えば、グレイはまたもごもごと口ごもる。はっきりしない返事に、おい、と少し強めに促すと、しばらく視線を泳がせたあと、そうじゃなくて、と、涙混じりの声が鼓膜を震わせた。
「あ? 聞こえねえよ」
「……道に落としたんじゃない……」
「じゃあどこに落としたんだよ」
どこまでもはっきりしないグレイに苛立ち混じりに聞き返すと、今度はなぜか恨みがましく睨み上げられてしまう。と言っても、潤んだ目では迫力などないに等しいのだが。
しかめ面で見返してやると、うぅ、と呻きながらグレイは自分を抱きしめるようにさらに身を縮めて、薄い唇を開いた。
「…………なか…………」
「は?」
「……服の、中に……」
「……あ?」
予想外の言葉に目を見開くと、グレイはきっと強くアッシュを見上げる。
「っ、だから、その……胸の間に、落ちちゃって……っ!」
今度こそ目が点になった。
胸の間、とはつまり、谷間のことか。何がどうなればアクセサリーがそんなところに落ちることになるのか。
「……何やってんだ、お前」
「うぅー……と、とにかく、取り出すから、お手洗いに寄らせてほしい……」
呆れかえるアッシュに、グレイは懇願する。薄暗闇でもはっきりとわかるくらいに顔が赤い。耳も、胸元に続く首元も。
アッシュは逡巡した。こんな顔で、しかも、谷間に落ちたイヤリングがこれ以上下に落ちないようにぎゅうと腕を組んでいる状態のグレイを、衆目に晒すのはどうだろうか。体勢のせいで、ただでさえ目立つ胸がさらに強調されているようにも見える。
ぐ、と何かがこみ上げる感覚がした。
「……来い」
「え?」
「いいからこっちに来い」
腕を掴んで力任せに引くと、予想外の抵抗があった。
「ま、待って……っ、腕、引っ張らないで……!」
落ちちゃう、と訴えるのを無視して、薄い通路の奥に引っ張り込んで壁に背中を押し付ける。ひっ、と上がった悲鳴は無視して、胸を守るように組まれた腕を掴んで引き剝がした。
「動くなよ」
「な、なに……ひゃっ!?」
戸惑うグレイに構わず、Vネックから除く谷間に、無造作に手を突っ込む。
「やっ、だめっ」
びくびくと震える体と、弱々しく上がる声。
情事を連想させるそれに、己の中で欲望が首を擡げた。
「やだぁ……っ」
見えないから手探りで指を動かすと、そのたびにグレイは声を零して身を震わせた。豊満な谷間に這わせていた指先に、何か硬い物が触れる。人差し指と中指でそれを摘まんで、落とさないようにゆっくりと引き抜いた。
「あ……」
放心したような声を漏らすグレイの頬に手を添える。グレイはぴくんと震えて、怯えるようにぎゅっと目を閉じた。
そのまま顔を左に傾けさせて、露わになった右耳にイヤリングを嵌めなおしてやる。きりきりと螺子を巻くと、いたい、と小さく訴える声が聞こえたので、落ちない程度に緩めてから解放する。
恐る恐るという風に目を開いたグレイが、アッシュを見上げる。そして、目が合った瞬間、あ、とあえかな声を零して体を震わせた。
「行くぞ」
ぼう、と熱に浮かされたような顔をするグレイの腕を引いて、順路に戻る。そして、展示を無視して出口へと向かう。
途中、我に返って、待って、どこに行くの、と慌てるグレイの声は聞こえない振りをした。
あんな顔を見せて、あんな声を聞かせて。ただで帰されると思うのは、グレイの好物であるカップケーキよりも甘ったるい考えだ。
せっかく来たのに、と半ば諦めたように呟くグレイの声も無視して、アッシュは近場のホテルへとそのまま足を進めた。