さよらな、バッドエンド いつからか、七月のおわりが近づくにつれて体調を崩すようになった。最初のころは、油断して夏バテをしてしまったと思っていたが、どうもそういう単純なモンではないらしい。
それに気がついたのは、わりと最近。いやな夢をみて、うまく眠れない日が続く。
ひとりで耐える夜はいつの間にか沈み、ごうごうと押し寄せてくる濁流に呑まれる。深く息を吸い込みながら目を覚ますと、夢の欠片は記憶からぽろぽろと落ちていく。
だから内容は覚えていないのに、澱みが心を濁すのだ。
「……いつもの?」
「おー……」
飛び起きてから、肩で息をする。夏用のブランケットを握り締めていると、腰に腕が絡みついてきた。視線を落とせば、見慣れた金糸が目に入った。
「……わかぁ」
「んー、はい、はい」
まだ心臓がどくどくと暴れているが、もう一度ベッドに横たわって恋人を抱きしめた。
華奢な肩に鼻筋を埋めれば、馴染んだワカの匂いにあれすさぶ心が凪いでいく。
そうすれば、まるでタイミングをはかったかのように、ワカがゆっくりと語り出すのだ。
「今日ね、ジムに入りたいって若いにーちゃんが来たんだけどさぁ」
「うん」
「それがさぁ、ソイツの兄貴が黒龍の六代目にいたらしくって。ずっとオレらのことを兄貴から聞かされて憧れてんだってよ」
その日のジムのこと、ベンケイの面白い話、武臣の愚痴。話題はその日によって違うけど、まるで歌うように語り続ける。その内容に耳を傾けながら、ときおり相槌をはさみながら、もういちど眠気がやってくるのをひたすら待った。
オレはもう、ひとりではうまく眠れない。
悪夢に魘されながら、下手くそな眠りから覚めると、いつもワカがいた。
七月末が近づくにつれて浅くなる睡眠は、体力を削っていくけど、寝起きは幸せな光景に包まれるのだ。
そこから暫くじっと眺めて、頬に落ちる影の形を観察した。
どれくらいそうしていたかは分からないけど、アラームが鳴るまでは好きにさせてほしい。そうしていたら、ゆっくりと淡い紫が姿を現す。
「……ん、しん、ちゃん」
「起こした?」
「んー? いまなんじ」
まだ覚醒しきっていない意識で言葉を続ける姿は、年齢のわりには可愛らしくって、愛しさが募る。
たぶんこんなにも気が抜けた姿は、オレにしか見せていないはずだ。だってオレも、ワカの前でしか気を緩めないし、ワカもそれに気付いている。
「六時。まだ寝てて」
「しんちゃん、も」
ぐっと寝間着を握り締めた腕には、それなりに力が篭もっている。それに抗うことはせず、大人しくベッドに逆戻りした。布団のなかはワカの体温で満ちている。
どうせ眠れないと思っていたけど、ぎゅっと目を瞑っているといつの間にか睡魔がやってきた。
七月三十日。毎年のように、この日に悪夢は去って行く。
ああ、そうか。もう、この朝は七月三十一日だ。
「真ちゃん、起きて」
「んー、んん……ッ、ワカ! 今何時っ⁈」
「九時五分」
「は、焦った……」
順調な二度寝は、寝坊寸前まで続いた。こんなにスッキリとした目覚めは一ヶ月ぶりで、そこでようやく日付を思い出す。今年も無事に悪夢の日々を、抜けたらしい。
寝坊じゃないと分かっていても、ゆっくりしている時間はそんなに無い。
「おはよ、よく寝られた?」
「うん……いつもどーりだったワ」
「そっか、じゃあ良かった」
ベッド際に座り込んでいたワカが、安心した様子でゆっくりと立ち上がる。すでに寝間着から着替えていたから、きっとオレよりずいぶん早くに起きてきたのだろう。
そのままキッチンの方に向かい、コンロの前に立つ背中を見送った。オレが使うと少し低くて、ワカにはぴったりの調理台。その景色を何度も見てきたはずなのに。
いつからか始まったこの悪い癖を見抜かれたあと、この期間はほとんどうちに泊まり込む。
そして七月三十一日は自分の家に戻って、八月一日にまた泊まる。それを、何年も繰り返してきていた。
それが当たり前だと思っていた。
思っていたのに――……。
ほこりが日の光を浴びてキラキラとうつくしく輝くように。普段は目にもとまらない当たり前が、素敵なものに見えたとき、人はどうやら形のない衝動に背中を蹴り飛ばされるらしい。
「ワカっ!」
「ん?」
大きな声で名前を呼べば、穏やかな表情がこちらを向く。手にはおにぎりが納まっていて、オレのために作っているんだとすぐに気がついた。
それにお礼をいうよりも早く、オレの口からついて出た言葉は、とくべつな響きを帯びていた。
「結婚しよう」
「えっ……?」
突然のそれに、ワカは目を大きく見開いた。
びくりしてる? オレも、びっくりしているよ。このまま、昨日みたいな明日が続けば良いと思ってきた。そもそも、形に囚われるような二人じゃなしい、それはただの口約束となにも変わらない。
だから、いいじゃん。いつもみたいに、好きだと思ったときに好きと言って。
幸せを分かち合いたいときに身体を抱き寄せて。
寂しいときに唇を塞いで。
そういう当たり前を繰り返したら良い、と思い続けていたオレは、いつのまにかすごく欲張りになっていたみたい。
両手では数え切れないほどの思い出と、誰にも知られていない初めてを見つけて、最期まで独り占めにしたい。
幸せも、恋も、愛も全部、ワカと二人で半分こにしたい。
「オレ、もう、ワカがいないと生きていけねえワ」
「……そんなの、オレだってそうだけど」
「だからさ、結婚しよう。世界中に、ワカがオレの最愛だって、言わせてよ」
一歩ずつ近づけば、ワカの両目からぽろぽろと雫が転がり落ちていくのが見えた。悲しさで溢れたものではないと知っているから、ためらわずにその身体を抱きしめた。
「なん、で、人が飯握ってる時に言うんだよ……これじゃ、抱きかえせねーじゃん……バカ……」
「ごめん、でも、今言いたくなって」
行き場の無い両手を宙に浮かばせているのだろう。背中でどんな葛藤が現れているのかは分からないけど、今腕の中にあるのが世界で一番、愛しくてたまらない人だとは分かる。
二十センチと少し、頭一つ分くらい低い場所にある若狭のつむじにキスをした。
ぐりぐりと胸板の中心に擦りつけられている額は、きっと赤くなっていそうだ。
「しん、」
「ん? なあに?」
弱々しく名前を呼ばれて、名残惜しくも半歩分後ろに下がる。ワカの顔を覗き込むと――……。
口にいきなりおにぎりが押しつけられる。
「ん、ぐ」
「……それ、食べてからもう一回言って」
「んんッ」
離れていくワカの姿はよく見えなかった。ただ、服についた涙の染みが冷えていくついでに、どれほど泣いたのかを間接的に伝えられる。
一人で泣かせるのは、今日が最後だ。
もうどんなことが起きても、二人を別つものはなにもない。
オレが弱っているときは、ワカに支えて貰う。ワカが辛いときは、オレが支える。
言葉にするよりもずっと前から、オレたちはそうだったけど。これからは、笑って眠りにつくその日まで、それをありふれた当然のひとつに変えていきたい。
「ワカ――」
「真ちゃん」
「オレと、結婚してください」
ワカが作ってくれたおにぎりを飲みこんでから、もういちど。
少し間抜けかもしれないシチュエーションで、大きな愛を叫んで。
「は、い」
小さな身体を強くつよく、抱きしめた。