ドラマティックな恋じゃない 恋とは、きらきらと輝いて、そっと触れなければ壊れてしまうほど、うつくしくて尊い思い。――なんて、そんな言葉とは到底無縁だった。
自分自身でも抑えきれなくて、おぞましい色で蠢いて、直視することが嫌になる。そのくせ手放そうと思えば思うほど、強くて太い根が張って心から離れない。ほんとうに、簡単に捨て去ることができればどれほど楽になるのだろうか。
もう、十二年。
まだ十代の青臭さが残る少年が見つけた宝物は、今となっては手に負えない呪物になっていた。
「あー……」
ぼんやりと眺めた夜空は相変わらずで、東京のあちこちにそびえ立つビルで切り取られている。
決して綺麗なものではないのに、見慣れているからこそ落ち着けるのか、気がつくといつからか夜空を見上げるクセがついたらしい。仕事終わりに店の裏で煙草を吸いながら、ゆっくりこの十二年間抱えた片思いに別れを告げた。
きっと、いますぐに、というのは無理だろう。
そんなことが出来ているなら、とっくにやっている。ただ、いよいよ来月には三十歳になる。もう、いいだろう。十二年もたったひとりに恋い焦がれ、愛し続けた。それは、誇って良いことだ。
ただ、相手が同性で、かつての仲間で、いまの友人――今牛若狭でなければ。オレはきっと声を大にして、胸を張っていた。
明日から婚活を始めよう。もう、ワカの代わりに誰かを抱くのもやめて、これから先の数十年を一緒に生きても良い人を探そう。ちょうど三十歳の節目ということもあり、ようやくその最終手段に目を向けたのだ。
じりじりとフィルター間近まで燃えた煙草を灰皿に投げ捨てる。ちゃぷんと水の中に落ちた吸い殻から、ジュ、と恋が終わる音がした。
この決意が鈍ってしまう前に、宣言してしまおう。そうだ、それがいい。善は急げと作業着のポケットから携帯を取り出して、武臣を呼び出した。やや間が空いて返ってきたメールには、歌舞伎町の居酒屋が指定された。
店の締め作業を急いで終わらせて向かえば、すでに武臣は先に始めていたようだ。
「オウ、おつかれ」
「おつかれ。悪いな、急に呼び出して」
「いや、いいよ」
ビールとお通しの枝豆しかテーブルに無いのを見る限り、武臣もまだついたばかりだろう。おしぼりを持ってきた店員に「ビールひとつ、あと、だし巻きたまご」とオーダーをして席に座った。
早く切り出さないと、すぐに揺らいでしまう危うさがあると知っているのに、なかなか本題を口にできなかった。ビールとつまみばかりが進み、気がつくとおかわりも三杯目。
「――で、こんどはどうした? どうせワカ絡みなんだろ」
「う……ん」
足かけ十二年の片思いに唯一気がついたのは、やはりというべきか人の機微に聡い武臣だ。今日もその勘の良さが発揮されていているようで、感服する。
今言わないでどうするんだ。さっさと武臣に言って、「おう、そうか、それがいい」と背中を押して貰え真一郎。そうでなければ、オマエはこれから先もずっと、ワカのことを思ってひとり生きて行くことになるんだぞ。意を決して口を開いた。
ワカを諦める。
婚活をする。
こんどこそ、本気だ。
全部言い切るまで武臣は相槌ひとつ打たなかったくせに、言い終えた途端にコイツは思いもしていなかった返事を寄越した。
「ワカを諦めるぅ? 婚活するぅ? どうせ無理だからやめとけ、やめとけ」
「は、はあ?」
安酒を煽りながら武臣は呆れかえった顔で手を振った。嘘だろ。コイツはこれまで散々「オマエも難儀な恋をしてんな」ってげらげら笑っていたくせに。いざ、片思いを止める決心がついて報告したっていうのに、それを無理と一蹴するなんて。
オレの片思いに気がついた最初で最後のひとだからと、自動的に恋愛相談の相手に格上げされた幼馴染みは、渋い表情のまま煙草に手を伸ばしている。普段と少しも変わらない様子に、いっそ腹が立ってくる。
こっちは、悩みに悩んでようやくその覚悟がついたのに。だからわざわざ呼び出して宣言したのに。
「無理って言うなよ、オレの一世一代の決心だぞ」
「無理なもんは無理。余計なことすんな」
咥え煙草のせいでもごもごする口調でもはっきり断言された。むかついて中途半端に残ったビールを煽り、店員にもう一杯注文した。
普段なら「オマエはどうする?」って聞いてやるけど無視をした。ちらりと見た武臣のジョッキも空いていたけど、追加しなということはコイツのなかでお開きが近いということだ。どうせまた、どこぞのキャバ嬢に入れ込んでて、この場をさっと切り上げて向かうのだろう。
安酒嫌いの武臣が場所を歌舞伎町近くの居酒屋にする日は、だいたいそういうルーティーンだ。
「……わかんねえじゃん。オレにも可愛い嫁さんが出来たら、変わるかもしんないし」
「分かるよ。オレはオマエよりオマエのことがよぉく分かる」
「っ、んだよそれ」
さっきまでの呆れた視線は、急激に力強いものに変わった。確信があると言わんばかりの言葉に怯んでしまって、一瞬だけ身体に力が入る。ここまで断言するからには、何か証拠がるのだろうか。
もしかしたらそれが分かれば、オレも本当にワカのことを忘れることが出来るかもしれない。
縋るような思いで武臣に続きを求めれば、またしても呆れた表情に戻った。
「だいたいそんなことが出来ているなら、もっと早くやってんだろ。オマエは叶わないって思いながらどっかで、ワカとなら……って期待してる」
「そ、れは」
「その期待がある限り、オマエは絶対にワカのことを諦めたり、踏ん切りついたりしねぇ」
「片思いしてたら、それくらい普通じゃん」
「それが十二年続いてんだから、フツーの片思いじゃねえってことだよ。オマエはオマエが思っているよりずっと、アイツのことが好きで特別でどうしようもねえの」
煙と一緒に吐き出された言葉に、どんな感情が込められているのかは読み取れなかった。ただ、まるで諭すかのような柔らかい語尾は、心の隅々まで染み渡っていく。
好きで特別で、どうしようもない。
そんなことはとっくに分かっているつもりだったけど、初めて他人に指摘されるのは初めてだ。武臣から見てもそうなら、きっと、自分が思っているよりもずっとこの感情は大きく膨れ上がっているのかも知れない。
「……じゃあ、どうしろってんだよ」
「どうせ手放すんだったら、最後に一回くらいは当たって砕けてみろよ」
「はあ? やだよ! これでダチでも居られなくなったら、マジで立ち直れねえもん」
「オマエは昔っから、大事なことほどひとりで結論出して突っ走るだろうが。一回くらいはオレの言うことを聞いてみろ! じゃあ、オレはマリンちゃんに呼ばれてるからもう行くワ」
最後にそう言ったあと、テーブルに金を置いていって武臣は店を出て行った。
当たって砕けろ、とはずいぶん簡単に言ってくれる。せっかく、ワカにとっても唯一無二の友人と言っていいほどのポジションを得られたというのに。みすみすと手放すような真似は出来ない。
ひとり残されてから届いたビールをちびりと飲んで、重いため息を吐き出した。歌舞伎町の居酒屋で出されるビールはやっぱり美味しくない。
舌に残る苦さに顔を顰めながら、一気に煽って店を出た。
この街の夜はまだまだこれからだ。外は人でごった返していて、まっすぐ歩くことさえ難しい。すれ違う人もアルコールの気配を纏っていて、早く切り抜けたくていつの間にか足早になっていた。大通りまで抜けても人波は途絶えず、ただ立っているだけでも体力がそがれていく。
もはや電車に乗る気力もなく、誘惑に負けて目の前に停まったタクシーに乗り込んだ。ドアを閉めると雑踏と喧噪から逃れられて、息をついた。