夜明けの声 暑苦しくて鬱陶しい男だ。
勝てないくせに何度も喧嘩を売って来て、そのくせ負けたとも思わせない。
地面に伸びて空を見上げるその目が、決して折れない信念を携えていた。だから、その視線の先が何を見据えているのか、少しだけ気になってしまった。
気が付けば心を掴まれて、後戻りできない。隣に立ってみたくって、いつの間にか気を許している。だというのに、肌をひりつかせる殺意のようなものを、身にまとっている。
迂闊に触れてはならないと本能が警鐘を鳴らしていたのに――……。
その警鐘を無視して、手を伸ばしたのは結局オレだった。
「……アレ、どうすんの?」
「どうもこうもねぇだろ」
膠着する螺愚那六との抗争に、予期せぬ形で邪魔が入った。
そもそも関東を二分するオレたちの間に割って入ってくるやつなんて、よっぽどの手練れか命知らずの二択。佐野真一郎は、たぶん後者だ。
「放っておけ、つったって聞かねえだろ」
「聞かねえだろうな」
秋めいた晩夏に、いつも通りの抗争を始めたはずなのに、アイツが見物客よろしくやってきたあの日からがらりと変わった。
あれだけ対立していた荒師と、喧嘩終わりに肩を並べてため息をついてしまうほどだ。それが何回も繰り返されれば、自然と戦意は低下していく。なんだったら、チームのメンバー同士雑談まで始める始末だ。
あれだけ緊迫した空気でいがみ合っていたのが、嘘のようだ。もはやこの抗争にどんな意味があるのだろう。
そして、たった一人混ざっただけで、これだけの人の心が揺さぶられるのか。
ただ、決着をつけないことには、示しがつかない。オレたちはなにも、仲良くなろうとして向き合っていたわけじゃない。
どちらが関東を獲るか。それにすべてを賭けて、オレは十二のチームを束ねて、こいつとやりあってきた。
「……なんか、やる気失せたワ」
「そうだな」
今も白と赤の特攻服を着た男たちの間に立って、誰にも分け隔て無く声を掛けては話し込み、そして笑いに包まれている。
その真ん中に立つ男をじっと見ていると、自然と零れた独り言に荒師も応えた。
そうだよな。オレたちが血を流しながらぶん殴り合っていたのが、馬鹿みてぇじゃん。
「今後、どうするつもりだ?」
「あー? わかんねえ」
「奇遇だな。オレにもさっぱりだ。……ただ」
荒師の視線がふいに、集団のほうに向けられた。
緩やかに揺らいだ空気から、緊張感が抜けていく。
「ただ、アイツとは話してみてえんだよな」
何を思って、こんな厄介ないがみ合いの最中に飛び込んできたのか。
オレらを恐れず、時折殴られてもめげずに立ち上がり、何度でもオレらに会いに来た。その男の正体を、その先に見据える未来を。たしかに、オレも知りたい。
「腹立つけど、いちどアイツ交えて話さないか?」
「……そーだね」
すぐに無条件で手打ちをするのは、お互いの矜持を無視することになる。
そんなことでは、信じて付いてきてくれた人たちにも顔を向けられない。だけど、今更出会ったばかりの殺意を向け合うのも、興が乗らない。だから、荒師の提案に乗ることにした。
「佐野真一郎!」
「うおっ……! え、オレ?」
立ち上がって、腹の底から声を張り上げた。こんなに大きな声で、誰かの名前を呼ぶのはいつぶりだろうか。
遠目からでも分かりやすく肩を跳ねさせた男に、誰かが「オマエ以外にいるかよ」と声を掛けていた。
おそるおそるこちらに向かってくる顔には、僅かな不安が滲んでいる。
「えーっと、呼んだ?」
「アレで呼ばれてないわけねぇだろ」
半ば呆れた声で荒師が笑えば、それもそうかと佐野が頭を掻いた。
緊張感のない様子に釣られないように、正面からぎろりと睨み付けた。視線に気付いて、背筋を伸ばす姿を認めてから口を開く。
「……ツラ貸せ」
「えっ?」
「てめえが、何を思ってオレらに突っかかってきてんのか、一度腹ぁ割って話そうぜ。兄弟」
兄弟、と親しみを込めて呼んだくせに、固い声の荒師は流石の迫力だろう。
並の人ならば、これに睨まれてしまえば腰を抜かしてもおかしくない。だというのに、毅然としたまま佐野は笑った。
「おう! いいぜ!」
何もかもが想定外だ。
こんな状況で笑っていられる、その眩しさに目を眇めた。
そうやって急遽決めた話し合いの場は、後日設けられることになった。
「てめえら、今日はしまいだ。帰るぞ」
ザリに跨がって、群れの先頭を走る。夜明けが近い東京は、薄い灰色に青が混ざっていた。
秋めいたある日。
あの夜決めた〝話し合い〟の場がやってきた。
先についていた荒師と、佐野、それともう一人。初めて見る顔に、眉を顰めた。
「誰だテメエ」
「あ、オレの幼馴染みで――……」
「幼馴染みぃ? テメエは今更一人なのにびびったのか」
「いやいや、そうじゃなくて」
佐野の幼馴染みという男は、だから言ったろ、と零しながらため息をついている。
こいつも佐野に振り回されている男のひとりかもしれない。正体の分からないそいつに、勝手に同情した。
「で、名前は?」
「……明石武臣。まぁ、コイツの付き添いってだけで別に話をややこしくしようとは思ってねえよ」
「余計な事で場をかき乱したら伸すからな」
「怖ぇ嬢ちゃんだなァ」
「あ゙?」
乗せられて手を出すのは簡単でも、それで話し合いが不利に進むのは避けたい。舌を打って睨み付ければ、そいつは間合いから離れていく。
どうやら、喧嘩にはそれなりに慣れているらしい。
「まぁ、揃ったから。話を聞かせて貰おうか」
「え?」
「オマエが何を思って、煌道連合と螺愚那六の抗争に首突っ込んで来てるのか。まさか、考えなしとは言わねえだろうな」
狭い海に背を向けて、手すりに座って三人をじっと睨み付けた。
指名された佐野は少しだけ据わりが悪そうにしている。
あー、とか、うーん、とか。意味の無い音を並べてから、決心したのだろう。
一気に空気が変わる。
関東を代表する二つの暴走族に挟まれて、脳天気なツラばかりさらしていた人とは思えない。
つられるように固唾を飲んで、そいつが語る夢物語に耳を傾けた。
「オレの地元……、渋谷のほうにはさ。大小いろんなチームや、チームとも言えない不良の連中があちこちに居るんだけど、そいつらは手に負えない爪弾きモンになっちまっててさ」
たとえオレと荒師が関東を代表するような抗争を繰り返していても、オレらがすべてのチームを抱えて居るわけじゃない。
中にはオレたちを不満に思うやつらだっているし、オレらから願い下げにするようなやつらもいる。純粋に、喧嘩を楽しみたいだけのオレらのほうが異質とも言うべきなのだ。
「で、関東のトップが決まったら、ちったぁ時代が変わるだろ? だからどっちに決まるのかを見届けたかっただけなんだけど……。邪魔したんだったら、悪ぃ。でも、楽しそうに喧嘩するあんたらを見てんの、最高だったぜ」
隠していた宝物が見つかった子供のような、そんなばつの悪さを少しだけ滲ませた笑い。
それが零れた瞬間に、また信じられないくらい、空気が緩んだ。
この人の気分次第でいくらでもその場の雰囲気が変わる。これまで、いろんな人を見てきたけど、ここまでの人は初めてだ。それが面白くて、いつのまにか引き締めていたはずの口角が緩んでいく。
「オレはいつか、不良がカッケエもんだって胸張って言いたいんだ。弟がいるんだけどさ、そいつがまあヤンチャで。アイツがオレらくらいになったときに、こんなキラキラしたもんがあるんだって繋いでいきたい」
佐野の語る夢物語は、まるで世間知らずの子供のようだ。それなのにどうしてか、コイツならそれをやってのける。そういう確信が、心の奥底に芽生えていた。
「……分かった」
「え?」
先に口を開いたのはオレだけど、ちらりと投げられた荒師の視線にも同じ色が滲んでいる。
「オレらの抗争は、佐野真一郎。テメエが手打ちにしろ」
「気性が荒いやつだ。ついてこないモンとはいつか対面することにもなるだろうよ。それでも、テメエにその覚悟があるなら、テメエの夢とやらに乗ってみようじゃねえか」
示し合わせたわけじゃない。
それなのに、幕を引くのならこの男以外には託せないと、あれだけ対立していた荒師と初めて気が合った。
オレらの言葉に目をぱちぱちと瞬かせた佐野は、逡巡の末に顔を引き締めて頷く。
こうして一年近く続いた螺愚那六との抗争は、突然乱入してきた男によって、幕を下ろした。
予想外なことに、それに異を唱えるものはほとんど出なかった。たぶん、オレと同じように、いつの間にかコイツに心を奪われていたのだろう。
「佐野ォ、ちっとツラ貸せよ」
「っ……! ええ……?」
手打ち宣言をしたあと、緊張感から解放されてだらしなく緩んだ背中を、力いっぱい叩きつけた。
小気味いいというには少し低く沈んだ音に、周囲から視線が突き刺さる。そんなものは無視をして、ザリの方に向かえば、佐野は正しく意図をくみ取ってくれたらしい。
「どこ走る?」
「ん-、適当に」
周囲に響く豪快な排気音に任せて走りだせば、すぐ後ろからバブが付いてくる。腹がたつほど上手なコールに背を押され、高速で車の隙間を縫って進む。
すぐに真後ろにぴったりとつけられては、引き離したくて加速した。その繰り返しにしびれを切らして、一気に進んでいこうとしたけど。ノーマークの方向からCB250Tに抜かされて、その景色に目を瞠った。
道路すれすれまで傾けた車体も、風になびく黒髪も、あっという間に引き離されてしまったランプの曲線も。
ずっと、探していたような気がした。
ついていきたいと思わせる背中と、届きそうで届かない距離に、心が一気に駆け出した。
「……速いね」
「お前も速いじゃん。久々に本気出した気がする!」
先に高速を降り、適当な埠頭にバイクを停めて空を眺めていた。
振り返りざまに見せた佐野の笑顔は、先ほどとはうってかわって、ただの好青年そのものだ。
コイツはきっと、あの場であれだけの男を束ねたことがどれくらいすごいことか、ちっとも理解していない。それに少しだけ腹が立って、かっこつけて柵にもたれる背中にもう一度強く手のひらをお見舞いしてやった。
痛い、と悶絶するその横で、どこからともなく湧いてきた五つの音を舌にのせた。
「真ちゃん、あんたが見たい天下とやらに、連れてってくれよ」
「……っ、おう! ワカが居くれたら、百人力だな!」
誰にも許していなかった愛称でさえ、こいつは難なく飛び越えて口にする。
気が付けば心を掴まれて、後戻りできない。隣に立ってみたくって、いつの間にか気を許していた。真ちゃんは、そういう、不思議な男なのだ。