sweet devil 年に2回、魔物の行動が活発になる時期にあわせて行わる討伐隊の派遣の指揮を取る為にサニーは城を離れていた。討伐隊といってもそうそう脅威となる魔物に遭遇することはなく、ほぼほぼ部下に任せて終わるこの仕事は酷く退屈だ。そして、特定の討伐対象がいる訳ではないこの遠征任務はたっぷり一月をかけて各地を回ることになる。まだまだ出立したばかりだというのに、既に気が遠くなる思いでいるサニーにとってはなかなかの苦行であった。
とはいえ任務を疎かにする訳にもいかない。いくら気が乗らなくともそれが仕事。そんな調子で魔物退治に精を出す部下達を遠目にみながら溜息を吐いていると、頭上から微かに笑うような気配が。気付かれないように様子を伺えば、凭れ掛かった木の枝にどうやら猫がいたようだ。
だが、それはただの獣ではない。微弱だが魔力が感じられ、何より聞こえてきたのは獣の鳴き声ではなく楽し気な笑い声であった。
どうやらそいつが見ているのはサニーと同じく魔物退治の様子らしいが、こんなに近くにまでやってくるとはなんとも不用心な。
(…丁度いい、少し遊んでやるか)
呑気なものだと呆れていたのも一瞬のこと。サニーは寄りかかっていた木から体を離したかと思うと、勢いよくその幹を蹴りつける。さすがにそれだけで折れはしないものの、重い襲撃に枝葉は大きく揺れ、そうなれば当然そこにいた小さな獣などひとたまりもない。
『ゃっ!?』
宙に放り出され、重力に従って落ちてきたところをキャッチすると、サニーはそれの首根っこを掴んで眼前にまで持ち上げた。
『こんっなに可愛い猫になんてことするのさ!』
「残念だったな、俺は犬派だ」
威嚇交じりの文句を切って捨てると、不満そうにオッドアイの瞳が細められる。実際、艶のある毛並みや種類の異なる宝石のようにも見える瞳はさぞ魅力的に映るのだろうが、口にした通りサニーが好むのは猫ではなく犬であるからそんなことは関係ない。
「それで、奴らの加勢にでも来たつもりか?」
そして戯言はここまでと問うと、猫は首根っこを摑まれたままだというのに愉快そうに答えた。
『まっさか~、僕には関係ないもんね!ちょっと暇してたから見に来ただけだよ』
にゃははと笑う姿に誤魔化しているような素振りはなく、人語を解すという一点を除けば愛玩動物にしか見えない。だが、魔物の類であることは間違いないだろう。このまま捕らえてしまってもいいがと思案していると、猫はどうやったのかいつの間にかサニーの手から逃れてしゅたりと地面に降り立った。
『おにーさんも暇そうだし気が向いたらまた遊びにきてあげるよ、じゃあね!』
そう言い残すと猫は姿を消してしまう。微弱にしか感じられなかった魔力の割には侮れない。本来ならそんな得体の知れない存在は警戒すべき対象なのだろうが湧きあがってくるのはそれとは全く異なる感情。今回の仕事は退屈せずに済みそうだと、サニーの唇は自然と弧を描いていた。
そんな不思議な猫との出会いから二週間、気が向いたらと言った割りに小さな獣は頻繁にサニーの前に姿を現した。いや、姿を見せるというより最初に口にした通り遊びに来ていると言ってもいい。そして簡単に捕まる。首根っこを掴まれるのは当たり前、抱えあげても抵抗はなく、そのまま用意したケージに入れてみたこともあったがきょとんとするだけで暴れる素振りもなし。強いて言うなら狭いと不満げに訴えられたくらいか。そのうえ、しっかりと腕の中に閉じ込めていようと、ケージに鍵をかけていようと、帰る時にはいつの間にかそこから抜け出されてしまうのだ。サニーとて本気で捕らえられるとは思っていないが、こうも簡単に毎度毎度逃げられてしまうとなんとか出来ないものかと考えたりもする。その程度には関心を向けるような存在になっていた。
賢い猫は決まってサニーがひとりでいるときに遊びに来る。いくらなんでも魔物の討伐をして回っている最中にヒトの言葉を話す猫と交流しているなんて吹聴されるのはさすがによろしくない。だから、話している内容が聞こえる距離感に第三者がいない時にだけ現れるのだ。そこも好感がもてる点ではあった。無論、だからといって心を許しているなんてことはない。それはお互いに。猫は他愛のないことをよく喋っていったが、己のしっぽを掴ませるような真似はしなかった。気安く、ほどほどに迂闊な面を見せるくせに肝心なところで隙はない。そこがまた興味深いのだけれど。
今日の訪問は移動の合間の食事時。用意されたサンドイッチと焼き菓子に手をつけようとしていたところで、猫はまるで見計らったかのようにひょこりと顔を出した。
『僕にもそれちょーだい』
あっ、と小さな口が開かれ、そのサイズに見合った牙がちらりと覗く。サンドイッチは野菜がたっぷりのものであるから、ここで求められているのは確実に焼き菓子の方。わざとサンドイッチを詰め込んでやっても良かったのだが、具沢山のため小さくちぎるのはなかなか困難であったから素直に焼き菓子を半分に割って口元にまで運んでやる。動物に菓子類を与えてもいいのかと始めこそ躊躇したが、姿形がそうなだけで問題ないと当人に言われてしまえばそれもそうかと納得できた。
かぷりと食いつき、もごもごと頬を膨らませる姿が可愛らしく思えるようになったのは何時の頃からだろう。餌付けするつもりはなかったが、思い付きで分け与えるようになった食事を存外気に入っていることは聞かずとも分かる。しかし、これはあまりにも不用心ではないか。そんな思いが視線に表れれば気付かれないはずもない。
『…?なぁに、その目』
「いや、何か盛られてたらどうするつもりなのかと思っただけだ」
心配してやってるつもりなどサニーにはないが、多少なりとも交流を持った相手が目の前で倒れるのはさすがに寝覚めが悪かった。だからこその発言な訳だが、返ってきたのは驚きでも怯えでもない全く別の反応。
『そんなの効くわけないじゃん』
鼻で笑ってからの当たり前だと言わんばかりの声は生意気の一言。人知を超えた存在が相手であればそうなのかもしれないが、それはそれとして可愛げのない態度は癪に障る。だからか少しばかり困らせてやりたくなった。
サニーが目を据わらせ、黙ったままで指を喉元に伸ばすと猫は途端に慌て始める。
『あ、ちょ…うにゃ…そこ触るのダメだってば!』
先ほどまでの態度はどこへやら。うにゃうにゃ言いながら喉を鳴らす姿を見ているのは気分がいい。以前にやり過ぎて爪を立てられたこともあるが、それでもこればかりはなかなか止められないとサニーは制止の声など聞こえぬ素振りで口角を緩く吊り上げた。
頻繁にやってくる猫ではあったが、毎日姿を見せていた訳ではない。そして、約束のない訪問であるからそれを責めることも出来ないはずだが、サニーにとってそれは面白くないことでもある。
「昨日は忙しかったのか?」
だからか、翌日姿を見せた際につい問いかけてしまった。
『え、だって雨で濡れるのやだし』
しかし、あっけらかんとした様子で口にされた答えは予想外のもの。まあそういう理由もあるだろう。分からなくもない。分からなくもないが、
「………」
『何その目、こっわ』
可愛げの欠片もない素の反応に、更に視線の温度が下がったのは言うまでもなかった。
そしてまたある日のこと、すっかり慣れた様子で左肩にぶら下がっている猫へとサニーは何の気なしに問いかけた。
「お前、普段は何をしてるんだ。昼寝か?」
その問いに特別な意味はなく、ましてやからかっている訳でもない。実際、猫は喋ること以外は至って普通の猫らしい行動ばかりをしていたからこそ出てきた言葉でもある。だが、それがお気に召さなかったのかじっとりとした視線で不満を訴える声があがった。
『そんな訳ないでしょ!これでも忙しい身なんですぅ』
暇を持て余しているとまでは思わないが、忙しそうにしているかというと疑問は残る。とはいえ、サニーの知る姿というのはあくまでもふらりとやってくる限られた時間だけのこと。もしかすると忙しい時間の合間を縫ってということもあるのかもしれない。そう思いはしても、あからさまに拗ねているのだと主張するような口振りでの主張はいつもの戯れのようにも思え、ついつい返す言葉にも訝し気な様子が色濃く出てしまう。
「忙しいねぇ」
けれどもその口振りに噛みつかれることはなく、それどころかどこか得意げな声で初めて耳にする情報をあっさりと言ってのけられてしまった。
『ふふん、僕みたいな身分ある方に仕える有能な悪魔は色々と気苦労も絶えなくってさ!』
それなりに力のある悪魔なのだろうということは察していたが、自らそこまで明かしてしまっていいものか。明確な敵対関係ではないとはいえ、どんな情報が利用されるかも分からない。
「……そういうのは言わない方がいいんじゃないのか」
ここにきてのその迂闊さにサニーがつい硬い声で釘を刺すと、猫は驚いたように両耳を立てたがすぐにゆらりと長い尻尾を左右に揺らして小さな頬を摺り寄せてきた。
『うん、だからふたりだけのヒミツ、ね?』
そんなこと言われずとも、口外するつもりなど端からない。けれどもそれを口にすることも何故だか憚られて、黙って喉元をくすぐると小さく喉を鳴らす音だけが返ってくる。なんだその反応は。まるでただの愛玩動物じゃないか。そう思ってはみても内からこみ上げる感情は随分と生温いもので、妙に素直な様子の猫を文字通り可愛がるだけで残りの時間は過ぎていった。
猫の口から己の正体に関する言葉が出てきて以降、サニーもふとした折りに些細な疑問を口にするようになっていた。それは思い付きのようなものであったから答えが返ってこずとも構わなかったが、猫は当たり障りのない範囲ではあるもののそれらに躊躇なく答えていく。ただその日の問いは、少しばかり突っ込んだ内容のものだったかもしれない。
「悪魔だっていうなら、お前も人の魂を喰らうのか?」
特にどちらの答えを欲していたということもない。喰らっていたからどうということではなく、ただふっと悪魔ならばと湧いた疑問。対して猫の口から出てきたのはなんとも”らしい”答えだった。
『んー…魂もだし、死体だって食べれるよ。でも、ばっちぃのとかマズイのは嫌だから僕はニンゲンのごはんの方が好きかな』
実際、猫は野菜こそ嫌がるもののサニーが何か食べていると大抵分けてもらいたがったし、それを気に入るともう一口と言わんばかりに小さな口を開けて追加をねだってきたりすることも珍しくはない。魂や死体に味があるとは思わなかったが、そんなものを食しているよりは小さな口で菓子に噛り付いて尻尾を揺らしている方が似合うと思ってしまうのはやはりその姿を見慣れてしまったからだろう。
『あ、でも…』
しかし、猫はそこで何かに気付いたように言葉を途切れさせたかと思うと、すんすんと鼻先をサニーの首筋へと寄せてきた。触れるか触れないかの位置にある気配はくすぐったさとも違う不思議な感覚をサニーに与えどうにも落ち着かない気分にさせられる。
『サニーの魂はイイ匂いがするし美味しそうだね』
そして猫がそう口にしたかと思うと、サニーの首筋を僅かにざらついた感触が撫で上げた。
「っ…おい」
”誰”が”何”をしたかは明白。すぐさま首根っこを掴んで引き剥がすと、初めて会った時のようにぶらんと垂れ下がった状態で悪びれもなく猫は笑っている。
『だっはは!ちょびっと味見しただけじゃん、そんな怖い顔しないでよ~』
ちょっとした悪ふざけだと言わんばかりの口振り。しかし、それを聞いてなおサニーの視線は険しいまま、開いた口の隙間から覗くピンク色の小さな舌にしばらく釘付けになっていた。
長く退屈なものだったはずの遠征も、猫がやってくるようになってからはあっという間に過ぎていく。それはこの束の間の戯れが終わりに近付いているということを意味していた。分かっていながらもあえて口にしなかった話題。それを、猫はもうそろそろ帰っていくだろうという頃合いにあっさりと口にした。
『もうお城が近いね、サニーと遊ぶの楽しかったよ』
今日で最後にする気か。その言葉にサニーは僅かに眉を顰め、硬い声で言葉を返す。
「…別に、城にだって来たらいいだろ」
すると猫は両耳をピンと立てたが、すぐに困ったような口振りで話し始める。
『分かってるくせに、悪魔と会ってるなんて色々とまずいでしょ?それとも、僕と離れるのが惜しくなっちゃったとか?』
動物の表情の変化などサニーには分からないが、それでも声音からどんな感情がそこに込められているかくらいは察しがついた。猫はイタズラ好きで、甘えたような仕草を幾度も見せてはきたがそれらはあくまでも装っているだけに過ぎない。揶揄い交じりの言葉であったとしても、しっかりと線引きをして諭してくる。だが、サニーとてそれくらいは理解はしているのだ。ただ、理解はしたうえで納得するつもりがなかっただけで。
「そうだと言ったら」
答えを口にした途端に、戸惑いが手に取るように伝わってくる。それでもサニーに引くつもりはない。困惑を色濃くしたオッドアイを黙って見つめていると、数秒の後にふいと視線が逸らされた。随分と珍しい反応をする。そんなことを思いながら目を見張っていると、続いてぼそりと拗ねたような響きの言葉が零された。
『……犬派だって言ったくせに』
ああこれは、最初の時のことを言っているのか。それに気付いたサニーの口角がゆるゆると上向いていく。なかなか心の内を見せない相手から感情が引き出せるのは気分がいい。
「オッドアイの猫は好きになったんだ」
限定的な物言いに、誰のことを言っているのか隠す気などさらさらなかった。そこまでいくと猫も仕方ないなと呆れ気味に返してくる。
『もう、調子いいんだから』
けれども、最後であることは覆せないようでそれきり言葉を途切れさせると、今度は真っすぐに見つめてから猫はそろりと前足をサニーの頬へと伸ばしてきた。やわらかな肉球がふにと肌に添えられる。
『じゃあ、サニーが僕に会いたくてたまらなくなったら遊びに行ってあげる』
そんなもの、明日からだって、今日にだって当てはまるじゃないかと言い出しそうな口をサニーはぐっと噤んだ。猫がどういうつもりでこんなことを言い出したのかは分からないが、それでも何か考えがあってのことなのだろう。ここで子供じみた駄々をこねても仕方がない。そんなサニーの様子に誰かが笑ったような気配がしたかと思うと、猫は身を乗り出してその小さな口をちょんと目の前の唇に触れさせた。
これくらい、口付けのうちにも入らない。そう思ってはみても不意打ちだったからという理由だけではない動揺は大きく、サニーは咄嗟に言葉も出ない。
『だから、またね』
そんなことだから、するりと手から抜け出した猫に反応できず、最初の時のようにあっさりと姿を消されてしまった。後に残ったのは、かき乱された心を抑え込むように口元を手で隠す男がひとり。
「っ…あいつ……、名前くらい教えてけよな」
そう悪態を吐いてみても、小憎たらしい笑い声が返ってくることはなかった。
「今回も遠征ご苦労様、特に問題はなかったようだね」
帰城したサニーを出迎えたのは、食えない笑みを浮かべた宰相の男だった。基本的に城を離れることのない男と顔を合わせたことで改めて帰ってきたのだと実感する。そう、帰ってきてしまった。出立したばかりの時は長く退屈だと思っていた外での任務も、あの猫と出会ってからは時間が経つのもあっという間で…
「ああ、恙無くな」
胸にぽかりと穴が空いてしまったような感覚を誤魔化すように答えると、男はまじまじとサニーの顔を覗き込んだ。何かを見透かすような視線はあまり居心地の良いものではない。ただでさえ今はあまり人と話す気分ではないのだ。適当に切り上げて自室に引き上げてしまおう。そう考えていたというのに、続けて聞こえてきた言葉につい反応してしまった。
「おやおや…、珍しいこともあるものだ、君がマーキングされてるなんて」
「マーキング?」
訝しげに聞き返したサニーに対し、男はにっこりと笑みを深めてみせる。その様子に何を言いだすつもりだと身構えたのも一瞬のこと。耳に届いたのは思いもしない内容だった。
「ああ、左程悪いものではないよ。この人は私のお気に入りですって印みたいなものさ。一定の魔力があると分かるくらいで、」
そこから先の内容は全く頭に入ってこない。”誰”がそれをしたかなんて分かりきっていて、そのうえでお気に入りだなんて聞いてしまえば本人の口からでなくとも心は揺さぶられる。あんな別れ方をしておいて、あの猫は本当にとんでもないことをしてくれた。これが意図したものであればとんでもない策士であるし、そうでなくとも性質が悪い。
すっかり黙り込んでしまったサニーに気付くと、饒舌に話していた男もぴたりと声を途切れさせ、それから浮かべていた笑みを柔らかなものに変化させる。
「その様子だと心当たりはあるみたいだね」
問いかける気のない、断定した物言いに返せる答えをサニーは持っていなかった。あの猫の存在は自分の胸の内にだけ秘めておきたい。そういった想いも勿論あるが、迂闊なことを口にしては先の可能性を自ら潰すことになる。だからこそ、はぐらかすかのようにさあなとだけ口にしてそれでこの会話は終い。男も特に追及するつもりはなかったようで、今日のところは身体を休めておくようにと言い残して立ち去る。その姿が完全に見えなくなったのを確認してからサニーは大きな溜め息を吐くのだった。
遠征任務の終了からかれこれ一月、城に戻ってきてからというものサニーは慌ただしい日々を過ごしていた。否、そういう状況を自ら作っていたというのが正しいだろう。日常のふとした瞬間にどうしたってあの猫の姿を探してしまうものだから、そうでもしないとやっていられないというのが正直なところ。軍議に訓練に会合にと、入れられるだけの仕事を詰め込んで時間を消費させていく。近頃では居場所さえ突き止められたら捕まえに行ってやるのになんて物騒なことまで考えだしたくらいだ。それほどまでに『会いたい』という想いは日に日に募り、留まるところを知らない。
そんな調子でその日も朝から忙しく動いていた訳だが、慣れない会食になんて参加したものだから部屋に戻る頃にはさすがに疲労が色濃く出ていた。これなら早々に眠りにつけるだろうか。そう思いながら扉を開けかけたところでサニーは室内の異変に気付く。
部屋の中から流れてくる夜風。窓を開けたままで部屋を空けるはずがないのだから、それは侵入者がいるという証に他ならない。警戒を強めつつも何事もなかったかのように扉を開くと、何者かがベッドの縁に腰を掛けて窓の外を眺めている姿が目に入った。
ところどころ小さく跳ねた髪。組まれた脚や、ベッドについた手のラインはほっそりとしていて少年のようにも見える。ゆっくりと振り向いた顔にやはり見覚えはない。だが、左右で異なる瞳の輝きだけは知っていた。ドクリと心臓が脈打つ。そして急激に乾きを覚えた喉が声を発する前に、目の前の人物が口を開いた。
「おかえりサニー、つまらなそうな顔してるから遊びにきたよ」
聞き間違えるはずがない、この小憎たらしい声を。
「お前っ」
言いたいことなどいくらでもあったはずだというのに、それ以上は言葉にならず身体だけが勝手に動く。つかつかと歩みを進め、座ったままで見上げてくる相手にとった行動は、覆い被さるように抱きすくめることだった。
「!……どうしたの、そんなに僕に会いたかった?」
驚きからかびくりと震えた身体の反応が肌を通して直に伝わってくる。やっと会えた、触れられた、捕まえた。どれだけこの時を待ちわびたと思っている。込み上げる感情に頭が追い付かず、ようやく口に出来たことといえば子供じみた恨み言。
「…遅ぇよ」
「ごめんね、ちょっとやらないといけないことがあってさ」
対して、返ってきたのはまるで宥めるかのように落ち着いた声音。これでは本当に子供が駄々をこねているみたいじゃないか。その態度が気に入らず、腕の中に閉じ込めたままでサニーがだんまりを決め込んでいると今度は面白がっているような声が聞こえてきた。
「ほーら、動けないんですけどぉ?」
動けないようにしてるんだよ、とはさすがに言わない。それを分かったうえでの発言だということくらい察しはつくからだ。少々面白くないが、そこまで子供扱いをするのならこちらにも考えがある。
「名前」
「ん?」
「名前教えてくれたら離す」
少しの間を置いて耳に届いたのは微かな笑い声。それに対して勿体ぶるなと言わんばかりにサニーが腕に力をこめるも、当の本人は全く堪えた様子はない。
「ふふっ、仕方ないなぁ。アルバーンだよ、サニー。ほら、僕の名前呼んでみて」
その呼びかけに応じるように拘束は自然と緩み、誘われるように腕の中を覗き込むとオッドアイの煌めきがサニーを見上げていた。悪魔とはこんなにも人を魅了するものなのか。捕まえているのは自分の方のはずだというのに、目を逸らすことも出来ずに言われるがままにその名を口にする。
「アルバーン」
すると、それまでの蠱惑的な雰囲気が一気に霧散し、甘く蕩けたような瞳で表情を綻ばせる様にサニーの瞳は釘付けになった。この気配を知っている。あの猫が時折させていた、喜んでいるであろう時に纏っていたものと全く同じ気配。あんなに近くで、こんな顔をしていたなんて。胸の内から湧き上がる苦しくなるほどの愛しさから再び抱き締めると、今度はほっそりとした一対の腕がゆっくりと背中に回される。声を発することもなく、互いの温度と鼓動を感じながら、ふたりはしばらくの間ただ静かに抱き合っていた。
どれくらいの時間をそうして過ごしていただろう。どちらからともなく絡めていた腕を離すと、サニーはアルバーンの隣に腰をかける。すると、愛しい悪魔はそう目線は変わらないだろうに覗き込むような角度で身を寄せながら話しかけてきた。
「それにしても、僕のこの姿見てもサニーは驚かないんだね」
会話をするにしては妙に近い距離感は、猫の時と変わらないからなのか。それとも単純に己の魅せ方を熟知しているからなのか。恐らく両方だろうと思いつつ、サニーは至って冷静に言葉を返す。
「ああ…まあ、別の姿があるんだろうとは思ってたしな」
人語を解し、それなりに知能も魔力も高いであろう悪魔が獣の姿だけをとっているとは考えにくい。だからこその返答だったのだが、どうやらそれだけではお気に召さないようでアルバーンは不満そうに唇を尖らせた。
「ちょっとちょっと、もっとなんかないの~?可愛くてびっくりしたとか、もっと怖いと思ってたとか」
いったいどういう方向への期待だと呆れつつも、声だけでなく表情でも感情表現をされた時の性質の悪さをサニーは痛感させられる。これまでにそういった類の仕草に心を動かされたことなどなかったのだが、心を傾ける相手にされるとこうも違うものなのか。ある種の欲が刺激され、制御しがたい衝動が内からこみ上げるがそれを気取られるのも面白くない。
「強いて言うならホッとした」
動揺などおくびにも出さずにさらりと口にされたサニーの答えにアルバーンは訝しげに返す。
「どういう意味さ」
今度は計算でもなんでもなく、意味が分からないと言わんばかりに訴えてくる可愛げのない表情。それでも首を傾げる仕草ひとつでその印象を一変させてしまうのだからこのイキモノは厄介だ。だが、これを告げたらいったいどんな反応をしてくれるだろう。僅かに低い位置にある瞳を見下ろしながら、サニーは表情ひとつ変えずに口を開いた。
「猫の抱き方なんて知らないからな」
「へ」
みるみるうちに丸くなっていく瞳。それから少しばかり身体を引いて、真っ直ぐに注がれる視線から逃れたかと思えば戸惑いがちに目を合わせてくる。
「え、えぇと…そこまで考えてたんだ?」
明らかな動揺と、端々に滲み出る羞恥。じりじりと後退していく様に、今度はサニーがにじり寄り距離を詰めだした。
「お前だって猫のくせに色々してきただろ」
「そ、それはそうなんだけど…!」
逃げられれば追いたくなるのが本能というもの。それくらい分かっているだろうに、それでも後退っていくものだからアルバーンの逃げ場は徐々になくなっていく。そしてこれ以上は完全に倒れ込んでしまうだろうというところでぴたりと止まると、サニーは最後通告とばかりに言い放った。
「その気がないなら猫になっていいぞ」
別に突き放している訳ではない。アルバーンもそれは分かっていて、困ったような拗ねたような複雑そうな表情でもごもごと言い返す。
「……い、いいよ、サニーなら。ていうか、分かってるくせに言わせないでよ」
そこまで聞いてようやくサニーの表情に変化が表れた。
「少しくらい仕返しさせろ」
瞳を細め、緩く上がった口角。いつになるかも分からない『次』の機会を大人しく待っていたのだ。これ以上振り回されてやるつもりはない。
「もう、あんまりイジワルしないで」
対してアルバーンはむぅと目を据わらせて分かりやすく不満の声を上げる。だが、咎めるような視線を向けられようともサニーが悪びれる様子はなかった。これはあくまでもコミュニケーションの一環。本気で怒ってなどいないと知っている。ただ、久しぶりに会うものだから、初めて見る姿だから、少し遊んでしまっただけのこと。
間近でしばらく見つめあい、それからふっと表情を緩めるとアルバーンはサニーの耳元へと唇を寄せて囁きかける。
「優しくシテ、ね?」
その問いかけへの答えは言葉ではなく行動で。啄むように一度口付けると、ふたりの身体はゆっくりとベッドに沈んでいった。