シール貼り見習いくんと事務員さん「それじゃああとよろしくね、ゆめちゃん」
「はい、お疲れさまです」
勢いよくタイムカードを押して出ていく山本よし江を見送ると、事務所に残っているのはもう自分だけだった。終業まであと一時間、窓の外にはすでに夜の気配が漂っている。夢野は軽く伸びをして、カーテンを閉めた。
月に数度、鍵当番が回ってくる。17時に工場の稼働が終わった後、清掃ののち全ての電源を落とす。そうして作業員たちは帰り、最後に代表者が事務所に管理表を納めに来る。夢野たち事務員はそこに押印し、今日の業務が終了したことを確認した後、出入り口に施錠をして退社することになっていた。
夢野は残っていた自分の仕事を片付け始める。取引先からの電話応対、納品控えの整理、資材や備品の管理と発注、それからクリーニング済みの作業着の仕分けなんかも夢野の仕事だ。経理は小泉さんと丹羽さんという古株の女性事務員が担当しているので、それ以外の雑多な仕事を担当している。
しばらくするとドアがノックされ、管理表のファイルをぶら下げた主任が入ってきた。
「お疲れ様です」
「あれ、今日鍵番山本さんじゃないの?」
「ええ、お孫さんが遊びに来てるらしくて」
へえ、と適当な相槌を打ちつつ、主任はカウンター前で夢野の押印を待っている。
「おまたせしました、はいどうぞ」
「おう、ありがとう。お疲れさま」
これで会社の中にはもう自分しかいない。ちょうど時計をみやると退勤時間になっている。夢野はタイムカードを押し、社名入りのナイロンジャンパーを脱いだ。制服はこれだけだ。あとはここにオーバーコートを着ればそのまま帰宅できる。
上着を着て事務所の明かりをすべて消し、鍵を持って事務所を出る。出入口は表と裏に二か所あるため、先に表の玄関の施錠をし、それから裏へ回った。駐車場にはもう社有車しか残っていない。主任も帰宅したのだろう。一応確認してから施錠しようとした時、駐車場の隅に一台の自転車が停めてあるのが目に入った。
「おや、あれは確か――」
同時に、裏口付近にある廃材置き場に人影が見えた。犬猫の類かもしれないと思ったが、出てきたのは弊社の作業着を着た青い髪の男で、犬は犬でも最近社長が拾ってきたという野良犬じゃないかと、夢野は彼の方へ駆け寄った。
「ちょっとあなた、何やってるんですか、もう施錠しますよ」
彼はビニールの束が入った段ボールやら不良品のロール紙やら、嵩張ってどうにもならないゴミの山をせっせと片付けていた。こちらに気が付くと、あ、やべ、とポケットからスマートフォンを出し、とっくに終業時間が過ぎていることを確認した後「すんません、ロッカーから荷物だけ取ってきてもいいすか」と訊いてきた。
「いいけど、主任何も言ってなかったですよ、残ってる人がいるなんて」
勝手に残ったらだめでしょう、と言うと、最近入社したばかりの彼(ネームプレートには「有栖川(研修中)」とある)は居心地悪そうに背中をすくめる。
「……あー俺、今日ミスしまくっちまって、ラインから外されて。せめて片付けくらいやっとかねえとってここ来て、そしたら思ったよか片付けるもんが多くて」
「気づいたら今だったってこと?キミ、ここ来る時間違ってタイムカード押してから外に出ちゃったんじゃない?だから退勤したことになってるんだよ、主任も気づかないはずですよ」
「あー、またやっちまったんか俺。はあ、明日謝るか。つか、すんません、急いでロッカー行ってくるんで、鍵締めんのあとちょっとだけ待っててもらっていいすか」
夢野が返事をする前に、彼は急いで会社の中へ戻っていった。確かまだ18とか言ってたな。ここは訳アリの臨時採用なんかも多い工場だし、いちいち素性がどうのとは言わないが、有栖川はどうみても高校もろくに出ていないような風貌と言動をしている。口数も多くなく、目つきも悪い。しかし朝は時間通り来るし欠勤もない、勤務態度自体はいたって真面目、社内の備品や金品に手を出すような素行不良者でもない。新人ゆえのミスなんかは誰もが通る道だ。
待っている間、駐車場の隅に置き去りになった錆びた自転車を見つめながら、夢野はなんとなしに彼のことを考えていた。たまに書類を持ってきたり、クリーニングから戻ってきた作業着を渡す時に見かける程度でろくに話したこともない。下の名前も知らない。親近感を感じるような要素だって特にない。でもなんとなく、放っておけないような気もする。彼はこれからあのボロチャリを漕いで狭いアパートに帰り、カップラーメンを啜って、薄い布団に包まって寝るのだろうか。まだ18で、一人きりで。
「まあ、僕には関係ないんですけどね」
白い息を吐きながら、ポケットに手を突っ込む。と同時に、通用口から彼が飛び出してきた。夢野が事務所で着ているのと同じ、社名入りのジャンパーを着て、息を切らしている。
「あ、俺まだ冬物の上着持ってなくて」
「それだって冬ものじゃないですよ、そんなぺらぺらのシャカシャカ」
「……うっす。次の給料出たら買います」
「来月は桜が咲きますよ、もう春になっちゃう」
言いながら、夢野は通用口に施錠した。鍵は裏にある社長宅へ返すようになっている。
「じゃあ、お疲れ様」
「っす」
鍵をポケットにしまって踵を返しかけ、夢野は「あ」と声を出した。目の前の彼は目を丸くする。
「なんすか」
「いえ、別になんでもないんですけどね。はい」
握ったこぶしをズイと向けると、彼は訝し気に首をひねったのち、同じくグーの手を出してきた。
「違う違う、パーにして」
「え、けどそれだと俺勝っちゃいますけどいいんすか」
「いや、じゃんけんじゃないから」
ほらほら、手をひらいて。そういうと、やっと彼は手のひらを見せた。そこに拳の中のものを置く。赤いパッケージのチョコ菓子だ。きょうのお茶の時間はなぜか皆チョコレートばかり持ってきていた。それの余りがポケットに入っていたのだ。
「それ食べて元気出して。じゃあね」
今度こそさっと踵を返し、鍵を返却すべく歩き出す。後ろから、ありがとうございますという意味の言葉が聞こえたが、最後の「す」しか耳に入らず、愛想のない若者らしいなと、夢野は次の信号で立ち止まった際ひとりでこっそり笑った。
――ということがあったのを、夢野はすっかりと失念していた。だってひと月も前の些細なことなどふつうはいちいち覚えていない。でも、なんとなくそんな言い訳をしてはいけないことだけは雰囲気として分かった。目で分かる。目の前に立っている人間の、どことなく真剣そうな目を見れば。
「あの、これは?」
昼休み、デスクで持ってきた弁当を食べていると事務所のドアがノックされた。たまに「弁当の箸を忘れたから割り箸はないか」とか「コーヒーをこぼしたから雑巾を貸してくれ」とかいうことがあるので、とっさに割り箸の在庫や雑巾の入った引き出しを思い浮かべたが、入ってきたのは青い髪の彼だった。
ネームプレートにあった「研修中」の文字が消えているのに気付いて、夢野は無関係であるのになんとなくホッとした心地がしたのだが、その彼がスタスタとこちらに向かってやってきたので、何事かと思いながらも玉子焼きを掴んでいた箸を止めた。その直後に起こったことだった。
彼は夢野の席の前に立ち、じっとこちらを見つめた。ガンを飛ばしているようにも見えたが、本人にはそういうつもりはなかったようで、軽く頭を下げると手に持っていた小さな紙袋を渡してきた。作業員に渡されるものといえば判子が必要な書類か、領収書か、クリーニングに出す作業着が関の山。ちゃんとシールで封をされたまっさらな紙袋という時点でおかしい。
「あ、中身ハンカチっす」
「ハンカチ?ああ、そうなんだ。で、なんで僕に?あ、落とし物かな?拾得物」
ならば専用の用紙がある。箸を置き、引き出しを開けようとするが、彼は「いや、そうじゃなくて」と続ける。
「こないだのお返しっていうか。別にいらねえかなとも思ったんすけど、俺、社長に拾ってもらったじゃないっすか、だから一応、だれかに借りを作ったら返すようにしてんすよね」
「こないだの」が何を指しているのか、そして「こないだの」と「お返し」の間にある因果関係について、夢野はぐるぐる頭を回転させてようやく気が付いた。ふと目に入ってきた日めくりカレンダーのおかげでもある。
あれは二月十四日だったのか。鍵当番の日に通用口の前でポケットの中のチョコレートをあげたのは。でも、それにしたって、ファミリーパックの小さなチョコ一個で。さらに言えば、あれは夢野が買ったものではなく、山本よし江か経理の小泉・丹羽コンビのうちの誰かが買ったものなのだ。
「いやあの、お礼は別にいらないというか――」
「安モンだし、いらなかったら捨てちゃっていいんで」
「え、いやちょっと」
言っている間に彼はとっとと事務所から出ていった。照れているわけでもなく、いらないと言われてショックを受けているわけでもなく、ただただ弁当を食べるために休憩所を目指しているようなあっさりとした顔で。
「……なんなんだ、一体」
あっけにとられながらも何かひっかかるような余韻を感じて、夢野は息をついた。やっと口に入れた玉子焼きの味もなんとなくぼやけている。
「どうしたのそれ、もらったの?」
横から山本よし江が入ってくる。
「いえ、ちょっと」
「いいじゃない、開けて開けて」
何がいいのかは分からないが、こうして誰かに急かされないと開ける気になれないような気がしたので、夢野はそっとシールを剥がし、紙袋のなかからふんわりした紙に包まれたものを取り出した。
「あら素敵、洒落てるじゃない。それにすごくゆめちゃんに似合ってる」
包みの中から出てきたのはミントグリーンのハンカチだった。淡い色味に、やわらかくて上等そうな生地。その感触を確かめながらふと、駐車場の脇に停まっている錆びた自転車が頭に浮かんできた。
あの日だけではない、時々夢野はあの自転車を見ては、真面目に不器用に働く18歳のことを思い出していたのだ。うすっぺらい会社のジャンパーを着て、丸めた背中で自転車を漕いでいるのも、実際に見たことはないが思い浮かべたことはある。寒いだろうな、部屋に食べるものはあるのかな、とも。
そんな彼の口から「安モンだから捨ててくれ」なんて、言わせるべきじゃなかった。絶対に、言わせてはいけなかったんだ。
「ちょっと、どうしたのゆめちゃん」
「すみません、13時までには戻ります」
弁当箱に蓋をする間も惜しいほど焦っている自分自身に驚きながらも、夢野は事務所を飛び出した。休憩室までの廊下をただただ一直線に駆けていく。期限までにもらわなくてはならない判子のためにあちこちを走り回っている時よりもずっと急いでいる自分が本当に可笑しい。可笑しいのに、止められない。
「……有栖川君!!」
休憩室のドアを開け放つのと同時に叫んでいた。当然中にいた全員がこちらに注目する。その中には社長もいた。にわかに正気戻りかけたが、それでも別に良かった。
有栖川は端の席にいた。他の人間と違い、驚いた顔はしていない。まるで夢野が追いかけてくるのが分かっていたように、カップ麺の容器に箸を突っ込んだままこちらを見ている。
「……ちょっと、いい?」
「っす」
席まで行って声を掛けると、有栖川は素直に立ってついてきた。廊下の隅まで来て、夢野はやっと彼と目を合わせる。手には、ハンカチを握ったままだった。
「どうしたんすか、んな焦って」
「忘れてたから」
「何を」
「お礼を、言い忘れました」
ありがとうございます、ハンカチ。すごく気に入りました。
そう言って、ぺこりと頭も下げた。彼は表情も変えずじっとこちらを見ていた。そしてやがて口の端っこをむずむずさせながら、見たこともない顔で笑って、「俺、夢野さんが好きっす」と言ったのだ。
「結局俺の勝ちだったんだよな、あれ」
「なんですかそれ、僕が来るかどうか賭けてたってこと?」
「いやそんなんじゃないけど、あの人俺のことよく見てくれてるなって前から気付いてたからさ」
「僕は気付いてなかったですよ、あなたの気持ちも、自分の気持ちすらもね」
人になれそめを聞かれる度に、初めて出会った年のバレンタインのことを思い出す。結局あのひと月後に二人は付き合い始め、有栖川――帝統は自前のコートを買った。桜も見に行ったし、そのあとの夏も秋も冬も、一年後も三年後も五年後の今も隣にいる。
夢野はもう「夢野」ではなく、子供が出来たと同時に事務の仕事もやめてしまったが、その他はあまり変わっていないと思う。いや、結構変わっているか。
「俺さあ、あのキットカット一年くらい取っといたんだぜ」
「え、うそ、それでどうしたんです?」
「食った。食えなくなる前に。だってやだろ、捨てるのとか」
「ふふ、あなたらしいちゃああなたらしいですけどね」
チョコくらいこの先いくらでもあげるのに、と言いかけて、でもそうじゃないんですよねきっと、と思い直す。夫は意外とロマンチストなのだ、初恋の思い出を取っておきたかったのだろう。夢野――幻太郎も幻太郎で、あのハンカチは包みに入れたまま取ってある。勿体ないから使えばいい、ハンカチくらいまた買ってやるから、と夫も言うかもしれない。そういうところは似た者夫婦だと思う。
幻太郎は夫が買ってきたチョコレートをひとつつまむ。奮発したのか、全部違う味のアソートだった。どう、うまい?と訊く夫にピースサインを突き出したら、意図を組んだ夫が「やっぱし幻太郎には勝てねーや」と可笑しそうに笑った。幸せ者の勝ち。