「シグナルレッド・デッド〜前哨戦〜」 早乙女智雪がカラオケルームの扉を開けると、先に入っていた銀髪の男が顔をあげた。色白の細面。神経質で冷たい印象の男だが、早乙女の姿を認めると、銀縁眼鏡の奥にある目が親しみの色を帯びて微笑んだ。
「こんにちは、お待ちしてました」
「あぁ。悪い、遅れたか?」
「大丈夫、時間通りです」
早乙女が向かいの席に座ると、男はテーブルに広げていた書類を纏め、早乙女の方に正面を向けて揃えた。
目の前の男の名前は稲荷田狐といった。何処となく厭世的な気配を漂わせる探偵で、ひょんな事から共に怪異を生き延び、それ以来妙な気に入られ方をされてしまっている。
早乙女は独自に失踪事件を調べていた。とある地域で人が落とし穴に落ちたかのように行方不明になる。その中には早乙女の知人の名前も幾つかあった。
たった一人での調査には限界があったが、妙な詮索も横槍も入れられたくなかった。どうするかと悩んでいた所に浮かんだのは、狐の顔だった。いつの間にかコートのポケットにねじ込まれていた名刺を頼りに連絡をすると、突然の依頼にも関わらず、狐は黄色い声と共に二つ返事で引き受けてくれた。
それが十日程前だっただろうか。そして今日、早乙女は狐からの連絡でこのカラオケルームに呼び出されたのだ。
「時間が惜しいので本題からいきますね。ご依頼の件です」
割と男らしい筋張った手がつっと紙束を押した。銀色のクリップで留められたそれに目を落とす。
紙には数十人の老若男女の名前と住所があったが、その全てに三角印がつけられていた。
「リストの方ですが、全員生死不明です。ご遺体の発見にも至っていません」
「全員か?」
「そうです」
狐の目が早乙女を真っ直ぐに見た。
「捜索願を出されている方もいらっしゃいましたね。実際に僕も何人か調査をしてみましたが、ある日を境に目撃情報が途絶えてしまいました。それ以上は追えません」
それとですね、と狐が室内に備え付けられているマイクを握った。スイッチを入れないまま構える。
「皆さん、共通して恨みを買うようなお仕事、もしくは裏稼業をなさっていました」
部屋の前を女子高校生グループが通り過ぎる。はしゃいだ声が扉を隔てて聞こえてきた。
「…中には警察官の方もいらっしゃいましたよ」
うっとりしたような声色。色素の薄い目がゆるりと細められた。
狐なりの警告だろう。早乙女は報告書の束を鞄にしまった。
「そうか。わざわざ悪かったな」
「…僕が言う事じゃないんだけど、好奇心は猫を殺すんだって」
妙に子どもっぽい、間延びした口調で狐が口にしたのは、英国のことわざだ。早乙女が英国と縁深い事を知ってか知らずか。偶然の言葉選びと、今までの狐の言動を思い出し、フッと吹き出してしまう。
「…本当にあんたが言う事じゃないな」
「ね」
ふふっと狐が笑いながらリモコンのタッチパネルを操作する。何曲か選ぶと、歌う素振りすら見せずに流し始めた。
「…お一人で調査されるつもりなんですか?」
「俺が勝手にやっている事だからな。応援は無しだ」
「ふーん…」
液晶モニターに映る映像から目を離さず、狐は空返事をした。
「危険だと思いますよ」
「あぁ、わかっている」
「そう…」
少し気不味いような沈黙が室内に落ちた。明るい音楽でもかき消せないような不機嫌さが、狐から発せられている。
早乙女がどうやって宥めようかと思案していると、不機嫌さをそのままに狐が口を開いた。
「…一人、紹介したい男がいます」
ちらりと視線だけが早乙女に流される。
「軽薄でやかましい男ですが、役には立つでしょう」
狐にしてはぶっきらぼうな物言いだった。
その晩、月は雲に隠れた。
狐が指定したのは、早乙女が以前から目を付けていた廃ビルが見えるポイントだった。大通りを挟んでいるため見つかりにくく、尚且つこちらからはビルの全景が見える。張り込みには適した場所だった。
狐の探偵としての手腕に感心しつつ、早乙女はビルの様子を伺う。ビルには僅かに人の気配のようなものがあるが、それ以上の事はここからではわからない。
「あんたが早乙女さん?」
不意に背後から声をかけられた。驚いて振り返り、一歩後退りする。いつの間にここまで接近を許したのだろうか。赤いロングコートの男の顔が早乙女のすぐ近くにあった。
艶のある黒髪の、背の高い男だ。かなりの細身であり、コートの中で体が泳いでしまっている。同時に、今にも走り出しそうな躍動感を全身に纏っていた。
「あんたは?」
「あぁ、あいつ俺の名前教えてねぇの?不親切な奴だな」
綺麗に整った顔立ちは美形の類いだったが、いかんせん言葉遣いが荒い。夜の街にたむろする水商売の男のようだった。
男がやれやれと大きく肩を竦める。首を傾げて、小馬鹿にするように早乙女の顔を見た。
「狐の使いだよ、夜鷹って言うんだ。あんたに同行するように言われている」
よろしくね、と夜鷹が笑う。
「あんたが稲荷田さんの知り合いなのか?」
「そ」
短く夜鷹が答える。
あの丁寧ではあるが子どもっぽさが抜けない狐と、目の前の無遠慮でがさつな夜鷹が早乙女の中で結びつかなかった。
この男を信用して良いのだろうか。早乙女はもう一度、夜鷹の全身に視線を走らせた。
「なぁ、俺達これからどうすんの?腹の探り合いをして一晩明かすの?」
疑うような視線を受け、夜鷹が不敵な笑みを浮かべながら早乙女の周りをクルクルと回る。そこでようやく、夜鷹が足音がしない歩き方をしていることに気が付いた。
狐はどうやら、本当に役立ちそうな男を寄越したらしい。
早乙女が親指で廃ビルを差す。
「通りの向こうに廃ビルがあるだろう。そこに偵察に入る」
「ふーん」
「今は少しでも様子が分かれば良い。場合によってはそのまま突入するぞ」
「了解」
クルクル回っていた夜鷹がピタッと止まる。コートの裾が風を受けてふわんと膨らんだ。
二人で廃ビルの入口まで移動する。夜鷹を下がらせ、早乙女はレディスミスをホルスターから抜いた。夜鷹がふんと鼻を鳴らす。
「早乙女さんって何、ヤクザ?」
「稲荷田さんから聞いてないのか?」
「知らねぇ。狐は何も喋んねぇよ」
「不親切な奴だな」
先程の夜鷹の言葉をそのまま返すと、夜鷹は目を丸くした。その驚いた顔も一瞬で、今度はクスクスと口元に手を当て笑い出した。笑った顔はまるでティーンエイジャーのように幼い。
「ね、ね、ね、早乙女さん。今の言い方面白いね。俺、結構好きだよ」
今までの小生意気で乱暴な喋り方から一転して、急に懐っこい口調になる。狐の知り合いだなとすっと腑に落ちた。
「はいはい、そりゃあ良かったな。静かにしてろ」
「うん」
上機嫌になった夜鷹が大人しく口を閉じた。
入口の扉のノブに手を掛ける。鍵がかかっているかと思ったが、扉は早乙女の押す力に素直に従って開いた。
ギィィ、と蝶番が鳴る。扉の隙間から流れ込んでくる風が早乙女の鼻を刺した。カビと埃の匂いに混ざって漂う血の匂い、そして腐敗臭。
死はすぐそこにある。
緊張が高まる。レディスミスを構え直し、夜鷹を振り返った。
「思っていたよりも大事になりそうだ。危険だと判断したらすぐに引き上げるぞ」
「わかった」
扉を押し、二人が廃ビルのエントランスに入った途端、けたたましい警告音が鳴った。同時にガチャンと背後で錠の下りる音がする。
「もうバレてんのかよ!」
夜鷹がピッキングツールを取り出し開錠を試みるが、すぐに首を横に振った。
どうするべきか。早乙女が迷っていると、廊下の向こうから男の悲鳴が聞こえてきた。
二人が身構える。暗闇がぬらぬらと揺らめき、湿った、生臭い匂いが強く漂ってきた。
もう一度悲鳴。続いて命乞い。悲鳴。最後に金属が床に何度も打ち付けられる音。僅かな静寂の後、惨劇の主がやって来た。
ベチャ、ベチャと粘着質な足音がする。ズルズルと赤い何かを引きずって暗闇から姿を現したのは、白いぶよぶよとしたヒキガエルのような生き物だった。顔面に生えた短い触手がミミズのように蠢いている。
化け物は硬直する二人の足元に、引きずっていたものを投げつける。視線を下にすると、それは腸を露出した男性だった。
咄嗟の行動も、言葉も失っている二人を見て化け物が笑った。右手を大きく振りかぶり、手にしていた血の滴る槍を投げつける。
ビチャ!
槍が男の体に刺さると、まだ体内に残っていた温かい血液が二人の顔にかかった。
化け物が顔面の触手を逆立て、四つん這いになって獣のように突進してくる。銃口を向けるが、予想していたよりも化け物は素早い。あっという間に距離を詰めらる。
僅かな追い風と共に、早乙女の前に赤いコートの裾が広がった。化け物を圧倒する素早さで夜鷹が躍り出る。そして体の重さを全く感じさせない動きで、化け物の横面に回し蹴りを放った。ドスっと鈍い音を立て化け物がよろめく。更に夜鷹は踵を打ち下ろし、触手の蠢く頭部を床に押し付けた。その頭部に向けて早乙女が引き金を引く。
五発。装填されている全ての弾を撃ち込んだ。
白い脂肪のような肉片が飛ぶ。頭部を撃ち抜かれた化け物は断末魔のように触手を逆立て、やがて蝋のようにどろどろに溶けて消えていった。
硝煙の香りが漂う、押し潰されそうな緊張の中、二人は息が上がったまま顔を見合わせた。
「何、コイツ…?」
「わからん」
呼吸を整え弾丸を装填する。奥へと伸びる廊下に目を遣ると、ここは危険だぞ、と嘲笑うかのように明かりが明滅していた。
「それより出口を見つけるぞ。非常口か何かあるはずだ」
「うん」
「俺が前衛…と言いたいところだが、あんたの方が接近戦は得意なようだから、前はあんたに任せる」
「わかった。…ハイ」
夜鷹が黒い革手袋に包まれた右手を早乙女に差し出す。報酬の前払いでも求められているのかとしばらくその手を見ていると、夜鷹は焦れたように唇を尖らせた。
「なぁ、お互いに協力するんだからさ、そういう時って握手するもんだろ」
こんな危機的な状況で放たれた無邪気な言葉に、早乙女は思わず笑ってしまう。子どもっぽい仕草に悪意は微塵も感じられない。やはりあの素っ頓狂な探偵の知り合いだと思った。
「そうだな」
パンっと軽く音を立てて二人の手が重なる。早乙女は眉を上げて笑った。
「早乙女だ。改めてよろしく頼むぞ、夜鷹」
「こっちこそよろしく、早乙女さん」
二人の手に力が込められる。その時、上の階から悲鳴のような声がいくつも上がった。一瞬にして舞い戻ってくる緊張。早乙女はレディスミスを構え夜鷹に頷いてみせた。
「行くぞ、背中は任せろ」
「うん」
血生臭い暗闇の中、お互いの信頼だけを頼りに前進する。二人の行く末に警告するかように、照明が点滅を繰り返していた。
「シグナルレッド・デッド」
……警告。警鐘。鳴らせ、生き延びるために。